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久々の古本屋さん

昼食の後、久々に古本屋さんを2軒、ハシゴしました。
専門関係(一応ね)が何冊か安く買えてなかなか有意義だったのですが、
一番の掘り出し物は「写真集 東京大学」(1960年・東京大学出版会)。
定価500円、購入価格も500円。
なんといっても45年も前、しかも大学紛争以前ですから、建物が傷んでいないこと!
内観写真があまり無いのが残念ですが、この頃はまだ東大キャンパスに
木造の洋館が残っているのが分かったり(一番古い建物が営繕課の洋館というのが渋い)、
山上御殿(!)がちょっとレーモンド風の洒落た木造モダニズムだったり、
そして!!三崎の臨海実験所の水族館もちゃんと載っていたり、となかなか嬉しいっす。
それにしても、駒場の航空研(いまは先端技術研だっけ?)の本館、ホントかっこいいよな~。
今度また駒場散策しようっと。
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楽譜の印刷は、違ったのだ~

音楽史の形成とメディア」という本を7割ほど読みました。
(難しいところは割愛したのでマイナス3割)
まさに色々と啓を開かれて面白かったのですが、へえ~と思ったのは楽譜の印刷方法。
ちょっと前までの書籍は活版(活字)印刷といって活字を組んで刷っていて、
楽譜も同じように刷られていたんだろうなあ、と漠然と思っていたのですが・・・。

これが活字で組まれている楽譜の拡大。

五線譜がプツプツと切れていますが、たぶんこの切れているタテ一列が一つの活字。
なので、音符の種類と位置の莫大な組み合わせ分の活字が必要となる訳で。
この全部の活字を揃える、というのは結構凄い設備投資であるにもかかわらず、
出来上がりはイマイチ美しくない、というのはキビシイところですね。

で、これが16世紀中ごろに発明された版を彫って刷る方式による楽譜。

ぜ~んぜん綺麗ですよね。手書きみたい。
で、どうやって刷っているかというと、銅版などの版に楽譜を彫ってそこにインクを流し込み、
用紙を当ててプレスする、という、基本的には彫版画と一緒の仕組み、
なのですが、音符の部分は活字をハンマーで打って版に窪みをつけていくという、
「特段修練が要らない方法」で彫られているところがミソ。
この新しい方式は18世紀は主流となって、
以後20世紀の終わりごろまではこの方式で刷られていたと言う訳です。
知らなかったっす。

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ガードを支えてン十年

新橋駅そばのガードを支える鉄骨、良く見ると装飾が付いています。
やたらめったら補強されてしまっている感じですが、
何十年と鉄道を支えてきた働き者です、もう少しいたわってやって欲しい。
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丹下健三が前衛だったころ

銀座にある静岡新聞・放送東京支社(1968)。
メタボリズムの語法を使った、力強い造形が印象的です。
使い勝手は・・・どうなんでしょう?と思いつつ、
でも、やっぱ素直にかっこいいかも。
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ジャズエイジのジャズ(その6)

フィッツジェラルドにとってのジャズって??

さて、大和明氏による「RCAジャズ100年史」の解説に

ニューヨークにジャズが育ち始めたのも1920年代に入ってからであった。
すでに1916年にNOからニューヨークに進出して成功をおさめた
フレディ・ケパード(当時黒人コルネット奏者として名声を得ていた)や
翌17年初めに同じくNOからニューヨークに進出してきた白人バンドのODJBによる
活気ある演奏によって、ジャズはニューヨークに大きな話題をもたらしたが、
ブームが去ると結局は下賎な黒人の音楽ということで黒人街ハーレムに受け入れられたに過ぎず、
20年代後半になって白人ジャズメンの活躍が顕著になるまでは
ニューヨーク全体にジャズが広まったとは言えなかった。

プラナリア注;NOはニューオリンズ、ODJBはオリジナル・デキシーランド・ジャズバンドの略


とありました。
む?「ジャズ・エイジ」の名付け親を自任していた作家のS.フィッツジェラルドが、
ジャズ・エイジの物語」という題名の短編集を発表したのは1922年でしょ~。
白人で上流階級指向が強く、別段黒人文化に関心も無かったフィッツジェラルドが目をつけた「ジャズ」が、
黒人街で演奏されていたジャズというのは、ちょいと考えにくいよな~。
・・・ニューヨーク全体はともかく、スノッブな連中の間では「ジャズ」が流行っていたのでは??
あるいは、ハーレムのクラブとかがスノッブだったとか。
なんていったって禁酒法時代で、公然とお酒が飲めないという妙な時代ですし。

ということで、つらつら色々な本やサイトを眺めてみると、
1917年のODJBによる最初の「ジャズ」レコードは大ヒットしたらしく、これに影響されて
「ニューオリンズの黒人音楽風の音楽」を演奏するミュージシャンが雨後の筍のごとく出現したらしい。
が、これらの音楽は「金になるぞ!」という訳で、白人に消費されるべく、
がんがんダンスミュージックやポピュラーミュージックとしてパッケージングされるコトトなり、
現在の視点から見た場合、「ジャズ」の範疇に入れてもらえないものが殆ど、という顛末となったらしい。
すなわち、ジャズはいまだ確立せず、ぞのスピリットは、黒人下層階級の音楽の中にこそ生きていて、
これら流行りモノとは別のところで成長したのだ、というストーリーなのかな??

とはいえ、このコアなジャズと流行の「ジャズ」がスパッと分けられる別のものだったのか、
というと、 どうやらそう簡単には切れない面もあったらしく、
黒人ミュージシャン自身、場や客層に合わせて演奏スタイルを変えていたらしい。
(プロだから当然?)
そういった「ジャズになろうとしているいわば境界線上の音楽」が
欲望ギラギラの熱気を持って混沌の中でひしめいていたのが1920年代前半、
当時はその熱気こそがジャズだっ!、と思われていたのかも知れません。
・・・などととわかったような事を書いてみましたが、
ちょいと面白そうな本を見つけたので、詳細は続く、ということで。

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