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ちず窓が発展!

ちょいとアナウンスが遅れましたが、
ちず窓がOperaにも対応したそうです!
今まではIEと両方立ち上げて作業していたので嬉しい。

ところでIEをお使いのみなさん、Opera良いですよ!
一度タブブラウザ使ったらその便利さは捨てられません。
お勧め!です。

ちず窓のサイト→ http://chizumado.jp/
Operaのサイト→ http://jp.opera.com/
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旅の本・屋さん

ペーパースカイと言う雑誌 があるのですが、たぶんそこと関係のある本屋さん。もう少し裏道りぽい感じかと思っていたので、お洒落でびっくり。ブックカフェではないのかな?こんど隣りのカフェもチェックしてみます。




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雨の中、エンストは起こる。

月面車さんにお誘いいただいて5.1CH試聴会にお邪魔してきました。
カーペンターズを5.1CH・SACDで聞くと、おなじみの名曲の数々も一皮剥けた感じに。
これはSACDのパフォーマンスや、5.1CH化に当たってのリマスタリングの良さもあってのことだそう。
もちろんこのような音場感に好き嫌い(慣れかな?)はあるような気はするのですが、
5.1CHはAV向けのギミック、という偏見(聞いてもいないのに)は完璧に打破されましたです。

次に高円寺に廻って一箱古本市を覗こうと思ったのですが、
あろうことか山手通上で突然のエンスト!!
幸い交通が切れたところだったのするすると路肩によって無事停車、
再始動を試みたところ難なくスタート。一応事なきを得ましたが、

何で停まったんだああ。

直前に酷い水溜りに突っ込まされたのがいけなかったのかな??それとも電気使いすぎ?
(AC、ライト、カーステなんですけど何か?・・・バッテリー替えたばっかなんだけど)
いづれにせよ、山手通、地下工事中で最悪です。極力通るべきではないですね。
今日は何故か明治通@地下鉄工事中もうっかり宮下公園で右折して入っちゃったし、
道の選び方が駄目駄目だったな・・・。
で、雨も物凄くなってきたし、ツキもなさそうなのでややビビリ気分になって挫折してしまいました。
ちわみさん、丁寧にご案内頂いたのにごめんなさい。
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パリ、ロスト・ジェネレーション、そして絶版(嗚呼)

1920年代には多くのアメリカ人芸術家(とその卵)がパリで生活していました。
戦後のアメリカに幻滅し、芸術の都パリに憧れた、というのと、ドルが圧倒的に強かったので、
貧乏な芸術家でもそこそこの暮らしが出来た、というのが大きな理由だった様ですが、
中でも黒人(特にジャズが人気だったのでジャズミュージシャン)にとっては
お金も稼げるし、店や交通機関で差別されないし、なかなか快適な場所だったようです。
(当時のアメリカは激しい人種差別国家で黒人お断りは普通のこと、
 この辺りの事情と絡めてシドニー・ペシェの名前がちょろっとだけ出てきます。)
そんな「パリのアメリカ人」の中でも個人的に思い入れがあるのは写真家のマン・レイ
(というか、実はリー・ミラーだったりして。残念ながら彼女がパリに行ったのは
 確か1930年代になってからなので、本書には登場しない。)
なのですが、彼の他にもヘミングウェイフィッツジェラルドコール・ポーターなど、
数多くの作家、芸術家がパリに滞在し、色々な形で交流していました。
その彼・彼女らの交流を「食」の場を手がかりに見事に活写したのが
本日ご紹介する「ロスト・ジェネレーションの食卓」です。

ロスト・ジェネレーションの食卓―偉大な作家・芸術家たちは何を食べたのかロスト・ジェネレーションの食卓―偉大な作家・芸術家たちは何を食べたのか
スザンヌ ロドリゲス=ハンター Suzanne Rodriguez‐Hunter 山本 博

早川書房 2000-04
売り上げランキング : 596,767

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さて、この本はまずその年のできごと、パリに来たアメリカ人、去ったアメリカ人などについて
さらっと・・・このさらっと、のさじ加減が絶妙・・・紹介した後、
ある人物(一人のことも、複数のことも)をピックアップしたエピソードと、
そのエピソードに因んだレシピがセットで数編紹介される、という構成になっています。
著者は「食卓」というフレームにある種の狂言回し的な働きをさせつつ、
1920年代パリのアメリカ人コミュニティという特殊な社会での複雑な交友関係や、
相互に抱いていた感情の襞などを思わぬ角度から照らし出して行きます。
ヘミングウェイとフィッツジェラルドの、如何にも「移動祝祭日」な出会いの日々を描いたエピソードや、
ブリックトップとコール・ポーターのちょっとした出会いを巧みに綴ったエピソード、
そしてラングストン・ヒューズ(殆ど無一文でパリに行った!)の悲しい別れのエピソードなどなど、
どのエピソードにも著者の暖かい視線が感じられ、幸せな気分になります。
特に、ジョセフィン・ベーカーのエピソードには、
彼女の生き様に全く無知だっただけに殊更、静かな深い感動を覚えました。

なお、訳者の配慮で原著にないイラストマップや写真が付けられていたり、食やお酒に関する訳注が充実していたり、
本文の印刷が緑色だったり、と、なかなか丁寧な本であるのも嬉しい。
(ちなみに訳者はV・I・ウォーショースキー・シリーズの訳でお馴染みの山本やよいさん)
ジャズエイジ、パリ、ロストジェネレーションなどの言葉に代表される
1920年代の文化・芸術に関心のある人なら絶対に、そうでない人にもかなり、のお勧め本!
なのですが、なんと絶版らしい。(っていうか私の取り上げる本ってみんな絶版本??)
皆さん、どーか「復刊ドットコム」へ投票してください!

(06.3.3.一部改稿)
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エンドユーザのリスクと専門家の責任

建築の品質は誰がどのようにして守るべきか。
建設通信新聞という業界紙に気になるニュースが二件あったので(2006年2月24日付)、
ご紹介しつつ個人的な意見なども述べてみたいと思います。

1.日本建築構造設計事務所協会連合会という団体がNPO法人化するというニュース。

「市民の理解と信頼性を高めるには任意団体では限界がある」ということでNPO法人化されたということです。
新聞には代表に選出された榊原氏の
「耐震偽装事件を契機にエンドユーザーの自己責任も問われているが、
 われわれは消費者のリスクを回避すべく活動しなければならない。」
とのコメントが紹介されていましたが、
専門家の団体が公益性をもって活動する事の意味を明快に示したコメントかと思います。
今後の活躍に期待したいと思います!

2.規格品の生コンの試し練りを省きたいので、どうしてもやると言うなら有料にしたい、というニュース。

生コンというのはミキサー車(通称)で運ばれてくるまだ固まっていないコンクリートのこと。
で、「東京地区生コンクリート協同組合は、需要家に対し、JIS規格品コンクリートの試し練りの省略化を要望」するらしい。
試し練り、というのは、実際に現場に持ってきてもらう前にコンクリートの試験体を作ってもらい、
コンクリートの配合(水、セメント、砂、砂利などの割合)を確認し、柔らかさや強度の確認する作業のことです。
要望の理由は「本来、JIS規格品は試し練りをする必要がない」から、だと言っているらしいのですが・・・。
・建築学会の標準仕様書や国交省監修の標準仕様書で「試し練りを省略できる」と明記している。
・組合員の工場はJIS規格より品質要求が高い全国生コンクリート品質管理監査会議の
 統一基準に合格しているため、十分な品質は確保できる。
・2004年度は試し練り6,000試験のうち、42%をJIS規格品が占めており、必要のない試験が多い。
え~これって論理の飛躍じゃないの?
省略できる、と、必要がない・省略しなければならない、は全然意味違うじゃない。
それに彼らの言う「組合員はみな平等な技術水準を確保している」という議論は、
我々からいうとちょっと困ったリクツなんですよね。
はっきり言って技術水準には違いがある。工場の設備にも違いがある。
水準は、ある意味、低いところでもクリアーできるラインで設定されているとも言える。
(技術水準が高ければ標準偏差が小さくなるので無駄な配合(セメントが多い)でなくなると思うのでけど、
 たぶん個々の工場でではなく、組合などで決めた基準でやっているので、品質にばらつきの少ない、
 技術力のある工場でも安全側に強度の大きな配合設計となっている気がします)
(因みにセメントが多くなって強度が大きくなればいいんじゃないの、というのは間違っていると私は思います。
 セメント増えれば水も増える、そうならない為に薬を入れる、というのは健全じゃない。)

実は生コンの売買は「組合」が受けるのが常態化していて、発注者が工場(会社)を指定する事は不可能に近い。
で、技術的な優劣が受注に繋がらないという事になってしまっていて、品質で勝負、という発想に欠けているのではないか。
やっぱりこれは市場としてあんまり健全ではない状況で、それが出来るだけ手間を省きたいと言う思考に繋がっているのではないかと。

官庁(生コンはJIS規格なので国土交通省でなく経済産業省)の縛りで品質を確保しよう、というのは
本来的な品質管理の仕組みから言えば他人任せ・国任せであって、設計者・施工者としての責任放棄ともいえる。
自分の目で選んだちゃんとした品物を売ってくれるところに頼む、って、当たり前でしょ?
ところが、近年の建築生産の現場では、この他人任せ的な品質管理が合理的な生産システムとして推奨されてきていて、
このように一つ一つ確認して積み上げていく、という作業が軽視されているように思います。
もちろん全部が全部確認できるわけではないのだから、
最終的には「(誰か他人の)ハンコの押してある書類」に頼らざるを得ないのはしょうがないんですけど、
「(他人の)ハンコが押してあるから俺には責任はない」というのは、法的にはともかく職能の倫理としてはやや情けない。
そして、この他人任せ、国任せ、ではエンドユーザのリスクがどうなってしまうか、というのは
今回の「構造強度偽装事件」における根幹的な問題だと私は思うのですけれども。

同協組は「セレモニー化しているものをやめ、本来の品質管理に注力したい」とし、省力化を要望する。

セレモニーになっているのは何故か、そっちの方が問題だと私は思うのですけれどもね。
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