新・御宿かわせみ「西洋宿館の亡霊」は5月号で前編、6月号で後編だったので、一気に読んでしまおうとしていたら、6月号の目次を見て「エカテリーナとシモネッタ」というのを見つけてしまった。
「没後二年―――。友・米原万里へ捧ぐ」とある。
米原万里著の「パンツの面目ふんどしの沽券」を読み終えたばかりで、この追悼文にであうというのは『縁』である。
私はこういうのを偶然の出会いとは思わない。『縁』なのである。そして『縁』は大切にする。
というわけで、威儀を正して、拝読したのである。
「その人の素顔」とか「あの人の素顔」というのがあるが、素顔というのはどういうことなんだろうか。
自分自身のことを思い出せば、すべての人に同じ態度同じ素顔を見せているわけではない。
だから、いろいろな人が描く「あの人の素顔」というのは、やっぱりあの人の一面なんだと思う。
というわけで、今回描かれた米原万里さんは田丸公美子さんから見た米原万里ということなんだろうが、隠すことなく自分をさらけ出している米原万里、が見える。
著者の田丸公美子さんは米原万里さんと出会ってすぐに「シモネッタ」というあだ名をいただく。米原さんと田丸さんの共通項は「シモネタ」にあったことによる。
田丸さんは米原に言う
「私はあたたの友達ではない!私は、あたなの従者、私たちは主従関係」「権力者におもねる太鼓もち」
そして、米原さんを「エカテリーナ(エ勝手リーナ)」と呼ぶ。
シモネタを競い、辛らつなことを言い合い、二人は親密さを深めていく。
そして、米原さんの発病・闘病・・・死。
田丸さんのやりきれない気持ちと、米原さんの鮮やかな姿がよくわかる、最高の追悼文であった。
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「没後二年―――。友・米原万里へ捧ぐ」とある。
米原万里著の「パンツの面目ふんどしの沽券」を読み終えたばかりで、この追悼文にであうというのは『縁』である。
私はこういうのを偶然の出会いとは思わない。『縁』なのである。そして『縁』は大切にする。
というわけで、威儀を正して、拝読したのである。
「その人の素顔」とか「あの人の素顔」というのがあるが、素顔というのはどういうことなんだろうか。
自分自身のことを思い出せば、すべての人に同じ態度同じ素顔を見せているわけではない。
だから、いろいろな人が描く「あの人の素顔」というのは、やっぱりあの人の一面なんだと思う。
というわけで、今回描かれた米原万里さんは田丸公美子さんから見た米原万里ということなんだろうが、隠すことなく自分をさらけ出している米原万里、が見える。
著者の田丸公美子さんは米原万里さんと出会ってすぐに「シモネッタ」というあだ名をいただく。米原さんと田丸さんの共通項は「シモネタ」にあったことによる。
田丸さんは米原に言う
「私はあたたの友達ではない!私は、あたなの従者、私たちは主従関係」「権力者におもねる太鼓もち」
そして、米原さんを「エカテリーナ(エ勝手リーナ)」と呼ぶ。
シモネタを競い、辛らつなことを言い合い、二人は親密さを深めていく。
そして、米原さんの発病・闘病・・・死。
田丸さんのやりきれない気持ちと、米原さんの鮮やかな姿がよくわかる、最高の追悼文であった。
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