今日のパムッカレ![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fine.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fine.gif)
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ご注意、超長文に遺品墓場あり。
義父の看病のために病院で半日過ごし、他の義兄と交代し、夜中の2時に帰宅したイサ。
8月31日、朝6時半に目覚ましが鳴り、
その目覚ましで起きた私は、隣で寝ているイサの足を
蹴飛ばして、早く起きろと急かした。
そして、イサはベッドから起き上がり、シャワーを浴びたのか
記憶にはないけれど、トイレに入り、居間でテレビを点けた。
半分寝ている私に口づけをし、家を出た。
朝8時40分ごろ、イサは玄関を出て、バルコニーから
蒲萄の葉っぱを下にいたバイトくんと義兄にめがけて落とすなど、
いたずらをした。
その後、階下に降りたものの、何食わぬ顔をして、
バイトくんと義兄に声もかけず、
食堂へと向かった。
食堂内で座っていた、食堂社員と冗談を交わした。
防犯カメラで見たけれど、(食堂の)外席を
よくキレイにしてくれたと、イサが彼女に、話したんだそうな。
食堂社員いわく、そのとき、顔が青白かったと。
そして、トイレへ行ったイサ。
そこで、発作が起きたらしい。
トイレから苦しみながら、出て来たイサは
厨房へと向かった。厨房には食堂社員が
いたから、彼女に助けを求めに行ったのだろう。
トイレを抜けて厨房の入口にある一人用ソファにうつ伏せで倒れ込んだ。
驚いた食堂社員は、仰向けに身体を起こし、床に寝させた。
食堂社員は、助けを求めにオフィスに向かった。
義兄4号、バイト君、たまたま義父母宅にいた義姉も駆けつけた。
近所の人が、何やら、救急車を呼んでいる声を家の中で
聞いた私は、義母が大変なんだと、慌てて、着替えて
トイレに入り、急いでアンネ~(義母のこと)と叫びながら階下へ走ったら、
その近所の人が、イサが倒れたと教えてくれて、
頭の中真っ白状態で、厨房へと向かった。
頭を食堂社員に両手で支えられ、
口には玉ねぎを咥えている浅黒い顔のイサ。
義姉が玉ねぎの臭いで意識を回復させようとしたらしい。
何が起こったのか、さっぱり分からず、うろたえる私。
目を開けて~と叫ぶ社員。
近くには、驚いた顔した義母が杖をついたまま、オロオロしていた。
私はイサ、イサと叫ぶものの、
パニックに陥り、手も握ってやらないどころか、
もちろん、心臓発作だなんて、閃かなかったので、
心臓マッサージも、人工呼吸も何もしてやらなかった。
(赤ちゃん羊が死にそうだったときには、人口呼吸をしたのに!!)
救急車到着がなんと長く感じたことか。
実際、9分というスピードで10キロ離れたところから
来てくれたのだ。
救急隊員が、イサに心臓マッサージを施すと、
イサの浅黒い顔が、明るいいつもの顔色に戻ったときは、
生きている!と、思ったのも、束の間、あっという間に
浅黒い顔となった。
私たちは厨房から出され、
救急隊員たちが電気ショックと心臓マッサージを
するのを外から見守った。
8時半ごろ、救急病院へと移送するというので、
義兄5号の運転で姪っ子、義姉、オヤジオフィスのスタッフと
ともに、車に乗り込み、救急車の後を追った。
通勤ラッシュと重なり、救急車を追跡するのが
容易ではなかった。
義兄5号の運転は2次災害でも起こしかねないほど乱暴で、
生きた心地がしなかった。
なかなか道を譲ってくれない車に対し、
いつも冷静なオヤジオフィスの女性スタッフが
窓から半身乗り出しながら、道を開けろと怒鳴っている。
私は安全運転をと義兄5号に声をかけ、(もちろん、義兄は聞いちゃいない)
祈りながら、病院へ行けば助かると信じていた。
病院へ到着し、どのくらい救命措置を施されていたのかは覚えていない。
結局、蘇生を試みたものの、息を吹き返すことは無かった。
ドクターから、お悔やみ申し上げますと
告げられ、ジ、エンド。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/d8/0b47ed2ec499c4467a7932e8cf7bb6bc.jpg)
未だに部屋に、このままある。
玄関を開けると、これが目に入り、やっぱり死んじゃったんだと実感する日々。
一階の救急処置室から、地下へ行き、
よくテレビで見る冷蔵設備の遺体安置所に移送された。
最後に顔を見させてくれ、私はイサにごめんね、ごめんねと
謝り、まだ、生温かいイサに最後のキスをした。
そして、義兄2号にあとで、イサの髪が欲しいと告げた。
病院からパムッカレに戻ると、食堂の敷地に女性弔問客が座り、
隣接する道路には、男性陣の弔問客がずらっと並んで座っていたのを
目にして、自分の身に起こったことが信じられなかった。
トルコの田舎では、モスクのスピーカーから、誰か亡くなると
村じゅうに放送されるのである。
みんなが一斉に私を捉えた。最初に、食堂社員が私に寄って来て、
なぜ、イサを連れて帰って来てくれなかったのと、泣きながら
叫んだ。
義母は呆然としていたり、大声で泣き喚いたりを繰り返していた。
(当時、義父は入院中だった。義父は退院と同時に、
イサの死後3日目にて医師の立ち合いのもと、
イサの死を義兄2号から、告げられたのだ。
義父は、呆然とし口も聞けない状態だったそうな。
自宅に戻ったときも、しばらくは
口を閉ざし、時折、涙を流し、自分も逝きたいと
呟いていた。
義父を私は一時、憎んだ。
なぜ、イサの代わりに逝ってくれなかったのかと。
だけど、私のこんな思いをイサが知ったら
悲しむだろうと、打ち消すことに必死だった。
義父だって、苦しいんだ。
ほぼ寝たきり状態でも生かされる現実。)
食堂の隣で遺体洗浄専用車の中で湯灌をしてもらい、
最後の別れをした。
また、ごめんね、ごめんね、と謝罪の言葉しか
出てこない私。口づけしようと思ったら
口から血が出て来たので、額にした。
そこで、遺品として、ハサミでイサの髪を切った。
身体を清めてもらったあとは、100%コットンのサラシで
身体を覆われ、棺に納めら、お坊さんにお祈りを
捧げてもらった。
トルコでは、無情にも、死んだ日に土葬されるのである。
せめて、日本と同じように、遺体のそばで一夜を過ごしたかった。
その後、モスクに場所を移し、お祈りをしてもらい、
墓地へと向かった。公共の墓地には、すでに穴が掘られていた。
墓地のすぐそばの祭壇でまた、お祈り。
参列者は数えきれないほどいた。
義兄2号の関係でパムッカレデニズリ市長、
イサが愛して止まなかったパムッカレツーリズム(バス会社)からも
参列してくれたね。
花輪もあった。
祭壇から棺を担ぎあげられ、
参列者(男性)のみなさんが2列に並び、
棺が参列者の手によって墓地まで運ばれた。
異教徒は公共墓地には立ち入り禁止だと思っていたので、
私は、埋葬時には、立ち会うのを控えた。というか、あまりにも人混みが凄かったし、
それに、大体、男性しか行けないと思っていたが、実際には
良かったみたい。
人の波が引いてから、お墓に辿りついた。
もう私の前に一生現れないイサ。
私の隣に寝てくれるイサはもういない。
私の隣で運転してくれるイサはももういない。
私の手を繋いでくれるイサはもういない。
お墓に入っちゃったんだから。
トルコでは、霊柩車、湯灌も無料。
田舎では墓地も無料。
なので、金はかからないと思っていたが、
いやいや、とんでもない、相当な額が吹っ飛びました。
弔問客へ食事の提供、お茶などの飲み物。
ピデ(トルコピザ)300人分を二日間とか、
アイラン(塩味ヨーグルトドリンク)300人分とか。
葬式3日目には、ヘルワという、甘いピーナッツペーストと
一緒にパンを村じゅうの人に配った。
私は葬式の手順など知る由もないので、
すべて、義兄たちに委ねた。費用も義兄たちが
出してくれた。
私は一日目のピデ(トルコピザ)300人分を負担しただけ。
日本のように香典なんて、慣習はないからね。
52日後に、メウルートと呼ばれる、いわゆる法事がある。
それにも食事代にお金がかかる。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_naki.gif)
ここは日本のシステムを採用しよう!
みなさん、一人100リラ、包んでちょうだい!
って、言えたらいいね![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_nika.gif)
そんなことしたら、誰も来やしないよ。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_deject.gif)
イサが私を置いて旅立ってから、3週間が経った。早いもんだ。
47年間の人生分以上の涙を流した。
一体、時計の針をどのくらい戻したらイサは死なずに済んだのか?
考えれば考えるほどに、苦しくて、胸が張り裂けそうで、
鬱状態になっちゃうかなとそれも怖かった。
愛する人を失った人への100の言葉の中に、
私と出会ったのも運命なら別れも運命だったはずとあった。
実質一緒に暮らしたのは13年半だったけれど、
今年は結婚10周年だった。
短い結婚生活だったけれど、普通のサラリーマンの夫婦に
比べれば、自営業同士、ほぼ24時間一緒だったから、
30年分は一緒に過ごしていたかも。
出掛けるのもいつも一緒。3食いつも一緒。
一人で私が出かけるの禁止だったから余計に
そうだった。
日本へ里帰りすると、ストーカーのように
毎日電話して来たっけ。
イサとの別れも運命なら、なんとなく、そういう宿命だったのかと
思うようになった。だって、私の実家に私の部屋が残っているんだもの!
日本の家族は手ぶらで嫁に行ったんだから、手ぶらで帰っておいでと
言ってくれた。
死ぬ前夜、義父と過ごしたイサ。それも決まっていたのかな?
イサよりも私のほうが、義父母の世話をしたいと
強く言って、駐車場に義父母の部屋を作ったけど、
それも、死ぬ日が決まっていたからなのかな?
8月の甥っ子二人の結婚式、そして、近所の人の結婚式が
無事終了、他の人の祝い事が絶対に被らない、水曜日に
死んだイサ。神さまはすべて計算していたんかい?
甥っ子の結婚式のために、海外から駆け付けた姪や甥にも
会えたね。神さまがそこまで、配慮してくれたのかな?
義姉が2週間ほど、夜を一緒に過ごしてくれた。
日中は働いたりして、気が紛れたけれど、
夜の静けさは堪えた。あの心細さは一人では耐えられなかった。
居間から聞こえる義姉の寝息は子守歌のように
私を安心させてくれた。イサの寝息にも似ていたから。
時には手を握って一緒に寝てくれた義姉。
数年前、私が入院時、絶対安静のときも
5日間、付きっ切りで看病してくれ、
下の世話までしてくれた義姉には、頭が上がらない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/a2/f094bbce02478f16b1bb8fda9f6b32b7.jpg)
犠牲祭でイサのために捧げられた羊ちゃん。
ありがとう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/76/ae2685bb25813ecf15117b9274384560.jpg)
御墓参りに行くときに、義兄4号が、ケントに乗れ!言い、一緒についてきちゃった。
あたしゃ、知らないよ。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_gaan.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/c9/ee31ca2171ece2c766e81a8be1657394.jpg)
1年後、土がちゃんと固まったら、上の画像のように、
大理石などで、御墓が建立される。今は、なんだか貧乏ったらしい、仮のお墓みたい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/4a/cd2e39dc421515abe438097601068551.jpg)
ケントは父ちゃんと話をしたのかな?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/d1/9fe5957a5842dd76f0e75d5c9dcae35b.jpg)
ブログに寄せてくださった、皆さんからの温かいお言葉、
メールにて、ご自身の辛い過去を思い出し、語ってくださったり、
私が少しでも癒されるようにと、本や歌を紹介してくださったり、
わざわざ、フェティエ、イスタンブール、カッパドキア、アンカラから
私のために、駆けつけて、下さったり、
食堂へとお客様として、足を運んでくださったたくさんの駐在員ご家族の皆様。
中には、入りずらかったでしょうに、声をかけにくかったでしょうに、
励ましのお言葉、お心遣い、
心から皆様に感謝申し上げます。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/dogeza.gif)
私は、イサだけが要れば、友達も誰も要らない、
親戚付き合いなんてゴメンだと
思い、トルコ語を疎かにしてしまいました。
異国の地でイサに頼り切った生活をしていたせいか、
病院にも一人じゃいけない人間になってしまいました。
日本じゃ、一人で行けますよ!![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_ase2.gif)
イサを失い、これまで味わったことのない孤独感、喪失感、
言葉では表せない感情が私を襲ってきました。
イサの死は私を二度と立ち直れそうにもないくらいに
暗闇に突き落としたのです。
でも、皆さんの叱咤激励で、意外に早くトンネルから
抜け出たような気がします。まだ、これから、浮き沈みは
あるでしょうが、なんとなく乗り越えられそうです。
一番辛かったときに、犠牲祭という連休があり、
食堂が大忙しでした。それで、気が紛れたこともあります。
がめついと思われてもいい、社員の生活を守るのは
イサの願いだったはず。
そう言い聞かせ、無我夢中で
働きました。それも相乗効果があったようです。
これから、相続の問題とか色々と対処しなければ
なりません。トルコでは、血が優先されるようです。
トルコで、トルコ人と結婚した日本人女性(殆ど、日本国籍なはず)に
参考になるような情報を今後お届けしたいです。
ひとまず、私は日本国籍ではあるものの、
夫の年金を受け継ぐことが出来ました。
それは、夫が死亡した日から発生するそうです。
私には子供もおらず、もらえるか不安でした。
もともと、夫の年金は今年受給開始のはずでした。
私は未亡人年金となるようです。
訂正↑ すみません。こう書いたものの、
まだ受給開始になるか、定かではありません。
裁判所で審議され、それで、どうなるか決定されるようです。
やっぱり、トルコ国籍ではないと、いろいろとハードルが
高いようです。
ケントは元気です。
今朝、オフィスの鍵を開けたときに、
その音で、ケントがバルコニーから
走って来ました。多分、イサが帰って来たと
思ったのかも。
バカイサへ、
あんたがいきなり死んじゃったから、
近所の子供たちや甥姪っ子たちがしばらく
ショックで不眠症、拒食症になり、大変だったんだから!!
姪っ子のところばかりに
ラム子を頼むと何度も夢に出てきて、
私のところには、なんで来ないんだよ!!![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_ikari.gif)
長い文章にお付き合いくださいまして、
ありがとうございます。
私は、しばらくトルコで生活します。
下を向いて泣いてばかりでは、
先に進めません。ヒマワリのように
上を向いて、歩いていきたい。
どうぞ、今後とも、ご指導、ご鞭撻をいただければ
幸いです。
皆様、一人一人にお会いして、心から感謝の気持を
伝えたいところですが、この場でお許しください。
ブログへのコメント、メールへのお返事は
必ずします。
ブログも不定期にはなりますが、続けます。
あ、今までも不定期だったっけ。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_ase1.gif)
皆様の益々のご多幸、ご健康を心からお祈り申し上げます。
ラム子
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/5a/1ec845f400c102fd5c7ef8cead46caeb.jpg)
10年以上前の写真。日本にて。若かったね~。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/cf/962290b0141e167036d5072b85674121.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/2c/8d8603fbde78f079aae29847c7f3a0af.jpg)
食堂を改装するときに、一人で解体作業を楽しそうにやっていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/4d/01d287c960862c28ab3ae354e3a0f068.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fine.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fine.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fine.gif)
ご注意、超長文に遺品墓場あり。
義父の看病のために病院で半日過ごし、他の義兄と交代し、夜中の2時に帰宅したイサ。
8月31日、朝6時半に目覚ましが鳴り、
その目覚ましで起きた私は、隣で寝ているイサの足を
蹴飛ばして、早く起きろと急かした。
そして、イサはベッドから起き上がり、シャワーを浴びたのか
記憶にはないけれど、トイレに入り、居間でテレビを点けた。
半分寝ている私に口づけをし、家を出た。
朝8時40分ごろ、イサは玄関を出て、バルコニーから
蒲萄の葉っぱを下にいたバイトくんと義兄にめがけて落とすなど、
いたずらをした。
その後、階下に降りたものの、何食わぬ顔をして、
バイトくんと義兄に声もかけず、
食堂へと向かった。
食堂内で座っていた、食堂社員と冗談を交わした。
防犯カメラで見たけれど、(食堂の)外席を
よくキレイにしてくれたと、イサが彼女に、話したんだそうな。
食堂社員いわく、そのとき、顔が青白かったと。
そして、トイレへ行ったイサ。
そこで、発作が起きたらしい。
トイレから苦しみながら、出て来たイサは
厨房へと向かった。厨房には食堂社員が
いたから、彼女に助けを求めに行ったのだろう。
トイレを抜けて厨房の入口にある一人用ソファにうつ伏せで倒れ込んだ。
驚いた食堂社員は、仰向けに身体を起こし、床に寝させた。
食堂社員は、助けを求めにオフィスに向かった。
義兄4号、バイト君、たまたま義父母宅にいた義姉も駆けつけた。
近所の人が、何やら、救急車を呼んでいる声を家の中で
聞いた私は、義母が大変なんだと、慌てて、着替えて
トイレに入り、急いでアンネ~(義母のこと)と叫びながら階下へ走ったら、
その近所の人が、イサが倒れたと教えてくれて、
頭の中真っ白状態で、厨房へと向かった。
頭を食堂社員に両手で支えられ、
口には玉ねぎを咥えている浅黒い顔のイサ。
義姉が玉ねぎの臭いで意識を回復させようとしたらしい。
何が起こったのか、さっぱり分からず、うろたえる私。
目を開けて~と叫ぶ社員。
近くには、驚いた顔した義母が杖をついたまま、オロオロしていた。
私はイサ、イサと叫ぶものの、
パニックに陥り、手も握ってやらないどころか、
もちろん、心臓発作だなんて、閃かなかったので、
心臓マッサージも、人工呼吸も何もしてやらなかった。
(赤ちゃん羊が死にそうだったときには、人口呼吸をしたのに!!)
救急車到着がなんと長く感じたことか。
実際、9分というスピードで10キロ離れたところから
来てくれたのだ。
救急隊員が、イサに心臓マッサージを施すと、
イサの浅黒い顔が、明るいいつもの顔色に戻ったときは、
生きている!と、思ったのも、束の間、あっという間に
浅黒い顔となった。
私たちは厨房から出され、
救急隊員たちが電気ショックと心臓マッサージを
するのを外から見守った。
8時半ごろ、救急病院へと移送するというので、
義兄5号の運転で姪っ子、義姉、オヤジオフィスのスタッフと
ともに、車に乗り込み、救急車の後を追った。
通勤ラッシュと重なり、救急車を追跡するのが
容易ではなかった。
義兄5号の運転は2次災害でも起こしかねないほど乱暴で、
生きた心地がしなかった。
なかなか道を譲ってくれない車に対し、
いつも冷静なオヤジオフィスの女性スタッフが
窓から半身乗り出しながら、道を開けろと怒鳴っている。
私は安全運転をと義兄5号に声をかけ、(もちろん、義兄は聞いちゃいない)
祈りながら、病院へ行けば助かると信じていた。
病院へ到着し、どのくらい救命措置を施されていたのかは覚えていない。
結局、蘇生を試みたものの、息を吹き返すことは無かった。
ドクターから、お悔やみ申し上げますと
告げられ、ジ、エンド。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/d8/0b47ed2ec499c4467a7932e8cf7bb6bc.jpg)
未だに部屋に、このままある。
玄関を開けると、これが目に入り、やっぱり死んじゃったんだと実感する日々。
一階の救急処置室から、地下へ行き、
よくテレビで見る冷蔵設備の遺体安置所に移送された。
最後に顔を見させてくれ、私はイサにごめんね、ごめんねと
謝り、まだ、生温かいイサに最後のキスをした。
そして、義兄2号にあとで、イサの髪が欲しいと告げた。
病院からパムッカレに戻ると、食堂の敷地に女性弔問客が座り、
隣接する道路には、男性陣の弔問客がずらっと並んで座っていたのを
目にして、自分の身に起こったことが信じられなかった。
トルコの田舎では、モスクのスピーカーから、誰か亡くなると
村じゅうに放送されるのである。
みんなが一斉に私を捉えた。最初に、食堂社員が私に寄って来て、
なぜ、イサを連れて帰って来てくれなかったのと、泣きながら
叫んだ。
義母は呆然としていたり、大声で泣き喚いたりを繰り返していた。
(当時、義父は入院中だった。義父は退院と同時に、
イサの死後3日目にて医師の立ち合いのもと、
イサの死を義兄2号から、告げられたのだ。
義父は、呆然とし口も聞けない状態だったそうな。
自宅に戻ったときも、しばらくは
口を閉ざし、時折、涙を流し、自分も逝きたいと
呟いていた。
義父を私は一時、憎んだ。
なぜ、イサの代わりに逝ってくれなかったのかと。
だけど、私のこんな思いをイサが知ったら
悲しむだろうと、打ち消すことに必死だった。
義父だって、苦しいんだ。
ほぼ寝たきり状態でも生かされる現実。)
食堂の隣で遺体洗浄専用車の中で湯灌をしてもらい、
最後の別れをした。
また、ごめんね、ごめんね、と謝罪の言葉しか
出てこない私。口づけしようと思ったら
口から血が出て来たので、額にした。
そこで、遺品として、ハサミでイサの髪を切った。
身体を清めてもらったあとは、100%コットンのサラシで
身体を覆われ、棺に納めら、お坊さんにお祈りを
捧げてもらった。
トルコでは、無情にも、死んだ日に土葬されるのである。
せめて、日本と同じように、遺体のそばで一夜を過ごしたかった。
その後、モスクに場所を移し、お祈りをしてもらい、
墓地へと向かった。公共の墓地には、すでに穴が掘られていた。
墓地のすぐそばの祭壇でまた、お祈り。
参列者は数えきれないほどいた。
義兄2号の関係でパムッカレデニズリ市長、
イサが愛して止まなかったパムッカレツーリズム(バス会社)からも
参列してくれたね。
花輪もあった。
祭壇から棺を担ぎあげられ、
参列者(男性)のみなさんが2列に並び、
棺が参列者の手によって墓地まで運ばれた。
異教徒は公共墓地には立ち入り禁止だと思っていたので、
私は、埋葬時には、立ち会うのを控えた。というか、あまりにも人混みが凄かったし、
それに、大体、男性しか行けないと思っていたが、実際には
良かったみたい。
人の波が引いてから、お墓に辿りついた。
もう私の前に一生現れないイサ。
私の隣に寝てくれるイサはもういない。
私の隣で運転してくれるイサはももういない。
私の手を繋いでくれるイサはもういない。
お墓に入っちゃったんだから。
トルコでは、霊柩車、湯灌も無料。
田舎では墓地も無料。
なので、金はかからないと思っていたが、
いやいや、とんでもない、相当な額が吹っ飛びました。
弔問客へ食事の提供、お茶などの飲み物。
ピデ(トルコピザ)300人分を二日間とか、
アイラン(塩味ヨーグルトドリンク)300人分とか。
葬式3日目には、ヘルワという、甘いピーナッツペーストと
一緒にパンを村じゅうの人に配った。
私は葬式の手順など知る由もないので、
すべて、義兄たちに委ねた。費用も義兄たちが
出してくれた。
私は一日目のピデ(トルコピザ)300人分を負担しただけ。
日本のように香典なんて、慣習はないからね。
52日後に、メウルートと呼ばれる、いわゆる法事がある。
それにも食事代にお金がかかる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_naki.gif)
ここは日本のシステムを採用しよう!
みなさん、一人100リラ、包んでちょうだい!
って、言えたらいいね
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そんなことしたら、誰も来やしないよ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_deject.gif)
イサが私を置いて旅立ってから、3週間が経った。早いもんだ。
47年間の人生分以上の涙を流した。
一体、時計の針をどのくらい戻したらイサは死なずに済んだのか?
考えれば考えるほどに、苦しくて、胸が張り裂けそうで、
鬱状態になっちゃうかなとそれも怖かった。
愛する人を失った人への100の言葉の中に、
私と出会ったのも運命なら別れも運命だったはずとあった。
実質一緒に暮らしたのは13年半だったけれど、
今年は結婚10周年だった。
短い結婚生活だったけれど、普通のサラリーマンの夫婦に
比べれば、自営業同士、ほぼ24時間一緒だったから、
30年分は一緒に過ごしていたかも。
出掛けるのもいつも一緒。3食いつも一緒。
一人で私が出かけるの禁止だったから余計に
そうだった。
日本へ里帰りすると、ストーカーのように
毎日電話して来たっけ。
イサとの別れも運命なら、なんとなく、そういう宿命だったのかと
思うようになった。だって、私の実家に私の部屋が残っているんだもの!
日本の家族は手ぶらで嫁に行ったんだから、手ぶらで帰っておいでと
言ってくれた。
死ぬ前夜、義父と過ごしたイサ。それも決まっていたのかな?
イサよりも私のほうが、義父母の世話をしたいと
強く言って、駐車場に義父母の部屋を作ったけど、
それも、死ぬ日が決まっていたからなのかな?
8月の甥っ子二人の結婚式、そして、近所の人の結婚式が
無事終了、他の人の祝い事が絶対に被らない、水曜日に
死んだイサ。神さまはすべて計算していたんかい?
甥っ子の結婚式のために、海外から駆け付けた姪や甥にも
会えたね。神さまがそこまで、配慮してくれたのかな?
義姉が2週間ほど、夜を一緒に過ごしてくれた。
日中は働いたりして、気が紛れたけれど、
夜の静けさは堪えた。あの心細さは一人では耐えられなかった。
居間から聞こえる義姉の寝息は子守歌のように
私を安心させてくれた。イサの寝息にも似ていたから。
時には手を握って一緒に寝てくれた義姉。
数年前、私が入院時、絶対安静のときも
5日間、付きっ切りで看病してくれ、
下の世話までしてくれた義姉には、頭が上がらない。
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犠牲祭でイサのために捧げられた羊ちゃん。
ありがとう。
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御墓参りに行くときに、義兄4号が、ケントに乗れ!言い、一緒についてきちゃった。
あたしゃ、知らないよ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_gaan.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/c9/ee31ca2171ece2c766e81a8be1657394.jpg)
1年後、土がちゃんと固まったら、上の画像のように、
大理石などで、御墓が建立される。今は、なんだか貧乏ったらしい、仮のお墓みたい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/4a/cd2e39dc421515abe438097601068551.jpg)
ケントは父ちゃんと話をしたのかな?
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ブログに寄せてくださった、皆さんからの温かいお言葉、
メールにて、ご自身の辛い過去を思い出し、語ってくださったり、
私が少しでも癒されるようにと、本や歌を紹介してくださったり、
わざわざ、フェティエ、イスタンブール、カッパドキア、アンカラから
私のために、駆けつけて、下さったり、
食堂へとお客様として、足を運んでくださったたくさんの駐在員ご家族の皆様。
中には、入りずらかったでしょうに、声をかけにくかったでしょうに、
励ましのお言葉、お心遣い、
心から皆様に感謝申し上げます。
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私は、イサだけが要れば、友達も誰も要らない、
親戚付き合いなんてゴメンだと
思い、トルコ語を疎かにしてしまいました。
異国の地でイサに頼り切った生活をしていたせいか、
病院にも一人じゃいけない人間になってしまいました。
日本じゃ、一人で行けますよ!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_ase2.gif)
イサを失い、これまで味わったことのない孤独感、喪失感、
言葉では表せない感情が私を襲ってきました。
イサの死は私を二度と立ち直れそうにもないくらいに
暗闇に突き落としたのです。
でも、皆さんの叱咤激励で、意外に早くトンネルから
抜け出たような気がします。まだ、これから、浮き沈みは
あるでしょうが、なんとなく乗り越えられそうです。
一番辛かったときに、犠牲祭という連休があり、
食堂が大忙しでした。それで、気が紛れたこともあります。
がめついと思われてもいい、社員の生活を守るのは
イサの願いだったはず。
そう言い聞かせ、無我夢中で
働きました。それも相乗効果があったようです。
これから、相続の問題とか色々と対処しなければ
なりません。トルコでは、血が優先されるようです。
トルコで、トルコ人と結婚した日本人女性(殆ど、日本国籍なはず)に
参考になるような情報を今後お届けしたいです。
ひとまず、私は日本国籍ではあるものの、
夫の年金を受け継ぐことが出来ました。
それは、夫が死亡した日から発生するそうです。
私には子供もおらず、もらえるか不安でした。
もともと、夫の年金は今年受給開始のはずでした。
私は未亡人年金となるようです。
訂正↑ すみません。こう書いたものの、
まだ受給開始になるか、定かではありません。
裁判所で審議され、それで、どうなるか決定されるようです。
やっぱり、トルコ国籍ではないと、いろいろとハードルが
高いようです。
ケントは元気です。
今朝、オフィスの鍵を開けたときに、
その音で、ケントがバルコニーから
走って来ました。多分、イサが帰って来たと
思ったのかも。
バカイサへ、
あんたがいきなり死んじゃったから、
近所の子供たちや甥姪っ子たちがしばらく
ショックで不眠症、拒食症になり、大変だったんだから!!
姪っ子のところばかりに
ラム子を頼むと何度も夢に出てきて、
私のところには、なんで来ないんだよ!!
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長い文章にお付き合いくださいまして、
ありがとうございます。
私は、しばらくトルコで生活します。
下を向いて泣いてばかりでは、
先に進めません。ヒマワリのように
上を向いて、歩いていきたい。
どうぞ、今後とも、ご指導、ご鞭撻をいただければ
幸いです。
皆様、一人一人にお会いして、心から感謝の気持を
伝えたいところですが、この場でお許しください。
ブログへのコメント、メールへのお返事は
必ずします。
ブログも不定期にはなりますが、続けます。
あ、今までも不定期だったっけ。
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皆様の益々のご多幸、ご健康を心からお祈り申し上げます。
ラム子
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10年以上前の写真。日本にて。若かったね~。
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食堂を改装するときに、一人で解体作業を楽しそうにやっていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/4d/01d287c960862c28ab3ae354e3a0f068.jpg)