電影フリークス ~映画のブログ~

電影とは、映画のこと。その映画を一緒に楽しみましょう。

ジョン・ウー初期作まとめ(その2)PART III

2025-02-16 15:13:00 | ジョン・ウー

(3)少林倚天拳について

パート2では、映画の内容にはあまり触れられませんでした。最後の3つ目ではまったく別の視点で映画の内容、ジョン・ウー(以下、JW)その人についても書いてみます。


まず、この「少林門」(以下、秘竜拳)の製作前、JWは『女子跆拳群英會』の次回作として本作を考えていたと思われます。


JWは、自分でシナリオを書ける映画人です。自分の書いたシナリオを読み、感動して涙するような人間でもあります。

JWは、子供の頃から映画を見るのが大好きだったそうです。子供の頃にタダで映画をみようと元気な子供たちと一緒に大人に混ざって映画館の中へ潜り込んで映画を観たんだそうですね。いまも昔も子供にとってはお金がなく料金は高いのです。係員に見つかったら、トイレに隠れたり、子供なのでひょこひょこ逃げ回るんだそうです(笑)。


中学生になると、昔ながらの広東語映画をこっそりみるのをやめ、外国映画を観るために毎日貯金をしていたそうです。学校をサボるのも当たり前、勉強より映画館で過ごす方が楽しかったのです。映画好きの母親が厳しかったそうで、帰りが遅くなると鞭で叩かれたりもしてたそうなんですね。学業の方は数学はニガテで美術や文学の成績は良かったらしいですね。それから、JWの母親がヴィヴィアン・リーの『風と共に去りぬ』や『哀愁』が好きなのだそうです。うちの母親にそっくり(笑)。


やがて18歳ぐらいになると、映画を作ってみたくなり、自分でガラスに絵を描いてみたり、演劇で小さなドラマに自ら役者として演技してみたりしたそうです。その時の一部観客がJWの演技に感動して涙したそうで、この時の小さな体験がJWにとっては大きかったようですね。



そんなJWが数々の現場経験を経て立派な映画監督に就任して、なぜ題材としてこのタイミングで少林拳を選んだのか。台湾では75年あたりから郭南宏先生の「少林寺への道(オリジナル75年版)」を皮切りに続く「少林少子」など、台湾から少林寺映画ブームが起きていたかと思います。(この辺りは今後の研究課題です)

その影響かどうかは分かりませんけれども、秘竜拳もその仲間入りした形ですね。


映画の撮影自体は終わっていたと思いますが、75年末にはある作曲家を投入して映画に磨きをかけます。いまから数年前に惜しくも亡くなってしまいましたけど、主題曲や映画で使われた音楽に顧嘉輝(ジョセフ・クー)をこのタイミングで起用したのです。当時の香港でレコードが発売されていたか不明ですけど、映画を盛り上げる音楽として最高でした。この音楽を入れなければ映画は完成にはならなかったんですね。

クーの音楽も好きですので、たまにカーステレオでCDながして世界にひたって例えば『當年情』なんかを聴いたり、カラオケを歌ったりするのもいいですよね。


さて、JWは映画を自分で撮る時に昔からスタントマン起用を嫌がっていた監督と思いますけど、この秘竜拳でも出演者に強く代役を使わないようお願いをしたという事です。

つまり、嘘をつきたくない、可能な限り自分自身で役を演じてリアルな役者をそのまま撮って観客にみせたい、そういう主義でやっている監督だと思います。他の俳優や、ジャッキーにしても迫力のある槍アクション、演技を秘竜拳で十分見せていたと思います。


そういえば以前に香港の俳優でした梁少華さん(現在は梁明華さんに改名)から、JWについて貴重な証言をお聞きする機会がありました。

この記事を書いていて、ふとJWの映画作りに影響を与えたかも知れないという古い映画を明華さんから教えていただいた事を思い出しました。JWがショウブラを抜けてハーベストの映画を撮るようになる前の話です。

 
『除霸』では黒いマスクして白狼という役だった明華さん

以前こちらの記事に少しだけ書きました。

https://blog.goo.ne.jp/leecoo/e/0a33bf2f854333a18e20de6bb305cef8


もうちょっと補足しますと、『除霸』のJW関与についてだけでなく、その映画のタイトルが『扑不滅的火焰』であると教えていただいたのです。うまいこと観られるとよいのですが、まだ未見の映画ですので是非チェックしてみたいと思います。


梁明華さんから私、醒龍へのメッセージ



話を秘竜拳に戻します。香港電影資料館によりますと、秘竜拳は当初『少林倚天拳』という題名でしたが、実際には少林寺に倚天拳という名前の拳法や、倚天拳譜というような書物も存在してないため、後に映画のタイトルを『少林門』に改名したのだそうです。

(少林倚天拳譜という名前は後に、とあるハーベスト作品に登場します)JWは当初どんなシナリオを考えていたのでしょうか。


JWは拳經という書物から功夫の真意を悟り『少林倚天拳』のテーマにしたんだそうです。理論だけでは映画は作れないとは言っていますけど、その精神を映画に反映させているという事です。


ここに最初のシナリオ、『少林倚天拳』(嘉禾電影公司)があります。


『奪命金劍』の薄い20ページのセリフ台本に対して、『少林倚天拳』の方は全65シーン、150ページあります。


まず最初に登場人物の一覧表がありますが、これにまず驚きました。あとから手書きでメモが書いてありましたが、主人公の雲飛、ボスの石少峯(長刀)、江南浪士ことゾロ(剣)、そして譚風(霸王槍)、譚雄、ゾロの愛人・秋月の6名が最初のページに記載されています。当初の設定では、譚風の年齢が50歳、20歳の譚雄がその息子の設定になっているのがポイントです。最初のシナリオはこうだったんですね。



秘竜拳でのジャッキーの役は譚風(タンフェン)という若者でした。

ジャッキーの役(譚風)の設定が変わる事になりますが香港電影資料館の言う通り、題名変更と同時に、譚風が父親から弟、譚雄が息子から兄に変更されたんでしょうね。

この変更についてJWは、当初韓国で撮影を開始したが譚風役を現地の韓国人で予定していたのを年齢的にアクションがあまり出来ない俳優だったため、スタジオに相談したのちジャッキーに役を交代、シナリオを少し変えて譚風を若者にしたと言っています。
以前からジャッキーを知っており、代わりの俳優にジャッキーを提案したのがジョン・ウーだったんですね。ジャッキーはラストなどでもスタントをやったそうですけど、この配役変更は本当に良かったですね。

では具体的にこの『少林倚天拳』シナリオをいくつか見ていきましょう。

内容は、場所、時間帯(朝、昼、夜)、登場人物が最初にかかれていて、そのあとに各シーンの出来事が続きます。

一番初めは序章で、片名が赤字でフェードインするなんて事もしっかり書かれています。
この序章のあと、第1場〜第65場(シーン)まで書かれています。

途中のシナリオ。例えばこんな感じです。

例)シーン第32-1

場所: 留置場

時間夕暮れ

登場人物ユンフェイ、タン爺、看守2


(彼は縛られて吊るされ、服は引き裂かれ、体中傷だらけで、明らかに拷問 を受けていた)


(看守2が緊張しながら答える)


(突然ドアをノックする音が聞こえる)


(看守Aは小さな鉄扉と窓を見る)


(外には看守のふりをするタン爺がいる)


看守A: どうしたんですか?

まぁこんな感じで、細かい描写がぎっしり。

気になりますのは、秘竜拳ではJWご本人が清国から命を狙われる革命家(反清義士)の張義という役名で出演していたのですけど、これについては見当たりませんでした。なので当初予定されていなかったキャラであって、最終的に監督のプロットが追加されたんですね(笑)。


あと、パート1で触れました私、醒龍の好きなシーン、ユンフェイがゾロと同盟を結ぶシーンですが、これはシーン38になります。しっかり当初から盛り込まれていて良かったと思います。


江南浪士(ゾロ)が「霸王槍譚風!」と叫ぶ場面も。


結局、変更になった息子・譚雄は元々のシナリオではどうだったのでしょうか。
譚雄は、序章でのみ登場する少林寺の若い修行僧の役でした。少林寺の長から最も寵愛された弟子でしたが、物語の冒頭、序章の最後で少林叛徒・石少峯の手下の攻撃により戦死してしまう・・・というものでした。

基本シナリオは同じでありながら、JWによる変更で、ジャッキーの役や張義のシーン、ラストシーンも大きく変わったという事になるかと思います。

映画のラストシーンですが、これもしっかりシナリオに書かれた通りのシーンとなっておりました。馬に乗ったユンフェイが現れて、最後に剣と槍を映し出してましたね(涙)。

いやぁ、この映画何度観ても良いでは有りませんか。
いくつかのシナリオ変更を経て、ジョセフ・クーの素晴らしい音楽も使用されて、76年にゴールデンハーベストの映画は完成。無事公開の運びとなったのでした。



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ジョン・ウー初期作まとめ(その2)パート2

2025-02-16 15:03:00 | ジョン・ウー

(2)国内における映画の製作時期の表記について


今回2番目の記事は、日本で言われていた「少林門」製作時期の疑問について。まず問題提起しますと、この映画は日本国内において「74年」に製作と言われ続けていました。これは昔から言われており、誰もが疑うこともなくインプットされた内容なのですよね。

なぜでしょう?と思った方。そう思った方は、この記事をお読みいただくと、何かが分かるかも知れません。

これは当時の書籍から。

そう言えば、ジャッキーは「新少林寺」にも出演していましたね。「少林門」は、ジャッキーの旧作「少林寺木人拳」以前の少林寺映画だった事にもなるのですが、「新少林寺」のパンフに掲載されていた少林寺映画の変遷においても、やはり1974年となっていました。


割と最近の「ドラゴン・ブレイド」パンフレットより。こちらも1974年表記でした。


では「なぜ74年だったか?」をちょっと考えてみたいと思います。実は74年説というのは、私からすると早過ぎて信じられない事だったのですが、簡単に言わせていただくと、どうやら日本国内だけの話であったと言えそうなのです。


はじめに書いておきますと、74年製作は確かに怪しい情報なのですが、これを解明するには様々な資料、書籍などの国内外の出版物に目を通す必要があります。


また、正解というのは実は無いというか非常に難しい話になります。ですので、ここでは製作年度が74年になっていた経緯などの解説文として、興味がありましたら是非続きをお読みいただければと思います。



さて、私が当時、最初に読みました書籍がこちらでした。



1982年発行になりますが、著者は有名な映画評論家の日野康一氏です。

日野さんはかつて、アジア映画方面ではブルース・リー書籍などで実績のあったお方で、ジャッキーについても同様に多数出版、様々な記事を書かれてましたね。


日野さんと言えば、近代映画社から出てましたコチラ。

「栄光のドラゴン ブルース・リーのすべて」



とにかく読みやすくて中身が濃かったので、醒龍お気に入りの一冊ですね!これは流石でした(拍手)。


そして、上に書いたジャッキー本があります。その後も似たような本が多数出ていた中の1冊で、これは「ジャッキー・チェン大全科」(秋田書店刊)なのですが、"ジャッキー・チェン全出演作を完全公開"と謳っていましたので、ワクワクしながら何度も読んでいましたね。


これの巻末には、こんなページがありました。



スーパースターへの道という節があり、このページから引用しますと、「すでに完成した少林門もオクラになるしまつ(2年後の76年に公開)。」という記述がありました。


更にこんな凄い事も書いてあったんです!


羅維監督が主役の人物を探していた頃、なんと羅維夫人が「少林門で馬車を引いていた子はどうかしら?」と羅維に助言したというのです。私はこの事が脳裏に焼き付いてしまいましたね。(いまでもこれはしっかり記憶されたままです)


"お蔵入り"に関しては、香港の公的機関からリリースされている外国映画を含む禁映(=上映禁止)リストがありますけど、ここにはJW関連で2つの作品(73年)挙がってしまっていたのですよね。


73年のNo.317には『過客』が、そしてNo.326には例の『満洲人』がリストアップされています。折角、時間と労力を使って映画を作っても上映が許されないなんて哀れですよね。


結果的には、御存知の通り『過客』は追加撮影、再編集されて2年後の75年に香港で劇場公開されましたね。これがお蔵入り(ややこしいですが、あくまで香港での話。。)です。『少林門』はリストにはありませんが、『満洲人』は完全にお蔵入りした映画です。


ちなみにこのリストで面白いのは、やはり73年の『必殺ドラゴン鉄の爪』が一旦禁映になったあと、2回目の審査で通っているんです(75年に香港公開)。検閲で通るか通らないかのギリギリの線にいた訳なのでした。


さて、大全科の話に戻しますと、巻末には出演作①のフィルモがあります。



日野先生曰く、「香港は資料が整理されていない」のだそうですが、そんな事もどこかで記事になっていました。ここでは「少林門」が1974年になっていますよね。

ただ、76年以降の羅維時代の作品と、それ以前の作品リストでは、後者が年度だけの表記だったりして明らかに質が異なっています。ですので、羅維影業の主演作以外の作品については、まだあまり知られていなかった事が分かります。では、その出演作①のリストにある「少林門」が74年の表記になっていたのはなぜか?


その当時(81年頃)の、日本における経緯ですが、まずは酔拳の大ヒットによって日本にもジャッキー主演映画が輸入される事となり、劇場公開が79年にスタート。80年以降も次々と主演映画が公開されました。いわゆる拳シリーズですね!書籍も書店に並びはじめ、前述の通り小学生でも読めるレベルの大百科関連本もいっぱい出ました。

羅維影業作品リストだけはしっかりした資料を入手していたかと思いますが、実はフィルモに関して更にベースとなった書籍がありました。大全科の出版前、81年発行の芳賀書店のヤング功夫マスターと題された日野先生責任編集のシネアルバム(バトルクリークブローの時のジャッキーが表紙の黄色い本と言えばお分かりでしょうか?)の中には、楊明山という人が日本語に訳した台北でのジャッキーのインタビュー記事が載っています。


81年に出版されたこのシネアルバムが日本で最初期の書籍ではないかと思われます。

この本の101ページに、主演の譚道良とジャッキーが槍を持った映画の写真が1枚掲載されてましたけど、注目すべきは「少林門を撮り終えてから、オーストラリアの両親のもとへ行き、1年間をボケーっとすごした。」という記述なのです。これがそもそもの元凶ではないかと推察してます。つまり少林門のあと、1年オーストラリアへ行っていたという内容のインタビュー記事が割と初期の頃にあった訳なんですね。

これがどういう事かと言いますと、まず、ジャッキーはこの時期両親の暮らすオーストラリアへは2回行っていたという話が現在までの通説だと思います。それがあのインタビューを読んだだけだと回数は意識せず、「1年間ずっと渡豪してたのか・・」と思ったりしたのではないでしょうか。要するにまさか2回も行ったとは思ってはいなかったと思うのですよね。


ちなみにもう1つの「金瓶梅」の年度、74年は、邵氏作品であるのにリーハンシャン監督だった為か、奇跡的に日本で劇場公開を果たしてます。年度は権利元の情報から容易に分かっていたはずです。

しかし、少林門は日本未公開。であれば情報は無いに等しく、製作年度を知る事は難しい。分からないのであれば、年度不詳と書けばよいところ、このインタビューの情報を元に74年と書いてしまった可能性がありますね。おそらく日本の書籍だけの話だったのかも知れませんが、どうなのでしょう?

私の解釈は次のようなります。これはジャッキーが香港に帰って来て主演した『新精武門』が76年の製作です。つまり、主演映画が作られる1年前、75年の1年間は単純にジャッキーが香港には不在だったという認識から少林門の製作はもう74年しかあり得ないと踏んだのでしょう。このインタビュー記事だけを読めば、私もそう思ってしまったかも知れません。

ちなみに、香港では映画の公開が数年間遅れる事はよくある話で、その理由もケースバイケースで様々であります。

結局、初期(学校卒業以降)の出演タイトルをいくつかインタビューの中で聞いてはいたが、製作時期(いわゆる年度)はインタビューからは分からなかったのが正直なところだと思います。

しかし、"オクラ"入りをどこから聞いた話なのか分かりませんが、なぜか2年間オクラ入りしたと別の書籍の方に書いてしまったんですね。これはインパクト大で記憶に残ってしまう内容と思います。

同シネアルバム、こちらのページがおそらく日本で最初のフィルモグラフィーで、大全科の内容と一致しています。

繰り返しになりますが、これは日本固有の解釈で他国ではそうではない事になっていました。これまで私は様々な文献を見たり、記事を読んで来ましたが、中文、英文海外のどれを取っても74年表記を見たことがなかったように思います。お蔵入りについてもそれに言及した記事はなかったと言えますね。

参考までに、いくつかピックアップしますと、Life and Films of JCのような英文書籍では概ね1976の表記でした。

続いて中文の梁健著『成龍』や『成龍傅』では1975の表記でした。



最後に70〜80年代の映画雑誌からになりますが、英文の"Countdown in Kung Fu"では1976年になっていましたね。この記事が書かれた時期はおそらく81〜82年頃と思われますが、内容的には割と正確と思います。


あと、日野先生のシネアルバムには当時情報が少ない事から香港の雑誌のジャッキー記事をそのまま翻訳したものが掲載されていました。

この拳精でジャッキーがトンファーを持ってる表紙の記事がまさにそうでしたね。七小福について書かれた内容で、ジャッキーは学校ではどんな事をしていたか、メンバー構成や厳しかった于先生について、日々の活動の様子などが記事になっていて、それが日本の書籍に翻訳されて掲載されていたのです。


功夫雑誌は私もよく買ったりしていました。映画についてはあまり詳しくない雑誌でしたけど、とにかく情報が少ない時代でしたのでそういった香港現地の当時の様子が雑誌を通じて得られた訳なんですね。

お蔵入りについても同様に雑誌などから中文記事があったのであればよいと思うのですが、その様な記事を結局見つけることが出来ませんでしたね。

因みに、73年頃の中文記事でJCプロフィール紹介の記事中に『北地胭脂』出演の事が書かれている雑誌もありました。これってショウブラ解禁後にやっと浸透してきた内容と思いますので、当時国内どの文献においても、残念ながらこの情報が採用される事はありませんでした。



このように当時は香港で購入できる嘉禾電影や銀色世界、銀河畫報あたりの大手の映画雑誌、N商事で扱っていた英語、中文雑誌などがあったと思います。大百科の類いでも、これらの雑誌の写真をかなり流用してましたね。当時はジャッキーの出演情報に関しては情報誌がそれほど多くなく貴重だったのです。


ここでちょっと別の観点から。ところで、公的機関である香港電影資料館の認識はどうだったでしょうか。秘竜拳を香港ではどう認識しているか。これは大変興味をひく内容ですね。


出版書物のページには主要なメンバーが並んだ写真が掲載されてましたが、公開日76年が表記されていました。但し注釈は特に無し。ほかの映画で時期のズレがあれば注釈が記載されています。(例えば邵氏の『惡霸』など。73年に撮影が終わって送検後、75年に公開と注釈あり)つまり74年に製作されていた事実はなかったという事だと思います。

また、説明文にはストーリー概略と嘉禾電影46期の抜粋記事などが書かれているのが確認出来ました。映画をよりリアルにするために、杜青役のサモハンと一緒に有名な武術家を訪ねたそうです。先方が誰なのかまでは分かりませんが(苦笑)。



年度を証明する物が他にないかと考えていましたら、前のパート1記事で触れました映像にヒントがありました。少林門の英語版プリントに注目しますと、珍しくローマ数字でMCMLXXVI(1976)と刻印されているように見えます。


映画の年度というのは通常、製作年度を表します。(公開年と書いてあれば別ですが)また、フィルモグラフィーというのは本来、本人ではなくて職業にしているような映画に詳しい人(評論家の方など)が書くものと私は思っているのですが、評論家が100人いれば100通りのフィルモグラフィーがあると思いますね。これは極論ですけどね。

私は74年というのは流石におかしいなと以前から思っていましたので、今回こういった記事を書きました。もしかしたら76年というのが実は正解で、かつ無難なデータかも知れませんね。

ちなみに私、醒龍は日本のビデオに記載されたコピーライト、1975年を採用したいですね。



その2、パート3へ、つづく
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ジョン・ウー初期作まとめ(その2)

2025-02-16 14:58:00 | ジョン・ウー
しばらく間があいてしまいましたが、ジョン・ウー初期作その2をお送りします。

初期作というのは、自分としては70年代作品と、挽歌前までの80年代作品のそれぞれ7〜8本、この大きく2つを考えております。

前回、カラテ愚連隊、龍を征する者、と来ましたので、つぎは少林門こと「ジャッキー・チェンの秘竜拳」(以下、秘竜拳とします)を今回その2で書いてみたいと思います。

やや長文になってしまいますが、ご容赦くださいませ。


それから、先日お知らせしました通り、今回3つの構成でお送りしたいと思います。(諸事情により記事はパート1〜3の3つに分かれます 汗。。)


(1)「秘竜拳」との最初の出会いについて

では、まず私が最初に秘竜拳を観た時のお話から。当時まだ中学生でしたけど、映画の情報はもっぱら雑誌「ぴあ」と、「ロードショー」派でした(笑)。友達と映画を観に行くのが楽しい時代でしたね。もちろん大人気のジャッキーはみんな夢中でした。あるとき映画雑誌を見ていたら、「少林門」という映画をTBSで放送すると書いてあったんです。(まだこの時は邦題が決まってなかったんですね)

その事を今一度確認してみますと、「主役ではないがジャッキーが出演してるゴールデンハーベスト作品で日本初公開」と書いてありました!ジャッキーがこの映画に出演出来た事は本当に大きいと思っています。


まぁ当時は初公開がテレビなんて事があるんだって思ってたかと思いますけど、要するにマルに「未」と書いて未公開という事だっただけなんですけどね(笑)。
そして、その日の放送がスタート!
ラジカセで録音中は、声が入っちゃうのでおしゃべり禁止になるんですよ^^
(息もちょっと止めたりして)
って事で、最初はカセットテープへの録音だったんですね。あとで、それをたまに聞いたりしてたかと思いますけど、昔はカセットに録音してた方も多かったですよね。新聞の切り抜きをカセットに貼り付けるのがお決まりでした(笑)。

余談になりますが、これはかなりビックリしたのですけど、知り合いの方からSNSで以前教えてもらったのです。その方は例えば「激突!ドラゴン稲妻の対決」とか「怒れドラゴン」など、現存する録音テープを保管してると聞きました(!)。令和の時代でも世の中にはしっかりカセットテープを保存されている凄い方もいらして驚きましたね。

この辺りの古い作品もまた機会がありましたら、記事を書いてみたいですね。


結局のところ、本放送を観て衝撃をいろいろ受けた醒龍でした。が、ビッグ・スリーの映画であるのに、サモハンやユンピョウをまだ意識もしてないですし、まったく印象なども無いので正直覚えてないですね。ボスのジェームス田俊が強烈だったぐらい。。まぁ中学生だから、こんなもんです。



数年後にビデオデッキでちゃんと録画も出来ました。その頃はHiFiビデオでは無かったので日本語だけテープに入りましたけど、あれは英語の音声だったのかな?


主役の名前も分からないで、放送のたびに見ていた(まして監督なんて・・・)と思います。

何回か目のヤツですが、『ジャッキー・チェンの秘竜拳/THE HAND OF DEATH』
とタイトルが出てましたね。


ジョン・クーって、誰???(って、なります)


アナログの時代。常時黒い縦線が入るような傷だらけのフィルムが輸入されて、デジタルなんてまだまだ考えられない時代でした。

オープニングはトリミングするとクレジットが切れてしまうため、ここだけTVサイズに横に押しつぶした加工がありました。

昔のカンフー映画にありがちなドリアン・タン(タントゥリャン、譚道良)の顔が長ほそーくなる(笑)



ってことで、主演は譚道良。韓国で育ったテコンドーの達人。当時ハーベストと映画出演の契約をしていまして、『ザ・ヒマラヤン 密宗聖手』でもフラッシュ・レッグスぶりを発揮してましたね。

この映画は韓国ロケなので、韓国人俳優が多数出演していましたね。調達し易いからなんでしょうけど、いまだに顔の分からない俳優さんもいらっしゃいました。一応、この映画では韓国側の映画会社が制作費を半分出したりしているんだそうです。


この映画が製作された頃、あるキャストたちが参入して来てましたね。そうなんです、江生をはじめ数年後に五毒拳のメンバーになってゆく俳優たちの顔が見られる(しかもハーベスト作品!)のもこの映画ならでは。これは台湾サイドです。

 江生の出演場面

あと国内では、85年頃にポニーよりビデオが発売されました。

"少林門"と手書きしたエアチェック・ビデオと一緒に現在も大事に保管してます。もちろんジャッキーのジャケです(笑)。

ビデオの方は本編開始前、こんなタイトルが出ます。
この時、「ジャッキー・チェンの秘龍拳 少林門」に変わり、これが将来、現在までずっと使われる事になります。(本編は中文クレジット、中国語音声)

過去、CSでも放送された事があり、こちらも参考までに載せておきますね。

英語音声です。これはいいですね。

顔はレターボックスなのでノーマル(笑)

私が映画的に一番好きなシーンは、剣士ゾロ(江南浪士、ヤンウェイ)が親しい女性を誤って剣で刺し殺してしまって以来、剣を封印して酒に溺れていたところを賞金首の主人公ユンフェイ(雲飛)から同行を依頼され、同盟を結ぶシーン。ちょっと短めのシーンでありますけど、あれで十分だと思いますね。本当にここは泣けますよね。

剣士ゾロ

その後、現在までにDVDやらBlu-rayやら続々と出ました。それで、いま探してるのがこちらの泰盛のビデオなんです。うまく見つかるといいなぁと思ってますが、ビデオなんて時代遅れだなんて思わないで欲しいですね(笑)


(ここで、アプリが3000文字までに仕様変更されてしまった。。編集し直して、続きは次の記事にて)


その2(パート2)へ続く。
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