電影フリークス ~映画のブログ~

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ジョン・ウー初期作まとめ(その2)パート2

2025-02-16 15:03:00 | ジョン・ウー

(2)国内における映画の製作時期の表記について


今回2番目の記事は、日本で言われていた「少林門」製作時期の疑問について。まず問題提起しますと、この映画は日本国内において「74年」に製作と言われ続けていました。これは昔から言われており、誰もが疑うこともなくインプットされた内容なのですよね。

なぜでしょう?と思った方。そう思った方は、この記事をお読みいただくと、何かが分かるかも知れません。

これは当時の書籍から。

そう言えば、ジャッキーは「新少林寺」にも出演していましたね。「少林門」は、ジャッキーの旧作「少林寺木人拳」以前の少林寺映画だった事にもなるのですが、「新少林寺」のパンフに掲載されていた少林寺映画の変遷においても、やはり1974年となっていました。


割と最近の「ドラゴン・ブレイド」パンフレットより。こちらも1974年表記でした。


では「なぜ74年だったか?」をちょっと考えてみたいと思います。実は74年説というのは、私からすると早過ぎて信じられない事だったのですが、簡単に言わせていただくと、どうやら日本国内だけの話であったと言えそうなのです。


はじめに書いておきますと、74年製作は確かに怪しい情報なのですが、これを解明するには様々な資料、書籍などの国内外の出版物に目を通す必要があります。


また、正解というのは実は無いというか非常に難しい話になります。ですので、ここでは製作年度が74年になっていた経緯などの解説文として、興味がありましたら是非続きをお読みいただければと思います。



さて、私が当時、最初に読みました書籍がこちらでした。



1982年発行になりますが、著者は有名な映画評論家の日野康一氏です。

日野さんはかつて、アジア映画方面ではブルース・リー書籍などで実績のあったお方で、ジャッキーについても同様に多数出版、様々な記事を書かれてましたね。


日野さんと言えば、近代映画社から出てましたコチラ。

「栄光のドラゴン ブルース・リーのすべて」



とにかく読みやすくて中身が濃かったので、醒龍お気に入りの一冊ですね!これは流石でした(拍手)。


そして、上に書いたジャッキー本があります。その後も似たような本が多数出ていた中の1冊で、これは「ジャッキー・チェン大全科」(秋田書店刊)なのですが、"ジャッキー・チェン全出演作を完全公開"と謳っていましたので、ワクワクしながら何度も読んでいましたね。


これの巻末には、こんなページがありました。



スーパースターへの道という節があり、このページから引用しますと、「すでに完成した少林門もオクラになるしまつ(2年後の76年に公開)。」という記述がありました。


更にこんな凄い事も書いてあったんです!


羅維監督が主役の人物を探していた頃、なんと羅維夫人が「少林門で馬車を引いていた子はどうかしら?」と羅維に助言したというのです。私はこの事が脳裏に焼き付いてしまいましたね。(いまでもこれはしっかり記憶されたままです)


"お蔵入り"に関しては、香港の公的機関からリリースされている外国映画を含む禁映(=上映禁止)リストがありますけど、ここにはJW関連で2つの作品(73年)挙がってしまっていたのですよね。


73年のNo.317には『過客』が、そしてNo.326には例の『満洲人』がリストアップされています。折角、時間と労力を使って映画を作っても上映が許されないなんて哀れですよね。


結果的には、御存知の通り『過客』は追加撮影、再編集されて2年後の75年に香港で劇場公開されましたね。これがお蔵入り(ややこしいですが、あくまで香港での話。。)です。『少林門』はリストにはありませんが、『満洲人』は完全にお蔵入りした映画です。


ちなみにこのリストで面白いのは、やはり73年の『必殺ドラゴン鉄の爪』が一旦禁映になったあと、2回目の審査で通っているんです(75年に香港公開)。検閲で通るか通らないかのギリギリの線にいた訳なのでした。


さて、大全科の話に戻しますと、巻末には出演作①のフィルモがあります。



日野先生曰く、「香港は資料が整理されていない」のだそうですが、そんな事もどこかで記事になっていました。ここでは「少林門」が1974年になっていますよね。

ただ、76年以降の羅維時代の作品と、それ以前の作品リストでは、後者が年度だけの表記だったりして明らかに質が異なっています。ですので、羅維影業の主演作以外の作品については、まだあまり知られていなかった事が分かります。では、その出演作①のリストにある「少林門」が74年の表記になっていたのはなぜか?


その当時(81年頃)の、日本における経緯ですが、まずは酔拳の大ヒットによって日本にもジャッキー主演映画が輸入される事となり、劇場公開が79年にスタート。80年以降も次々と主演映画が公開されました。いわゆる拳シリーズですね!書籍も書店に並びはじめ、前述の通り小学生でも読めるレベルの大百科関連本もいっぱい出ました。

羅維影業作品リストだけはしっかりした資料を入手していたかと思いますが、実はフィルモに関して更にベースとなった書籍がありました。大全科の出版前、81年発行の芳賀書店のヤング功夫マスターと題された日野先生責任編集のシネアルバム(バトルクリークブローの時のジャッキーが表紙の黄色い本と言えばお分かりでしょうか?)の中には、楊明山という人が日本語に訳した台北でのジャッキーのインタビュー記事が載っています。


81年に出版されたこのシネアルバムが日本で最初期の書籍ではないかと思われます。

この本の101ページに、主演の譚道良とジャッキーが槍を持った映画の写真が1枚掲載されてましたけど、注目すべきは「少林門を撮り終えてから、オーストラリアの両親のもとへ行き、1年間をボケーっとすごした。」という記述なのです。これがそもそもの元凶ではないかと推察してます。つまり少林門のあと、1年オーストラリアへ行っていたという内容のインタビュー記事が割と初期の頃にあった訳なんですね。

これがどういう事かと言いますと、まず、ジャッキーはこの時期両親の暮らすオーストラリアへは2回行っていたという話が現在までの通説だと思います。それがあのインタビューを読んだだけだと回数は意識せず、「1年間ずっと渡豪してたのか・・」と思ったりしたのではないでしょうか。要するにまさか2回も行ったとは思ってはいなかったと思うのですよね。


ちなみにもう1つの「金瓶梅」の年度、74年は、邵氏作品であるのにリーハンシャン監督だった為か、奇跡的に日本で劇場公開を果たしてます。年度は権利元の情報から容易に分かっていたはずです。

しかし、少林門は日本未公開。であれば情報は無いに等しく、製作年度を知る事は難しい。分からないのであれば、年度不詳と書けばよいところ、このインタビューの情報を元に74年と書いてしまった可能性がありますね。おそらく日本の書籍だけの話だったのかも知れませんが、どうなのでしょう?

私の解釈は次のようなります。これはジャッキーが香港に帰って来て主演した『新精武門』が76年の製作です。つまり、主演映画が作られる1年前、75年の1年間は単純にジャッキーが香港には不在だったという認識から少林門の製作はもう74年しかあり得ないと踏んだのでしょう。このインタビュー記事だけを読めば、私もそう思ってしまったかも知れません。

ちなみに、香港では映画の公開が数年間遅れる事はよくある話で、その理由もケースバイケースで様々であります。

結局、初期(学校卒業以降)の出演タイトルをいくつかインタビューの中で聞いてはいたが、製作時期(いわゆる年度)はインタビューからは分からなかったのが正直なところだと思います。

しかし、"オクラ"入りをどこから聞いた話なのか分かりませんが、なぜか2年間オクラ入りしたと別の書籍の方に書いてしまったんですね。これはインパクト大で記憶に残ってしまう内容と思います。

同シネアルバム、こちらのページがおそらく日本で最初のフィルモグラフィーで、大全科の内容と一致しています。

繰り返しになりますが、これは日本固有の解釈で他国ではそうではない事になっていました。これまで私は様々な文献を見たり、記事を読んで来ましたが、中文、英文海外のどれを取っても74年表記を見たことがなかったように思います。お蔵入りについてもそれに言及した記事はなかったと言えますね。

参考までに、いくつかピックアップしますと、Life and Films of JCのような英文書籍では概ね1976の表記でした。

続いて中文の梁健著『成龍』や『成龍傅』では1975の表記でした。



最後に70〜80年代の映画雑誌からになりますが、英文の"Countdown in Kung Fu"では1976年になっていましたね。この記事が書かれた時期はおそらく81〜82年頃と思われますが、内容的には割と正確と思います。


あと、日野先生のシネアルバムには当時情報が少ない事から香港の雑誌のジャッキー記事をそのまま翻訳したものが掲載されていました。

この拳精でジャッキーがトンファーを持ってる表紙の記事がまさにそうでしたね。七小福について書かれた内容で、ジャッキーは学校ではどんな事をしていたか、メンバー構成や厳しかった于先生について、日々の活動の様子などが記事になっていて、それが日本の書籍に翻訳されて掲載されていたのです。


功夫雑誌は私もよく買ったりしていました。映画についてはあまり詳しくない雑誌でしたけど、とにかく情報が少ない時代でしたのでそういった香港現地の当時の様子が雑誌を通じて得られた訳なんですね。

お蔵入りについても同様に雑誌などから中文記事があったのであればよいと思うのですが、その様な記事を結局見つけることが出来ませんでしたね。

因みに、73年頃の中文記事でJCプロフィール紹介の記事中に『北地胭脂』出演の事が書かれている雑誌もありました。これってショウブラ解禁後にやっと浸透してきた内容と思いますので、当時国内どの文献においても、残念ながらこの情報が採用される事はありませんでした。



このように当時は香港で購入できる嘉禾電影や銀色世界、銀河畫報あたりの大手の映画雑誌、N商事で扱っていた英語、中文雑誌などがあったと思います。大百科の類いでも、これらの雑誌の写真をかなり流用してましたね。当時はジャッキーの出演情報に関しては情報誌がそれほど多くなく貴重だったのです。


ここでちょっと別の観点から。ところで、公的機関である香港電影資料館の認識はどうだったでしょうか。秘竜拳を香港ではどう認識しているか。これは大変興味をひく内容ですね。


出版書物のページには主要なメンバーが並んだ写真が掲載されてましたが、公開日76年が表記されていました。但し注釈は特に無し。ほかの映画で時期のズレがあれば注釈が記載されています。(例えば邵氏の『惡霸』など。73年に撮影が終わって送検後、75年に公開と注釈あり)つまり74年に製作されていた事実はなかったという事だと思います。

また、説明文にはストーリー概略と嘉禾電影46期の抜粋記事などが書かれているのが確認出来ました。映画をよりリアルにするために、杜青役のサモハンと一緒に有名な武術家を訪ねたそうです。先方が誰なのかまでは分かりませんが(苦笑)。



年度を証明する物が他にないかと考えていましたら、前のパート1記事で触れました映像にヒントがありました。少林門の英語版プリントに注目しますと、珍しくローマ数字でMCMLXXVI(1976)と刻印されているように見えます。


映画の年度というのは通常、製作年度を表します。(公開年と書いてあれば別ですが)また、フィルモグラフィーというのは本来、本人ではなくて職業にしているような映画に詳しい人(評論家の方など)が書くものと私は思っているのですが、評論家が100人いれば100通りのフィルモグラフィーがあると思いますね。これは極論ですけどね。

私は74年というのは流石におかしいなと以前から思っていましたので、今回こういった記事を書きました。もしかしたら76年というのが実は正解で、かつ無難なデータかも知れませんね。

ちなみに私、醒龍は日本のビデオに記載されたコピーライト、1975年を採用したいですね。



その2、パート3へ、つづく

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