前回ブログ記事で、『尖閣諸島・竹島が日本領土である理由がわかる本』の中の尖閣諸島の章を紹介しましたので、今日は竹島の章を見ることにしましょう。
① 竹島の存在は江戸時代から幕府に知られており、人が居住する事こそなかったが、漁師が島に上陸する事は度々有り、日本の島という認識はあった。
② 江戸時代は、竹島は竹島という名称ではなく、「松嶋」と呼ばれていた。その「松嶋」から87Kmほど西の鬱陵島がこの時代には「竹島」と呼ばれていたが、そこに混同が発生した事で竹島問題が複雑になったという側面がある。
③ 1667年に出雲藩士の斉藤豊仙が『隠州視聴合記』を著わし、日本の北西限領土として松嶋(現竹島)と竹島(現鬱陵島)について記述している。松嶋(現竹島)を領土として記した最古の文献という事になるが、日本政府が竹島を領土とした根拠の一つに、この『隠州視聴合記』がある。
④ 鬱陵島(江戸時代の竹島)については、歴代の朝鮮王朝もその存在を認識していた。古代にはウ山国として国家を形成していた鬱陵島もいつしか新羅、女真族、朝鮮など様々な勢力に支配された後、仮倭(朝鮮人が倭人を装って海賊行為をする事)の拠点となり、鬱陵島の島民が朝鮮半島の村を襲って略奪を繰り返したことから、1417年以降朝鮮国は鬱陵島へ渡る事を禁じ、人を住まわせない政策を取った。
⑤ 江戸時代に入り、その無人の鬱陵島に米子の回船業者、大谷甚吉が渡海の願いを出し、幕府及び鳥取藩が許可を出した。幕府が日本の領土として鳥取藩の漁師に漁労を許可した後、朝鮮からの密漁者(朝鮮政府は渡航を禁じていたので)と出会い幕府と朝鮮とで鬱陵島についての領有権争いが発生する。幕府と朝鮮とで交渉が持たれ、経過は省くがこの時に幕府は迂闊にも竹島(現鬱陵島)を朝鮮のものと認め、日本人の渡航を禁止した。当時一流の学者であった青木昆陽などは、この幕府の裁定に将来に禍根を残すものと批判的であった。
⑥ 幕府は公式に竹島(現鬱陵島)の領有をあきらめ渡海も禁じたが、松嶋(現竹島)についてはあくまで幕府の支配下にあるものと判断していた。
⑦ 1836年、今津屋八右衛門という回船業者が竹島(現鬱陵島)で木材を伐採して死罪となっているが、裁判記録中に「最寄松島江渡海之名目を以、竹島渡れリ」とある。日本の島である松嶋(現竹島)に渡るという名目で渡航禁止の竹島(現鬱陵島)渡ったということであるが、この一事は明らかに竹島(当時の松嶋)が日本の領土として扱われ司法権、行政権がそこで行使されていた事の証拠である。
明治政府は上の①~⑦を前提として、無人島であり朝鮮の司法も行政もまったく関与していない松嶋(現竹島)を1905年に島根県に編入したのである。
講談社文庫、明石散人著『新説 謎解き日本史』では、明治政府が1905年にそれまでの松嶋を、竹島と命名し島根県に編入したのは、「竹島(現鬱陵島)をなぜ日本領にしないのか」という不満を表面上かわすための為の姑息なテクニックであったと推測しているのだそうです。
歴史的には現在の竹島という名称はこの時(1905年)からのもので、それまでの文献で竹島とある場合は、それらはすべて「鬱陵島」を指しているのだそうです。
この本では、現在の竹島について、韓国が自国の領土だと主張する根拠を、下の①~③の様にあげています。
① 鬱陵島、ウ山国は朝鮮古来の島である。このウ山国が現在の竹島で、竹島が韓国の領土であることは明白である。
② 日本の林子平が『三国通覧図説』において竹島を朝鮮のものだと明記している。
③ 1905年に日本が竹島を島根県に編入したが、その通告は日本が韓国から外交、軍事権を奪った後であり、侵略である。
韓国では上の①~③について、幼い時から繰り返し国民に教え込む事で、竹島領有の正当性をアピールしている。なので現在の韓国民のほとんどが、一点の曇りもなく真実であると信じ、それ故韓国が正しいと思い込んでいる。
本書では、上の①~③の韓国側の根拠について、「韓国が主張する根拠は正しいのか」という項目を設けて下の様に丁寧にそれを否定しています。
① については幕府の裁定が正しかったかどうかは別にして、江戸幕府は確かに鬱陵島(当時の竹島)について韓国の領土として認めている。問題はウ山国が現在の竹島であるかどうかである。飲料水がなく農地もない断崖絶壁の小さな小島に、ウ山国が存在すると考えるのは不自然である。素直に考えると鬱陵島がウ山国であると考えるのが普通である。下の写真の様に朝鮮の地図、1530年の八道総園では、ウ山島と鬱陵島が描かれているが、ウ山島は鬱陵島より韓国寄りに描かれている。明らかに現在の竹島と認識が異なる。
<韓国の地図、八道総園>
②については、林子平の『三国通覧図説』において竹シマとあるのは現在の竹島ではなく鬱陵島のことである。
③については、日本が竹島を島根県に編入したのは、確かに1905年であるが、これはその前年に中井養三郎より「リャンコ島領土編入並に貸下願」が提出されたからで、韓国の政治情勢とは無関係である。リャンコ島とは現在の竹島の事で、フランス人が発見した島の名前がリアンクール島であったこと、二つの島であったことからの名称である。日本が韓国から領土を奪うつもりであれば、竹島ではなく鬱陵島や済州島を奪うであろうし、当時の日本にはそれが可能であった。
竹島は現在韓国が不法占拠しているが、なぜこのような事態になったかを見ると、1948年李承晩が大韓民国建国を宣言し、大統領に就任。韓国政府は竹島を韓国の領土とするように、日本の施政権を持っているアメリカに申し入れたが、ラスク国務長官補から、韓国大使に宛てたいわゆる「ラスク書簡」により、「竹島(韓国名独島)が朝鮮の領土であったことも主張されたこともない」と一蹴された。
竹島を日本領とした内容のサンフランシスコ平和条約が発効する1952年4月28日直前の4月25日に李承晩は李承晩ラインを引いて竹島を自国領と主張。これにより日本漁船は拿捕、銃撃の対象となり、この後、抑留者数、3929人、死傷者数44人を数えるに到った。
竹島問題は国際司法裁判所を通じて解決される事が望まれるというアメリカの意向も、日本からの国際司法裁判所に付託するという提案も、韓国は無視し続けている。1965年の日韓漁業協定による李承晩ライン廃止後も、韓国は竹島に桟橋、灯台、ヘリ-ポート、砲台などを次々と設置し、実効支配を強めて今日に到っている。
ずいぶん長い記事になってしまいましたが、以上が竹島についての本書の主張を要約したものです。
近隣の国々とはいい関係を保っていかなければ、という気持ちはわからないではないですが、それはそれとして、日本は自国の大切な領土を取り戻す為にも、この様な不法占拠状態を黙って見過ごすのではなく、学校で子供達に竹島に関しての正しい歴史を教え、又国際司法裁判所に訴え続け、国際社会に対しても、機会ある毎に竹島の現在の状態を説明していく必要があるのでは、という気持ちを強く持ちます。
②については、林子平の『三国通覧図説』において竹シマとあるのは現在の竹島ではなく鬱陵島のことである。
③については、日本が竹島を島根県に編入したのは、確かに1905年であるが、これはその前年に中井養三郎より「リャンコ島領土編入並に貸下願」が提出されたからで、韓国の政治情勢とは無関係である。リャンコ島とは現在の竹島の事で、フランス人が発見した島の名前がリアンクール島であったこと、二つの島であったことからの名称である。日本が韓国から領土を奪うつもりであれば、竹島ではなく鬱陵島や済州島を奪うであろうし、当時の日本にはそれが可能であった。
竹島は現在韓国が不法占拠しているが、なぜこのような事態になったかを見ると、1948年李承晩が大韓民国建国を宣言し、大統領に就任。韓国政府は竹島を韓国の領土とするように、日本の施政権を持っているアメリカに申し入れたが、ラスク国務長官補から、韓国大使に宛てたいわゆる「ラスク書簡」により、「竹島(韓国名独島)が朝鮮の領土であったことも主張されたこともない」と一蹴された。
竹島を日本領とした内容のサンフランシスコ平和条約が発効する1952年4月28日直前の4月25日に李承晩は李承晩ラインを引いて竹島を自国領と主張。これにより日本漁船は拿捕、銃撃の対象となり、この後、抑留者数、3929人、死傷者数44人を数えるに到った。
竹島問題は国際司法裁判所を通じて解決される事が望まれるというアメリカの意向も、日本からの国際司法裁判所に付託するという提案も、韓国は無視し続けている。1965年の日韓漁業協定による李承晩ライン廃止後も、韓国は竹島に桟橋、灯台、ヘリ-ポート、砲台などを次々と設置し、実効支配を強めて今日に到っている。
ずいぶん長い記事になってしまいましたが、以上が竹島についての本書の主張を要約したものです。
近隣の国々とはいい関係を保っていかなければ、という気持ちはわからないではないですが、それはそれとして、日本は自国の大切な領土を取り戻す為にも、この様な不法占拠状態を黙って見過ごすのではなく、学校で子供達に竹島に関しての正しい歴史を教え、又国際司法裁判所に訴え続け、国際社会に対しても、機会ある毎に竹島の現在の状態を説明していく必要があるのでは、という気持ちを強く持ちます。
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