杉田久女が高浜虚子に初めて会ったのは、久女28歳の大正6(1917)年5月、東京の実家に里帰りしていた時、飯島みさ子邸で行われた句会ででした。この時、虚子44歳、俳壇の巨人ともいうべき存在でした。
<高浜虚子1874-1959>
そして『ホトトギス』誌上でみる二人の先輩女流俳人の長谷川かな女、阿部みどり女にもそこで初めて会っています。その句会でどのような会話が交わされたのでしょうね。
おそらく久女は虚子や長谷川かな女、阿部ミドリ女に実際に会い話すことによって、俳句を一層身近に感じ、又「台所雑詠」など虚子が女性に期待していることを肌で知るという、嬉しい収穫をもって小倉に帰って来たのではないかと思います。
俳誌『ホトトギス』は俳句だけではなく小説や随筆も載せていた為、大正6年から7年にかけての久女は俳句をつくるだけではなく、散文執筆にも意欲的に取り組みました。そして『ホトトギス』誌上に「提上の家より」「小倉の祇園祭」「秋雨日記」「南国人の思い出」「梟啼く」などが載りました。
大正7(1918)年4月は、久女にとって嬉しい月でした。それは長女昌子の小学校入学と、『ホトトギス』雑詠欄に虚子選で初めて一句採られたのです(下の句)。虚子選に入ったということは、地方俳檀では俳人と認められたことだそうで、久女の記念すべき一句です。
「艫の霜に 枯れ枝舞ひ下りし 烏かな」
さらに、この年の8月には、娘を詠んだ前回あげた句
「仮名かき うみし子に そらまめをむかせけり」
など3句が雑詠欄に入選しました。平仮名の多い表記方法が子供を詠んだこの句にふさわしいですね。
久女は好きなことには熱中するタイプで、この頃からわき目も振らず、一日の大部分を俳句のことを考えながら、過ごしたのではないかと思われます。
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