杉田夫婦は大正7(1918)年の夏にそれまで住んでいた板櫃村日明2535の家から、小倉市堺町111(現小倉北区紺屋町13-13)に転居しています。転居の理由として学齢期に達した長女昌子を堺町小学校(今の小倉小学校)に通わせる為、日明の家が宇内の勤務先の小倉中学校に近く、昌子が生徒達にからかわれるのが煩わしかった為などと言われているようです。
大正7(1918)年12月には、久女はそれまで心の支えであった実父赤堀廉蔵を喪くすという、思いがけない悲運が待っていました。
「父逝くや 明星霜の 松になほ」
「湯婆みな はづし奉り 北枕」
「み仏に 母に別るゝ 時雨かな」
最初の句は実父を亡くすという悲しみを内に秘め、霜のかかった松の梢には明星が光っていると詠っています。「なほ」に久女の悲しみがこめられている様で、非常に格調高い永訣の句だと思います。
上の父との永訣の句3句は、翌大正8(1919)年2月の『ホトトギス』雑詠欄に入選しました。『ホトトギス』の雑詠欄には、毎月のように載るようになり、句作に関しては大正8年は実りの多い年でした。
父を亡くした久女は、頼るものは俳句しかないという気持ちになったのではと思われます。大正8年のお正月は喪に服している間に、大阪毎日新聞懸賞小説に応募する為に『河畔に棲みて』を書き続けました。
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