昭和12(1937)年に始まった日中戦争は、次々と戦局を拡大しつつありました。それでもまだ昭和15年頃までは句集を出せる社会的な余裕はあったようです。
昭和14(1939)年には長谷川かな女の句集『雨月』が、虚子の序文とともに上梓されました。私はこの序文を見ていませんが、研究書によると慈愛に満ちた序文らしく、久女があれほど懇願しても与えなかった序文を、既に『ホトトギス』を離れている長谷川かな女には快く与えているんですね~。何となくしっくりきませんが...。
昭和15(1940)年には中村汀女の『春雪』、星野立子の『鎌倉』が姉妹句集として出版されています。高浜虚子はその序文で、汀女と立子の句風は異なっているが、「清新なる香気、明朗なる色彩あることは共通の風貌である」、また女性の俳句は「昭和時代に於いて成熟し男子を凌ぐものが出て来た。その代表と見るべきものはこの姉妹句集である」と最上級の評価を与えています。
虚子の折り紙付きのこの姉妹句集出版により、中村汀女と虚子の愛娘星野立子の俳檀での地位はゆるぎないものになったのである、と多くの研究書が述べています。
昭和15年10月には福岡の竹下しづの女の句集『颯』が下の虚子の序句付きで出版されました。
「 女手の おゝしき名なり 矢筈草 」 虚子
この句集は時節柄、紙質も悪く小型のものだそうですが、田辺聖子さんはその著書で<虚子の息がかかっている俳壇では虚子ににらまれたら、久女はそれすら持てないわけである。どんなに切なかったであろうかと思うと、胸が痛む>と書いておられます。
この様にかって自分と同じ様に『ホトトギス』で活躍した女流俳人の句集が次々に出版されてゆく中で、久女は句を発表する場が閉ざされ、句集出版の望みもありませんでした。まるで抜け殻のようになって、一人で野の草花を摘んで絵を描いたりして毎日を過ごしていたと、久女の長女昌子さんは書いておられます。
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