久女年譜によると、大東亜戦争がますます激しさを増していく昭和19(1944)年7月に久女は実母、赤堀さよを亡くしました。90歳だったそうですから天寿をまっとうしたといえるでしょう。
その葬儀の為に上阪。葬儀後に上京し鎌倉に住む、夫が出征中の長女昌子さん宅を訪ねています。
久女は諦め切った境地にあったようで、いつになく焦りも消えて落ち着いていたのは昌子さんにとって意外に感じられる位でした。穏やかで子供と優しく遊んでくれたそうです。
しかし昌子さんは、久女が生きる喜びの俳句を奪われてしまったことを知っているので、俳句への未練を断ち切れず、まだ断末魔の苦しみがあとを引いているとも感じたようです。また久女は整理した句稿をこの時も肌身離さず持って来ていたとも書いておられます。
「何が一番つらい?」と聞いた昌子さんに、久女はお父さん(夫、宇内)が毎日、「貴方のような人は虚子さんでさえ愛想をつかすでしょう」と大声で言いつのるのが、一番つらいと答えたそうです。除名直後からずっと夫にこの様な言葉をあびせられ、ただでさえ生き難い終戦間際のこの時期の久女の日常を思うと、これを読む私まで胸が苦しくなってきます。
久女は、「俳句より人間です」「私は昌子と光子の母として死んでゆこうと思う」「子供を大切に育てなさい」などとポツポツと話し、「句集も、こんな世になっては出せる望みもないから、仕方ないと思う。だけど私がもし死んでからでも、機会があったら、きっとだしてほしい。いいね、忘れないでね。死んだ後でもいいから」と長女昌子さんに言い残し、この言葉が遺言になりました。
その夜は何年振りかで母娘が枕を並べて眠りました。このひと時は久女には得難い平安であったであった様に思われます。
そして大島紬のモンペの上下を着て小倉へ帰って行ったのが強く記憶に残っていると昌子さんは記しておられます。この時が母、久女と長女昌子さんとの永遠の別れになりました。
この頃の夫、宇内は空襲警報が出ればその都度夜間でも学校に駆けつけなければならず、久女は一人風呂敷包みの句稿を抱え防空壕へ避難する日々だったようです。句稿はこれまでの久女の生命をかけた確かな証、軌跡と言えるものでした。
終戦直前で明日の命の保証も無い中、久女にとっては、もはや身の回りの品々への執着などはなく、大切なものはただ一つ、自らの腕の中の句稿のみでした。