久女の長女昌子さんは、生前の母から託された句集出版を何としても果たしたく、苦労の末かろうじて、高浜虚子から序文を貰い、昭和27年10月、角川書店からの『杉田久女句集』出版にこぎつけました。
私は角川書店発行の久女の句集を持っていませんので、虚子が書いたその序文を北九州市立文学館発行の『杉田久女句集』から、全文引用してみます。
「 序 」
杉田久女さんは大正昭和にかけて女流俳人として輝かしい存在であった。ホトトギス雑詠の投句家のうちでも群を抜いていた。生前一時その句集を刊行したいと言って私に序文を書けという要請があった。喜んでその需めに応ずべきであったが、その時分の久女さんの行動にやゝ不可解なものがあり、私はたやすくそれには応じなかった。此の事は久女さんの心を焦立たせてその精神分裂の度を早めたかと思われる節も無いではなかったが、併しながら、私はその需めに応ずることをしなかった。
久女さんの没後、その長女の石昌子さんから、母の遺稿を出版したいのだが、一応目を通して呉れないか、という依頼を受けた。私は喜んでお引き受けするという返事を出した。送って来たその遺稿というものを見ると、全く句集の体を為さない、ただ乱暴に書き散らしたものであった。それを整正し且つ清書する事を昌子さんに話した。昌子さんは丹念にそれを清書して再びその草稿を送って来た。私は句になっていると思われるものに〇を付して、それを返した。その面白いと思われる句は、曾てホトトギスの雑詠欄その他で一通り私の目に触れたものである様に思えた。他に遺珠と思われるものはそう沢山は無かった。試しにその句、数句を挙げてみようならば、
「 無憂華の 樹かげはいづこ 仏生会 」
「 灌浴の 浄法身を 拝しける 」
「 花衣 ぬぐやまつはる 紐いろいろ 」
「 むれ落ちて 楊貴妃桜 尚あせず 」
「 咲き移る 外山の花を めで住めリ 」
「 桜咲く 宇佐の呉橋 うちわたり 」
「 風に落つ 楊貴妃桜 房のまま 」
「 むれ落ちて 楊貴妃桜 房のまま 」
「 菊干すや 東籬の菊も つみそえて 」
「 摘み競ひ 企救の嫁菜は 籠にみてり 」
これらの句は清艶香華であって、久女独特のものである。尚この種の句は他に多い。生前の序文を書けといふその委嘱に応ずる事が出来なかった私は、昌子さんの求める儘に丹念にその句を克験してこれを返した。
昭和二十六年八月十六日
鎌倉草庵 高浜虚子
以上が高浜虚子が遺句集『杉田久女句集』に書いた序文ですが、これを読むと、どこか不自然で弟子久女の遺句集出版を寿ぎ、多くの人々からこの句集が受け入れられることを願って書いたとは思えない文章だと感じます。
それともう一つ、これは北九州市立文学館の学芸員の方から直接聞いた話ですが、高浜虚子は、(80)の記事にある自身が書いた創作「国子の手紙」を、『杉田久女句集』巻末に採録しようとしていたのだそうです。
「国子の手紙」は虚子が久女の狂気を世間に知らしめるために書いたものだといわれていますが、その創作を『杉田久女句集』巻末に載せるという行為には、死者に鞭打つことが出来る執拗さや、人間として師としての思いやり慈しみに欠ける、彼の非情な人格がかいま見える様に思います。
しかし、結果的に虚子の創作「国子の手紙」は、中央公論社の方に載ることになった為、『杉田久女句集』に載せることはなかった、との学芸員の方のお話しでした。
次の記事でこの序文について、私が感じることを書いてみようと思います。
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