日々の暮らしに輝きを!

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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

情けない試合

2015年06月12日 | お出かけ

プロ野球セパ交流戦、ソフトバンクvs広島戦を観戦

ホークスは1回から9回まで0を並べる情けない試合だった

結果、6:0 で完敗

先発投手、摂津は6回まで投げて2ラン、ソロを含み5失点

7回からの2番手投手、嘉弥真はソロで1失点するも、よい投球内容だった

摂津投手は調子が悪いのではなく

体力の衰えでは?

今年の成績は今日で4勝5敗だけど、最近どの試合もパッとしない

投手の選手生命って短いなぁ~

私の思い過しで復活してくれると嬉しいのだけれど...



今日のカープの応援はスゴカッタ

カープグッズ売り場もファンでいっぱい


レフトスタンドも赤一色

3塁側内野席の私達もカープファンに取り囲まれることに


ヒットが出るたびにすごい声

今日はひょっとして応援負けしたのかも...



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俳人杉田久女(考) ~俳句との出会い~ (4)

2015年06月09日 | 俳人杉田久女(考)
杉田久女年譜によると杉田宇内久女夫婦は大正3年(1914)に、それまで住んでいた京町四丁目の家から企救郡板櫃村字日明2535(現小倉北区日明一丁目)に転居しています。大正7年(1918)に堺町に転居するまでの約4年間をここで過ごしました。

この場所は現在は小倉の中心部に近い所ですが、当時は板櫃村だったんですね。久女がこの辺りの景色を描いた水彩画が『杉田久女遺墨』(この遺墨集に付いては後に触れたいと思います)に載っていますが、藁葺の屋根や河岸には小舟が見え、牧歌的なのどかな風景です。大正5年(1916)の9月久女26歳の時、ここで次女光子が生まれています。
<久女の水彩画>

杉田久女はその生涯に俳句だけではなく、小説、俳句評論、随筆などを書いていますが、その作品で一番長いのは、原稿用紙120~130枚の中編小説『河畔に棲みて』で大正8(1919)年の作です。これは大阪毎日新聞の懸賞小説に応募したもので、選外佳作になりましたが、その後『電気と文芸』という文芸雑誌に採用発表されました。

この『河畔に棲みて』は大正5年の秋から翌年のお正月までの約3か月間の出来事を、リアリズム調の筆使いで書いた生活記録というか私小説です。文中の房子が久女で良三が宇内であることは言うまでもありません。


『河畔に棲みて』によると、この年(大正5年)の秋、久女の次兄赤堀忠雄(俳号月蟾)が失業して、軍都工業都市として好景気の北九州で職探しをする為に、久女の家に寄宿することになりました。

小説によると、妹の家に転がり込んだ月蟾の荷物は、布団着替えらしいもの以外は俳人の短冊と雑誌の束だけでした。「そんなものを持ち歩いて」と久女は呆れましたが、俳書と俳誌『ホトトギス』を手離しかねて持って来ていたのです。

月蟾はすでに俳句を身に付けていました。『ホトトギス』を主宰する高浜虚子という人は、全国の俳句をする人々から生き神様のように敬われているとか、彼の書く写生文の素晴らしさなどを久女に説きました。月蟾は自身の俳句キャリアを誇示することで、失業中の自分の自尊心を保ったのかもしれませんね。

たった17字だけで表現する世界に類のない文学、俳句に久女が出会ったのはこの時でした。

久女は月蟾に勧められて夜なべ仕事の縫い物をしながら、作句をするようになりました。そして出来た句を次々に手帳に書き入れていきました。

『河畔に棲みて』は、この時代の杉田夫婦のたたずまいがよくわかる小説で、夫の宇内が釣りにばかり熱中して一枚も絵を描かないことへの不満や、家の周りの鄙びた美しい景色を見ても、夫はなぜ香気ある芸術作品を創り出す意欲が湧かないのかという、久女の歯がゆさなども書き込まれ、興味深い味わいになっています。

が、しかしこの小説のハイライトは失業の身で職探しに転がり込んできた月蟾に、俳句の手ほどきをされるという、久女俳句の出発点が描かれていることです。

月蟾は年を越してから職が見つかったので久女の家を出たようですが、久女は月蟾の置き土産である俳句にますます打ち込むようになりました。                                   

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新緑の糸島へ

2015年06月06日 | お出かけ

いいお天気に誘われて午後から糸島へドライブ

車の窓を半開にして走る

気持ちのいい風が車内に入り爽快

街を過ぎ畑も山も緑一色


だんだん海岸線に近くなる

どこからともなく磯の香りがしてくる

いつの間にか海辺に出た

しばらく海岸線を走る気持ちのいいドライブ

昨年12月に見た「桜井二見ヶ浦」が見えて来た

干潮なので昨年の冬とはかなり違う景色

白い鳥居の下には大きな岩がいっぱい

向うの夫婦岩も根っこの部分まで見えている

浜辺から道に上がって

道沿いの所々にあるカフェレストランに入る

お洒落でなかなかのお味の料理

すこし早目の夕食の後、3、40分で家に帰り着く

夫、曰く

「近場の糸島ドライブは、ちょとした気分転換にもってこい」と
 

(最初の写真はネットよりお借りしました)

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俳人杉田久女(考) ~結婚まもない頃~ (3)  

2015年06月02日 | 俳人杉田久女(考)

杉田久女年譜によると、明治42(1909)年の結婚後、杉田宇内と久女が小倉で最初に住んだのは、小倉市鳥町二丁目(今の小倉北区魚町二丁目)で、ここでしばらく間借りの後、京町四丁目(今の小倉北区京町二丁目)の柳という薬種店の別棟二階に移り住みました。この二つの場所は現在は小倉の中心部で、ここに4、5年住んだようです。
<結婚まもないころの杉田久女>

この時期はまだ久女が俳句に出会っていない頃で、久女関連の書物にも、この場所での杉田夫婦についての記述はほとんど見当たりませんが、京町時代から二人はよく連れ立って歩いていたようです。寄り添って歩くという習慣が一般的ではないこの時代に、それは人目を引いたかもしれませんね。

久女が俳句をするようになると、久女伝説などという真偽不明の噂や話題の多かったこの夫婦にとって、この時代はとても幸せな時期だったと言えるのかもしれません。

京町四丁目時代の明治44(1911)年の夏、長女昌子出生。この出産は旧家である杉田家の家風に従い、夫の実家である小原村松名での出産だったようです。

京町の家の庭に咲く夾竹桃を描いた大正元年頃の
久女の絵を、平成23年の「花衣 俳人杉田久女」展で見ました。サラッと描いた絵のようでしたが、乳児を育てながらの忙しいこの時期に、絵を描く余裕がよくあったな~などと感心しながら見ました。

(上の写真はネットよりお借りしました)

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