馬揃えの翌年の春、信長は秀吉に三万の兵を与えて中国毛利攻撃の再興を命じた。
むろん伊右衛門も従軍した。
「千代、そなたが買ってくれた馬の手前、今度は生涯の開運の働きをするぞ」
面白いものだ、新しい馬を与えられるとそう云う具合に、気分がすっかり改まるらしい。
千代も、いつもの出陣よりも生き生きして別人のようにみえる伊右衛門を送り出すのが楽しかった。
秀吉の今回の攻撃目標は、備中高松城(現在の岡山県)である。
秀吉は、この城を大土木工事と梅雨の雨を利用した水攻めで落とそうと考えた。
伊右衛門はこの戦いの中で、毛利の宍戸修理と云う武者を討ち取り、宍戸修理の持ち槍をぶんどった。
この槍の銘は、来国俊という名槍だった。
この後、伊右衛門はどの戦場にもこの槍を持って出掛けた。
後年土佐二十四万石に封ぜられてから、奇抜な鞘を作った。
これは、意匠を考えることが好きな千代が考案したといわれている。
この鞘は、尾長鶏の真っ黒な尻尾を集めて作ったもので「土佐の大鳥毛の御槍」と呼ばれ、今は高知城に展覧されているとか。槍は国宝で、山内旧侯爵家に所蔵されているとか。
六月二日未明、本能寺の変がおこった。
知らせは、その翌日三日の夜、備中の秀吉に届いた。
秀吉はこれをひた隠しにして、軍師の黒田官兵衛に毛利との和平交渉を進めさせた。
高松城主清水宗治の切腹を条件に和議が成立するや、秀吉は急ぎ、兵をめぐらせ山陽道を東上した。
ときに、天正十年六月六日午後二時過ぎである。
秀吉は、備中の陣地から姫路まで、雨中の猛行軍、一日一夜で駆けとおして、八日の早朝姫路城に入った。
秀吉は直ぐ湯殿に駆け込み入浴した。入浴しながら。
「出陣は明日、皆、寝よ」
そう命じてから、金奉行(会計官)を呼び、城の金全てを知行取り(将校)に分け与えた。
次に蔵奉行を呼び、城中の米を全て扶持取り(従士、足軽)に与えた。
秀吉はこの戦では籠城はせぬと決めて、全財産を褒美の前払いとした。
午前二時に出発し、摂津尼崎に着いたのは、十一日午前八時頃だった。
尼崎で一泊しているうちに、織田家の大小名が続々と集まってきた。
十二日、尼崎進発。
西国街道を二万六千五百の秀吉軍が上り始めた。
秀吉軍の先方が山崎駅(宿場)に進出した十二日は午後から豪雨が降った。
秀吉は軍令を発し、
「雨に濡れるな、在所在所の民家に入って雨宿りせよ」
と、無理な行軍を戒めた。
これは、足軽衆が携行している煙硝が濡れるのを恐れたからだ。
いざ合戦になっても火薬が湿っていては鉄砲が使えない。
ところが、明智光秀の側は、この豪雨の十二日は、行軍中であった。
中国征伐中の秀吉が、恐ろしいほどの速さで軍をひるがえし、光秀に迫ろうとしていた。
織田家の秀才作戦家と言われた男の予想を上回った秀吉の速度は、光秀の計算を狂わせた。
よく、今でも勝負事や重要な事などをするときに、
「ここが天王山だ」
という、勝負の決め手の場所をいう。その場所を先に取れば勝ちだという場合につかう。
天王山は、山崎にある。
十三日、敗れた光秀は敗走の途中、落ち武者狩りの土民の槍に刺されて死んだ。
戦後の論功行賞で、伊右衛門は、長浜三千石になった。
城主ではなく城番である。
ところが、この後直ぐに、秀吉が柴田勝家の機嫌取りの為に、長浜一帯の領地と城を勝家に譲ってしまったのだ。
伊右衛門は、長浜から播州へ移ることになってしまった。
「よいではありませぬか」
「そなたは、いつもそういうのんきな顔をする」
播州に居住していては、いざ合戦のときにとても間に合わない。
今度の合戦は、早晩、北国の柴田勝家との間に行われる事になるであろう。
第二の天下分け目の戦いになるわけで、播州にいてはその合戦に間に合わない。
たしかに軽微な不運が続いたと千代も思うのだ。しかし、不運と思うのは愚者だと千代は考えている。運、不運は「事」の表裏にすぎない。裏目が出ても、直ぐ良い方に翻転出来る手さえ講ずれば何でもないことだ。
「知行地にたれぞ代官をやり、お屋敷は京都に頂くようお願いすれば良いではありませぬか」
あっ、と伊右衛門は驚いた。
成る程、妙案である。秀吉も当分は京都に居ろう。そこに屋敷を持つというのは、常に秀吉の指令の下で働ける態勢をとっていることだ。
が、この千代の妙案が、ちょっと現実的でないのは、信長時代に先例がないことだった。
「先例がないからこそ、お願いすればおもしろうございましょう」
と千代は言った。
千代は見抜いていた。秀吉は京都に侍屋敷を持ちたいはずだと言うことを。信長の本能寺の二の舞を今度は秀吉が受けるかも知れないし、そうでないにしても、いざ出兵となれば軽快に動員出来るではないか。
伊右衛門は願い出た。
秀吉は忙しいさなかであったが、伊右衛門の申し出に、はたと膝を打った。
「それは妙案じゃ、しかし伊右衛門、しばし待て、わしは京よりも大阪を考えておる。大阪に巨城を築き、大小名の屋敷を集中させようと思う。それまでの間、安土城下の空き屋敷にでも入っていてくれ」
千代のあんは、場所の違いこそあれ、秀吉の構想と一致していた。それだけに伊右衛門の着想に感心した。
秀吉が、これは大名になれる男だなと、ちらりと思ったのはこのときであった。ただ、大軍を指揮する能力がない。
つづく
千代の考えは、常にプラス思考。どんなことでも見方を変えると違ったものが見えてくる。これをコーチングでは「視点を変える」と言っています。
視点を変え、従来にない新しい発想で伊右衛門をサポートする素晴らしいコーチです。
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むろん伊右衛門も従軍した。
「千代、そなたが買ってくれた馬の手前、今度は生涯の開運の働きをするぞ」
面白いものだ、新しい馬を与えられるとそう云う具合に、気分がすっかり改まるらしい。
千代も、いつもの出陣よりも生き生きして別人のようにみえる伊右衛門を送り出すのが楽しかった。
秀吉の今回の攻撃目標は、備中高松城(現在の岡山県)である。
秀吉は、この城を大土木工事と梅雨の雨を利用した水攻めで落とそうと考えた。
伊右衛門はこの戦いの中で、毛利の宍戸修理と云う武者を討ち取り、宍戸修理の持ち槍をぶんどった。
この槍の銘は、来国俊という名槍だった。
この後、伊右衛門はどの戦場にもこの槍を持って出掛けた。
後年土佐二十四万石に封ぜられてから、奇抜な鞘を作った。
これは、意匠を考えることが好きな千代が考案したといわれている。
この鞘は、尾長鶏の真っ黒な尻尾を集めて作ったもので「土佐の大鳥毛の御槍」と呼ばれ、今は高知城に展覧されているとか。槍は国宝で、山内旧侯爵家に所蔵されているとか。
六月二日未明、本能寺の変がおこった。
知らせは、その翌日三日の夜、備中の秀吉に届いた。
秀吉はこれをひた隠しにして、軍師の黒田官兵衛に毛利との和平交渉を進めさせた。
高松城主清水宗治の切腹を条件に和議が成立するや、秀吉は急ぎ、兵をめぐらせ山陽道を東上した。
ときに、天正十年六月六日午後二時過ぎである。
秀吉は、備中の陣地から姫路まで、雨中の猛行軍、一日一夜で駆けとおして、八日の早朝姫路城に入った。
秀吉は直ぐ湯殿に駆け込み入浴した。入浴しながら。
「出陣は明日、皆、寝よ」
そう命じてから、金奉行(会計官)を呼び、城の金全てを知行取り(将校)に分け与えた。
次に蔵奉行を呼び、城中の米を全て扶持取り(従士、足軽)に与えた。
秀吉はこの戦では籠城はせぬと決めて、全財産を褒美の前払いとした。
午前二時に出発し、摂津尼崎に着いたのは、十一日午前八時頃だった。
尼崎で一泊しているうちに、織田家の大小名が続々と集まってきた。
十二日、尼崎進発。
西国街道を二万六千五百の秀吉軍が上り始めた。
秀吉軍の先方が山崎駅(宿場)に進出した十二日は午後から豪雨が降った。
秀吉は軍令を発し、
「雨に濡れるな、在所在所の民家に入って雨宿りせよ」
と、無理な行軍を戒めた。
これは、足軽衆が携行している煙硝が濡れるのを恐れたからだ。
いざ合戦になっても火薬が湿っていては鉄砲が使えない。
ところが、明智光秀の側は、この豪雨の十二日は、行軍中であった。
中国征伐中の秀吉が、恐ろしいほどの速さで軍をひるがえし、光秀に迫ろうとしていた。
織田家の秀才作戦家と言われた男の予想を上回った秀吉の速度は、光秀の計算を狂わせた。
よく、今でも勝負事や重要な事などをするときに、
「ここが天王山だ」
という、勝負の決め手の場所をいう。その場所を先に取れば勝ちだという場合につかう。
天王山は、山崎にある。
十三日、敗れた光秀は敗走の途中、落ち武者狩りの土民の槍に刺されて死んだ。
戦後の論功行賞で、伊右衛門は、長浜三千石になった。
城主ではなく城番である。
ところが、この後直ぐに、秀吉が柴田勝家の機嫌取りの為に、長浜一帯の領地と城を勝家に譲ってしまったのだ。
伊右衛門は、長浜から播州へ移ることになってしまった。
「よいではありませぬか」
「そなたは、いつもそういうのんきな顔をする」
播州に居住していては、いざ合戦のときにとても間に合わない。
今度の合戦は、早晩、北国の柴田勝家との間に行われる事になるであろう。
第二の天下分け目の戦いになるわけで、播州にいてはその合戦に間に合わない。
たしかに軽微な不運が続いたと千代も思うのだ。しかし、不運と思うのは愚者だと千代は考えている。運、不運は「事」の表裏にすぎない。裏目が出ても、直ぐ良い方に翻転出来る手さえ講ずれば何でもないことだ。
「知行地にたれぞ代官をやり、お屋敷は京都に頂くようお願いすれば良いではありませぬか」
あっ、と伊右衛門は驚いた。
成る程、妙案である。秀吉も当分は京都に居ろう。そこに屋敷を持つというのは、常に秀吉の指令の下で働ける態勢をとっていることだ。
が、この千代の妙案が、ちょっと現実的でないのは、信長時代に先例がないことだった。
「先例がないからこそ、お願いすればおもしろうございましょう」
と千代は言った。
千代は見抜いていた。秀吉は京都に侍屋敷を持ちたいはずだと言うことを。信長の本能寺の二の舞を今度は秀吉が受けるかも知れないし、そうでないにしても、いざ出兵となれば軽快に動員出来るではないか。
伊右衛門は願い出た。
秀吉は忙しいさなかであったが、伊右衛門の申し出に、はたと膝を打った。
「それは妙案じゃ、しかし伊右衛門、しばし待て、わしは京よりも大阪を考えておる。大阪に巨城を築き、大小名の屋敷を集中させようと思う。それまでの間、安土城下の空き屋敷にでも入っていてくれ」
千代のあんは、場所の違いこそあれ、秀吉の構想と一致していた。それだけに伊右衛門の着想に感心した。
秀吉が、これは大名になれる男だなと、ちらりと思ったのはこのときであった。ただ、大軍を指揮する能力がない。
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