#146 Fats Domino「Be My Guest」(Only the Best of Fats Domino/Collectables)
当HPもついに11年目に突入した。これからも「巣」を、そしてこの「一日一曲」をよろしく。
さて、今週はアメリカの「国民的スター」とよばれていたファッツ・ドミノの大ヒットを。彼自身のオリジナル。
ドミノは28年、ルイジアナ州ニューオリンズ生まれ。本名アントワーヌ・ドミニク・ドミノ。元はフランス領だったN.O.の土地っ子っらしく、いかにもラテンの匂いのする名前であるね。
通称の「ファッツ」はその堂々たる体格から来ているのは、いうまでもない。
ピアノを弾きつつ歌うスタイルで若くから頭角をあらわし、はたちそこそこの49年にレコード・デビュー。最初のシングル「Detroit City Blues」のB面「The Fat Man」(いかにも名刺がわりの一曲だな) がいきなりの大ヒット、ビルボードR&Bチャートの2位となる。以来15年近く、トップ・シンガーの名を欲しいままにすることになる。
デビュー即大スターなんて例は、長いポップス史上でもめったにない。やはり彼は、戦後アメリカという時代が求めていた才能だったのだろう。
デビュー後64年までになんと63曲をR&Bチャートに送りこみ、9曲で1位。総合チャートでも10曲がベスト10入りしている。白人のエルヴィスにも匹敵する、黒人シンガーの王者だったドミノ。ラジオがテレビにとってかわられるまでの時代において、彼の歌声は最強だったといっていい。
その彼をトップスターたらしめた最大の仕掛人は、同じくニューオリンズ出身のトランペット奏者にしてバンドリーダー、作編曲家、プロデューサーであったデイヴ・バーソロミューだ。ドミノが最初に所属したレコード会社、インペリアルは本来メキシコ系の音楽を手がけるレーベルだったのだが、次第にR&B/ブルース系音楽もリリースするようになり、49年からはバーソロミューをプロデューサー兼タレント・スカウターとして起用した。その最大の功績が、ファッツ・ドミノという才能を見出し、育てたということだったのだ。バーソロミューとドミノは数多くの曲を共作しており、いわば実質的なコンビでもあった。
きょうの「Be My Guest」も、デイヴ・バーソロミュー楽団をバックに録音されたもの。ひじょうにノリのいいシャッフル・ビートにのせて、ドミノのちょっと鼻にかかったようなマイルドな歌声が聴ける。
とにかく陽性、これがドミノの身上。畢生のヒット「Blueberry Hill」をはじめとして「Ain't That A Shame」、「Walking To New Orleans」、「I'm Walkin'」、いずれにせよ、明るく陽気なドミノ・サウンドは、戦後アメリカの上昇的なムードを象徴したものといえそうだ。
60年代、すなわちテレビの時代に入ると、よりそれに適したビジュアルをもった若手歌手たちが人気を博すようになり、ドミノのかつてのスーパースター的人気は沈静化してしまうのだが、そのサウンドは、ニューオリンズR&Bのスタンダードとなり、ミーターズ、ドクター・ジョンといった多くの後続アーティストたちのお手本となっていく。
辺境でありながら、アメリカのポピュラー・ミュージックを60年以上にもわたって力強く牽引してきたニューオリンズ。まさに音楽の都であるが、その最大の王であったのが、このファッツ・ドミノ。
彼なしに、戦後のポップスは語れない。ぜひ、その力強く包容力あふれる歌声を味わってみてほしい。
当HPもついに11年目に突入した。これからも「巣」を、そしてこの「一日一曲」をよろしく。
さて、今週はアメリカの「国民的スター」とよばれていたファッツ・ドミノの大ヒットを。彼自身のオリジナル。
ドミノは28年、ルイジアナ州ニューオリンズ生まれ。本名アントワーヌ・ドミニク・ドミノ。元はフランス領だったN.O.の土地っ子っらしく、いかにもラテンの匂いのする名前であるね。
通称の「ファッツ」はその堂々たる体格から来ているのは、いうまでもない。
ピアノを弾きつつ歌うスタイルで若くから頭角をあらわし、はたちそこそこの49年にレコード・デビュー。最初のシングル「Detroit City Blues」のB面「The Fat Man」(いかにも名刺がわりの一曲だな) がいきなりの大ヒット、ビルボードR&Bチャートの2位となる。以来15年近く、トップ・シンガーの名を欲しいままにすることになる。
デビュー即大スターなんて例は、長いポップス史上でもめったにない。やはり彼は、戦後アメリカという時代が求めていた才能だったのだろう。
デビュー後64年までになんと63曲をR&Bチャートに送りこみ、9曲で1位。総合チャートでも10曲がベスト10入りしている。白人のエルヴィスにも匹敵する、黒人シンガーの王者だったドミノ。ラジオがテレビにとってかわられるまでの時代において、彼の歌声は最強だったといっていい。
その彼をトップスターたらしめた最大の仕掛人は、同じくニューオリンズ出身のトランペット奏者にしてバンドリーダー、作編曲家、プロデューサーであったデイヴ・バーソロミューだ。ドミノが最初に所属したレコード会社、インペリアルは本来メキシコ系の音楽を手がけるレーベルだったのだが、次第にR&B/ブルース系音楽もリリースするようになり、49年からはバーソロミューをプロデューサー兼タレント・スカウターとして起用した。その最大の功績が、ファッツ・ドミノという才能を見出し、育てたということだったのだ。バーソロミューとドミノは数多くの曲を共作しており、いわば実質的なコンビでもあった。
きょうの「Be My Guest」も、デイヴ・バーソロミュー楽団をバックに録音されたもの。ひじょうにノリのいいシャッフル・ビートにのせて、ドミノのちょっと鼻にかかったようなマイルドな歌声が聴ける。
とにかく陽性、これがドミノの身上。畢生のヒット「Blueberry Hill」をはじめとして「Ain't That A Shame」、「Walking To New Orleans」、「I'm Walkin'」、いずれにせよ、明るく陽気なドミノ・サウンドは、戦後アメリカの上昇的なムードを象徴したものといえそうだ。
60年代、すなわちテレビの時代に入ると、よりそれに適したビジュアルをもった若手歌手たちが人気を博すようになり、ドミノのかつてのスーパースター的人気は沈静化してしまうのだが、そのサウンドは、ニューオリンズR&Bのスタンダードとなり、ミーターズ、ドクター・ジョンといった多くの後続アーティストたちのお手本となっていく。
辺境でありながら、アメリカのポピュラー・ミュージックを60年以上にもわたって力強く牽引してきたニューオリンズ。まさに音楽の都であるが、その最大の王であったのが、このファッツ・ドミノ。
彼なしに、戦後のポップスは語れない。ぜひ、その力強く包容力あふれる歌声を味わってみてほしい。