アマチュアミュージシャンのほとんどは、ライブとセッションを別のものと考えているようだ。
すなわち、ライブは公式、セッションは非公式。
ライブこそが表看板で、セッションはあくまでも私的な息抜きというように、捉えている。
もちろん自分も、そういうふうに考えてきた一人であるのだが、最近複数のセッションに頻繁に参加してみて、その考え方が果たして正しいのか、疑問に思うようになってきた。
自分のように、もともと弾き語りという、ピンのスタイルからスタートしている歌い手にとってみれば、他にどのようなミュージシャンがバッキングしてくれようが、あるいは完全にソロでやろうが、大した違いはない。
どのみち、MACという、一人の歌い手がそのステージに立ってうたっている以上、ライブとセッションに決定的な差違など存在しないのだ。レギュラーな伴奏者、イレギュラーな伴奏者という違いこそあるが。
誤解を恐れずにあえて言ってしまえば、「今度の◯◯セッションでオレが歌うから、聴きにきて」とお客を呼んだっていいんじゃないか。そんなふうにすら思うのだ。
別のいいかたをすれば、これまではセッションを、どんなに中途半端な出来でも許される、楽屋落ち的空間だと考えてきたが、そういう逃げの発想はやめて、真剣にセッションの質を高めていけば、ライブに負けないくらい素晴らしいステージにもなりうる、という気がするのだ。
タイトルで、ジャムセッションもまた、ライブコンサートであるといったのは、そういう意味である。
今日、アマチュアミュージシャンのライブは何かとカネがかかる、おもにチケットノルマの消化面において。
フツーに考えて、格別上手いわけでも、カリスマ的魅力があるわけでもないアマチュアミュージシャンに、毎回何十人もの客が来るわけもない。
ならば、発想を変えて、セッションを自分としての定例ライブの場と解釈したほうが、無駄なカネを使わずに済むというものだ。
このやり方、というか考え方なら、年間50回くらいのライブだって、10数万円くらいで出来る。しかも、結構腕に自信のあるバックミュージシャン付きだ。
なんという、コペルニクス的転回(笑)。
さあ、セッションで、目指せ、最強のアマチュアミュージシャン!
すなわち、ライブは公式、セッションは非公式。
ライブこそが表看板で、セッションはあくまでも私的な息抜きというように、捉えている。
もちろん自分も、そういうふうに考えてきた一人であるのだが、最近複数のセッションに頻繁に参加してみて、その考え方が果たして正しいのか、疑問に思うようになってきた。
自分のように、もともと弾き語りという、ピンのスタイルからスタートしている歌い手にとってみれば、他にどのようなミュージシャンがバッキングしてくれようが、あるいは完全にソロでやろうが、大した違いはない。
どのみち、MACという、一人の歌い手がそのステージに立ってうたっている以上、ライブとセッションに決定的な差違など存在しないのだ。レギュラーな伴奏者、イレギュラーな伴奏者という違いこそあるが。
誤解を恐れずにあえて言ってしまえば、「今度の◯◯セッションでオレが歌うから、聴きにきて」とお客を呼んだっていいんじゃないか。そんなふうにすら思うのだ。
別のいいかたをすれば、これまではセッションを、どんなに中途半端な出来でも許される、楽屋落ち的空間だと考えてきたが、そういう逃げの発想はやめて、真剣にセッションの質を高めていけば、ライブに負けないくらい素晴らしいステージにもなりうる、という気がするのだ。
タイトルで、ジャムセッションもまた、ライブコンサートであるといったのは、そういう意味である。
今日、アマチュアミュージシャンのライブは何かとカネがかかる、おもにチケットノルマの消化面において。
フツーに考えて、格別上手いわけでも、カリスマ的魅力があるわけでもないアマチュアミュージシャンに、毎回何十人もの客が来るわけもない。
ならば、発想を変えて、セッションを自分としての定例ライブの場と解釈したほうが、無駄なカネを使わずに済むというものだ。
このやり方、というか考え方なら、年間50回くらいのライブだって、10数万円くらいで出来る。しかも、結構腕に自信のあるバックミュージシャン付きだ。
なんという、コペルニクス的転回(笑)。
さあ、セッションで、目指せ、最強のアマチュアミュージシャン!