2024年6月10日(月)
#431 デイヴィッド・ボウイ&ミック・ジャガー「Dancing In The Street」(EMI)
#431 デイヴィッド・ボウイ&ミック・ジャガー「Dancing In The Street」(EMI)
デイヴィッド・ボウイ&ミック・ジャガー、1985年8月リリースのシングル・ヒット曲。マーヴィン・ゲイ、ウィリアム・スティーヴンスン、アイヴィー・ジョー・ハンターの作品。アラン・ウィスタンリー、クライヴ・ランガーによるプロデュース。ロンドン録音。
英国を代表するロック・シンガー、デイヴィッド・ボウイとミック・ジャガーのふたりが初めてデュオでレコーディングしたことで話題となった一曲が、この「Dancing In The Street」である。
共演のきっかけは、同年7月に開催された飢餓救済のためのチャリティ企画のイベント、「ライブエイド」であった。ボウイ、ジャガーともに発案者のボブ・ゲルドフ、ミッジ・ユーロらに賛同して、これに参加したのだ。
当初は、ボウイが英国ロンドンのウェンブリースタジアム、ジャガーが米国フィラデルフィアのジョン・F・ケネディスタジアムで同時にコンサートを開催して、一緒に曲を演奏してこれを撮影する予定であった。
しかし、技術的な問題がこれに立ちはだかる。大陸間の距離により、衛生中継では約半秒の遅延が発生してしまい、歌い手のどちらかが口パクしない限りは実現不可能と判明してしまう。ふたりともそれは望まなかったため、同時ライブ共演は実現せずに終わってしまう。
そのかわりにロンドンで映画「Absolute Beginners」のサウンドトラックをレコーディング中のボウイにジャガーが合流して、6月29日にこの「Dancing In The Street」を録音したのである。曲はわずか4時間で完成したという。
2か月後の8月下旬にシングルリリース、全英チャートで4週連続1位、そして全米7位のビッグヒットとなった。ボウイとしては7番目、最後のトップテンヒット、そしてジャガーはソロとしては唯一のヒット曲となったのである。
ライブエイドの一環として、その収益は全額が慈善団体に寄付されたのはいうまでもない。
本曲のミュージック・ビデオ(MV)も曲と並行して制作された。ボウイとジャガーのふたりはロンドンのスピラーズ・ミレニアム・ミルズという廃墟施設にロケして、MV監督として著名なデイヴィッド・マレットのディレクションのもと、撮影された。この映像はライブエイドのイベントで2回上映されている。
観ていただくと分かると思うが、ジャガー(当時41歳)がとにかく踊りまくり、はっちゃけまくりである。これに触発されてか、普段はあまり激しいダンスを踊らないボウイ(当時38歳)も、目一杯身体を揺らして踊っている。実に貴重な映像記録だといえる。
さて、この曲にはこのシングルに至るまでに、20年以上の歴史がある。もともとは1964年、黒人女性コーラスグループ、マーサ&ザ・ヴァンデラスのために、モータウンのソングライターも兼ねていたマーヴィン・ゲイ、そしてウィリアム・スティーヴンスン、アイヴィー・ジョー・ハンターというソングライターが共作で書いたナンバーである。シングルリリースは64年7月。
その抜群のノリの良さにより、あっという間にヒット、全米で2週2位、そして全英でも4位の大ヒットとなった。
以後この曲は、多くのアーティストによってカバーされるようになる。翌65年に英国のロック・バンド、キンクスがカバーして全英3位、全米60位のヒット。66年には米国のコーラスグループ、ママス&パパスがカバーして、全米73位。
米国のロック・バンド、グレイトフル・デッドも60年代よりライブ・レパートリーに取り入れて、77年にシングルリリース。
80年代は、同じくヴァン・ヘイレンが82年にシングルリリース。全米38位となっている。
ボウイとジャガーのカバーバージョンは、これら過去のアーティストをはるかに超えるスーパーヒットとなり、ご本家のヴァンデラスをもしのぐ存在感を発揮したわけである。
古くからポップス を聴いているシニア・リスナーを除けば、この「Dancing In The Street」という曲は、「ボウイとジャガーの曲」ということになるのだろうね。
そして時は流れ、さらに約40年が経過してしまったが、この曲はみじんも古びるということがない。
多くのミュージシャンがこの曲を好んで取り上げていることが、何よりもの証左だろう。それも、懐メロという扱いでなく、現代のコンテンポラリーなサウンドにもフィットしている曲として。
それはやはり、作曲者チームのセンスが卓抜していたってことなのだ。本曲のリズミカルなメロディ・ラインに勝る新曲には、滅多にお目にかかれない。
ふたりのうち、デイヴィッド・ボウイは8年前に69歳でこの世を去ってしまった。が、残るミック・ジャガーは80歳の今も現役で、精力的に活動している。
ありし日のボウイ、そしてジャガーの勇姿を観れば、「トーキョー!」と呼びかけられた日本のわれわれも、元気いっぱいになれる。朝イチに聴いて、気分アゲアゲにしたい一曲である。
英国を代表するロック・シンガー、デイヴィッド・ボウイとミック・ジャガーのふたりが初めてデュオでレコーディングしたことで話題となった一曲が、この「Dancing In The Street」である。
共演のきっかけは、同年7月に開催された飢餓救済のためのチャリティ企画のイベント、「ライブエイド」であった。ボウイ、ジャガーともに発案者のボブ・ゲルドフ、ミッジ・ユーロらに賛同して、これに参加したのだ。
当初は、ボウイが英国ロンドンのウェンブリースタジアム、ジャガーが米国フィラデルフィアのジョン・F・ケネディスタジアムで同時にコンサートを開催して、一緒に曲を演奏してこれを撮影する予定であった。
しかし、技術的な問題がこれに立ちはだかる。大陸間の距離により、衛生中継では約半秒の遅延が発生してしまい、歌い手のどちらかが口パクしない限りは実現不可能と判明してしまう。ふたりともそれは望まなかったため、同時ライブ共演は実現せずに終わってしまう。
そのかわりにロンドンで映画「Absolute Beginners」のサウンドトラックをレコーディング中のボウイにジャガーが合流して、6月29日にこの「Dancing In The Street」を録音したのである。曲はわずか4時間で完成したという。
2か月後の8月下旬にシングルリリース、全英チャートで4週連続1位、そして全米7位のビッグヒットとなった。ボウイとしては7番目、最後のトップテンヒット、そしてジャガーはソロとしては唯一のヒット曲となったのである。
ライブエイドの一環として、その収益は全額が慈善団体に寄付されたのはいうまでもない。
本曲のミュージック・ビデオ(MV)も曲と並行して制作された。ボウイとジャガーのふたりはロンドンのスピラーズ・ミレニアム・ミルズという廃墟施設にロケして、MV監督として著名なデイヴィッド・マレットのディレクションのもと、撮影された。この映像はライブエイドのイベントで2回上映されている。
観ていただくと分かると思うが、ジャガー(当時41歳)がとにかく踊りまくり、はっちゃけまくりである。これに触発されてか、普段はあまり激しいダンスを踊らないボウイ(当時38歳)も、目一杯身体を揺らして踊っている。実に貴重な映像記録だといえる。
さて、この曲にはこのシングルに至るまでに、20年以上の歴史がある。もともとは1964年、黒人女性コーラスグループ、マーサ&ザ・ヴァンデラスのために、モータウンのソングライターも兼ねていたマーヴィン・ゲイ、そしてウィリアム・スティーヴンスン、アイヴィー・ジョー・ハンターというソングライターが共作で書いたナンバーである。シングルリリースは64年7月。
その抜群のノリの良さにより、あっという間にヒット、全米で2週2位、そして全英でも4位の大ヒットとなった。
以後この曲は、多くのアーティストによってカバーされるようになる。翌65年に英国のロック・バンド、キンクスがカバーして全英3位、全米60位のヒット。66年には米国のコーラスグループ、ママス&パパスがカバーして、全米73位。
米国のロック・バンド、グレイトフル・デッドも60年代よりライブ・レパートリーに取り入れて、77年にシングルリリース。
80年代は、同じくヴァン・ヘイレンが82年にシングルリリース。全米38位となっている。
ボウイとジャガーのカバーバージョンは、これら過去のアーティストをはるかに超えるスーパーヒットとなり、ご本家のヴァンデラスをもしのぐ存在感を発揮したわけである。
古くからポップス を聴いているシニア・リスナーを除けば、この「Dancing In The Street」という曲は、「ボウイとジャガーの曲」ということになるのだろうね。
そして時は流れ、さらに約40年が経過してしまったが、この曲はみじんも古びるということがない。
多くのミュージシャンがこの曲を好んで取り上げていることが、何よりもの証左だろう。それも、懐メロという扱いでなく、現代のコンテンポラリーなサウンドにもフィットしている曲として。
それはやはり、作曲者チームのセンスが卓抜していたってことなのだ。本曲のリズミカルなメロディ・ラインに勝る新曲には、滅多にお目にかかれない。
ふたりのうち、デイヴィッド・ボウイは8年前に69歳でこの世を去ってしまった。が、残るミック・ジャガーは80歳の今も現役で、精力的に活動している。
ありし日のボウイ、そしてジャガーの勇姿を観れば、「トーキョー!」と呼びかけられた日本のわれわれも、元気いっぱいになれる。朝イチに聴いて、気分アゲアゲにしたい一曲である。