2024年6月21日(金)
#442 ピーター・アンド・ゴードン「A World Without Love」(Columbia)
#442 ピーター・アンド・ゴードン「A World Without Love」(Columbia)
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ピーター・アンド・ゴードン、64年2月リリースののシングル・ヒット曲。ジョン・レノン、ボール・マッカートニーの作品。ノーマン・ニューウェルによるプロデュース。
英国のポップ・デュオ、ピーター・アンド・ゴードンは1962年結成。
1944年6月ミドルセックス州ウィルズデン生まれのピーター・アッシャー(眼鏡のほう)、1945年6月スコットランド、アバディーンシャーのブレイマー生まれのゴードン・ウォーラーのふたりが、ミドルセックスにあるウェストミンスター・スクールに入学して知り合った。ふたりとも父親は医師で、いわゆるミドルクラスの子弟であった。
ピーターはもともと子役俳優として8歳の頃から活躍しており、その妹ジェーン(1946年4月生まれ)もまた子役時代からずっと女優活動を続けていた。
同級生となったピーターとゴードンは意気投合、共にギターを弾いてカフェなどで歌い始める。
彼らにとってのビッグ・チャンスは、コンテストのようなものでなく、偶然から生じた。62年メジャーデビュー以来、すでにビッグスターとなっていたビートルズのポール・マッカートニーと、ピーターの妹ジェーンが、63年4月以来交際することになったのである。
この縁で、近所に住んでアッシャー家に入り浸るようになったポール・マッカートニーは、彼らのために曲を書くことになる。それが本日取り上げた一曲「A World Without Love(邦題・愛なき世界」である。
クレジット上はレノン=マッカートニーの作品となっているが、これは当時の彼らの取り決めで、どちらか一方だけが書いた曲でも共作名義にするということになってていたから。実質的にはマッカートニーひとりの作品である。
フォーク調のポップ・バラードである本曲は、そのメロディの完璧さ、爽やかなハーモニーもあってたちまちヒット、リリースして2か月後にはビートルズの「Can’t Buy Me Love」を追い抜いて全英1位(2週連続)となった。
遅れて4月にリリースされた全米でも1位を獲得、ビートルズ以外のブリティッシュ・インベイジョン勢では初めてのナンバーワン・ヒットとなったのである。
続くセカンド・シングルの「Nobody I Know」、そしてサードの「I Don’t Want See You Again」は同じくレノン=マッカートニー、実質マッカートニーの作品だったので、デビューヒットの余波や作曲者のネームバリューで、それぞれ全英10位、全米12位・全米16位とヒットした。
4thシングルの「I Go to Pieces」は、マッカートニーの楽曲提供から離れて初めてのリリースだった(作曲はデル・シャノン)が、全米9位と健闘。
その後も「True Love Ways」、「To Know Him Is To Love Him」、「Woman」(この曲のみバーナード・ウェッブというマッカートニーの変名による作品)、「Lady Godiva」といったヒット曲群を66年頃までは生み続けた。
有名アーティストから曲をプレゼントされるという、極めてラッキーなスタートを切ったアーティストは、概ね後続のヒットが続かないものだが、マッカートニーの協力から離れた後も、ピーターとゴードンは彼らなりに頑張ったと言える。
ただ、常に他のアーティストの楽曲に頼らざるをえなかったこと、そして英国のポップ、ロック・シーンが短期間に大きく変化を遂げて、彼らのようなまったりとしたポップスは時流から外れつつあったことが重なり、ピーター・アンド・ゴードンは次第に流行から遠ざかっていった。
そして、マッカートニーとジェーン・アッシャーの交際が破局を迎えたのと同じ68年、彼らも解散となった。
ピーターはアーティストサイドからプロデュースサイドに転身、アップルレーベルのA&R部門の責任者となり、シンガーソングライター、ジェイムズ・テイラーを見い出して育てることになる。その後はリンダ・ロンシュタットやシェールらとの仕事で、成果を出している。
一方、ゴードンはミュージシャン側にとどまり、ソロシンガーとして活動したが、かつてのような大きな成功は得られず、2009年に64歳で亡くなっている。
人生のごくごく若い時期、20歳前後の約4年というごく短い期間に、世界最高の栄光に浴したピーターとゴードン。
縁故という「運」にかなり助けられた面はあったものの、彼らを評価して協力したポール・マッカートニーの、判定眼は確かだったと思う。
ふたりは、そのいかにも「いいとこのお坊ちゃん」風のキャラクター、毒のまるでないおっとりとした歌声も含めて、当時の時代が求めていたものであった。
時代が求めた寵児として、彼らは世界の人々から十二分に愛されたのだ。それだけでも、彼らは至福の人生を歩んだのだと言える。
「運もまた実力のうち」。この言葉を聴くたびに、筆者はいつもピーター・アンド・ゴードンのふたりを思い起こすのである。
英国のポップ・デュオ、ピーター・アンド・ゴードンは1962年結成。
1944年6月ミドルセックス州ウィルズデン生まれのピーター・アッシャー(眼鏡のほう)、1945年6月スコットランド、アバディーンシャーのブレイマー生まれのゴードン・ウォーラーのふたりが、ミドルセックスにあるウェストミンスター・スクールに入学して知り合った。ふたりとも父親は医師で、いわゆるミドルクラスの子弟であった。
ピーターはもともと子役俳優として8歳の頃から活躍しており、その妹ジェーン(1946年4月生まれ)もまた子役時代からずっと女優活動を続けていた。
同級生となったピーターとゴードンは意気投合、共にギターを弾いてカフェなどで歌い始める。
彼らにとってのビッグ・チャンスは、コンテストのようなものでなく、偶然から生じた。62年メジャーデビュー以来、すでにビッグスターとなっていたビートルズのポール・マッカートニーと、ピーターの妹ジェーンが、63年4月以来交際することになったのである。
この縁で、近所に住んでアッシャー家に入り浸るようになったポール・マッカートニーは、彼らのために曲を書くことになる。それが本日取り上げた一曲「A World Without Love(邦題・愛なき世界」である。
クレジット上はレノン=マッカートニーの作品となっているが、これは当時の彼らの取り決めで、どちらか一方だけが書いた曲でも共作名義にするということになってていたから。実質的にはマッカートニーひとりの作品である。
フォーク調のポップ・バラードである本曲は、そのメロディの完璧さ、爽やかなハーモニーもあってたちまちヒット、リリースして2か月後にはビートルズの「Can’t Buy Me Love」を追い抜いて全英1位(2週連続)となった。
遅れて4月にリリースされた全米でも1位を獲得、ビートルズ以外のブリティッシュ・インベイジョン勢では初めてのナンバーワン・ヒットとなったのである。
続くセカンド・シングルの「Nobody I Know」、そしてサードの「I Don’t Want See You Again」は同じくレノン=マッカートニー、実質マッカートニーの作品だったので、デビューヒットの余波や作曲者のネームバリューで、それぞれ全英10位、全米12位・全米16位とヒットした。
4thシングルの「I Go to Pieces」は、マッカートニーの楽曲提供から離れて初めてのリリースだった(作曲はデル・シャノン)が、全米9位と健闘。
その後も「True Love Ways」、「To Know Him Is To Love Him」、「Woman」(この曲のみバーナード・ウェッブというマッカートニーの変名による作品)、「Lady Godiva」といったヒット曲群を66年頃までは生み続けた。
有名アーティストから曲をプレゼントされるという、極めてラッキーなスタートを切ったアーティストは、概ね後続のヒットが続かないものだが、マッカートニーの協力から離れた後も、ピーターとゴードンは彼らなりに頑張ったと言える。
ただ、常に他のアーティストの楽曲に頼らざるをえなかったこと、そして英国のポップ、ロック・シーンが短期間に大きく変化を遂げて、彼らのようなまったりとしたポップスは時流から外れつつあったことが重なり、ピーター・アンド・ゴードンは次第に流行から遠ざかっていった。
そして、マッカートニーとジェーン・アッシャーの交際が破局を迎えたのと同じ68年、彼らも解散となった。
ピーターはアーティストサイドからプロデュースサイドに転身、アップルレーベルのA&R部門の責任者となり、シンガーソングライター、ジェイムズ・テイラーを見い出して育てることになる。その後はリンダ・ロンシュタットやシェールらとの仕事で、成果を出している。
一方、ゴードンはミュージシャン側にとどまり、ソロシンガーとして活動したが、かつてのような大きな成功は得られず、2009年に64歳で亡くなっている。
人生のごくごく若い時期、20歳前後の約4年というごく短い期間に、世界最高の栄光に浴したピーターとゴードン。
縁故という「運」にかなり助けられた面はあったものの、彼らを評価して協力したポール・マッカートニーの、判定眼は確かだったと思う。
ふたりは、そのいかにも「いいとこのお坊ちゃん」風のキャラクター、毒のまるでないおっとりとした歌声も含めて、当時の時代が求めていたものであった。
時代が求めた寵児として、彼らは世界の人々から十二分に愛されたのだ。それだけでも、彼らは至福の人生を歩んだのだと言える。
「運もまた実力のうち」。この言葉を聴くたびに、筆者はいつもピーター・アンド・ゴードンのふたりを思い起こすのである。