2024年4月20日(土)
#380 ザ・タイガース「Heartbreaker」(Polydor)
#380 ザ・タイガース「Heartbreaker」(Polydor)
ザ・タイガース、1970年8月のコンサート「リサイタル・サウンドinコロシアム」からの一曲。マーク・ファーナーの作品。東京大田区の田園コロシアムにおけるライブ。
ここのところ64日連続で洋楽ばかり取り上げて来たので、たまには邦楽アーティストもピックアップしてみたいと思う。
ザ・タイガースについては、くだくだしい説明は不要だろう。日本の60年代後半に起こったグループサウンズ・ブームで、最高最大の人気を誇ったバンドである。
結成は65年6月、京都市。「サリーとプレイボーイズ」を4人でスタート。同年末、他バンドにいた沢田研二を誘い、翌年より5人で「ファニーズ」と改名して再スタート。
大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演して大人気となり、これに注目した内田裕也の仲介により、東京の渡辺プロダクションと契約。67年2月にザ・タイガースと再度改名してレコードデビュー。
以後、71年2月の解散コンサートに至るまでの正味4年間、グループサウンズブームを牽引し続け、解散後もメンバーの大半は、日本のミュージック・シーンで大活躍した、そんなビッグ・グループである。
彼らはいわゆる「アイドル」の括りで語られがちの存在であった。確かにそれは間違いではなかったが、実は多くのリスナーが思うよりはずっと「プロ」のミュージシャンであった。
そのことが、本日取り上げたライブレコーディングを聴くと、よく分かると思う。
ザ・タイガースは、先に人気の出ていた年長世代のブルーコメッツ、スパイダーズの後を追うようにしてデビュー、平均年齢19.4歳という圧倒的な若さで女性リスナーの人気をあっという間にさらい、GSの王座に躍り出た。
その時点では確かに、若さ、ルックスといった切り札に頼ったという感は否めなかった。
しかし、4年という年月は、彼らの音楽性や人間性に大きな成長をもたらした。レコーディングでロンドンを訪れたり、テレビ出演ばかりでなく武道館のような大規模ホールや野外でライブ演奏をするなど、現場でもみっちりと鍛えられた。
また、マネジメントサイド、プロデュースサイドとの衝突により、メンバー脱退、交代といった危機的状況もいろいろと経験している。
その結果、アイドルバンドとバカに出来ないレベルのバンド、海外のアーティストとも肩を並べうる存在へと次第に変化、成長していったのである。
田園コロシアムでのライブは、その場にいたオーディエンスだけでなく、近隣に住む人々、東急東横線の列車に乗った客にも十分聴こえる。
筆者も、このライブではないが、翌71年にPYGに再編成された時期の彼らのコロシアムライブを、多摩川園駅(現・多摩川駅)で偶然聴いたことがある。もう、完全に野外ライブと同じだった。
不特定多数の人に、生音を聴かれるパブリック・ライブ。しかも、当時人気絶頂のバンドである。絶対、下手くそな演奏をするわけにはいかない。
そんなプレッシャーに負けじと、彼らは海外ロック・バンドのカバー、そして自分たちのオリジナル曲や大ヒットナンバーを、ホーンやオーケストラといった外部ミュージシャンの力を借りずに、やり抜いたのだ。恐るべき、プロ根性である。
グループサウンズは、決して海外ロック・バンドのパチモンではなかったのである。明らかに、世界でも通用出来るバンドを目指していたことが分かる。
コンサートの中盤に演奏されたこの「Heartbreaker」は同題異曲がいくつもあるが、米国のバンド、グランド・ファンク・レイルロードのヒットナンバーのほう。
69年リリースのファースト・アルバムからシングルカットされ、翌年末に出たライブ・アルバムにも収められた。日本でも、アマチュアバンドの定番レパートリーとなったナンバーだ。
GFRは71年夏に来日して人気爆発しているが、それに先立つ1年前の70年、タイガースはこの曲をすでにライブレパートリーとして消化していたのだから、ものスゴい早取りである。若さゆえの吸収力がハンパない。
その曲調は、循環コードの繰り返しによるマイナー・バラード。これがジュリーの、艶と陰影のある声質に見事にマッチしていて、実にいい感じだ。
バックの演奏も、われわれがGSに期待するレベルを大きく超える出来映えだ。特に、ベースのサリー、ドラムスのピーのリズム隊の安定感は素晴らしい。GSといって侮るべからず、である。
実際、のちにレッド・ツェッペリンが来日した時に、ジョン・ポール・ジョーンズが当時PYGにいたサリーのベース演奏を聴いて、「日本にもベースのうまいヤツがいる」と賞賛したほど、サリーの技術は国際級だったのである。
ギターのタローも頑張って、マーク・フアーナーのソロをしっかりとコピーしており、ちょっと残念なのはバックコーラスくらいで、このままレコード化しても大丈夫なくらい、いい出来だ。
コロシアムライブでは他に、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)のカバー(Susie Q、I Put a Spell On You、Travelin’ Band)を演っているが、そちらもなかなかの仕上がりだ。彼らが超多忙な中、海外アーティストの研究にも余念がなかった様子が察せられる。
それにしてもこの曲で感じるのは、ジュリーの圧倒的な存在感である。
まだ歌唱力が安定していない時期だが、その声の持つ華やぎは、唯一無二、空前絶後のものだ。
彼の華麗な容姿も相まって「天性のスター」としか呼びようがない。後のソロでの大ブレイクぶりも、当然だと思う。
ヒットを何十年も出さずとも、沢田研二というシンガーが、極東ニッポンの最大級スターであることは間違いあるまい。
ここのところ64日連続で洋楽ばかり取り上げて来たので、たまには邦楽アーティストもピックアップしてみたいと思う。
ザ・タイガースについては、くだくだしい説明は不要だろう。日本の60年代後半に起こったグループサウンズ・ブームで、最高最大の人気を誇ったバンドである。
結成は65年6月、京都市。「サリーとプレイボーイズ」を4人でスタート。同年末、他バンドにいた沢田研二を誘い、翌年より5人で「ファニーズ」と改名して再スタート。
大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演して大人気となり、これに注目した内田裕也の仲介により、東京の渡辺プロダクションと契約。67年2月にザ・タイガースと再度改名してレコードデビュー。
以後、71年2月の解散コンサートに至るまでの正味4年間、グループサウンズブームを牽引し続け、解散後もメンバーの大半は、日本のミュージック・シーンで大活躍した、そんなビッグ・グループである。
彼らはいわゆる「アイドル」の括りで語られがちの存在であった。確かにそれは間違いではなかったが、実は多くのリスナーが思うよりはずっと「プロ」のミュージシャンであった。
そのことが、本日取り上げたライブレコーディングを聴くと、よく分かると思う。
ザ・タイガースは、先に人気の出ていた年長世代のブルーコメッツ、スパイダーズの後を追うようにしてデビュー、平均年齢19.4歳という圧倒的な若さで女性リスナーの人気をあっという間にさらい、GSの王座に躍り出た。
その時点では確かに、若さ、ルックスといった切り札に頼ったという感は否めなかった。
しかし、4年という年月は、彼らの音楽性や人間性に大きな成長をもたらした。レコーディングでロンドンを訪れたり、テレビ出演ばかりでなく武道館のような大規模ホールや野外でライブ演奏をするなど、現場でもみっちりと鍛えられた。
また、マネジメントサイド、プロデュースサイドとの衝突により、メンバー脱退、交代といった危機的状況もいろいろと経験している。
その結果、アイドルバンドとバカに出来ないレベルのバンド、海外のアーティストとも肩を並べうる存在へと次第に変化、成長していったのである。
田園コロシアムでのライブは、その場にいたオーディエンスだけでなく、近隣に住む人々、東急東横線の列車に乗った客にも十分聴こえる。
筆者も、このライブではないが、翌71年にPYGに再編成された時期の彼らのコロシアムライブを、多摩川園駅(現・多摩川駅)で偶然聴いたことがある。もう、完全に野外ライブと同じだった。
不特定多数の人に、生音を聴かれるパブリック・ライブ。しかも、当時人気絶頂のバンドである。絶対、下手くそな演奏をするわけにはいかない。
そんなプレッシャーに負けじと、彼らは海外ロック・バンドのカバー、そして自分たちのオリジナル曲や大ヒットナンバーを、ホーンやオーケストラといった外部ミュージシャンの力を借りずに、やり抜いたのだ。恐るべき、プロ根性である。
グループサウンズは、決して海外ロック・バンドのパチモンではなかったのである。明らかに、世界でも通用出来るバンドを目指していたことが分かる。
コンサートの中盤に演奏されたこの「Heartbreaker」は同題異曲がいくつもあるが、米国のバンド、グランド・ファンク・レイルロードのヒットナンバーのほう。
69年リリースのファースト・アルバムからシングルカットされ、翌年末に出たライブ・アルバムにも収められた。日本でも、アマチュアバンドの定番レパートリーとなったナンバーだ。
GFRは71年夏に来日して人気爆発しているが、それに先立つ1年前の70年、タイガースはこの曲をすでにライブレパートリーとして消化していたのだから、ものスゴい早取りである。若さゆえの吸収力がハンパない。
その曲調は、循環コードの繰り返しによるマイナー・バラード。これがジュリーの、艶と陰影のある声質に見事にマッチしていて、実にいい感じだ。
バックの演奏も、われわれがGSに期待するレベルを大きく超える出来映えだ。特に、ベースのサリー、ドラムスのピーのリズム隊の安定感は素晴らしい。GSといって侮るべからず、である。
実際、のちにレッド・ツェッペリンが来日した時に、ジョン・ポール・ジョーンズが当時PYGにいたサリーのベース演奏を聴いて、「日本にもベースのうまいヤツがいる」と賞賛したほど、サリーの技術は国際級だったのである。
ギターのタローも頑張って、マーク・フアーナーのソロをしっかりとコピーしており、ちょっと残念なのはバックコーラスくらいで、このままレコード化しても大丈夫なくらい、いい出来だ。
コロシアムライブでは他に、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)のカバー(Susie Q、I Put a Spell On You、Travelin’ Band)を演っているが、そちらもなかなかの仕上がりだ。彼らが超多忙な中、海外アーティストの研究にも余念がなかった様子が察せられる。
それにしてもこの曲で感じるのは、ジュリーの圧倒的な存在感である。
まだ歌唱力が安定していない時期だが、その声の持つ華やぎは、唯一無二、空前絶後のものだ。
彼の華麗な容姿も相まって「天性のスター」としか呼びようがない。後のソロでの大ブレイクぶりも、当然だと思う。
ヒットを何十年も出さずとも、沢田研二というシンガーが、極東ニッポンの最大級スターであることは間違いあるまい。