2022年12月9日(金)
#390 ELTON JOHN「Greatest Hits」(Polydor 314 512532-2)
シンガーソングライター、エルトン・ジョンのベスト・アルバム。74年リリース。
エルトンは1969年、22歳の時にアルバム「エンプティ・スカイ」でデビュー。
翌70年、セカンド・アルバムよりシングル・カットされた「僕の歌は君の歌」が米国でヒット、日本でもその後チャートの常連となり、彼のスターへの道が始まった。
本アルバムはデビュー以来、74年までの約5年間のヒットを網羅したベスト盤だ。
【個人的ベストファイブ・5位】
「土曜の夜は僕の生きがい」
73年10月、エルトンは自身の最大のヒットとなるオリジナル・アルバム「黄昏のレンガ路」(全英・全米ともに1位)をリリースするが、これに先立つ6月に先行シングルとして発表された一曲。
エルトンとしては異例の、エレクトリック・ギター・サウンドを前面に押し出した、当時ロックの王者であったローリング・ストーンズの向こうを張るような、バリバリのロックンロール・ナンバーだ。
エルトンの「バラード・シンガー」という従来のイメージを塗り替えて「ロック・スター」へと脱皮させた、画期的なヒット・ナンバー。
シャウトし、ピアノを弾きまくるエルトンが文句なしにカッコいい。
【個人的ベストファイブ・4位】
「ダニエル」
日本でも人気が高まって来た73年にリリースされたアルバム「ピアニストを撃つな!」よりシングル・カットされたバラード・ナンバー。
その歌詞はいろいろと解釈されているが、作詞者のバーニー・トーピン自身のコメントによれば、ベトナム戦争で戦い、故郷の町に帰って来た米軍兵士の、周囲の反応と本人の思いの落差を描き、元兵士の心の痛みを思いやった歌だそうである。
ベトナム戦争終結期という時代を反映した内容に、じんわりと涙が湧いて来る一曲だ。
しんみり、でもほのぼのとした味わいがある。
当時はまだポピュラー・ソングでもあまり使われていなかったフェンダー・ローズ(エレピ)の柔らかなサウンドが、実に効果的に使われている。
これがアコースティック・ピアノだと、全く印象が違っていたはず。
ビリー・ジョエルの「素顔のままで」と並ぶ、エレクトリック・ピアノを使った二大名曲と言えそうだ。
【個人的ベストファイブ・3位】
「ホンキー・キャット」
72年、パリ録音のアルバム「ホンキー・シャトー」からシングル・カットされたナンバー。
74年の来日公演時には、エルトンはネコの着ぐるみ姿で、この曲をおどけて演奏していたという記憶がある。
昔、この曲を聴いた時は、正直言って特に魅力を感じなかった。
しかし、時を経て改めて聴いてみると、新たな発見があったりする。
この「ホンキー・キャット」は、エルトンの南部アメリカ、それもニューオリンズへの憧れを凝縮した一曲なのだ。
当時の筆者は、ガチガチのハード・ロック派だったので、アメリカン・ロックにほとんど興味がなかった。バンドとか、ドクター・ジョン、リトル・フィートと言ったアーティストに関心を持つのは、70年代後半に入ってからだった。
だから、「ホンキー・キャット」のニューオリンズR&B、ファンクなノリにも「ポカーン?」だったのだ。
今思えば、もったいなかった。その元ネタを辿って、アメリカン・ロックにもっと早く開眼していたであろうに。
ま、当時中坊の筆者、まだまだ音楽に関しての視野は狭かったってことやな。
というわけで、昔は魅力的に思えなかった音楽も、聴く耳が成長すれば、違って見えてくるというお話でした。
【個人的ベストファイブ・2位】
「クロコダイル・ロック」
73年のアルバム「ピアニストを撃つな!」から先行カットされ、72年10月にリリース、ヒットしたシングル。
このオールディーズ風の一曲で、エルトンはある先輩シンガーへのリスペクトをはっきりと打ち出している。
その名は、ニール・セダカ。60年代に大人気だった米国のシンガーソングライターのはしりのような人だ。
それまではわりとしっとりとした、少し陰鬱な曲風が多かったエルトンがいきなり陽キャに変身、セダカの明るく、軽く、ポップな作風をトリビュートしたものだから、実に新鮮だった。
エルトンがシンガーソングライターから、ロッカーへと芸風を広げた一曲と言える。
その後73年にリリースする「土曜の夜は僕の生きがい」も、この曲が前フリだったという気がする。
そして、曲のヒットから2年以上を経て、ついにエルトンはセダカとの共演を果たす。
75年のヒット曲「バッド・ブラッド」である。
この曲は、ニューオリンズ・サウンドの粋、セカンド・ラインをフィーチャーしており、その圧倒的なノリの良さに、当時セカンド・ラインのセの字も知らない筆者(高校3年)も、身体を動かして楽しんでいた。
こういうふうに見ていくと、エルトンは70年代、まだまだ音楽に無知であった筆者にとって、水先案内人の役割を果たしてくれていたんだなぁと感じる。
【個人的ベストファイブ・1位】
正直言って、このベストファイブを決めるのは難しかった。
とにかく、いい曲が多すぎるのだ。選外にしてしまった曲にも、名曲がいっぱいある。例えば「ベニーとジェッツ」「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」「ロケット・マン」「風の中の火のように」「僕の瞳に小さな太陽」「人生の壁」……、って要するに残りの曲全部じゃねえか!
ま、そう言ったバラード系のナンバー全体を代表する一曲として、これを挙げよう。
「僕の歌は君の歌」
エルトンにとって最初のスマッシュ・ヒットであり、71年の初来日公演でも歌われた代表的ナンバー。
初期エルトンの、まだちょっと陰キャな個性がむしろ好感が持てる、バラードの佳曲。カバーしたアーティストも数多い。
歌詞は単なる友情を描いているようでもあり、男女間の愛情を描いているようでもある。
でもエルトンと作詞のトーピンの関係を知れば、同性間の恋愛感情を描いているとも言える。
筆者としては、聴く者がそれぞれの感性で解釈すればいいのだと思っておりますが。
この曲でのエルトンの少し高めで哀感を帯びた歌声、これは本当に素晴らしい。
おそらく、他の歌い手ではこの独特の味は出せまい。
天賦の美質とは、こういうものだと思いますね、ハイ。
もともとはシングルのB面扱いだったそうだが、ラジオディスクジョッキーたちの好みはA面の「パイロットにつれていってて」よりも圧倒的にこの曲だったことで、こちらがヒットに至ったという。
彼らの鑑定眼の確かさに、感服である。
以上、ハズレ曲は一切なし。初期エルトン・ジョンの才能が満ち溢れた一枚であり、そして筆者にとっては青春の一枚でもある。オススメ。
<独断評価>★★★★★
シンガーソングライター、エルトン・ジョンのベスト・アルバム。74年リリース。
エルトンは1969年、22歳の時にアルバム「エンプティ・スカイ」でデビュー。
翌70年、セカンド・アルバムよりシングル・カットされた「僕の歌は君の歌」が米国でヒット、日本でもその後チャートの常連となり、彼のスターへの道が始まった。
本アルバムはデビュー以来、74年までの約5年間のヒットを網羅したベスト盤だ。
【個人的ベストファイブ・5位】
「土曜の夜は僕の生きがい」
73年10月、エルトンは自身の最大のヒットとなるオリジナル・アルバム「黄昏のレンガ路」(全英・全米ともに1位)をリリースするが、これに先立つ6月に先行シングルとして発表された一曲。
エルトンとしては異例の、エレクトリック・ギター・サウンドを前面に押し出した、当時ロックの王者であったローリング・ストーンズの向こうを張るような、バリバリのロックンロール・ナンバーだ。
エルトンの「バラード・シンガー」という従来のイメージを塗り替えて「ロック・スター」へと脱皮させた、画期的なヒット・ナンバー。
シャウトし、ピアノを弾きまくるエルトンが文句なしにカッコいい。
【個人的ベストファイブ・4位】
「ダニエル」
日本でも人気が高まって来た73年にリリースされたアルバム「ピアニストを撃つな!」よりシングル・カットされたバラード・ナンバー。
その歌詞はいろいろと解釈されているが、作詞者のバーニー・トーピン自身のコメントによれば、ベトナム戦争で戦い、故郷の町に帰って来た米軍兵士の、周囲の反応と本人の思いの落差を描き、元兵士の心の痛みを思いやった歌だそうである。
ベトナム戦争終結期という時代を反映した内容に、じんわりと涙が湧いて来る一曲だ。
しんみり、でもほのぼのとした味わいがある。
当時はまだポピュラー・ソングでもあまり使われていなかったフェンダー・ローズ(エレピ)の柔らかなサウンドが、実に効果的に使われている。
これがアコースティック・ピアノだと、全く印象が違っていたはず。
ビリー・ジョエルの「素顔のままで」と並ぶ、エレクトリック・ピアノを使った二大名曲と言えそうだ。
【個人的ベストファイブ・3位】
「ホンキー・キャット」
72年、パリ録音のアルバム「ホンキー・シャトー」からシングル・カットされたナンバー。
74年の来日公演時には、エルトンはネコの着ぐるみ姿で、この曲をおどけて演奏していたという記憶がある。
昔、この曲を聴いた時は、正直言って特に魅力を感じなかった。
しかし、時を経て改めて聴いてみると、新たな発見があったりする。
この「ホンキー・キャット」は、エルトンの南部アメリカ、それもニューオリンズへの憧れを凝縮した一曲なのだ。
当時の筆者は、ガチガチのハード・ロック派だったので、アメリカン・ロックにほとんど興味がなかった。バンドとか、ドクター・ジョン、リトル・フィートと言ったアーティストに関心を持つのは、70年代後半に入ってからだった。
だから、「ホンキー・キャット」のニューオリンズR&B、ファンクなノリにも「ポカーン?」だったのだ。
今思えば、もったいなかった。その元ネタを辿って、アメリカン・ロックにもっと早く開眼していたであろうに。
ま、当時中坊の筆者、まだまだ音楽に関しての視野は狭かったってことやな。
というわけで、昔は魅力的に思えなかった音楽も、聴く耳が成長すれば、違って見えてくるというお話でした。
【個人的ベストファイブ・2位】
「クロコダイル・ロック」
73年のアルバム「ピアニストを撃つな!」から先行カットされ、72年10月にリリース、ヒットしたシングル。
このオールディーズ風の一曲で、エルトンはある先輩シンガーへのリスペクトをはっきりと打ち出している。
その名は、ニール・セダカ。60年代に大人気だった米国のシンガーソングライターのはしりのような人だ。
それまではわりとしっとりとした、少し陰鬱な曲風が多かったエルトンがいきなり陽キャに変身、セダカの明るく、軽く、ポップな作風をトリビュートしたものだから、実に新鮮だった。
エルトンがシンガーソングライターから、ロッカーへと芸風を広げた一曲と言える。
その後73年にリリースする「土曜の夜は僕の生きがい」も、この曲が前フリだったという気がする。
そして、曲のヒットから2年以上を経て、ついにエルトンはセダカとの共演を果たす。
75年のヒット曲「バッド・ブラッド」である。
この曲は、ニューオリンズ・サウンドの粋、セカンド・ラインをフィーチャーしており、その圧倒的なノリの良さに、当時セカンド・ラインのセの字も知らない筆者(高校3年)も、身体を動かして楽しんでいた。
こういうふうに見ていくと、エルトンは70年代、まだまだ音楽に無知であった筆者にとって、水先案内人の役割を果たしてくれていたんだなぁと感じる。
【個人的ベストファイブ・1位】
正直言って、このベストファイブを決めるのは難しかった。
とにかく、いい曲が多すぎるのだ。選外にしてしまった曲にも、名曲がいっぱいある。例えば「ベニーとジェッツ」「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」「ロケット・マン」「風の中の火のように」「僕の瞳に小さな太陽」「人生の壁」……、って要するに残りの曲全部じゃねえか!
ま、そう言ったバラード系のナンバー全体を代表する一曲として、これを挙げよう。
「僕の歌は君の歌」
エルトンにとって最初のスマッシュ・ヒットであり、71年の初来日公演でも歌われた代表的ナンバー。
初期エルトンの、まだちょっと陰キャな個性がむしろ好感が持てる、バラードの佳曲。カバーしたアーティストも数多い。
歌詞は単なる友情を描いているようでもあり、男女間の愛情を描いているようでもある。
でもエルトンと作詞のトーピンの関係を知れば、同性間の恋愛感情を描いているとも言える。
筆者としては、聴く者がそれぞれの感性で解釈すればいいのだと思っておりますが。
この曲でのエルトンの少し高めで哀感を帯びた歌声、これは本当に素晴らしい。
おそらく、他の歌い手ではこの独特の味は出せまい。
天賦の美質とは、こういうものだと思いますね、ハイ。
もともとはシングルのB面扱いだったそうだが、ラジオディスクジョッキーたちの好みはA面の「パイロットにつれていってて」よりも圧倒的にこの曲だったことで、こちらがヒットに至ったという。
彼らの鑑定眼の確かさに、感服である。
以上、ハズレ曲は一切なし。初期エルトン・ジョンの才能が満ち溢れた一枚であり、そして筆者にとっては青春の一枚でもある。オススメ。
<独断評価>★★★★★