NEST OF BLUESMANIA

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音曲日誌「一日一曲」#436 スリム・ハーポ「Baby Scratch My Back」(Exello)

2024-06-15 07:45:00 | Weblog
2024年6月15日(土)

#436 スリム・ハーポ「Baby Scratch My Back」(Exello)




スリム・ハーポ、1965年リリースのシングル・ヒット曲。ジェイムズ・ムーア(ハーポの本名)の作品。ジョセフ・D・ミラーによるプロデュース。

米国のブルースマン、スリム・ハーポは本名ジェイムズ・アイザック・ムーアといい、1924年11月ルイジアナ州ロプデル生まれ。幼少期よりラジオから流れるブルースに親しみ、ハーモニカを吹くようになる。特にブラインド・レモン・ジェファースンを愛聴していた。

18歳の頃、ムーアは生家を出て同州ニューオリンズに出て港湾労働者をしていた。その後地元に戻って建設作業員をするかたわら、同州バトンルージュのバー、路上などで演奏活動を始め、ハーモニカ・スリムのステージネームを使うようになる。

ムーアはバトンルージュで活動していたブルースマン、ライトニン・スリム(本名・オーティス・ヴェリーズ・ヒックス、1913年生まれ)が義理の兄弟となったことにより、彼のツアーにも帯同する。

また55年にはライトニン・スリムの紹介でエクセロレーベルのプロデューサー、J・D・ミラーとも知り合い、サイドマンとしてライトニン・スリムのレコーディングにも参加する。

57年、ムーアはエクセロで自身名義の初のレコーディングを行う。デビューにあたって、ハーモニカ・スリムという名のアーティストがすでにいることを知らされ、妻ラヴェルの提案によりスリム・ハーポに芸名を変更する。ハーポとはハープ(ハーモニカ)のなまりである。

デビュー・シングルは同年リリースの「I’m A King Bee / Got Love If You Want It」。以降、「Rainin’ In My Heart」(1961年)をはじめとする何枚ものシングルをリリースしたが、最大級のヒットが本日取り上げた一曲「Baby Scratch My Back」である。

レコードデビューしたものの、1960年代前半のムーアはまだ専業ミュージシャンではなく、トラックの運転手をして生計を立てていた。ライブやレコードの売り上げだけでは到底食べていけなかったのだ。

だが、彼の曲は次第に世間に浸透するようになっていた。その顕著な現れは、幾つもの英国のロック・バンドが彼のナンバーをカバーするようになってきたことである。

例えば、ヤードバーズは64年リリースのデビュー・ライブ・アルバムで「Got Love If You Want It」をカバーしている。同曲は、同年キンクスもデビュー・アルバムでカバーしている。また、「I’m A King Bee」はローリング・ストーンズが64年リリースのデビュー・アルバムでカバーしている。

英国の代表的なビート・グループが、こぞってスリム・ハーポという米国のブルースマンに注目するようになってきたのだ。

その機運の中、スリム・ハーポは「Baby Scratch My Back」をリリースする。本曲はほとんど歌らしい歌を含んでおらず、インストゥルメンタルに時おり彼のモノローグとハープ演奏が入るという、ちょっと変わった構成である。トレモロ全開のギター、マラカスといったバックのサウンドが印象的だ。

にもかかわらず、本曲はメチャ受けする。全米16位、R&Bチャート1位を獲得、スリム・ハーポ最大のヒット曲となった。

今思うに、この曲はダンス・ナンバーとして最適だったのだろうな。ほどよく緩いテンポで、踊り易いのが、抜群にウケた理由ではないかと思う。

スリム・ハーポ自身はこの曲について「自分にとってのロックンロールへの試み」と語っていたという。自分の曲が海の向こうで予想外の人気を獲得していることを知り、自分の音楽が単なる黒人のための音楽ではなく、世界的にアピールするのではという野心が生まれて来た、そういうことなのだろう。

その後、この大ヒット曲のカバーは黒人・白人両方から何曲も生まれた。

ブルース畑でいえば、ヒット後間もない66年にフランク・フロスト(ジェリー・ロール・キングスのフロントマン)が「My Back Scratcher」と改題してシングルリリース、R&Bチャートで43位を獲得して、彼唯一のヒットとなった。

ソウル畑にも、流行は波及した。同年、人気ソウル・シンガー、オーティス・レディングはブッカー・T &MG’Sをバックにレコーディングしたアルバム「The Soul Album」の中で「Scratch My Back」のタイトルで本曲をカバーしている。また、MG’S単体でのインスト・バージョンもレコードになっている。

ロック畑の代表格は、ヤードバーズだろう。彼らの66年7月リリースのアルバム「Roger The Engineer」では、「Rack My Mind」というタイトルでオリジナルの歌詞をつけたナンバーとしてカバーしている(クレジットはメンバー5人)。

また同年レコーディングした「BBC Sessions」では、スリム・ハーポの作品として、原曲通りのタイトルでカバーしている。歌詞を持つ「うた」としてこの曲を再構築したのは、彼らと言っていいだろう。

スリム・ハーポの狙い通り、ブルースというよりはロックンロールとして、この曲は世間に認知され、黒人と白人の垣根を越えて幅広くアピールした。

ルイジアナ・ブルースならではのゆるいノリが、英米の人々の好みに見事ハマって、ビッグ・ヒットとなった一曲。

ヒットソングの世界は、どこから伏兵が登場するか、分からない。片田舎のバトンルージュからだって、ニュー・ヒーローは生まれる。これだから、チャート・ウォッチングはやめられない。






音曲日誌「一日一曲」#435 ウィリー・ディクスン「I Ain’t Superstitious」(Columbia)

2024-06-14 08:06:00 | Weblog
2024年6月14日(金)

#435 ウィリー・ディクスン「I Ain’t Superstitious」(Columbia)




ウィリー・ディクスン、1970年リリースのアルバム「I Am The Blues」からの一曲。ディクスン自身の作品。アブナー・スペクターによるプロデュース。

米国のブルースマン、ソングライターにしてプロデューサー、ウィリー・ディクスンことウィリアム・ジェイムズ・ディクスンは1915年7月、ミシシッピ州ビックスバーグ生まれ。14人兄弟のひとりだった。4歳で教会で歌うようになる。

その後はジャズ・ピアニストのリトル・ブラザー・モンゴメリーを愛聴していたが、10代でミシシッピ州の刑務所農場で服役中、ブルースをよく聴くようになる。

10代後半、ゴスペル・グループ、ジュビリー・シンガーズを率いていたセオ・フェルプスに師事、ハーモニーを学んで自身も曲作りを始める。

1936年にシカゴに移住。巨体を生かしてボクシングの道に入り、イリノイ州ゴールデン・グローブズ選手権のヘビー級で初優勝し、1939年にプロボクサーになる。金銭トラブルがあり、4試合で廃業。

ボクシング・ジムでブルースピアニスト、レナード・キャストンと知り合ったことがきっかけで、シカゴのボーカルグループに参加するようになる。キャストンの勧めにより、ベースやギターも弾き始める。

39年、キャストンを含む4人のメンバーと共にファイブ・ブリーズを結成、ブルースとジャズを融合させたサウンドを生み出す。第二次大戦が始まり、兵役を拒否したディクスンは投獄され、音楽活動はストップしてしまう。

終戦後の40年代後半はフォー・ジャンプス・オブ・ジャイブスを経て、再会したキャストンらとビッグ・スリー・トリオを結成する。このグループは筆者も以前「一枚」にて取り上げている。

51年にトリオを解散した後は、チェス・レコードと契約を結び、スタジオ・ミュージシャン、そしてレーベルの管理業務につくようになる。

ディクスンはマディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、リトル・ウォルター、ボ・ディドリーら多くのブルース・ミュージシャンのバックをつとめ、彼らに楽曲を提供することでチェスの黄金時代を支えたのである。代表的なヒットは54年のマディ・ウォーターズの「Hoochie Coochie Man」、60年のハウリン・ウルフの「Spoonful」。

彼はチェスとその傘下のチェッカーだけでなく、50年代後半にはコブラレーベルでも働き、オーティス・ラッシュ、マジック・サム、バディ・ガイ、リー・ジャクスンらをプロデュースする。

ディクスンはレーベルを越えて、シカゴ・ブルース界全体でもトップ・プロデューサーとなったのだ。

59年以後は、自身名義のアルバムもリリースしていく。59年ブルースヴィルレーベルよりリリースした「Willie’s Blues」を皮切りに、ヴァーヴ、フォークウェイズなどから、ピアノのメンフィス・スリムとの共演盤を年1枚程度のペースで63年まで発表して、シンガー、ペース・プレイヤーとしての存在感をアピールしている。

しばらくの沈黙の後、70年にリリースされたのが、本日取り上げた一曲「I Ain’t Superstitious」(「迷信嫌い」と邦訳されることが多い)を含むアルバム「I Am The Blues」である。

これは彼が招集したシカゴ・ブルース・オールスターズをバックにレコーディングされた。メンバーはハープのビッグ・ウォルター・ホートン、ピアノのラファイエット・リーク、同じくサニーランド・スリム、ギターのジョニー・シャインズ、ドラムスのクリフトン・ジェイムズ。いずれも、シカゴ・ブルースを代表する名プレイヤーだ。もちろん、ボーカルとペースはディクスン自身である。

収録された9曲はいずれも、過去に彼が作曲して他のアーティストに提供し、ヒットしたナンバーばかり。つまり、まるごと一枚、セルフカバーのアルバムなのである。

「I Ain’t Superstitious」のオリジナルはハウリン・ウルフ。61年12月に、ベースのディクスン、ピアノのヘンリー・グレイ、ギターのヒューバート・サムリン、ジミー・ロジャーズ、ドラムスのサム・レイ、そしてボーカルのウルフというメンバーでレコーディングされている。

本曲の、従来のブルースとはひと味違ったポップなセンスに注目したのは、ヤードバーズを脱退後、ボーカルにロッド・スチュワートを迎えて自らのグループを結成したロック・ギタリスト、ジェフ・ベックだった。

68年7月リリースのデビュー・アルバム「Truth」で本曲のカバー・バージョンが収録された。そのハードでアグレッシブなサウンドは、当時のリスナーに大きな衝撃を与えたものである。

この近年のカバーバージョンを強く意識してのことだろう、「I Am The Blues」にも本曲が、数あるディクスンの作品群の中から選ばれた。

アレンジは、オリジナルやベック版のようなストップタイムを用いず、全編軽快なテンポのシャッフル。歌い口もウルフやロッドのようなアクの強さはないが、ディクスンらしい歯切れのいいものだ。

バックで目立っているのは、リズミカルなビッグ・ウォルターのハープだな。シャインズのギター・ソロもシブい味を出している。

このいかにも陽気なアレンジが、本曲の持つブラック・ユーモアをうまく引き立てているのである。

このアルバム「I Am The Blues」は1986年にブルースの殿堂入りを果たす。また、「I Ain’t Superstitious」も、2017年にオリジナル・バージョンがブルースの名曲として同殿堂入りを果たしている。

ディクスンはその後もアルバムリリースやライブなどで活躍を続け、1988年のアルバム「Hidden Chrams」でグラミー賞を獲得する。長年のブルースに対する貢献が認められたのである。

1992年1月、76歳の時カリフォルニア州バーバンクでこの世を去る。彼の体躯と同様、堂々たる人生であった。

若い頃には悪ガキで、ヤンチャもいろいろとやって臭い飯を食べていた時期もあったが、音楽が見事に彼を更生させたのだと思う。

筆者も残る人生、ディクスンには到底及ばないが、音楽に我が身を捧げて生きていきたいものだ。

「俺がブルースだ」と言い切った男、まさにブルースの権化のようなウィリー・ディクスンの、畢生の力作を味わってくれ。






音曲日誌「一日一曲」#434 ロバート・ジュニア・ロックウッド「Take A Little Walk With Me」(Delmark)

2024-06-13 07:54:00 | Weblog
2024年6月13日(木)

#434 ロバート・ジュニア・ロックウッド「Take A Little Walk With Me」(Delmark)







ロバート・ジュニア・ロックウッド、1973年リリースのアルバム「Steady Rollin’ Man」からの一曲。ロックウッド自身の作品。ロバート・G・コスターによるプロデュース。

米国のブルースマン、ロバート・ジュニア・ロックウッド(ロバート・ロックウッド・ジュニアの呼び方もある)は、1915年アーカンソー州ターキー・スクラッチ生まれ。

ロックウッドは、8歳の時に父親の教会でオルガンを弾き始める。両親は離婚し、彼は母親エステラに引き取られた。のちに彼女のパートナーとなった相手が、伝説のブルースマン、ロバート・ジョンスン(1911年生まれ)であった。

わずかに4歳年上で、父親というよりは兄のようなジョンスンから手ほどきを受けて、ロックウッドは10代からギターを弾き始める。

15歳までに、ロックウッドはアーカンソー州ヘレナ一帯のパーティでプロとして演奏出来るようになる。継父ジョンスン、サニーボーイ・ウィリアムスンII、ジョニー・シャインズらとも共演する。

30年代、ロックウッドはミシシッピ・デルタ中のジューク・ジョイント、パーティ、街角などで演奏を続ける。30年代末にはメンフィスでハウリン・ウルフ、B・B・キングと共演、あるいはセントルイス、シカゴなどへも赴いた。

初レコーディングは41年、26歳の時にイリノイ州オーロラのブルーバードレーベルで、シンガー、ドク・クレイトン(1998年生まれ)と共演して2枚のシングルをリリースした。

41年、盟友サニーボーイと共にヘレナのラジオ局KFFAの番組「キング・ビスケット・タイム」のレギュラー出演者となり、これがロックウッドの知名度を大きく高めることになる。メンフィスでB・B・キングのバンドに参加するようにもなる。

50年にアーカンソーからシカゴに移住して、よりメジャーなシーンで活躍する。マーキュリー、JOBといったレーベルよりレコードをリリース。54年よりリトル・ウォルターのバンドに3年ほど参加。

50年代後半にはサニーボーイとチェスレーベルでレコーディングし、エディ・ボイド、ルーズベルト・サイクス、J・B・ルノアー、マディ・ウォーター、サニーランド・スリムらとも共演する。彼のキャリアが一番華やかだった時代でもある。

60年、サニーボーイと共にシカゴを離れてオハイオ州クリーブランドに移り住み、以降の人生の大半をそこで過ごす。60年代半ばに一時引退するが、72年に57歳でカムバック。

以降、ロックウッドは自身のバンドを率いて、地元で定期的にライブを行う。そして、日本でも70年代半ば、ジ・エイシズと共に公演を行い、多くのファンの歓待を受けている。80年代にはジョニー・シャインズとも再び共演している。

27歳没と短命であった継父ジョンスンとは対照的に、ロックウッドは長生きして、2006年、クリーブランドで91歳で亡くなっている。

さて、本日の一曲は、彼がソロ・アーティストとして初めてリリースしたアルバム「Steady Rollin’ Man」からのナンバーだ。

クレジット上はロックウッドのオリジナルということになっているが、聴いてすぐにお分かりいただけるように、亡き継父、ロバート・ジョンスンの代表曲「Sweet Home Chicago」の改作にほかならない。

そのメロディが共通しているだけでなく、歌詞の一部には「Back to same old place, baby where we long to be」と、元ネタに繋がるフレーズを含んでいるのだ。

レコーディング・メンバーは、ギターのルイス・マイヤーズ、ベースのデイヴィッド・マイヤーズ、ドラムスのフレッド・ビロウ。すなわち、シカゴ・ブルースを代表する名バンド、ジ・エイシズである。

彼らの生み出すステディなビートに乗って、飄々としたボーカルを披露する58歳のロックウッド。

上手いというよりは、味わいがある歌声だね。

途中のギターソロも、特にテクニカルなことをやるのでなく、淡々と自然体で弾いている。

この緩めのテンションが、実に耳に心地いい。

ブルースにもさまざまなスタイルがある。ゴリゴリのギター・プレイやリキみまくりのハイテンション・ボーカルも、それはそれでブルースの醍醐味のひとつではあるが、こういう日常のワン・シーンを描いたようなゆるいブルースも、なかなか魅力があると思う。

ロックウッドは、70年代後半には12弦ギターを弾くようになり、彼独自のサウンドを生み出していくことになる。12弦弾き語りバージョンでも、本曲は演奏されることになる。これもまたいい感じだ。

「Take A Little Walk With Me」は喧騒の都会シカゴよりも、片田舎の趣きのある地方都市クリーブランドを終の住処、スウィート・ホームとして選んだロバート・ジュニア・ロックウッドならではの曲だ。今後もずっと聴き続けたい一編である。

ロバート・ジョンスンのような短く波乱に満ちた一生も傍目で見る分には面白いと思うが、誰にも真似出来るものではない。

ゆるゆるとマイペースで音楽を愛して、ギターを奏で続けたロックウッド翁のような生き方、これもまた理想の音楽人生だと思うよ。

音曲日誌「一日一曲」#433 アルバート・キング「As The Years Go Passing By」(Stax)

2024-06-12 07:51:00 | Weblog
2024年6月12日(水)

#433 アルバート・キング「As The Years Go Passing By」(Stax)




アルバート・キング、1967年リリースのアルバム「Born Under A Bad Sign」収録のナンバー。ディアドリック・マローンの作品。ジム・スチュワートによるプロデュース。

米国のブルースマン、アルバート・キングについては「一枚」「一曲」合わせて8回くらいピックアップしているが、筆者にとっては特別の存在なので、まだまだ書き足りない(笑)。そこで、今回もまたしつこく取り上げてみる。

アルバート・キングのキャリアについて再度ふれておくと、1923年ミシシッピ州インディアノーラ生まれ。本名はアルバート・ネルスン。アーカンソー州フォレストシティで幼少期を過ごし、ブルースに馴染み、独学でギターを習得する。

27歳となった50年、同州オセオラのブルースクラブT-99でハウスバンドに入り、プロとしての生活が始まる。数年後同州ゲイリーへ移り、ジミー・リード、ジョン・ブリムらとバンドを組む。当時の彼のパートはドラムスであった。B・B・キングにあやかって、キング姓を名乗るようになり、53年にパロットで初録音。

オセオラに戻り2年過ごした後、ミズーリ州セントルイスへ。当地で人気ミュージシャンとなり、59年にボビンレーベルと契約、61年「Don’t Throw Your Love on Me So Strong」で初ヒット。

その後キング、カントリーレーベルを経て、66年スタックスレーベルと契約して、人気インストバンド、ブッカー・T&MG’Sやメンフィス・ホーンズと共演、ヒット曲を連発する。

アルバム「Born Under A Bad Sign」は、66年3月から67年6月までにレコーディングされたセッションからの抜粋盤。表題曲「Born Under A Bad Sign」をはじめとする何曲ものシングルヒット曲を含んでいる。

本日取り上げた「As The Years Go Passing By」は、先日取り上げたフェントン・ロビンスンのカバー・バージョンである。

ロビンスンは1959年、デュークレーベルでこの曲をレコーディング、シングルリリースしている。作者はディアドリック・マローンとクレジットされている。これはこれまで何度も書いたように、デュークのオーナー、ドン・ロビーの別名であるが、調べてみるとどうも彼が書いた曲ではないようだ。

本当の作者は、ペパーミント・ハリスというブルースシンガー、ギタリストだ。彼は1925年テキサス生まれで、本名ハリスン・デモトラ・ネルスン。51年に「I Got Loaded」でR&Bチャート1位のヒットを出している。

フェントンはこのスローブルース・ナンバーを「As The Years Go By」のタイトルでリリースしたが、格別のヒットとはならなかった。

この曲を67年6月、約8年ぶりに取り上げて録音したのが、アルバート・キングであった。

レコーディング・メンバーは、ブッカー・T&MG’Sの4人とピアノのアイザック・ヘイズ、そしてトランペットのウェイン・ジャクスンをはじめとするメンフィス・ホーンズである。

アンドリュー・ラブのテナー・サックスのイントロから始まる本バージョンは、オリジナルの、50年代の重たいシカゴ・ブルース・スタイルではなく、スタックスならではの、ソウル&ファンクなアレンジとなっている。まさに60年代後半のサウンドだ。

シャウトをほとんどせずに、スムースそしてスマートに歌い上げるアルバート。そして、愛器フライングVから紡ぎ出されるスクィーズが耳に心地よく響く。

本曲はシングルカットはされなかったが、もしリリースされていれば、「Born Under A Bad Sign」「Crosscut Saw」などと同様に、ヒットチャートのかなり上位まで食い込めたのではないだろうか。

アルバムがリリースされ、このカバー・バージョンが世に出た事で、当然ご本家のフェントン・ロビンスンも大いに刺激を受けたに違いない。

彼は77年にアリゲーターレーベルよりアルバム「I Hear Some Blues Downstairs」をリリースした時に、ラストにこの曲の再録バージョンを収録している。ちなみにクレジットはペパーミント・ハリスに直されている。

こちらはオリジナル・レコーディングより18年の歳月を経ただけあって、円熟味を感じさせるボーカル、そしてフェントン節とも呼べる洗練されたギター・プレイが聴ける。

淡々と歌い奏でるように聴こえても、ズーンと心に沁み入って来る、そんな哀愁に満ちた名演である。さすが、本家の貫禄だ。

67年のアルバート・キングと、77年のフェントン・ロビンスン。この2バージョンは、まことに甲乙つけ難い。

その特徴ある歌い出しのメロディが、エリック・クラプトンの「Layla」のギターフレーズに引用されたことでばかり話題になる本曲だが、楽曲そのものとしても、十分名曲と呼ばれるに値すると筆者は思う。

ふたりのマエストロによる、至高のブルース・バラード。歌とギターの競演を、心ゆくまで楽しんでくれ。






音曲日誌「一日一曲」#432 ビッグ・ジャック・ジョンスン「I’m Gonna Give Up Disco and Go Back to the Blues」(Earwig Music)

2024-06-11 07:22:00 | Weblog
2024年6月11日(火)

#432 ビッグ・ジャック・ジョンスン「I’m Gonna Give Up Disco and Go Back to the Blues」(Earwig Music)



ビッグ・ジャック・ジョンスン、1987年リリースのファースト・ソロ・アルバム「The Oil Man」からの一曲。ジョンスン自身の作品。マイケル・ロバート・フランクによるプロデュース。

ビッグ・ジャック・ジョンスンことジャック・N・ジョンスンは1940年7月、ミシシッピ州ランバート生まれ。18人兄弟のひとりとして、小作農の一家に生まれた。バンドもやっていた父親の影響で、幼少期よりブルースやカントリーに親しみ、マンドリンを弾き始める。

10代からはB・B・キングに憧れて、エレキギターを弾くようになる。シェル石油のトラック運転手として生計を立てるようになったジョンスンは「オイル・マン」というニックネームで呼ばれていた。彼もまた父親として13人の子を持つことになる。

父親のバンドでギターを弾くだけでなく、ローカル・ブルースマンとの共演が増えていく。そして62年、22歳の年にハープのフランク・フロスト、ドラムスのサム・カーらとともに、ジェリー・ロール・キングス・アンド・ザ・ナイトホークスを結成する。ジョンスンの当初のパートはベースだったが、のちにギターとなる。

このバンドで15年間活動したのち、ジョンスンは自らのバンドを持って活動し、ギターだけでなくボーカルも聴かせるようになる。79年にはジェリー・ロール・キングスとしてもレコーディング、歌を披露する。

地道なライブ活動を重ねて、ようやく自らのファースト・アルバムのレコーディングにこぎつけたのが1987年、ジョンスンが47歳となった年であった。

シカゴのインディーズ系レーベル、イアーウイッグでリリースされたこのアルバムにより、ようやくジョンスンは世間にソロ・アーティストとしての存在を知らしめたといっていい。

イアーウイッグの創設者、マイケル・フランクのプロデュースのもと、ピアノに盟友フランク・フロストを迎えて、ベースのウォルター・ロイ、ドラムスのアーネスト・ロイとともにレコーディング。なかなか濃い内容の一枚に仕上がった。

本日取り上げた「I’m Gonna Give Up Disco and Go Back to the Blues」は、その中の一曲である。

聴いていただけるとすぐに分かると思うが、本曲はジョンスンの自作曲とはいえ、明らかに元ネタがある。そう、ジュニア・パーカー1953年リリースのシングル・ヒット曲「Mistery Train」である(当時はリトル・ジュニア・パーカー名義)。

この曲はパーカーによるヒットののち、55年にエルヴィス・プレスリーがカバーシングルを出して、カントリーチャート11位となり、全世界的に知られるようになる。

また、この曲を下敷きにしてマディ・ウォーターズが作った「All Aboard」は、69年リリースのヒット・アルバム「Fathers and Sons」に収録されて、「Mistery Train」の影響力の強さを感じさせた。

ジョンスンの「I’m Gonna Give Up Disco and Go Back to the Blues」では、最初のコーラスはほぼ「Mystery Train」といってよく、次のコーラスからは彼のオリジナルな歌詞になっている。内容はタイトル通り「オレはディスコをやめて、ブルースに帰るぜ」というユーモラスなもの。

かなり露骨な本歌取りなのに、クレジットにはジュニア・パーカーの名を入れていないので、その辺りパーカーの権利者サイドから突っ込まれないかなと心配する人もいるだろうが、実は大丈夫。

というのも、このアルバムには本曲の前に、パーカーの曲「I Like Your Body Style / Too Many Drivers」「Driving Wheel」と2曲もカバーを収録しており、パーカーへのトリビュートの姿勢を明確にしているからだ。

このくらいやれば、お目こぼしされるだろうね、十分に(笑)。

本曲でのジョンスンの歌、そしてギターはハイ・テンションそのもの。猛スピードで突っ走る列車の如し、である。

彼のステージ映像を観たことがあるならよく分かると思うが、とにかくそのボーカルやギター・プレイは、アグレッシブでノリがよいのだ。

ブルースは時代とともにそのサウンドを大きく変化させていったが、ジョンスンは洗練や変化といったものを望まず、若い頃から自分がやってきたデルタ・ブルースのスタイルを大きく変えることなく、ひたすら突き進んでいった人である。

2011年3月、70歳で亡くなるまで、彼はアルバムをコンスタントに作り、ライブ活動を続けた。

特にヒット曲もなく、ヒット・アルバムといえる作品もなかったが、確かなテクニックのギター、ワイルドなボーカル・スタイルの魅力で、一定数の支持層、ファンを持っていた。

人気アーティストとは言えなくとも、十分に「本物」であったビッグ・ジャック・ジョンスン。

筆者はブルースを愛する者のひとりとして、彼のような濃厚な味わいのあるブルースマンこそ、のちの時代にも聴き継がれてほしい、そう熱望するのである。






音曲日誌「一日一曲」#431 デイヴィッド・ボウイ&ミック・ジャガー「Dancing In The Street」(EMI)

2024-06-10 07:35:00 | Weblog
2024年6月10日(月)

#431 デイヴィッド・ボウイ&ミック・ジャガー「Dancing In The Street」(EMI)



デイヴィッド・ボウイ&ミック・ジャガー、1985年8月リリースのシングル・ヒット曲。マーヴィン・ゲイ、ウィリアム・スティーヴンスン、アイヴィー・ジョー・ハンターの作品。アラン・ウィスタンリー、クライヴ・ランガーによるプロデュース。ロンドン録音。

英国を代表するロック・シンガー、デイヴィッド・ボウイとミック・ジャガーのふたりが初めてデュオでレコーディングしたことで話題となった一曲が、この「Dancing In The Street」である。

共演のきっかけは、同年7月に開催された飢餓救済のためのチャリティ企画のイベント、「ライブエイド」であった。ボウイ、ジャガーともに発案者のボブ・ゲルドフ、ミッジ・ユーロらに賛同して、これに参加したのだ。

当初は、ボウイが英国ロンドンのウェンブリースタジアム、ジャガーが米国フィラデルフィアのジョン・F・ケネディスタジアムで同時にコンサートを開催して、一緒に曲を演奏してこれを撮影する予定であった。

しかし、技術的な問題がこれに立ちはだかる。大陸間の距離により、衛生中継では約半秒の遅延が発生してしまい、歌い手のどちらかが口パクしない限りは実現不可能と判明してしまう。ふたりともそれは望まなかったため、同時ライブ共演は実現せずに終わってしまう。

そのかわりにロンドンで映画「Absolute Beginners」のサウンドトラックをレコーディング中のボウイにジャガーが合流して、6月29日にこの「Dancing In The Street」を録音したのである。曲はわずか4時間で完成したという。

2か月後の8月下旬にシングルリリース、全英チャートで4週連続1位、そして全米7位のビッグヒットとなった。ボウイとしては7番目、最後のトップテンヒット、そしてジャガーはソロとしては唯一のヒット曲となったのである。

ライブエイドの一環として、その収益は全額が慈善団体に寄付されたのはいうまでもない。

本曲のミュージック・ビデオ(MV)も曲と並行して制作された。ボウイとジャガーのふたりはロンドンのスピラーズ・ミレニアム・ミルズという廃墟施設にロケして、MV監督として著名なデイヴィッド・マレットのディレクションのもと、撮影された。この映像はライブエイドのイベントで2回上映されている。

観ていただくと分かると思うが、ジャガー(当時41歳)がとにかく踊りまくり、はっちゃけまくりである。これに触発されてか、普段はあまり激しいダンスを踊らないボウイ(当時38歳)も、目一杯身体を揺らして踊っている。実に貴重な映像記録だといえる。

さて、この曲にはこのシングルに至るまでに、20年以上の歴史がある。もともとは1964年、黒人女性コーラスグループ、マーサ&ザ・ヴァンデラスのために、モータウンのソングライターも兼ねていたマーヴィン・ゲイ、そしてウィリアム・スティーヴンスン、アイヴィー・ジョー・ハンターというソングライターが共作で書いたナンバーである。シングルリリースは64年7月。

その抜群のノリの良さにより、あっという間にヒット、全米で2週2位、そして全英でも4位の大ヒットとなった。

以後この曲は、多くのアーティストによってカバーされるようになる。翌65年に英国のロック・バンド、キンクスがカバーして全英3位、全米60位のヒット。66年には米国のコーラスグループ、ママス&パパスがカバーして、全米73位。

米国のロック・バンド、グレイトフル・デッドも60年代よりライブ・レパートリーに取り入れて、77年にシングルリリース。

80年代は、同じくヴァン・ヘイレンが82年にシングルリリース。全米38位となっている。

ボウイとジャガーのカバーバージョンは、これら過去のアーティストをはるかに超えるスーパーヒットとなり、ご本家のヴァンデラスをもしのぐ存在感を発揮したわけである。

古くからポップス を聴いているシニア・リスナーを除けば、この「Dancing In The Street」という曲は、「ボウイとジャガーの曲」ということになるのだろうね。

そして時は流れ、さらに約40年が経過してしまったが、この曲はみじんも古びるということがない。

多くのミュージシャンがこの曲を好んで取り上げていることが、何よりもの証左だろう。それも、懐メロという扱いでなく、現代のコンテンポラリーなサウンドにもフィットしている曲として。

それはやはり、作曲者チームのセンスが卓抜していたってことなのだ。本曲のリズミカルなメロディ・ラインに勝る新曲には、滅多にお目にかかれない。

ふたりのうち、デイヴィッド・ボウイは8年前に69歳でこの世を去ってしまった。が、残るミック・ジャガーは80歳の今も現役で、精力的に活動している。

ありし日のボウイ、そしてジャガーの勇姿を観れば、「トーキョー!」と呼びかけられた日本のわれわれも、元気いっぱいになれる。朝イチに聴いて、気分アゲアゲにしたい一曲である。




音曲日誌「一日一曲」#430 メリー・ホプキン「Que Sera, Sera(Whatrever Will Be Will Be」(Apple)

2024-06-09 07:51:00 | Weblog
2024年6月9日(日)

#430 メリー・ホプキン「Que Sera, Sera(Whatrever Will Be Will Be」(Apple)




メリー・ホプキン、1970年リリースのヒット・シングル曲。ジェイ・リビングストン、レイ・エヴァンスの作品。ポール・マッカートニーによるプロデュース。

英国の女性シンガー、メリー・ホプキンは1950年5月、ウェールズのウェストグラモーガン州ポントアルダウエ生まれ。

子供の頃より毎週歌のレッスンを受け、アコースティック・ギターも弾いて、10代はザ・セルビー・セット&メリーというフォーク・グループで活動していた。

当時、地元の小レーベル、カンブリアンからウェールズ語の歌のレコードをリリースしている。

タレント登竜門のテレビ番組「オポチュニティ・ノックス」に出演して、弾き語りでバーズの「Turn, Turn, Turn」を歌ったところ、当時人気のモデル、ツィッギーの目に止まり、彼女が親しいビートルズのポール・マッカートニーに推薦したことから、ホプキンのシンデレラ・ストーリーは始まった。

ホプキンはビートルズが68年に創設したばかりのアップルレーベルの、第一号アーティストとしてデビューすることになる。

デビュー曲はマッカートニーがプロデュースした「Those Were The Days(邦題・悲しき天使)」。ロシアのボリス・フォミンの曲に米国のジーン・ラスキンが英語詞を付けて作られたこの曲は、68年8月にシングルリリースされるや、瞬く間にヒット。

全英とカナダで1位、全米でも2位(1位はビートルズの「Hey Jude」)。フランス、ドイツをはじめとするヨーロッパ各国でも1位か2位、そして日本でもオリコン1位の栄誉に輝いたのである。

このヒットはもちろん、哀愁に満ちたメロディを持つ楽曲自体の良さもあるが、マッカートニーが自らプロデュースを手がけたという話題性、そしてルックスもチャーミングな18歳の女性ホプキンが歌ったこと、そして彼女の歌声が多くのリスナーに好まれるような声質であったこと、そういった全てが作用してのことであった。

シンガーとしてこの上なく快調なスタートを切ったホプキンは、69年2月にマッカートニーのプロデュースによるファースト・アルバム「Post Card」をリリース、これも全英3位、全米28位のヒットとなる。

69年3月にはシングル「Goodbye」をリリース。これもプロデュースはマッカートニーで、曲も彼が書いている(クレジット上はレノン=マッカートニー)。この曲は全英2位、全米でも13位というヒットになった。

これで彼女の人気も十分定着して安心だと考えたのか、その後マッカートニーはホプキンのプロデュースから離れて、ミッキー・モストら他の専業プロデューサーに任せるようになる。

ホプキンは曲調的には、過去のスタンダードのリメイク的なもの、フォーク・ソング系がメインで、当時のヒット・ポップス的な路線ではなかったこともあり、以降のシングルは、最初や二番目のような派手なヒットにはなかなかならなかった。

その中で、70年1月のヒットシングル「Temma Harbour(邦題・夢みる港)」に続いてわりと健闘したと言えるのが、本日取り上げた一曲「Que Sera, Sera」だ。デビュー2年後の70年半ばにリリースされた本曲はもちろん、米国の女性シンガー、ドリス・デイのヒットで知られるあの曲である。

「Que Sera, Sera」のオリジナル・バージョンは、56年のアルフレッド・ヒッチコック監督の映画「知りすぎていた男」に、ジェイムス・スチュアートとともに主演したドリス・デイによって歌われた主題歌であった。

映画の公開に合わせて56年5月にシングルがリリースされ、全米2位、全英1位の特大ヒットとなった。

以降、ドリス・デイといえばこの曲と言われるくらい、彼女の代表曲となったのである。また、日本でもペギー葉山、雪村いづみがカバーで競作、ともにヒットしている。

そのスタンダードナンバーを取り上げたのは、実はマッカートニーであった。つまり、69年初頭時点でこの曲はすでにレコーディングされていたが、デビュー・アルバムに収録されなかったため、70年のシングルリリースによって、ようやく日の目を見たのである。

その事実を知ってレコードをよく聴き込むと、確かに当時のビートルズ、というかマッカートニーのサウンドだよなぁ、これは。

オリジナルより少しテンポをアップ、軽快なアレンジとなったホプキンバージョンは、いかにも60年代末のポップス っぽい。

英国ではリリースされなかったが、全米77位、新たに出来た同アダルトコンテンポラリーチャートでは11位となった。全豪で30位、ニュージーランドで10位、日本では18位。

小ヒットといったところだが、筆者的には中学に入りTBSトップ40あたりのヒットチャート番組を熱心に聴いていた頃によく流れてきた曲なので、いまだに耳に残っている。

ホプキンのアタックの少ない、ソフトで暖かみのある歌声には、オリジナルのドリス・デイの歯切れのいい声とはまた違った魅力がある。言ってみれば、究極の癒やしボイスだな。

彼女の柔らかな声で「ケセラセラ」という呪文のような言葉が発せられると、「うんうん、そうだよな。この人生、なるようにしかならないよなー」といたく納得してしまうのである。

その後ホプキンは、ヒットメイカーとしての道よりも、個人的な幸せの方を優先していく。具体的にいうと、セカンド・アルバム「Earth Song / Ocean Song」をプロデュースしたトニー・ヴィスコンティと恋に落ち、そのまま71年に結婚するのである。

流行歌手としてのキャリアは、そこで終わってしまったが、彼女にとっては、それがまさに「ケセラセラ」だったのではないだろうか。

ウルトラ・ラッキーな成功を掴んでも、それにしがみつくことなく、その時その時の自分の気持ちに従って生きていく。

そんな自然体な彼女だからこそ、ほんの数年の活動でも残した作品群は実に魅力的である。

ドリス・デイの音楽史に残る名唱ももちろん忘れることは出来ないが、このメリー・ホプキンのカバーも捨てがたいスタンダードだと思うよ。






音曲日誌「一日一曲」#429 ザ・ゾンビーズ「Time Of The Season」(CBS)

2024-06-08 07:40:00 | Weblog
2024年6月8日(土)

#429 ザ・ゾンビーズ「Time Of The Season」(CBS)




ザ・ゾンビーズ、1968年4月リリースのシングル・ヒット曲。メンバーのロッド・アージェントの作品。彼ら自身によるプロデュース。セカンド・アルバム「Odessey And Oracle」に収録。

英国のロック・バンド、ザ・ゾンビーズは1961年、ハートフォード州セント・アルバーンズにて結成。当初はザ・マスタングスとする予定だったが、既に同名のバンドがいたため、このユニークな名になったという。

メンバーはキーボード、ボーカルのロッド・アージェントを中心に、ボーカルのコリン・ブランストーン、ギターのポール・アトキンスン、ベースのクリス・ホワイト、ドラムスのヒュー・グランディの5人。

ローカルバンドのひとつに過ぎなかった彼らの、メジャーデビューのきっかけとなったのは、64年イブニング・ニュース紙のバンド・コンテストでの優勝である。デッカレーベルと契約、同年7月、シングル「She’s Not There」でデビュー。

これが本国で12位のヒットとなっただけでなく、ブリティッシュ・インベイジョンの全盛期ということもあって米国でも火がつき、全米2位の大ヒットとなったのだ。日本でもオリコン1位。ゾンビーズは一躍、世界的な人気バンドとしてクローズアップされたのである。

64年末にリリースしたサード・シングル「Tell Her No」も全米6位のヒット。本国では42位と、明らかに米国人気の方が先行していた。65年1月に米国で、4月に英語で、それぞれ別内容のファースト・アルバムをリリース。

66年から67年にかけてはヒットに恵まれず、その間はアルバムをリリースすることもなかった。

そのため、ゾンビーズはすっかりピークを過ぎた過去のバンドだと思われていたのだが、68年3月にシングル曲をリリースして、のちに久しぶりの大ヒットとなる。それが、本日取り上げた「Time Of The Season(邦題・ふたりのシーズン)」である。

この曲はすぐには火がつかず、続いて4月にセカンド・アルバム「Odessey And Oracle」をリリースしたのだが、これも不発に終わってしまう。

このアルバムは、デッカから契約を切られてしまったため、彼ら自身が制作費用を調達した。メロトロンを導入してサウンドをアップデートするなど意欲作であったが、制作中にバンド内の人間関係が悪化して、なんとアルバムリリース後にバンドは解散してしまう。

この最悪の状況を救ったのは、CBSのスタッフ・プロデューサー、アル・クーパーであった。彼の進言により、米国限定で「Time Of The Season」と別曲をカップリングしたシングルを、65年3月に再度リリースしたのである。

これが見事に成功、全米3位の大ヒットとなった。まさに起死回生の一打であった。

これを見てレコード会社はバンドに再結成を強く要請したのはもちろんだが、リーダー格のアージェントの意志は固く、その要請を拒否して、ゾンビーズは再び蘇ることはなかった。

ゾンビだから復活するかと思いきや、実に皮肉な話である。

ビッグチャンスを掴んでデビュー、即ヒット・メーカーとなったものの、すぐにブームが去ってしまい、ジリ貧に陥ったゾンビーズ。それでも実力を蓄えて、いま一度のヒットを狙うも、叶わず。すっかり夢を諦めて、ミュージック・シーンを去った後に、ひょんなことで逆転ホームラン。なんとも波乱万丈なバンド・ヒストリーであった。

ゾンビーズのサウンドは、いわゆるソフト・ロックにカテゴライズされているが、その一番の魅力は、転調をうまく配した、少し捻りのあるメロディ・ラインだと思う。

デビュー曲の「She’s Not There」、「Tell Her No」、「Time Of The Season」、どれもギター・ロック系のバンドにはない、キーボーディスト、ロッド・アージェントならではの洒落たメロディ・センスが感じられる。

日本でもグループ・サウンズが彼らの甘くメロディアスなサウンドを強く支持しており、中でもザ・カーナビーツが「I Love You」を「好きさ好きさ好きさ」のタイトルでカバーして大ヒットさせたことで、ご存じの方も多いことだろう。

「Time Of The Season」は過去のゾンビーズのビート・グループ的なサウンドと、60年代後半のサイケデリックでアヴァンギャルドなサウンドがうまく融合した名曲だと思う。

少し大袈裟にいうならば、この一曲を生み出したことにより、ゾンビーズは単なるポップ・バンドを脱して、アーティストへと脱皮したのだ。

その後、ロッド・アージェントは69年に自分の名を冠したバンド「アージェント」を作り、76年まで活動している。ボーカルのコリン・ブランストーンはソロ・シンガーとなっている。そして、2004年にふたりは再びザ・ゾンビーズの名で合流して、活動を続けている。2019年にはロックの殿堂入りも果たした。

独特のメロディ・センスとキーボード・サウンド。あまたのブリット・ポップとはひと味違う、ザ・ゾンビーズの最高傑作を楽しんでくれ。

音曲日誌「一日一曲」#428 アレサ・フランクリン「Today I Sing The Blues」(Columbia)

2024-06-07 07:48:00 | Weblog
2024年6月7日(金)

#428 アレサ・フランクリン「Today I Sing The Blues」(Columbia)





アレサ・フランクリン、1960年10月リリースのシングル・ヒット曲。カーティス・ルイスの作品。ジョン・ハモンドによるプロデュース。

米国の女性シンガー、アレサ・フランクリンについては過去に2回取り上げたが、まだまだ書き足りないので、三たびピックアップしてみたい。

アレサ・ルイーズ・フランクリンは1942年テネシー州メンフィス生まれ。10代より、父親が牧師をつとめていたミシガン湖デトロイトの教会でゴスペルを歌うようになったのが、彼女の音楽の原点だった。

父は著名なゴスペル・シンガーでもあり、フランクリン家にはサム・クック、マーヴィン・ゲイら多くのミュージシャンが出入りしていた。アレサも彼らに刺激を受け、父のマネジメントのもと、若くしてレコードデビューする。56年には初のシングル「Never Grow Old」をリリース。

18歳となった60年、ニューヨークに移住、ポップ・ミュージックの世界に飛び込む。同年コロムビアレーベルと契約。

同年8月、黒人ソングライター、カーティス・ルイス(1918年生まれ)が48年に書き、女性ブルースシンガー、ヘレン・ヒュームズによってヒットした曲をレコーディングする。

そうして9月にシングルリリースされたのが、本日取り上げた一曲「Today I Sing The Blues」である。つまり、アレサのメジャー・デビュー曲だ。

本曲はR&Bチャートで10位のスマッシュ・ヒットとなっただけでなく、全米チャートでも101位となり、アレサは新人黒人女性シンガーとして、白人リスナーにもその名を知られるようになったのだ。

その後、彼女は本欄で以前取り上げた「Won’t Be Long」を12月にリリース、R&Bチャート7位、全米76位とさらにランクアップ、人気シンガーとしての道を歩み出す。

翌61年2月には、ジャズ・ピアニスト、レイ・ブライアントのコンボと共演したデビュー・アルバム「Aretha」をリリースした。このアルバムには、前述のシングル2曲がもちろん収録されており、他にはジャズ・スタンダードが多く含まれていた。

つまり、後に「ソウルの女王」と称されたアレサも、メジャー・デビュー当時には、ちょっと意外だが、ジャズ・シンガー的な売り方をされていたのである。

デビューアルバム、そして62年3月リリースのセカンド・アルバム「The Elecrifying Aretha Franklin」までは、その路線が続いて、セールスは極めて地味であった。アルバムが全米チャートインするのは、サード・アルバム以降である。

さて、このデビュー曲「Today I Sing The Blues」に関しては、アレサは格別の思い入れがあったのだろう、のちに68年、再びレコーディングしている。

今回は白人アレンジャー、アリフ・マーディンの編曲により、オリジナルよりだいぶん長めのバージョンとなり、翌69年1月リリースの14thアルバム「Soul ‘69」に収められた。同アルバムはR&Bチャート1位、全米15位に輝いている。

このふたつのバージョンを聴き比べてみると、8年余りの歳月が、もともと達者であったアレサの歌を、さらに進化させていることがわかると思う。

デビュー時のアレサも、新人としては抜群にうまかったのは間違いないが、まだ少し硬さを感じさせるところがあった。

が、その後「ソウルの女王」としての地位を不動にした後のアレサの歌には、自信、余裕、そして貫禄が滲み出ており、もはや誰も彼女に追いつけない、そんな印象すら感じるね。

その自由闊達、抑揚自在で伸びやかな歌声は、ローリング・ストーン誌上で2度も「史上最高のシンガー」に選ばれただけのことはある。

アレサは私生活ではデビュー後すぐ、61年に最初の結婚をしている。相手は7年前に知り合ったテッド・ホワイト(1931年生まれ)である。彼は結婚後、アレサのマネージャーとなるも、次第に家庭内暴力をふるうようになり、すさんだ結婚生活の末、69年に離婚が成立している。

そのようなプライベートな事情を知ると、実生活の辛い体験により、アレサの歌が説得力を伴い、より深いものになっていったのだなと感じる。

ブルースを歌うこと、それは日常のつらい日々を生きることにほかならない。人生の重みを感じさせる68年のバージョンは、最初の結婚生活の、総決算のようにも聴こえる。

アレサの、その栄光と常に背中合わせにあった憂鬱を、このふたつの「Today I Sing The Blues」に感じとって欲しい。

音曲日誌「一日一曲」#427 ボニー・レイット「Runaway」(Warner Bros.)

2024-06-06 08:03:00 | Weblog
2024年6月6日(木)

#427 ボニー・レイット「Runaway」(Warner Bros.)




ボニー・レイット、1977年4月リリースのシングル・ヒット曲。デル・シャノン、マックス・クルックの作品。ポール・A・ロスチャイルドによるプロデュース。

米国の女性シンガー/ギタリスト、ボニー・リン・レイットは1949年11月、カリフォルニア州バーバンク生まれ。父は俳優、母はピアニストで、幼い頃からピアノを弾くようになる。

8歳の時、クリスマスプレゼントのギターを弾き始め、ピアノよりそちらに熱中するようになる。フォーク・リバイバルのブームに感化され、サマーキャンプで人前で演奏するようになる。

ニューヨーク州の高校を卒業後、ハーバード大系の女子大に入学、学内の音楽グループで歌い始める。ブルースのプロモーター、ディック・ウォーターマンと知り合い、70年夏、フィラデルフィア・フォーク・フェスティバルに出演、伝説的ブルースマン、ミシシッピ・フレッド・マクダウェルとも共演する。ウォーターマンを通じてハウリン・ウルフ、シッピー・ウォーレスとも知り合う。

これが、レイットの一大転機となった。

ブルースを歌い、演奏する若い(当時20歳)白人女性が現れたということで大いに注目を集め、いくつかのレコード会社からもスカウトが来るようになる。最終的に大手ワーナー・ブラザーズと契約、翌71年11月アルバム「Bonnie Raitt」でデビュー。当時のレイットはアコースティック・ギター演奏がメインであった。

セールス的にはふるわなかったが、ロック評論家からの評判はよく、業界内から注視される存在となる。

その翌年、72年9月リリースのセカンド・アルバム「Give It Up」は全米138位の初チャートイン。翌73年10月リリースの「Takin’ My Time」は87位と、作を追うごとに少しずつファンを増やしていく。

4作目の「Streetlights」(74年9月)でフォークやブルースを少し離れて、よりポップな路線にシフトする。チャートは全米80位。

75年リリースの「Home Plate」よりドアーズやジャニス・ジョプリン等との仕事で知られるポール・ロスチャイルドのプロデュースとなる。このアルバムは全米43位と、以前よりも大幅にセールスがアップする。

その2年後に再び彼のプロデュースでリリースした「Sweet Forgiveness」が、知名度、セールス共に伸び悩んでいたレイットの突破口となった。

ついにヒット・シングルが出て、そのおかげでアルバムが全米25位のヒットとなったのである。

そのシングル曲とは、本日取り上げた「Runaway」である。

日本でも「悲しき街角」のタイトルでよく知られるこの曲は、みなさんご存知だろうが、男性シンガー、デル・シャノンが作曲して歌い、大ヒットさせたナンバーだ。

オリジナルのシングルは61年2月にリリースされ、4週連続で全米1位となった。全英、全豪、カナダ、ニュージーランドでも1位など、世界的なヒットとなった。もちろん日本でも。

デル・シャノンのバージョンではアップ・テンポだったこのナンバーを、16年後、ボニー・レイットはテンポを大幅に下げて、ノートン・バッファローのハープを間奏でフィーチャー、ブルージィで重厚な演奏に仕上げている。

大胆にアレンジされたレイット版「Runaway」は、リスナーの耳をとらえてヒット、全米57位を獲得した。

この曲により、彼女のシンガーとしての知名度も、大きく上がった。伸びやかで表現力のある歌声は、達者なギターの腕前と同様に、高く評価されるようになる。

さて、ヒットを出した後のレイットは、やや中だるみ状態となってしまう。知名度が上がったことにより、アルバムは全米30位前後をキープ出来るようになったが、シングル・ヒットには恵まれず、次第にジリ貧状態に陥りるようになる。

「Sweet Forgiveness」リリース後9年を経過した86年の「Nine Lives」では138位と、大幅にセールスが落ち込んでしまう。そして、ワーナー・ブラザーズとの契約も終了する。バックバンドも解散、レイットは失意でアルコール漬けの日々を過ごしたという。

しかし、その3年後の89年3月、レイットは起死回生の一打を放つ。新たに契約したキャピトルレーベルからリリースしたアルバム「Nick Of Time」が全米1位、500万枚を超える、超特大のヒットになったのである。

名プロデューサー、ドン・ウォズを迎えて制作された本アルバムは、基本的にはレイットがずっと追求して来たブルース・ロックをやっており、奇を衒ったようなことは何もやっていないが、それでも過去最大の成功を得られた。

それも詰まるところは、彼女の持つ音楽性の高さ、すなわち歌やギターのうまさ、作曲能力、選曲やアレンジのセンス、そういった全ての賜物なのだと思う。

40歳間近のベテラン女性アーティストが全力を尽くせば、ちゃんとリスナーはそれを見ていて、正当に評価してくれる。

やはりアメリカは、実力主義の国なのだ。アジアのどこかの国みたいに、アーティストの見てくれだけでレコードが何百万枚も売れる甘ったるい市場とは、わけが違うのだな。

ボニー・レイットの不屈のミュージシャン魂には、敬服するばかりである。

そんな彼女の出世作、今日に続く活躍の基盤となった一曲。それが47年前にリリースされた、この「Runaway」だ。

懐かしさと共に、彼女の確かな音楽的実力を、そこにかぎ取ってほしい。




音曲日誌「一日一曲」#426 ザ・トロッグス「Wild Thing」(Fontana)

2024-06-05 07:22:00 | Weblog
2024年6月5日(水)

#426 ザ・トロッグス「Wild Thing」(Fontana)




ザ・トロッグス、1966年4月リリースのシングル・ヒット曲。チップ・テイラーの作品。ラリー・ペイジによるプロデュース。

英国のロック・バンド、ザ・トロッグスはハンプシャー州アンドーヴァーにて64年結成。ボーカルのレッグ・プレスリー、ギターのクリス・ブリットン、ベースのピート・ステーブルズ、ドラムスのロニー・ボンドの4人編成。

66年2月、人気バンド、キンクスのマネージャー、ラリー・ペイジに見出されて契約を結ぶ。ペイジの経営するペイジ・ワン・レーベルでレコーディング、CBSよりデビュー・シングル「Lost Girl」を同月リリース。

この曲はヒットしなかったが、次のシングルで大ブレイクを果たすことになる。それが本日取り上げた一曲「Wild Thing」である。

「Wild Thing」は同4月にフォンタナレーベルよりリリースされ、全英2位、全米1位という大西洋をまたがるスーパー・ヒット、ミリオン・セラーとなった。これにより、トロッグスの名が全世界に轟いたのは、いうまでもない。

ヒットの波は他の国々にも及び、全豪1位、ニュージーランド1位、カナダ2位をはじめ、ヨーロッパ各国でも軒並みトップテン・ヒットとなったのである。日本でも「恋はワイルド・シング」というタイトルでリリースされ、その際どい曲調が話題となった。

この曲はもともと、米国のロック・バンド、ザ・ワイルド・ワンズ(むろん日本のGSとは無関係)が65年11月にリリースした曲だった。作者はシンガーソングライターのチップ・テイラー。バンドの依頼で書かれたこの曲は、かなり性的に際どい内容になった。しかし、残念ながらヒットには至らなかった。

この奇妙な曲に着目したペイジは、トロッグスにレコーディングを勧めて、実現させる。トロッグスのメンバーも、「Wild Thing」がそれまでやったことのないようなタイプの曲だったので、好奇心半分でチャレンジしたようである。

英国ではフォンタナレーベルからリリースされたが、一方米国では配給をめぐる争いがあり、フォンタナとアトコの競合リリースという珍しいケースとなった。このレーベル間の争いもいい方に作用して、全米1位が実現したといえる。

デビュー曲の「Lost Girl」はなんの変哲もない普通のビート・ナンバーという感じだったが、この超色物ナンバーにより、トロッグスはよくも悪くも「目立つバンド」となった。

大ヒットの勢いのやまないうちに次のシングル「With a Girl Like You」が7月にリリースされる。作者はボーカルのプレスリー。キャッチーで軽快なテンポの本曲は100万枚以上を売り上げ、全英1位、全米29位と、前作には劣るものの、まずまずのヒットとなった。

翌67年10月にはシングル「Love Is All Around」でも全英5位、全英7位のヒットを出し、三たびミリオン・セラーとなっている。この曲は、「Wild Thing」に似た循環コードパターンで、二番煎じの感は拭えない。

これらのヒット曲により、トロッグスはトップ・バンドとなったのだが、意外とそのブームはあっさりと終焉してしまう。

60年代後半にブリティッシュ・ロックは、よりサイケデリック、ハードでプログレッシブな方向へ急速に変化、進歩を遂げていってしまい、トロッグスのような従来型のガレージ・ロックは完全にかすんでしまったからである。

彼らの十八番「Wild Thing」も、ジミ・ヘンドリックスが67年のモンタレー・ポップ・フェスティバルで演奏して、観客にトロッグス以上の強烈なインパクトを与え、完全にお株を奪ってしまった。

時代の変化についていけなかったトロッグスであったが、その後もメンバーを変えつつ、活動を続けた。ヒット曲を出すことはなかったが、70〜90年代にはアルバムも出しており、今も現役である。そして、パンク・ロックの先駆者としても再評価されている。

プロモーション・ビデオで、いかにも怪しい、さらにいえばいかがわしい雰囲気をプンプンとさせた、トロッグスの当時のパフォーマンスを楽しんでほしい。ロックとは、本質的に刺激的な見せ物なのだ。




音曲日誌「一日一曲」#425 ジュニア・ウェルズ「Little By Little」(Profile)

2024-06-04 07:17:00 | Weblog
2024年6月4日(火)

#425 ジュニア・ウェルズ「Little By Little」(Profile)




ジュニア・ウェルズ、1960年リリースのシングル・ヒット曲。メル・ロンドンの作品。ロンドンによるプロデュース。

米国のブルースマン、ジュニア・ウェルズについては、すでに3回取り上げているので、きょうは「Little By Little」の作曲者にしてプロデューサー、メル・ロンドンについて掘り下げてみたい。

メル・ロンドンことメルヴィン・R・ロンドンは1932年4月、ミシシッピ生まれ。もともとはプロミュージシャンを目指していたが、1950年代半ばより、1975年5月に43歳の若さで亡くなるまで、ソングライター、レコード・プロデューサー、レコードレーベルのオーナーとして、シカゴのブルース、R&Bシーンで活躍した。

彼の最初の成功は、1954年のウィリー・メイボンのために書いた「Poison Ivy」であった。

シンガー/ピアニストのメイボンについては、だいぶん前に「一枚」の方で取り上げたきりなのでおさらいすると、1925年テネシー州ハリウッド生まれで当時29歳。チェス傘下のパロットレーベルよりレコードデビュー。

「Poison Ivy」は、すでに52年のデビュー・ヒット「I Don’t Know」により人気シンガーとなっていたメイボンの3年目の曲で、R&Bチャートで7位とまずまずのヒットとなった。

これを振り出しに、ロンドンのソングライターとしてのキャリアが始まった。翌55年には同じチェスのアーティスト、ハウリン・ウルフに「Who Will Be Next」を提供してR&Bチャート14位のヒットになる。

次は同55年のマディ・ウォーターズの「Mannish Boy」をマディ、ボ・ディドリーとの共同クレジットによりリリース、チャート5位となる。また、同じくマディ・ウォーターズの「Sugar Sweet」も彼が提供しており、チャート11位となった。共にチェスからのリリース。

ソングライターとしての評価を固めたロンドンは、それによりついに自分自身の歌でレコードをリリースする。57年に自らが設立した独立系レーベル、チーフからリリースした最初のシングル「Man From The Island」である。残念ながら、この曲のチャートインは叶わなかった。 

しかし同レーベルはその後、他の新進アーティストのシングルを積極的にリリースしていく。57年中にエルモア・ジェイムズの「Comig Home」「The 12 Year Old Boy」「It Hurts Me Too」、ジュニア・ウェルズの「Two Headed Woman」がリリースされる。その大半がロンドンの作品である。

これらは独立系レーベルゆえか、いずれもヒットには至らなかったが、「It Hurts Me Too」のように後にエルモアの代表曲となったナンバーも含まれている。

チーフレーベルからのジュニア・ウェルズのシングルとしては、58年に「I Could Cry」をリリース。これも特にヒットはしなかったが、60年についに大当たりが出る。

それが本日取り上げたロンドンの作品「Little By Little」である。本曲はチーフの子会社、プロファイルレーベルよりリリースされてR&Bチャートの23位を獲得、ジュニア・ウェルズ初のスマッシュ・ヒットとなった。

のちに再録音やライブなどで頻繁に演奏され、彼の定番曲として定着する。現在も、多くのブルース・ミュージシャンによってカバーされ、ブルース・スタンダードとなった。

そして同時期、ロンドンにより書かれてプロデュースされた、もうひとつの重要曲がチーフレーベルよりリリースされている。「Messin’ With The Kid」である。

こちらはヒットとはならなかったものの、ジュニア・ウェルズのその後の定番レパートリーとなっている。

この時期のロンドンの仕事ぶりは、実にすさまじい勢いがあった。ウェルズ、ジェイムズに加えて、女性シンガー、リリアン・オフェット、マジック・サム、アール・フッカー、リッキー・アレン、A.・C.・リードといったブルース、R&Bミュージシャンのプロデュースや作曲で八面六臂の活躍をしている。

63年にはリッキー・アレンの「Cut You a Loose」をチーフのもうひとつの子会社レーベル、エイジからリリース、R&Bチャート20位のヒットとしている。

ただ、会社経営は相当苦しかったようで、64年までに財政難により3レーベルは全て廃業の結末を迎えてしまった。実に残念である。7年ほどの活動期間にリリースされたシングルは約80枚、アーティストは40人近くに及んだという。その後音源は他社に引き継がれることになる。

レコード会社廃業後のロンドンは、いくつかの小規模レーベルと提携して、ソングライター、プロデューサー業を続けたものの、チーフ時代のような華々しい業績は残せずに、75年にこの世を去ることとなる。

彼が人生で最も輝いていた時期に書かれた至高の一曲、「Little By Little」。

ロンドンが紡ぎ出す、聴く者の耳をとらえて離さないメロディは、ジュニア・ウェルズという極めて個性的な歌い手を得て、大きく開花した。

優れた才能と才能がぶつかることにより起きる、奇跡にも似た化学反応を、このヒット曲に感じとってくれ。

音曲日誌「一日一曲」#424 ザ・マッコイズ「Hang On Sloopy」(Bang)

2024-06-03 07:23:00 | Weblog
2024年6月3日(月)

#424 ザ・マッコイズ「Hang On Sloopy」(Bang)





ザ・マッコイズ、1965年7月リリースのシングル・ヒット曲。ウェス・ファレル、バート・バーンズの作品。ボブ・フェルドマン、ジェリー・ゴールドスタイン、リチャード・ゴッテラーによるプロデュース。

米国のロック・バンド、ザ・マッコイズは1962年、インディアナ州ユニオンシティで結成された。メンバーはボーカル、ギターのリック・デリンジャー(当初は本名のゼリンジャーだった)、ドラムスのリックの弟、ランディ・ゼリンジャー、ベースのランディ・ジョー・ホッブス、キーボードのロニー・ブランドン、サックスのショーン・マイケルズの5人。

バンド名の由来は、ザ・ベンチャーズのヒット曲「Walk Don’t Run」のB面曲「The McCoy」だ。当初のバンド名、リック・アンド・ザ・レイダーズよりデビュー時に変更している。

彼らが65年にレコードデビューしたシングル曲が、本日取り上げた一曲、「Hang On Sloopy」である。

この曲には、ちょっとした前史がある。もともとこの曲はソングライター・コンビ、ウェス・ファレルとバート・バーンズが64年に書いて、ソウル・ボーカル・グループ、ザ・ヴァイブレーションズに歌わせたナンバーだ。

アトランティックレーベルよりシングルリリースされ、全米26位のヒットとなった。歌詞内容はオハイオ州立大学に関連しており、のちにオハイオ州の公式ロックソングとなっている。

つまり、もともとは黒人のR&Bナンバーとしてヒットしたのだが、これに注目した白人ロック・バンドがいた。64年ニューヨーク結成の、ザ・ストレンジラブズである。

メンバーはボブ・フェルドマン、ジェリー・ゴールドスタイン、リチャード・ゴッテラーの3人。彼らは65年に「I Want Candy」という全米11位のヒットを出しており、それに続く曲を探していた。

ストレンジラブズはこの曲を気に入り、ステージで演奏するようになる。しかし、彼らと共にツアーをしていた英国の人気バンド、デイヴ・クラーク・ファイブもこの曲のリリースを予定していることが分かる。ストレンジラブズは、なんとかライバルより先にリリースしたいと考える。

だが、多忙のため次作のリリースにまで到底手がまわらなかった彼らは、自分たちがプロデュース・サイドにまわって、他のシンガーに歌わせる手を思いつく。

というのは7月のオハイオ州デイトン公演の時、前座で出演した、リック・アンド・ザ・レイダーズという新人バンドに着目したからである。それも、そのフロントマン、リック・ゼリンジャーに。

若く(当時17歳!)、ルックスも良く、音楽的にもしっかりしていたリックを次代のスターにするべく、ストレンジラブズは彼をニューヨークのスタジオに呼び、自分たちがすでに録音していたバック・トラックに合わせるかたちで歌わせたのである。

このスピード・レコーディングにより、7月中にデビューシングルがアトランティック傘下のバングレーベル(作曲者バーンズが創設)よりリリースされる。目論み通り、曲は大ヒットして、全米1位の輝かしい記録を打ち立てたのだった。

この後、マッコイズは同年の「Fever」でも全米7位のヒット、人気バンドとしての地位を固める。ヒット曲としては、最初の2曲を上回るものは出せなかったものの、翌年にはリッチー・ヴァレンスの「Come On, Let’s Go」で全米22位を獲得している。

バンドはその後69年まで続く。彼らは世間のバブルガム(女子供向け)・ロックという評価に不満を持ち、67年バングレーベルからマーキュリーに移籍して、サウンドもサイケデリック・ロックに変化したものの、商業的には成功せずに69年解散している。

だが、彼らの実力を知るビッグ・ネームのミュージシャンがいた。ジョニー・ウインターである。

1970年に、マッコイズのメンバーのうち、デリンジャー兄弟とホッブスが呼ばれて、ジョニー・ウインター・アンドが結成される。同年のスタジオ・アルバム、翌年のライブ・アルバムで、リック・デリンジャーは、実力派ミュージシャンとして注目されるようになり、その後のソロ、あるいはバンド、デリンジャーとしての活躍が始まるのである。

リック・デリンジャーの原点、ザ・マッコイズはちょっとした偶然でビッグ・チャンスを掴んだわけだが、もちろんそれは運を引き込むだけの魅力、実力があってのことだ。

「Hang On Sloopy」は曲自体にも、十分ヒット性がある。リッチー・ヴァレンスの「La Bamba」あるいはトップ・ノーツ、アイズリー・ブラザーズの「Twist and Shout」にも通ずる、循環コードを生かした陽気で華やかなノリの本曲は、たぶん他のアーティストが歌っても、そこそこヒットしたと思う。

だが、他のアーティストでは、マッコイズほどの超特大ヒットには決してならなかった、とも思う。

リック・デリンジャーの持つスター性、甘くそしてワイルドなボーカルの魅力は、唯一無二のものだ。

65年を代表するビッグ・ヒット。若きロック・スター、リック・デリンジャーの勇姿を、当時のミュージック・ビデオでチェックしてみよう。

音曲日誌「一日一曲」#423 ナッズ「Hello, It’s Me」(Colgems)

2024-06-02 08:03:00 | Weblog
2024年6月2日(日)

#423 ナッズ「Hello, It’s Me」(Colgems)






ナッズ、1968年7月リリースのシングル・ヒット曲。トッド・ラングレンの作品。マイケル・フリードマン、ナッズによるプロデュース。

米国のロック・バンド、ナッズは1967年、ペンシルバニア州フィラデルフィアにて結成された4人組。メンバーはボーカル、ギターのトッド・ラングレン、ベース、コーラスのカースン・ヴァン・オステン、ボーカル、キーボードのロバート・スチューキー・アントニ、ドラムス、コーラスのトム・ムーニー。Nazzというバンド名は、ヤードバーズの曲名「The Nazz Are Blie」に由来する。

68年7月にシングル「Open My Eyes」でレコード・デビューしたが、本日取り上げた「Hello, It’s Me」は、そのB面だった曲だ。

B面ながらA面曲よりもウケがよく、ボストンのラジオ局でよく取り上げられてそこで1位となり、他局にも波及していく。全米でも翌69年2月に71位になったのち、70年1月に66位まで再浮上している。

本曲は失恋の思い出を歌ったスローなラブ・バラードで、そのメロディとコーラスの美しさが、リスナーを惹きつけたのだろうか、ヒットを狙ってアップテンポに作られた「Open My Eyes」よりも断然支持を受けるという意外な結果となった。

そしてこの曲のヒットにより、バンドのフロントマンであり主要なソングライターでもあったトッド・ラングレンの名前は広く知られるようになったのだ。

トッド・ハリー・ラングレンは1948年6月フィラデルフィア生まれ。現在も第一線で活躍中のミュージシャン、プロデューサー、マルチメディア・アーティストである。

ビートルズ、ストーンズ、ヤードバーズといった英国バンド、米国のビーチ・ボーイズ、ジミ・ヘンドリックス、そして地元フィラデルフィアのソウル・ミュージックなどに夢中になり、ギターを独学で習得する。ナッズのレコードデビュー時は20歳になったばかりだった。

彼はナッズの心臓とでもいうべき存在で、その音楽性のほぼ全てを、彼ひとりがリードしていた。

ナッズは彼が影響を受けたアーティストを反映して、いくつもの音楽的側面を持つ。サイケデリック・ロック、ガレージ・ロック、ポップ・ロック、そしてソウルである。

エレクトリック・ギターをフィーチャーした最新のサイケデリックなサウンドを押し出しているかと思えば、ビートルズやビーチ・ボーイズを思わせるコーラスもこなし、さらにはメロディアスでソウルっぽい一面も兼ね備えていた。

そういった多面性が、ナッズのウリであり、魅力であったと言える。

デビュー・シングルのリリース後、10月にアルバム「Nazz」をリリース。ジャケット写真でビートルズの「Meet The Beatles」をもじったこのアルバムは、全米チャートで118位となり、シングル・ヒットには及ばなかった。

翌69年4月、セカンド・アルバム「Nazz Nazz」をリリース。こちらは前作よりはセールスを伸ばして全米80位となる。しかしナッズはバンドとしては長続きしなかった。

セカンド・アルバムのレコーディング中にメンバー間の軋轢が生じて、ベースのヴァン・オステンがその完成後に脱退する。サポート・ミュージシャンを入れて活動を続けたもののうまくいかず、同年中に解散となる。

その後、ラングレンはソロ・アーティストとして、活動を再開する。バンドに頼ることなく、ほぼ全ての楽器を自分で演奏し、レコーディングするマルチ・ミュージシャン兼プロデューサーとなったのである。70年リリースのファースト・アルバム「Runt」以降、彼はその路線をしばらく続ける。

72年2月リリースのサード・アルバム「Something / Anything」は2枚組の大作となったが、これが評判となり、全米29位にチャートインするヒットとなった。

そのアルバム中で、ラングレンはこの「Hello, It’s Me」を再び歌ってみせたのである。

シングルとしても2度リリースされる。最初は同年11月、2度目は73年8月。後者は全米5位の大ヒットとなった。ラングレン最大のヒット曲であることは、いうまでもない。

オリジナルのナッズ・バージョンがかなりスローで、やたらもったりとした感じであるのに比べて、ソロ・バージョンの方はだいぶんテンポをアップして聴きやすくなっている。これが功を奏したのだろう。非常にキャッチーで、ヒットしたのもむべなるかな、の出来映えである。

ここでラングレンは、あえてひとりバンド方式にこだわらず、自らはボーカルとピアノに専念して、他のパートはスタジオ・ミュージシャンに演奏を任せている。ホーン・セクションには、ブレッカー・ブラザーズも加わっており、なかなか豪華な布陣である。

ナッズ時代は、さすがにこのゴージャスな音とは比較のしようがないシンプルなサウンドであるが、弱冠はたち前後の若者が、こんな成熟したメロディ・ラインを書いたのかと思うと、その才能には文句なしに敬服してしまう。

天才、トッド・ラングレンが若き日に初めて書いたバラード・ナンバー。その完成度の高さを、オリジナル・バージョンに感じ取ってほしい。

音曲日誌「一日一曲」#422 ジミー・ドーキンス・バンド「Blues With A Feeling」(Delmark)

2024-06-01 07:33:00 | Weblog
2024年6月1日(土)

#422 ジミー・ドーキンス・バンド「Blues With A Feeling」(Delmark)




ジミー・ドーキンス、1976年リリースのアルバム「Blisterstring」からの一曲。ラボン・タラントの作品。スティーヴ・トマシェフスキー、ドーキンス・バンドによるプロデュース。

米国のブルースマン、ジミー・ドーキンスことジェイムズ・ヘンリー・ドーキンスは1936年ミシシッピ州チュラ生まれ。ギターを習得、ミュージシャンを志して55年にシカゴに移住、工場勤めのかたわらブルースクラブで演奏を始め、セッションマンとして名を上げていく。

音楽仲間のマジック・サムの助力を得て、69年にファースト・アルバム「First Fingers」をデルマークレーベルよりリリースする。残念なことにサムはその年の12月に急逝してしまう。

デルマークで3枚のアルバムをリリースするが、本日取り上げた一曲が収められた「Blisterstring」はその3作目にあたる。

レコーディング・メンバーはボーカル、ギターのドーキンスのほか、ギターのジミー・ジョンスン、ベースのシルベスター・ボインズ、ドラムスのタイロン・センチュアリー、ゲスト・ピアノのサニー・トンプスン。

この「Blues With A Feeling」という曲は、リトル・ウォルターのバージョンでもっぱら知られており、現在でもハーピスト/シンガーを中心に演奏されることが多いブルース・スタンダードとなっているので、ウォルターの作曲かと思われがちだが、オリジナルは別にある。

ジャンプ・ブルースとジャズのシンガー/ドラマー、ラボン・タラント、そしてジャック・マグヴィ&ヒズ・ドア・オープナーズによる1947年のシングル・ヒット曲がそれである。マグヴィはサックス、クラリネットなどの管楽器奏者だ。曲はタラントが書いている。

ウォルターでお馴染みのあの曲は、もともとはスウィング・バンド・スタイルで演奏されていたのである。テンポもウォルターよりはだいぶん速く、非常に軽快な感じの曲調だ。

これをウォルターは大胆にアレンジ、ヘビーなスロー・ブルースとして1953年7月にレコーディングした。メンバーはギターのデイヴ・マイヤーズ、ルイス・マイヤーズ(ジミー・ロジャーズとも)、ベースのウィリー・ディクスン、ドラムスのフレッド・ビロウ。チェスの代表選手揃いである。同年にチェッカーレーベルよりシングルリリースされ、R&Bチャート6位のヒットとなった。

以降は、ハープ演奏を前面に押し出したウォルターのアレンジが、この曲の主流となっていく。

ジミー・ドーキンス・バンドのバージョンは、基本的にウォルターのバージョンを踏まえて、そのハープのパートをギターに置き換えるスタイルで演奏している。

リズムギターのジミー・ジョンスンがギターに軽くワウをかけて弾いているあたり、70年代半ばという時代性を感じさせる。

主役のドーキンスのギターは、聴けばすぐ彼のプレイと分かるくらい、はっきりとした特徴がある。エッジの立った、ハード・ドライヴィングな音なのである。この粘っこさ、エグみが、ドーキンス最大の魅力といってよい。彼の、ヒゲを蓄えた濃い容貌にピッタリのサウンドである。

筆者は常日頃より、ブルースマンたるもの、その容姿も生み出す音楽に合ったイメージを持っているべきだと考えているのだが、ドーキンスの場合、まさにその典型例じゃないかという気がする。

眼光鋭く、男臭さに満ちたドーキンスの横顔は、彼の歌い弾く、ディープなブルースそのままという印象である。ジャケット写真も、実に雰囲気がある。

ドーキンスはいわゆるヒット曲には恵まれていない、地味なアーティストではあるが、その存在感には確固たるものがある。

決して上手いといえるタイプの歌い手ではないが、その訥々とした歌声には、彼ならではの個性、魅力がある。

器用にいろいろなスタイルを弾き分けるのでなく、モダン・シカゴ・ブルースの王道をひたすら突っ走るようなスクウィーズ・スタイルのギターには、少ないながらも熱烈なファンがついている。

ドーキンスは2013年に、76歳でこの世を去っている。

特に華やかなスポットライトが当たることもなく、地道にライブ活動とアルバムリリースを続けて、一生を終えたブルースマン。それがいかにもジミー・ドーキンスらしい。

質実剛健なブルースマン、ジミー・ドーキンスの一球入魂ならぬ一曲入魂的な熱演に、時には耳を傾けてみよう。必ずや、ブルースの真髄をそこに感じられるはずだ。