
大阪歴史博物館 の10階から買いに降り
中世・近世 (1158-1871年) を見学。
織田信長勢に敗れて京都に追いやられるまでの
大坂本願寺 (石山本願寺) は
「大坂本願寺の時代」と言われるくらい
大坂の街の中心だったのか…😲
そうだったなんてことは全く認識のないまま
展示されている何を見ても理解できず…😩
これは本願寺の中と周囲の様子? ↑
おまけに、小中学生をはじめたくさんの人で
ゆっくりと、見たり読んだり撮影したりもできず
撮れた写真を見ても、何年頃の何を表している写真で
年代順に撮れているのかもわからず…。
私が子どもの頃から学んできた歴史では
「信長は神仏を恐れることなく
残忍な弾圧・殺戮をした人」
とのイメージが強かったが
「石山本願寺あった上町台地は
毛利方の村上水軍と闘うためには
絶対に必要な場所だったために
譲ってほしかったが、応じてもらえず
やむなく力で追い出すことになった」
とか
「日本ほど宗教分離ができている国は少ない。
それは織田信がのお陰」
などと書かれた書を読むと
信長の功績の大きさに改めて気づく
大坂の街は徐々に人口が増え
食料をはじめ様々な品が
全国から集まる街として発展していく。
そして、秀吉の時代になると
天下一の都市へと変貌していく。
海だったところは埋め立てられ
↑
点線の右の「上町」は台地で、縄文時代も陸だったが
点線の左の
「船場=江戸時代~現代の大阪のど真ん中」は
秀吉の次代に海を埋め立てて作られた。
秀吉の時代になると、美しい陶磁器が
中国・朝鮮から輸入され
次第に、日本でもたくさん作られるようになった。
これは、ここにも書いたように
朝鮮出兵と大きく関係している。
その後、江戸時代に入ると、豪商が出現し
多くの人々が働く、広大な屋敷が建てられた。
それが回り舞台のようなジオラマで見学できる。
↓
祭りも盛んになり、豪華な祭り舟も展示。
芝居や文楽(人形浄瑠璃)も盛んになり
大坂の街はどんどんにぎやかになり
産業も文化も天下一となった。
この建物の中は、当時の演劇場の様子が再現されている。↓
ところが幕末におきた 安政南海地震 による大津波で
大坂の街は甚大な被害を受けた。
その様子がさし絵付きで記録されている。↑ ↓
家の倒壊で命を落とさないよう
家の前に畳を敷き
屏風や戸などで周囲を囲んだ小屋を作って
住んでいた様子が描かれている。
すごいね~、江戸時代の人々は行動力があるね~。
それを「悲劇の記録」としてではなく
「噺種 (はなしのたね)」
として記録に残そうという機知と
エネルギーに圧倒されながら
下の階へと移動した。
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