
3/6(木)、腰痛は軽減してきたが
筋肉のこわばりが残っているので
過去の経験から
「これは電気風呂に入れば治る」と考え
ネットで調べて
「大阪の天六にある銭湯に入りに行こう」と決めた。
でも、それだけでは面白みがないので
谷四にある大阪歴史博物館を見学してから
天六に向かうこととし、昼過ぎに出発。
生駒から谷四は、電車で1本。
9番出口から地上に出ると
目の前に
NHKと歴史博物館がそびえている。
なんと便利なことよ😄 ↓
歴史博物館の前には、萱葺き・高床式の建物が…。
この建物については 次の記事に。
摩天楼に囲まれた大坂城の天守。
「こんなに小さかったっけ?」と、目を疑ってしまった。
↑
両端が尖った楕円形のビルは
木の船をイメージして建てられているそうな。
受付で600円の入館料を支払い
甲冑が飾られている奥の方ではなく
入り口側に戻ったところにあるエレベータで10階に上がり
10階は古代⇒7階は近代・現代となっていて
エスカレーターで降りながら見学する。
古都というと、奈良・京都だけを
思い浮かべる人が多いと思う。
私もその1人なのだが…。
飛鳥から難波への遷都は 645年
難波の宮から藤原京への遷都は 694年
藤原京から平城京への遷都は 710年
これは「ナントきれいな平城京」と覚えて
ここからは知っている人は多いのだが…
天智天皇 (在位 668~671年)は難波の宮
天武天皇 (在位 673~686年) も難波の宮
持統天皇 (在位 686~697年) が藤原京に遷都
ということになる。2022-03-01
短期間都が置かれた紫香楽宮も
見学に行ったことがあるが、田んぼだけだった。 ↓
藤原京跡資料室を見学したときは
難しすぎて
理解も記憶もできなかったが
ようやくスッキリして来た。
上記3人の天皇さんは
私もだが「奈良にいた人」と
思っている日本人が多いのでは?
飛鳥~藤原京が世界文化遺産に
指定されそうな運びだが…
その間にあった難波の宮は、除外?!
こんなに立派な建物があり
美しい着物をまとった人々が
たくさん働いていて、遺構も残っているというのに…。
女官の着物の模様が
大阪市中央公会堂特別室の
カーテンの模様に似ていると思って撮影。
よく見ると、生地の模様が逆さまでは…?
獅子のような動物も、鳳凰も逆立ちしているように
私には見える。裁断ミス?
この2人は、上の6人よりも上級女官で
↓ 礼服を着用し、髪型も違う。
このように、衣服や髪型・化粧の仕方まで
わかっているみたい。
10階の高さから地上の難波宮公園を見下ろすと
八角殿・太極殿跡などが
解説の写真とほぼ同じ位置に、ハッキリ見える。
縄文時代の石器や土器も展示されていて
3つの尖りを持つ土器の美しさにビックリ。
こんな形の縄文土器、見たことない。
矢じりなども精巧に作られている。↑
大きな船の埴輪。こんな埴輪は見たことがない。
縄文時代中期は、大坂城・歴史博物館は
上町台地の先端にあり、それより東は海 (河内湾) だった。
↓
弥生時代中期には海水面が下がり
河内湾はほとんどふさがれ、河内湖となった。↑
難波宮と朱雀大路を現代の地図に乗せると
このようになる。 ↓
前期・後期の難波宮の建物のミニチュアも
展示されていて、これは後期の難波宮
前期の内裏南門の両側にあるのは
法隆寺の夢殿によく似た八角殿 ↓
難波の宮が築かれたのより早く
聖徳太子により、593年に創立されたと伝わる四天王寺。
現代の大阪の街の中だと、こんな風に建てられたことになる。
↓
日本で最初に、瓦葺き吹きの建物が作られたのは
明日香寺だということは、藤原京跡資料室で知った。
なので、四天王寺にも瓦は使用されていたようで
これからが、その瓦のよう。
宮殿に瓦が使用されたのは、藤原京が最初なので
前期の難波宮は瓦葺ではなかったことになる。
藤原京の建築資材は平城京に運ばれたのと同様に
難波宮のの資材も
川をさかのぼって、長岡に運ばれた。
後期になると使われていた瓦や
大小の木材はモチロン、大きな柱も運ばれた。
柱は掘られた穴に差し込んで
穴を土で埋めただけだったそうで
簡単に抜けたのだと。
10階の最後の展示コーナーまで来たときには
すでに、かなり疲れた~。
10階だけで小規模な博物館や
資料室の1つくらいはある。
まだ9~7階もあるのに…。
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