林原美術館を出た後、車に乗り込み、呉市に向かうことに。
夫とは何の事前打合わせもしていなかったので、
「呉で何を見るんや?」と、夫が尋ねた。
「大和ミュージアムや」と私が答えると、
ちょっと意外そうに「ふーん」と答えつつ、
けっこう「見たい気満々」と見えた。
なぜここに行ってみたいと思ったかというと、
メンテ“力”up通信 No.140 の北島美代子助産師のコラム原稿を
校正していた時に、こんな施設があるということを知ったから。
呉の少し南、新広(ひろ)駅の南に隣接した中国労災病院には、
セミナーで訪れたことがあったが、
造船と海軍の町、呉を訪れたことはなかった。
もう10年ほど前になるだろうか?
茨城県土浦市にある予科練記念館を訪れたことはある。
鹿児島県の知覧の特攻記念館にも訪れたいと思っていたが、
北島さんの原稿を目にするまでは、私の意識の中には呉はなかった。
5月の末に「行けるかどうかわからないけど、
とにかくお盆の宿を押さえておこう」と検索。
呉・竹原の安い宿を、ギリギリだったが確保できた。
呉の街中には「US army」と書かれたナンバープレートの車が
斜め前を走っていたり、そのうち、
こんな巨大な潜水艦が目に写り、ドキッ!
これは海上自衛隊呉資料館の建物の前に設置されている潜水艦。
実際に動いていたものなのだろう。今はオブジェ的。
思えば小松高校時代、グランドの真上を自衛隊の戦闘機が
毎日のように爆音を轟かせて飛行していたので、
音には慣れていたが、目から入ってくるこの潜水艦の
大きさに圧倒された。
道路の両側は、駐車場に入るための車の列がズラリ。
片方はショッピングセンターに入るため、
片方は、大和ミュージアムに入るため。
どう考えても近くにすぐに入れそうな駐車場はなさそうで、
約30分間夫としゃべりながら待機し、ようやく入れた。
こんな長い時間、夫と雑談したことはもう何か月もなかったな~。
↑
オブジェ化していると見受けられる「しんかい」と書かれた
潜水艇らしきものの前のスペースに車を止め、
この角を曲がり、玄関に向かった。
↓
すると突然、巨大なスクリューなどが目の前に現れた。
↓
↑
これは戦艦「陸奥」に設置されていた主砲身だと
↓
玄関にはこのポスター
入場券を買って入ると、すぐに、1/10の大きさで作られた大和
↓
船尾側から見た大和
↓
大和などの戦艦に乗って働いていた多数の軍人さんのの写真や、
彼らが家族宛てに書いた遺書など、
たくさんの資料を見て回ったが、展示室内は撮影禁止
その後、次の展示室に写ると、零(ゼロ)戦
↓
「特攻」と聞くと「零戦」だけを思い浮かべがちだが、
何年か前、魚雷による特攻もあったことをテレビで知った。
ある高齢の男性がテレビで語っていた。
「この戦争を戦い抜くためには若い肉体が必要」
との募集に応募して行ったところ、
黒く不気味な魚雷の姿に身がすくんだ。
そして、上官は「これが貴様らの棺桶だ」と。
その男性は、出撃することなく終戦を迎えたのだが、
まさにその棺桶がここ。魚雷「回天」の操縦室。
↓
人間魚雷「回天」のことはこのテレビ番組で知ったのだが、
「回天」にもいくつかの型があり、
これは実際には使われなかった型だとのこと。
戦闘機だけでなく、爆弾と一体になった魚雷での特攻で
多くの優秀な若者が亡くなっていった。
家族の悲しみはもちろんだが、国家的損失である。
↑
こちらも水中特攻兵器「海龍」
↓
戦艦に乗り込んでも喋り合える友がいる。
零戦に乗っても周りの景色は見えるし、敵艦に当たる前に
エンジン故障で海に落ちて命拾いした人もいると聞く。
しかし、人間魚雷は棺桶と言われる閉鎖空間=操縦室に、
一人で入って、出撃したら最期、生きて帰れることは絶対にない。
大和や零戦以上に、はるかに不気味さ・怖さを感じるのは
外見だけでなく、このためだと思った。
2階から見た零戦と海龍
↓
2階から見た1/10大和。大和の甲板は
「歩くのももったいないと思うほど美しく磨かれていた」
とのことだが、この甲板も同様に美しい。
↓
↑
この2階から見た1/10大和の写真が、入場券の写真となっている。
呉では実にたくさんの戦艦や潜水艦などが作られた。
また、零戦が作られたのは、呉の少し南にある、
広(ひろ)海軍工廠だと、今回初めて知った。
「ということは、以前行ったことのある中国労災病院の近くでは?」
と思って調べてみたら、病院の南東の方向にあったのだと知った。
「これだけの軍事施設がある呉や広ではなく、
広島市の方に原爆が投下されたんやろ?」と
一瞬思って…、口にしてしまった。
すると夫は
「当たり前やん。アメリカは零戦とかの技術が欲しかったんや。
原爆を落としたらその技術を手に入れられなくなるやん」と。
そうやった。日本の「伊四百型潜水艦」は、
世界トップの技術を持っていて、そのため、
ハワイ沖に沈められたことを知っていながら、
アホなことを口にしてしまったと反省。
物資窮乏の中でも、世界でトップの戦闘機や潜水艦などを作り出した
日本の技術力に、ただただ感嘆。
今も呉は造船と海上自衛隊の町である。
↓
「日本人のあるべき姿とは?」「日本はどう進めばいいのか?」
いろいろと考えさせられた大和ミュージアム。
見応えがあった。行って良かった。
宿の部屋に入って、夫が自宅から持ってきた毎日新聞を広げると
大和ミュージアムの広告が載っている!
↓
「近畿の人達にも帰省や旅行を兼ねて、ぜひ来てください」
ってことやなと、二人で顔を見合わせて、笑ってしまった。
夫とは何の事前打合わせもしていなかったので、
「呉で何を見るんや?」と、夫が尋ねた。
「大和ミュージアムや」と私が答えると、
ちょっと意外そうに「ふーん」と答えつつ、
けっこう「見たい気満々」と見えた。
なぜここに行ってみたいと思ったかというと、
メンテ“力”up通信 No.140 の北島美代子助産師のコラム原稿を
校正していた時に、こんな施設があるということを知ったから。
呉の少し南、新広(ひろ)駅の南に隣接した中国労災病院には、
セミナーで訪れたことがあったが、
造船と海軍の町、呉を訪れたことはなかった。
もう10年ほど前になるだろうか?
茨城県土浦市にある予科練記念館を訪れたことはある。
鹿児島県の知覧の特攻記念館にも訪れたいと思っていたが、
北島さんの原稿を目にするまでは、私の意識の中には呉はなかった。
5月の末に「行けるかどうかわからないけど、
とにかくお盆の宿を押さえておこう」と検索。
呉・竹原の安い宿を、ギリギリだったが確保できた。
呉の街中には「US army」と書かれたナンバープレートの車が
斜め前を走っていたり、そのうち、
こんな巨大な潜水艦が目に写り、ドキッ!
これは海上自衛隊呉資料館の建物の前に設置されている潜水艦。
実際に動いていたものなのだろう。今はオブジェ的。
思えば小松高校時代、グランドの真上を自衛隊の戦闘機が
毎日のように爆音を轟かせて飛行していたので、
音には慣れていたが、目から入ってくるこの潜水艦の
大きさに圧倒された。
道路の両側は、駐車場に入るための車の列がズラリ。
片方はショッピングセンターに入るため、
片方は、大和ミュージアムに入るため。
どう考えても近くにすぐに入れそうな駐車場はなさそうで、
約30分間夫としゃべりながら待機し、ようやく入れた。
こんな長い時間、夫と雑談したことはもう何か月もなかったな~。
↑
オブジェ化していると見受けられる「しんかい」と書かれた
潜水艇らしきものの前のスペースに車を止め、
この角を曲がり、玄関に向かった。
↓
すると突然、巨大なスクリューなどが目の前に現れた。
↓
↑
これは戦艦「陸奥」に設置されていた主砲身だと
↓
玄関にはこのポスター
入場券を買って入ると、すぐに、1/10の大きさで作られた大和
↓
船尾側から見た大和
↓
大和などの戦艦に乗って働いていた多数の軍人さんのの写真や、
彼らが家族宛てに書いた遺書など、
たくさんの資料を見て回ったが、展示室内は撮影禁止
その後、次の展示室に写ると、零(ゼロ)戦
↓
「特攻」と聞くと「零戦」だけを思い浮かべがちだが、
何年か前、魚雷による特攻もあったことをテレビで知った。
ある高齢の男性がテレビで語っていた。
「この戦争を戦い抜くためには若い肉体が必要」
との募集に応募して行ったところ、
黒く不気味な魚雷の姿に身がすくんだ。
そして、上官は「これが貴様らの棺桶だ」と。
その男性は、出撃することなく終戦を迎えたのだが、
まさにその棺桶がここ。魚雷「回天」の操縦室。
↓
人間魚雷「回天」のことはこのテレビ番組で知ったのだが、
「回天」にもいくつかの型があり、
これは実際には使われなかった型だとのこと。
戦闘機だけでなく、爆弾と一体になった魚雷での特攻で
多くの優秀な若者が亡くなっていった。
家族の悲しみはもちろんだが、国家的損失である。
↑
こちらも水中特攻兵器「海龍」
↓
戦艦に乗り込んでも喋り合える友がいる。
零戦に乗っても周りの景色は見えるし、敵艦に当たる前に
エンジン故障で海に落ちて命拾いした人もいると聞く。
しかし、人間魚雷は棺桶と言われる閉鎖空間=操縦室に、
一人で入って、出撃したら最期、生きて帰れることは絶対にない。
大和や零戦以上に、はるかに不気味さ・怖さを感じるのは
外見だけでなく、このためだと思った。
2階から見た零戦と海龍
↓
2階から見た1/10大和。大和の甲板は
「歩くのももったいないと思うほど美しく磨かれていた」
とのことだが、この甲板も同様に美しい。
↓
↑
この2階から見た1/10大和の写真が、入場券の写真となっている。
呉では実にたくさんの戦艦や潜水艦などが作られた。
また、零戦が作られたのは、呉の少し南にある、
広(ひろ)海軍工廠だと、今回初めて知った。
「ということは、以前行ったことのある中国労災病院の近くでは?」
と思って調べてみたら、病院の南東の方向にあったのだと知った。
「これだけの軍事施設がある呉や広ではなく、
広島市の方に原爆が投下されたんやろ?」と
一瞬思って…、口にしてしまった。
すると夫は
「当たり前やん。アメリカは零戦とかの技術が欲しかったんや。
原爆を落としたらその技術を手に入れられなくなるやん」と。
そうやった。日本の「伊四百型潜水艦」は、
世界トップの技術を持っていて、そのため、
ハワイ沖に沈められたことを知っていながら、
アホなことを口にしてしまったと反省。
物資窮乏の中でも、世界でトップの戦闘機や潜水艦などを作り出した
日本の技術力に、ただただ感嘆。
今も呉は造船と海上自衛隊の町である。
↓
「日本人のあるべき姿とは?」「日本はどう進めばいいのか?」
いろいろと考えさせられた大和ミュージアム。
見応えがあった。行って良かった。
宿の部屋に入って、夫が自宅から持ってきた毎日新聞を広げると
大和ミュージアムの広告が載っている!
↓
「近畿の人達にも帰省や旅行を兼ねて、ぜひ来てください」
ってことやなと、二人で顔を見合わせて、笑ってしまった。
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