marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その14)異邦人の僕らが旧約聖書に何が書いているのか、と思った時の早わかり箇所

2025-02-11 19:21:54 | 日記

小型の(新約聖書)ギデオン。時折, 間違えて古本屋に売り飛ばされたりしていたけど・・・。ギデオンとは旧約聖書に出てくる勇者の名前。布教のためにギデオン協会が新約聖書をホテルなどに無料で置いている。・・・聖書を古本に売るなどということを決してしてはいけない。

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我々に関係ありながらもそれを理解する対象があまりに異なるのか、我々の理想とする神と異なるのか、ただ単に理解不足なのか。しかし、それを理解し了解する人はわずかであろうと宣うのは、黙示録にも書かれていることであるし、そう簡単に会得できるものはなかろうということだ。

しかし、使徒らの宣教に、救い主のことを、自分らの聖書のそれが正しいのかどうかと調べていたとある(使徒言行録17章11節)。第一に先祖伝来から体験し、言い伝えられてきた人々に、神が選ばれた選民族と言われるが、先理解がすでにあるはずであるから優先的に理解して貰わねばならないし、当然理解されるべきこととして使徒らは考えていたのであった。

ここでいう調べていた聖書とは、今の旧約聖書のことである。だから、時代がくだって分かりやすくといっても、ストーリーを追うのも歓迎するけど、信仰を深めるには意味の間違えた聖書訳は許されない。

エ○バの何とかやら、統○原理など、その他にもろもろ解説所にしても、介在物の方を聖書より自分らの勝手に訳したものを丁重に用いるなどは、絶対に間違いである。

多くのカルト宗教は、聖書と読む人の間に介在物を必ず先に挟み込んでくる。本来、こう理解するものです、とか、訳そのもを変えてりして。知識があれば何でもいいというわけでは決してない。かえって悪いことが多いかもしれない。求めるべきは、最終自分の言葉で神の言葉を読むこと

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まずは、事実、その書かれ、信じられて来たその予言内容がどうであったかを研究し、長年に渡ってそのに奮闘してきた訳なのであった。分かりやすく、原書にできうる限り忠実にと学者たちは孤軍奮闘してきた。

聖書を学ぶにもまず、本題そのものが正しいか否かを自分の言葉で、理解するように努めないといけないと思う。旧約聖書の内容が紀元前からの話だから当時でなければ分からんこともある。しかし、選民族達らの歴史なので、異邦人の僕らは、内容はおいおい深めるとしても、行き着くところは、救いは新約のイエス・キリストにあることを目指すのである。今も生きている彼を・・・旧約もそこに集約されているのだから。

イエスご自身、「律法と預言者は私のことについて書いているのだ」と述べられているのだから。律法(旧約冒頭の五書)、預言者とは(以降の神の伝えを民に告げた諸々の書)預言書のことであるけれど、新約だけでいいということには決してならない。

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紀元前に書かれた巻物の聖書の創世記に、蛇が人を騙した解きに、すでにその解消のこと(救い主の出現のこと)を神は創世記に予見して記している。とにかく、数千年の流れのことが、多くの記者によって書き継がれてきたこと自体驚きと言うほかない。

PCなど無論ない時代ですからね。しかし、現代になってPCのプログラムなどでも数列として書かれたヘブル語が浮き上がって文字が現れ、それが歴史の事実を著している言葉が現れるなどというのは、どうなっているだろう。

昔は巻物だったんだから、何百年も前に書かれた話がその後の経緯として書かれているなどということは、少なくとも70人以上は居たとされる記者、その集団は勝手な創作ではなく、神の啓示によって書いたとしか思われないのだね。

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そこで僕ら異邦人として旧約からのイエスに収れんされる救いの物語(選民族を神は天地創造以来どのように導いてきたかを述べている)を知識としてのみ頭にいれるとすれば、そのあらすじを、ステパノがまとめて説教したのが先の使徒言行録の7章なのである。しかし、旧約の民は、この神の導きの話を信ぜずステパノを殺してしまう。

この騒動で、その地のキリスト者は、迫害をおそれ離散してしまう。そこに又、イエスの話が異邦人に伝えられていくきっかけにもなって行くのだった。試練をとおしてイエスの救いの物語は世界に広まっていくのだったということになる。・・・まさに神の摂理(ご計画)・・・


それぞれの人生と海を渡った秋田犬

2025-01-29 10:23:34 | 日記
 
今度は、他の方の病院付き添いに
  昨年末より、正月にかけてのプチ入院は、ちょっとホテル気分?であったけれど、これはこのための予行であったのかなぁ。おひとりでお住まいで好意にしていただいている101歳の......
 

先週、当教会新任2年目の牧師と一人の姉妹と新しく替わられた施設を三人で訪問。

今年、103歳になられる。一時は直接お会いし、一室を借りて聖餐式も3度ほどおこなったが、インフルもコロナも未だ心配な雰囲気となってきたというので、今回の施設訪問では中玄関でガラス越しに会話。

耳はかなり遠くなられたが、お肌はきれい。もう10年以上にもなるだろうか、施設に入られる前、ご自宅のニャンコの餌を買って来てと頼まれたことがよくあった。教会に来られなくなり礼拝の週報を届けていたときのこと。

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施設に入り同居のニャンコは東京の姪御さんに引き取られていったことになっている。姪御さんからの、そうしてくれとのお願いにより。

実際は僕が、ご本人には内緒だが、ひとりぽっちのニャンコに、朝夕毎日、餌をあげるために通っていた。

僕も仕事があったので引き取る訳にはいかず、寒い日に餌を食べていない日が二,三日つづき、東京の姪御さんに連絡するといざという時の依頼の業者さんに頼んだところ、いつも添い寝をしていた布団の隙間でなくなっていたそうである。

身よりはどなたもこの地にはいらっしゃらないので、ニャンコの火葬を姪御さんに頼まれ、僕が行った。お位牌として、そのニャンコには今も会うことができる。施設のご本人は当然知らないけれど。名前はデライト。

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僕が通っている歴史のある教会の娘さんにあたり、ずう~とお一人住まいだったので、よく昔の話をしてくださった。ヘレンケラーがこの地に来られた時に通訳をしたのが牧師であられた父親だった、と話してくださたのはこの間のこと。(ハチ公のお話に感動されていたのか、秋田犬はこの時もらわれて海を渡ったのだ。昭和12年のこと。)

化粧品は資生堂などと笑いながら話してくださったが、今は食事もあまり喉を通らなくなり、ゲル状の栄養食。

戦争を経験したあの時代。他に姉妹の方は居られたが、最後の一人になったしまったわ、と・・・。同居のニャンコもとうに先だったし、本当に一人になってしまった。

それでも、ご飯を食べたいのに、何かおかしなものを食べさせられるのよ、と持ち前の反発心は健在のよう。しかし、殆ど会話はできなくなって自分からお話はできない。

最後に讃美歌を歌い、お祈りをして、手を振りながらお別れをする。 


(その13–④)本題ーここから読んでみましょうか。旧約など読めんよという方に〔使徒言行録〕

2025-01-25 20:41:47 | 日記

 僕らが異邦人も、仲間になる簡単な方法は・・・?  

ヒントは、まずその人が、考え、求める気持ちがあること。これが第一であると。それで、分からずとも、それが故に何の事だと考える力を持っていること。どこまでも求めれば、必ず何故の教えなのかぐらいは察するかもしれないから。

聖書は、無味乾燥のようで、何重にも入れ子のようなっていたりする。第一、パソコンがない時代、何百年も経過した話が再び湧き上がってその答えが書かれているなどということがある。・・・まずは異邦人でないということはどういうことかを、考えて見る。使徒達は如何に同胞に、未信者に宣教したか。これは、実に天地創世以来の預言の実現とみた(聖霊に教えられたというべきか)彼らは必死だった。

第一に、異邦人ではない同胞らは自分自身の先祖代々言われてきた神のコトバを信じる者ではないか、彼らは選民族であり、自分たちの神が導かれた歴史上に、その進展にイエス(基督)を誕生させたのだから。何にもまして彼らは信じ、救われるべきであろうと、使徒らは思っていたのだが。

この為の宣教が第一であった。・・・しかし、生きて働き、実際に旧約に預言されていたにも関わらず、あまりに律法に縛られていた彼らは信じなかった。

旧約聖書(彼らにとっては『聖書』)のあらすじを滔々と述べて、しかし結局ユダヤ人達には理解されず、殉教したステパノの話が旧約聖書の要点のあらすじです。

使徒言行録 第7章 是非、お読みくださることをお薦めします。

遠い国のどこぞの国の宗教物語というのではなく、これが今の私達のも関わってきている話なのです。・・・


(その13-③)完全にボケる前に、自分の言葉で聖書を読み続けてみよう(序論)!

2025-01-24 12:13:14 | 日記

 

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ところで、先に『自分の言葉で聖書を読んでみよう』などと、かなり上から目線で書いてしまったけれど、そのまま書き続けるには無責任に思われ、自分の見解をのべたいと思う。すべての人に読んでもらいたいと思っていますので。知識としてのみ読むの出れば、そこに留まるだけでは意欲がでてきませんね。ここに異邦人の大きなハードルがありますが。

でも、2025年の今、紀元前から争い、ガザとイスラエルの4万7千人以上もなくなったと言われるその戦争を世界の人々は知らないことではない事態について、「わたしは、生きて働き、歴史を動かしているものである、人類よ知りなさい」との現象事態であると神がのたまわっているとするなら、これは感心を持たざるを得ない。

旧約聖書(ユダヤ人にとっては聖書)には、「わたしはイスラエルの神である」とはっきり書かれている。とすれば、世界の人が知りうるこの大変な事態は何のことなのだろうか? 終末に近づくにつれ、イスラエルという国はとんでもない国だ、潰してしまえとそういう兆候もあることも預言されている。

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今まで目で見えず、聞いたことがないこと(これは歴史の流れでのイエスがキリストであり、その死と復活のこと)・・・使徒がいうならなおさらのこと。しかし、命ある僕らに、また全人類にとっても重要なことであるとされ、必死に命までかけて世界に広めようとした人々がいたのは、それが真理と言われ普通には分からないところが魅力でもあるけれど、おそらく命に関することであろうことを誰でもが内心畏れを感じるので、求めつつも、あぁ、それはどこかの宗教のことかと嫌煙するのであろうなぁ。

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江戸時代末期まで、逃げて来た人々の処刑場がこの近辺にもあるし、その歴史を無視するわけにはいかない。で、この地の殿様の城が調査された時、その本丸あたりで婦人か女官かが信者になっていたのだろ、聖母マリアの小さな像があのルルドの泉のマリア像のミニチュア版であったことには、驚いた。

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僕ら異邦人にとっては、『なぜ?』と思う気持ちが大切です。例えば、マリアはイエスの誕生は天使ガブリエルからのお告げによって、何のことだろうと思いめぐらした、とあるし、また、異邦人エチオピア人がエルサレム参詣の帰路時、途中神に導かれたピリポに出会い、読んでいたイザヤ書の意味がわからず、解き明かす人がいなければ誰が分かりましょうと、ピリポに尋ねて、それはイエス・キリストのことだと教えられ、信じて洗礼を受けたとある(使徒言行録)こと。

つまり、こういう信心のことは、外からではなくその本人の内からの促しによらなければ(それは、聖霊が語るということなのであろうけれど)、知識としては詰め込んでも信仰には結びつかないと言う事なのでしょう。

こういう、時間をかけ思考する人、できる人、その知りたいと願う気持ちが大切だということだろう。(ところで僕には宗教抜きにも哲学的にこの目に見えない思索のこと・・・これがフッサールの現象学が教えていることだとも思えるのです。)

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第一に聖母と言われるマリアは、そういう思索をおこなう人であった。天使ガブリエルから御告を受けたとき、「何のことだろう、わたしはまだ男の人を知りませんのに・・・」と。

神は知らせたいと思われた人には試練をもあたえられるのだろう。人生をとおして。苦難を通してまでも求めをおこさせる。その時は分からなくとも繋がっていれば、その思いを・・・彼女は語り続ける。

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今も困っているときそういう体験をした聖母マリアが私に現れて悟りの言葉を与えてくださる。・・・「レットイットビー」<お言葉どおりになりますように!>と。

読んだ知識においても、何のことやらを考えること、聖書からその答えを見出してみようとさらに探してみること。天地創造からの通奏低音のようにつながっている歴史性の流れの中に今、この時を含めその意味があると気づいてくれば、信仰の意味が理解されてくるように思われること。

そして、永遠の命に導かれんと、神はわたしを捉えてくださった。いつでも誰にでも、その思いはおこるだろう。命を与えている天地創造の神は今も我らに語り続けている、と。・・・

 


(その13ー②)簡単に書くけどとてもすべての人に大切なこと。死亡率100%の僕らにとって!

2025-01-23 08:08:08 | 日記

新年早々、にゃんこが久しぶりに訪問。青森と違い、ここは東北でも昨日からが、新年降り始め。庭の木を伐採してたが、一時中断。で、3週も経て今は殆ど雪が消えた。

ボケ防止のためにとあれこれ頭を使うのは、総合態としての肉体も動かすことをしないと、体が錆びていく感じ。そうして、体が脳みそを保持できなくなったときは、脳みそが働いていても結局からだが動かなくなっていくだろうから、その事前準備を毎日している感じ。

歳をとると時間の経過が早く感じる。夜はまさに丑三つ時(午前2時ころ)、彼ら(U)が久々に訪れ会話を始める。そういう会話が昨年多くあった。

YOUTUBEでもキリスト教の神についていろいろな牧師さんが解説動画を放映している。僕がいうのもなんだがピンからキリまで。

誰でもが見よう思えば、どのように解釈されるか分からない。その為か彼ら(U)がとみに最近表れて、深夜に会話をすることになった訳である。

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それで、この間、正月にかけて何をしていたのですか? と問われれば、僕は無理をしない生活。投稿マニアのように常に発信したいのだけれど。いろいろ生活事も当たり前のようにあるし、散歩は「本当にも物の値段がたかくなったなぁ」と市場をぶらついて見ている訳である。

僕は食材は購入し、自分で作る方だから、いろいろ店に顔をだして行きつけのところで、今までと比べ惣菜のその内容にあまりに不釣り合いに高い値段を見て(笑)ちゃうようなものまである。期限切れ、売れ残り前に惣菜に加工する職人さんは大変だなぁ、と思いつつ。

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自分を高めてくれるであろういろいろな所に顔をだし、本もまだたくさん読みたいし、けれど知識、知識だけでは、これから死にゆく人に何が知識かよ、と自分でも思いながら、次の世界でも考え続けられるであろう瞑想ごときも(ただ、ぼんやりあれこれ思っているだけだけど)モーツァルトを聴きながら、コーヒーを飲みつつ、反射ストーブのオレンジの炎を見つめながら数時間は過ぎていくのであった。

それで、ボケ防止のためのハイデガー『存在と時間』への思索はやめたわけではなく、これを理解するには、彼の師でもあったフッサールの『現象学』を先に学んだほうが、ハイデガーのそれも良く理解できると思われ、そもそもハイデガーのその著作は、現象学を進展させたものであるから、こっちの方が面白い、と思ったわけで、こちらも中毒気味になるというか、ボケ防止にいい。

で、いずれ、身体は動かなくなるだろうから、戻ってくる書物は、聖書と現象学と『存在と時間』ということにしよう。エマヌエル・レビィナスも先にあるけど、現象学と『存在と時間』が理解できなければ、レビィナスもそれを超えようとしたわけだから、理解できないだろうしね。

結局のところ、人という存在があるから、その思考ではどこまで周辺事から厳密に観念、形而上学的思考のことまで含め精緻に言葉で突き詰められるかと言う哲学で追い込み、その神の似姿に人を創造したのが天地創造の神であるから行きつくところは、聖書のそこなのであろう。・・・