おはようございます〜
八月も半ばと言いますか お盆に近づいてきました。このお盆を過ぎると
暑さも一段落となるのが 自然の摂理 となっているそうで
期待をしていいのかな(笑)
ところで暑さも ですが 日の入りも 少し短くなっているのがわかってきました。
とは言いながら、夏の終わりとまでなるにはまだま掛かるようです。
今日は珍しい記録を見つけたので紹介をしましょう。
国内で初めて国際法に沿った水泳大会が開かれた日でした。
1898年(明治31年)当時 水府流太田派水練の達人 溝口幹樹が百メートル
の距離を1分20秒で泳いだのを見た横浜在留の外人たちが「何だそんな程度
か」と笑ったとか笑わなかったとか。
その噂を耳にした水流大田派の面々は
「それじゃぁどっちが速いか堂々一戦を交えて優劣を決めようじゃぁないか」
と挑戦状を送ったのが事の始まりでした。
お互いが指定された横浜の西波止場の外人水泳場で 百 、二百、4百四十、
八百八十ヤード(何か変な単位ですねぇ)の距離をそれぞれから七名ずつ
の選手を出して競いました。
この日は快晴で東京から特別仕立ての汽車に乗って見物人が詰めかけ
海には見物用の船がギッシリ。陸地には黒山の人だかりという盛況さ。
どちらも負けるな、の声援で始まった競泳は百ヤードを1分20秒で泳ぎ切っ
た溝口選手の勝ち、続く4百四十ヤードも溝口選手の勝ち。
最後のメーンイベントの八百八十ヤード自由形では、大接戦の末に英国のアー
ビン選手が勝ちましたが全競技について日本のほうが優勢だった いう結論で
我が国初の水泳競技会は閉幕しました。
もっとも自由形と言いましても今のクロールではなく日本選手は抜き手
(クロールに似てる部分もありますが‥)外人側はサイドストローク?
というこれまた独自の泳ぎ方でした。
因みに百ヤードは、91,4メートル 世界記録は50秒を切ったところですが
この当時と比べたら30秒くらい遅かったようですね。
しかし波も立たないプールと自然の海、飛び込み台はなかったでしょうね?
もうひとつ注釈です。
文中にあった水府流太田派というのは、江戸時代からあった古式の
泳法のひとつで主に武士が習いましたが他にも13流儀の流派があるそうで
今でも水府流太田派は現存しているようですよ。
外人から冷やかされて 、ヨシ、一丁勝負しようやないか!と挑戦状を
出した日本人の気構え、オウ、面白いやないか!と受けた在留外人連合
お互い正々堂々と競ったのは さすが。
当時はまだ 今のような泳法が確立してなかったみたいですが、
ちょっとしたことに意地を張り合うのも ほのぼのとして可笑しいですねぇ(笑)