軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

コスモス

2024-10-04 00:00:00 | 日記
 そろそろ見ごろを過ぎているが、今の季節、各地のコスモス園はこの花を愛でる人たちでにぎわったことだろうと思う。軽井沢周辺では国道254号線の佐久市内山地区区間の道路沿いの両側に 10㎞ほどにわたってコスモスが植えられていて、「コスモス街道」と呼ばれている。

 9月になると、このコスモスの花が咲き、道路を走る多くの人々の目を楽しませる。道路沿いに咲くコスモスは車窓から眺めるだけになるが、休耕地を利用して広い農地一面にコスモスを育てている場所もあり、ここには駐車場も整備されているので、ゆっくりと花を眺めたり、写真を撮ったりする人で賑わう。

 この地域にはもう1か所コスモスを栽培している場所がある。内山牧場のキャンプ場に隣接する「大コスモス園」である。ここに行くには国道254号線からそれて北上することになるが、名前の通り丘陵地一面に咲くコスモスが見事である。

コスモス街道と大コスモス園の周辺概略地図

 コスモスの花とは別に、私にはもう一つの”コスモス”がある。母の実家の姓にちなんでつけられた「コスモス会」という名前のいとこ会である。少し前に、このいとこ会のメンバーの家族から「日本一」が誕生したことを当ブログで紹介したが、そのいとこ会の集まりが今年も開催されることになった。

 今年は、我々いとこの親世代の叔母が102歳を迎えることとなり、その叔母の誕生日祝いも兼ねて大阪で開催されることになった。

 私は都合で昨年のいとこ会に参加することができなかったこともあり、幹事役のSさんから余興として何か軽井沢の話をしてもらえないかと依頼があった。何事にもNOと言わないことを旨としているので、この時も快諾したが、さて何を話そうかと考えてしまった。

 数年前には、いとこ会の会場でネット接続し、私のブログ記事からチョウの羽化シーンなどをスクリーン画面に映し出して、紹介したこともあった。 
 その時は時間的な余裕もあり、設備も整っていたからできたのであったが、今回はそうした設備のないレストランでの食事会であり、口頭での話に限られていた。

 はじめは、最近のブログ記事から、ペンローズ・タイルの話をして、きれいなペンローズパターンを絵葉書にして配ろうと考えていた。しかし、これは妻の反対にあった。せっかくの食事がまずくなるのではないかとの懸念からであった。

 それではと、ちょうどTVのニュースで紹介された上記「コスモス街道」と「大コスモス園」に行って、いとこ会の名にちなんだコスモスの花の写真を撮り、絵葉書にして皆にプレゼントしようということに決めた。

 軽井沢から現地までは、妙義荒船林道があり最短コースとなっているが、数年前に台風19号の被害に遭ってからは通行止めになっていたこともあり、その後の様子が判らなかったので慎重を期して別ルートを選んだ。

 迂回ルートには下仁田経由と佐久経由とがあるが、今回は通いなれた佐久市を回ることにした。先ず内山牧場を目指し、そのすぐそばにある「大コスモス園」を訪れた。このあたりからは荒船山の「くじら」のような姿が望める。

内山牧場から見える荒船山(2024.9.18 撮影)

 ここのコスモスはまだ少し早いようであり、事前に写真で見たほどの花数ではなかったが、広大な丘陵地にコスモスが植えられていた。


大コスモス園(2024.9.18 妻撮影)

大コスモス園(2024.9.18 撮影)

コスモスの花(2024.9.18 妻撮影)

 続いて国道254号まで南下し、途中コスモス街道の花を楽しみながらコスモス畑に向かい、駐車スペースに車を停めた。ここには臨時の野菜などの販売所も設けられていて、妻が買い物をしている間に私はコスモスの花の写真を撮った。


コスモス畑から妙義山を望む(2024.9.18 撮影)

 頭の中で描いていたものとは違って、コスモスの花色と花びらの形は随分多様である。青色のものはさすがにないが、黄色のコスモスもあり、何故かこの黄花にはミツバチがよく訪れていた。

 こうして2か所で撮影した様々なコスモスの花の写真を絵葉書にして「コスモス会」に備えた。この絵葉書の評判はご想像にお任せすることとするが、幹事のSさんから頼まれた「軽井沢だより」の話を無事務めることができた。

 以下、絵葉書に採用したコスモスの花の数々である。














コスモスの花色と形の数々(すべて2024.9.18 撮影)




 
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スカイツリーと花火

2024-09-06 00:00:00 | 日記
 2010年に、上越市から東京に転勤することになった時、会社が住まいを準備してくれることになり、事前に上京し、紹介された不動産業者と会った。

 勤務先は浅草橋駅近くにあり、できれば徒歩圏内に住まいを探してもらおうと思っていたが、ふと思いついてさらに2つ条件をつけ加えてみた。一つは建設中のスカイツリーが見えること、もう一つは隅田川の花火が見えることであった。

 こうした条件が満たされる物件が見つかるものかどうか判らなかったが、不動産業者からは条件に合った物件だということで3件紹介していただけた。2件は私の方が気に入らなかったので断ったが、残る1件は鉄筋のアパートの3-4階だったかと思うが、周りに建っているビルの隙間から何とか遠くが見通せて、スカイツリーも完成する頃には見えるだろうし、隅田川の花火も見えそうな場所だと思えたので、この部屋を契約することにした。

 しかし、しばらくして不動産業者から、大家さんの了解が得られなかったとの理由で断りの連絡がきた。何でも高齢の単身者には貸したくないのだという。ここにきていまさらと思ったが、文句を言っても仕方がない、この物件は断念し、別の住まいを改めて探してもらうこととなった。

 次に紹介されたのは高層マンションで、広い通りに面していて眺めも良く、上層階の部屋であったので、建設中のスカイツリーがよく見えた。花火が見えるかどうかは判らなかったが、不動産業者の話では、ここからなら間違いなく隅田川の花火を見ることができるというので、それを信じてここに決めた。

 住んでみると、窓から日々進んでいくスカイツリーの建設の様子が遠望できるので、定点撮影を思いついて、入居後すぐに窓際に三脚を据えて毎朝・毎夕写真を撮り始めた(2010.8.3~2011.2.8)。


窓越しに撮影したスカイツリー建設の様子(2010.8.3~2011.2.8 撮影)

 隅田川の花火の方は、スカイツリーとほぼ同じ方向に見えるはずであるというものの、実際のところは花火打ち上げの当日になってみなければ分からなかったが、重なり合うビルの上に、確かに打ち上げ花火を見ることができた。

 距離は3キロほど離れていたので、かなり遠く、残念ながら東京に来るまで住んでいた上越・高田の自宅から見た花火とは全く違っていた。それでも住まいの窓から、居ながらにして隅田川の花火を見ることができることに満足して、ビールを飲みながらの花火見物になった。動画撮影もしたが、紹介できるようなものは撮れなかった。

 その上越・高田ではどうだったかというと、花火を打ち上げる関川の河原から自宅までは800mほどの距離で、まさに目の前で打ち上げられる大輪の花火を見ることができた。ここに住んだのは5年ほどであったが、この間に2回花火を楽しむ機会があった。花火の打ち上げ場所が1年ごとに高田と直江津で交代するのであった。そのうちの1回は丁度訪ねてきていた父とビールを飲みながらの見物であった。

 考えてみると、私は結構花火好きで、子供の頃住んでいた大阪市南部の自宅から、16㎞ほども離れた富田林のPL教団が打ち上げる花火を見るのが楽しみであった。高所恐怖症気味の今では考えられないが、父と私は平屋の家の屋根に上って花火見物をした。

 就職してから移り住んだ本厚木では、相模川の河原で行われた花火見物に出かけたし、広島・三次時代には馬洗川・西城川・江の川の合流地点で行われる花火見物に出かけるのも欠かさなかった。鎌倉では由比ヶ浜の水中花火も大混雑の中を見に行った。

 定年後移住先に決めた当地軽井沢でも数カ所で花火大会が行われている。プリンス・ショッピングプラザでは夏だけではなくセールに合わせて打ち上げられている。この花火は自宅2階の窓から見ることができるが、一番大きくきれいに見えるのは駅前の矢ケ崎公園広場で打ち上げられる花火である。

 これはお盆の期間に新軽夏祭りの一環として行われるもので、同時に盆踊りや縁日・夜店なども催される。今年も第47回の夏祭りに花火大会が行われた。

 今年、2か月前にホタルの撮影に初めて挑戦し、何とか見られる写真が得られたので、いつもは眺めるだけの花火であるが、今回は撮影を思い立った。撮影条件はホタル撮影の時に調べてあったので、同じような設定にして、三脚を構えて撮影した。とりあえず撮影してみたという感じだが、次のようである。

 最近の花火は多彩な色と形で楽しませてくれるなと感じていたが、実際、撮影した写真を整理してみて改めてその思いを強くした。


赤い花火(2024.8.17 撮影)


黄色い花火(2024.8.17 撮影)


紫色の花火(2024.8.17 撮影)


青色の花火(2024.8.17 撮影)


橙色の花火(2024.8.17 撮影)


桃色の花火(2024.8.17 撮影)

緑色の花火(2024.8.17 撮影)

 花火の色は中高生の頃に習った金属種の炎色反応で決まるはずであり、記憶法が今も浮かんでくる。「リアカー無きK村、どうせ借るとするもくれない馬力」。これの意味するところは次のようである。

    *リチウム・・・・・・赤
    *ナトリウム・・・・・黄
    *カリウム・・・・・・紫
    *銅・・・・・・・・・青
    *カルシウム・・・・・橙
    *ストロンチウム・・・桃紅
    *バリウム・・・・・・緑

 今回見た花火には、ほぼこれら各種の色を見ることができた。そのほかにも同時に複数の色の混じっているものもあり多彩である。これらを一覧にすると次のようである。


多彩な花火の色と形(2024.8.17 撮影)

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カブトムシ

2024-08-30 00:00:00 | 日記
 先日、雲場池に朝の散歩に出かけた時、遊歩道脇の別荘のフェンスに、カブトムシが一匹止まっているのに気がついた。少し赤みがかった色をした、やや小型の♂である。立派な角をつまんで、少し離れたところにある樹に止まらせて写真を撮った。

雲場池の遊歩道脇で見かけたカブトムシ♂(2024.8.18 撮影)

 軽井沢に移住して10年ほどになるが、これまで当地でカブトムシを見かけたことはなかったので、もしかしたら・・・と思ったのであった。

 実は、今自宅でカブトムシを飼っている。昨年秋に、群馬県にある妻の友人の畑に収穫のお手伝いに行った際、畑の一角の堆肥場に100匹ほどもいたカブトムシの幼虫を少し分けていただいてきて、飼ってきたのである。

 そのカブトムシの幼虫は、飼育ケースの中で無事軽井沢の冬を越して、8月上旬に成虫になった。飼育した目的は、成長過程の3D撮影であったが、うまく撮影条件を整えることができず、撮影は失敗に終わっていた。幼虫そのものは順調に成虫になり、昼間は底に敷いている腐葉土に潜っていることが多いが、与えた餌の「カブトムシゼリー」の減り具合から見ると、猛烈な勢いで食べて元気にしている。

 好きなように飛び去ればいいと思い、飼育ケースの蓋を開け放したままにしていたが、1週間ほど経ってもまだ何匹も飼育ケース内にとどまっているのを見ていた。

 散歩から帰り、腐葉土を掘り返して、カブトムシの数を数えてみると、3匹減っていた。雲場池で出会った♂のカブトムシは、やはり我が家から飛び立っていった「うちの子」に違いないと思えた。

 翌日の散歩の折に、少し注意しながら歩いてみたが、もう前日のカブトムシを見つけることはできなかった。

 もともと昆虫が好きで、子供のころから様々な昆虫を採集してきた。近所の同級生には昆虫好きはいなかったので、もっぱら一人で昆虫採集に出かけていた。カブトムシは自宅周辺で見ることができなかったが、小学校の5年生と6年生の時に出かけた吉野の林間学校では、朝の宿周辺の散歩の時に、数匹のカブトムシを見た記憶がある。

 また、父の実家がある高野山の麓の村に墓参りに出かけた時には、墓地の周囲に植えられているクヌギの樹を蹴ってバラバラと落ちてくるカブトムシやクワガタムシを拾ったものであった。

 チョウをはじめカブトムシなどの甲虫類、ハチやセミなどを採集して標本にしていたが、もう散逸してしまい今は何も残っていない。 

 定年後、縁あって山梨県・北杜市のオオムラサキセンターに時々通うようになり、その行き帰りに野生のオオムラサキを探して北杜市内の山間部をあちらこちら探したことがあった。

 夕方近くになったある日、林道でカブトムシが止まっている樹を見つけた。しばらく様子を見ていると、どこからともなくカブトムシが飛来し、この樹に次々と止まることがわかった。またたく間に10匹近くのカブトムシを採集することができ、夢のような気持ちで持ち帰ってきたことがあった。

 この時の樹は一体何だったのだろうかと後になって思った。普通カブトムシが樹液を求めて集まってくるのはクヌギやコナラであり、それなら判る。しかし、葉の様子は違っていたように思えた。

 後で、ホームセンターの園芸コーナーで知ったことであるが、「カブトムシの集まる樹」というものが売られていた。樹の名前は「シマトネリコ」という。あの時の樹も、このシマトネリコだったのだろうかと思ったりしたが、調べてみると南方産で園芸種のシマトネリコが北杜市の山間部に自生しているとは考えにくいので、誰かが植えていたものかもしれないと思ったりしている。

 ところで、自宅で飼育したカブトムシの幼虫だが、娘と妻が100円ショップでカブトムシの飼育・観察ケースを見つけて購入してくれたので、試みに1匹だけこの容器に移してみた。厚みが薄くできていて、カブトムシが蛹や成虫になるところを容器側面から見ることができるという仕組みである。

 その他の幼虫は今回は観察することを諦めて、飼育ケースに厚く敷いたカブトムシ用マットと腐葉土とを混ぜた中で育てた。普段、姿は全く見えない。
 しかし、時々糞の掃除をする必要があり、用土を全て「ふるい」にかけて糞を選り分けて捨てているので、その時に幼虫の成長具合は観察できる。


カブトムシの幼虫の様子(2024.5.7 撮影)

 今年の7月初めごろだったと思うが、活発に動き回っていた飼育・観察ケース内の幼虫の動きが止まり、1か所でじっとしているようになったのが、わずかに容器壁を通して見られたので、いよいよ蛹になると判断し、それからは両方の飼育ケースの糞の掃除を中止して様子を見ていた。

 8月上旬になり、容器壁から見える幼虫の色が褐色に変化してきたので、容器から出してみると、すでに脱皮した成虫の姿になっていた。ただ、この個体は立派な角の形が少し変形していた。

 別の飼育ケースも腐葉土を掘り返してみたところ、すべての幼虫が脱皮を終え、成虫になっていたので、早速、成虫用の餌「かぶとむしゼリー」を買い与えた。

 数日後、夜間激しい雨が降った翌朝、飼育ケースを見ると、中が水浸しになっていた。何匹かはケースの蓋につかまっていたが、残る数匹は水に浮かんでもがいていた。不注意にも屋根のない場所に置いていたからであったが、カブトムシは溺死しておらず、事なきを得た。

 この後、妻の提案もあり、ケースの蓋を取り外して、去るも残るも自由にさせることにしていたのであった。結果、数匹が、飛び立っていったことになるが、残っている個体をよく見ると、飼育・観察ケースで成虫になった♂1匹を含め、翅や角に奇形のあるものが数匹みられた。全部ではないのだろうが、自由に飛ぶことができないために、飼育ケースに残ったものもいるようである。

 外観は奇形ではあるが、これは蛹化・脱皮時に何らかの理由で起きたことで、DNAの問題ではないはずとの考えで、ケースにいるカブトムシは、このまま飼育を続けて、採卵し、次の世代を育ててみようと考え方を変え、再びケースに蓋をした。

 もし、うまく採卵ができ、孵化させることができれば、今度はなんとかもう一工夫をして成長過程を撮影したいものと考えている。

 以下の写真は、「ぐんま昆虫の森」に出かけた時のもので、「昆虫観察館」の入り口にはカブトムシのモチーフがあり、内部には飼育されているカブトムシの観察ケースと成長過程を示すパネルがあった。実はこのパネルを見ていたので、カブトムシの飼育と撮影を思い立ったのであった。

「ぐんま昆虫の森」の「昆虫観察館」の入り口にみられるカブトムシのモチーフ(2019.1.11 撮影)

「昆虫観察館」のカブトムシ飼育ケース(2019.1.11 撮影)

「昆虫観察館」のカブトムシの1年を示す展示パネル(2019.1.11 撮影)




 
 





 

 
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いとこ会と日本一

2024-08-09 00:00:00 | 日記
 以前、母方の家族の「いとこ会」のことを紹介し、祖父母に始まる4代91名の親類の中に、同じ誕生日の人たちが、11組見つかることに対して、この確率は一体多いのかそうでないのかを疑問に感じて、計算したことがあった(2019.1.18 公開当ブログ)。

 このことを最初に疑問に感じ、私に話してくれたのは、鹿児島県在住の従弟のHYさんであったが、私自身もかねて気になっていたことでもあった。

 面倒な確率計算であったが、結果は約5%という数字になり、任意に集められた91名の集団から得られる数字と比較すると、家族という集団ならではの珍しい現象ではないかと思ったりしたのであった。

 コロナ禍の影響を受けて、2019年以来休会になっていたこのいとこ会であるが、常任幹事役のASさんの働きで、昨年再開した。

 ただ、この時連絡を受けた開催日は、すでに妻が計画してくれていた私の喜寿の祝宴の日程と重なっていたため、残念なことにいとこ会には参加することができなかった。

 事後、ASさんからの報告には、祖母のなつかしい写真を生成AIで加工し、あたかも祖母がにこやかに語りかけ、いとこ会の開催を祝っているような動画が添付されていて驚かされたのであった。

 その従弟のASさんから、6月下旬にグループLINEを通じて、鹿児島県在住の従弟HYさんのお孫さんの一人、中村美月ちゃんが日本一になり、福岡テレビで紹介されたとの知らせが届いた。

 母がまだ健在だった2010年9月に、母と二人の妹と一緒に鹿児島に行き、HYさんの家族ほか、鹿児島在住の2人の従姉妹とその家族も一堂に会し、一緒に食事をしたことがあって、その時には、HYさんの娘さん夫婦も同席していたように思うが、今回の中村姓には覚えがなく、ましてやお孫さんの美月ちゃんとなると、そのころにはまだ生まれていなかったはずである。

 第1報では、美月ちゃんがどのようなことで日本一になったのか、まだ情報がなく、早速妻と一緒にネット検索をして確かめてみた。

 「中村美月、日本一」で検索してみると、3件の候補が見つかった。なんと同姓同名の該当者が3人もいるのである。 

 一人は1990年生まれのプロボウラーで準優勝経験者。もう一人は高校1年生の起業家で、2024年1月、日本政策金融公庫主催の「第11回ビジネスプラン・グランプリ」で505校5014プランの中からグランプリを受賞。そして、3人目が福岡市在住の小学4年生(10)で、日本武道館で2024年1月に開かれた第60回全日本書初め大展覧会で、最高位の内閣総理大臣賞に輝いたとある。 

 年齢からも出身地からも三番目の書初め日本一に違いないと確信し、ASさんからの続報を待った。すると2日後に、テレビで放送されたという番組を録画した映像がLINEで皆に届けられ、グループLINEは大いに盛り上がることとなった。

 早速、鹿児島の従弟HYさんにお祝いのメールを送ったところ、次のような返事が届いた。美月さんのお母さんSさんが書道学科卒とは知らなかったが、いい環境で研鑽を積んだ結果が、今回の受賞に結び付いたといえるようである。

 「・・・思いがけずASさんから(いとこ会のメンバーに)ビデオを送って貰ってありがたいです。
 東京の日本武道館で表彰式が2月25日にありましたが、美月が最高の総理大臣賞を貰える事はもう無いだろうと思って夫婦二人一緒に行って来ました。
 娘のSが福岡教育大学の書道学科を出ていまして、娘の指導が良かったのか、あるいは本人が好きで毎日頑張っているせいか、とにかく私達夫婦には似てない孫です。
 1月5日に日本武道館であった書き初め展覧会に美月が参加したのは初めてで、最初は緊張で手が震え、家内の母親が持っていた文鎮で心が落ち着いたそうで無事課題二枚を書き上げたとの事でした。・・・」

 ASさんからみんなに届いたテレビ番組「福岡くん」のビデオは約20分の長さで、タイトルは「10歳で日本一福岡在住の天才書道ガール美月ちゃん」とあり、今回の総理大臣賞受賞の内容ほか、美月ちゃんが小さいころから書道に取り組んできたいきさつや、書道の腕前をカメラの前で披露する様子が紹介されていて、とても微笑ましく頼もしいものであった。

 ビデオからいくつかのシーンを紹介すると次のようである。

   「早速福岡市某所の待ち合わせ場所で待っていると・・・こちらが噂の、日本一の天才キッズ中村美月ちゃん10歳。毎週欠かさず”福岡くん”を見てくれている大ファンです。

 『美月ちゃんが何かの日本一という噂を聞いたのですが、それは本当ですか。』
 『はい。、今年の1月に日本一になりました。』

 美月ちゃんは一体何の日本一なのか、この日は新築のお家で練習中とのことで、僭越ながらお邪魔させていただく運びに。・・・

 『ただいま~』

 果たして美月ちゃんが日本一になったあることとは・・・正解は書道でした。
 美月ちゃんは書道で日本一の天才少女とのことです。・・・
 聞くと美月ちゃんは今年の1月、東京の日本武道館で開催された全日本書初め大展覧会という大会に出場、そしてその大会で最もすぐれた作品に贈られる内閣総理大臣賞を受賞、作品総数およそ1万5000点の中から、みごとナンバー1に輝いた天才小学生でした。

 『小さい子から大人まで参加して書いて・・・』
 『えっ・・・』

 そう、なんと美月ちゃんは全国の小学生の中の日本一ではなくて、3歳の子供から82歳の超ベテランまで出場した大会で日本一になった超天才書道ガールなのです。・・・
 そんな美月ちゃんが内閣総理大臣賞を受賞した作品がこちら・・・」


中村美月ちゃんの内閣総理大臣賞受賞作品と本人(テレビ番組”福岡くん”から)

「・・・自身の体と同じくらい大きな紙に力強く書かれた、文字通り美しい字に、とてもではないが10歳の女の子の作品と言われてもにわかには信じられません。
 やはり10歳でこのうまさは、ガチで衝撃的なのです。
 しかし、なぜ1万5000点の作品の中で、10歳の美月ちゃんが日本一の栄冠を勝ち取れたのか、その理由を美月ちゃんに聞いてみると、小学生とは思えない大人びた回答が・・・

 『課題が良かった。”親しい友”っていうのを課題を書く前に練習していたので、”しい”が慣れていたのと、名前の美しいという字が入っているので、ちょうどいい課題だったのかなと思います。』

 ”美しい空”の4文字中3文字が書きなれた文字だったため、美月ちゃん的には運がよかったのだと言います。・・・

 『運がよかったのですか?、美月ちゃんとしては。』
 『はい、だからまだ実力はまだまだです・・・』

 齢十歳にして驕りを見せないパーフェクトな受け答え、我々もお手本にすべき美しい心の持ち主なのだ・・・
 そんな福岡が誇る天才書道ガール美月ちゃんが書いているところを見てみたいということで、せっかくなので福岡名物的なものを書いていただくことに。書いてもらうのはみんな大好きな”明太子”。

 『書いたことあります?、明太子』
 『ないです』

 なんと美月ちゃんは初挑戦にもかかわらず、お手本なしで書き始めます。・・・
 書道のことをあまり知らなくても、この時点でめちゃくちゃ上手いことが判る手さばき、・・・」

番組の要望で書いた「明太子」の文字(テレビ番組”福岡くん”から)
 
 「さすが日本一の美月ちゃん、とにかくえげつなく上手い。パソコンのお手本と比較してみても、文句なしのパーフェクト・・・

 『パソコンよりいいよ、ぜんぜん・・・』

 しかし、一体なぜ初めて書く漢字をお手本なしでこんなに美しく書けてしまうのか。残念ながら書道ド素人の番組スタッフでは説明できない。そこで僭越ながら日本屈指の書道家と言われる方に解説していただくことに。お話しを伺うのは御年89歳の杭迫柏樹さん。・・・
 そして、この杭迫さんは全国大会での審査をした際に、美月ちゃんの字を”完ぺき”と評したお方だそうです。
 いわく、とにかくすごい美月ちゃんは10歳にして書道の基本である筆使いをほぼ完ぺきにマスターできているそうです。そしてその小学生ばなれした筆使いこそが美月ちゃんの真骨頂とのことです。・・・
 ちなみに書道において、最も重要と言われる字がこの永遠の永の字。・・・そのためこの永の字をいかに上手に書けるかが書道においては超絶重要だそうです。そしてこの永の字はパソコンで作ったものではなく、美月ちゃんが実際に書いたものです・・・。」


美月ちゃんが書く「永」の字(テレビ番組”福岡くん”から)

 そんな超絶すごい腕前の美月ちゃんなら、大人でも書くのが難しい字も書けるのか・・・にも挑戦してもらうことに。書いてもらうのは”薔薇”と”檸檬”。画数が多く字の構造も難しい代表的存在。今回の取材で初挑戦の超難題、果たして・・・
 初めて書く漢字にも関わらず、持ち前の天才的な筆使いで、いとも簡単にクリア。・・・やはりめっちゃ上手い。」


美月ちゃんが書いた「薔薇」と「檸檬」(テレビ番組”福岡くん”から)

 「・・・しかしそもそもなぜ美月ちゃんは10歳でこんなに美しい字が書けるのか、実はそこには10歳の小学生とは思えないような、とんでもない練習量と努力が・・・。

 『小さいころから書道をやってきて、物心ついた時から筆握ってたんです。』

 幼いころ、書道教室の先生をしているお母さんに口説かれ、気づけば、物心ついた時から筆を握っていたという美月ちゃん。3歳から本格的に書道を始めると、わずか5か月で賞を受賞するという天才ぶりを発揮、更に天才なうえに超がつくほどストイックな美月ちゃんは練習量もハンパないそうです。

 『平日は帰ってきてから2時間くらいしかやらないんですけど、週末とかは大体5,6時間で、長い時は7時間8時間です。』

 しかし毎日何時間も練習していたら書道が嫌になったりすることはないのだろうか。

 『嫌になったことは、まあ何回かあるのですけれど、最高の1枚を仕上げたいことと、あと賞をもらえたら、表彰式とかで、書道の関係で知り合えるお友達とかにも会えるので、それで頑張ろうって思います。』

 やさしい美月ちゃん。そんな美月ちゃんにずっと番組を愛してもらうため、そしてこれから先もみんなに楽しく見てもらうため、我々”福岡くん”が最も大切にしている番組訓を美月ちゃんに書いてもらうことに。
 そう、”コンプラ徹底”。今のテレビに、そして福岡くん的にもそれこそすべてなのであります・・・」


美月ちゃんが書いた「コンプラ徹底」の文字(テレビ番組”福岡くん”から)

 と、以上、我々親類縁者にもとても嬉しく誇らしい内容のテレビ放送でありました。

 尚、美月ちゃんの弟環太君もお姉さんの後を追いかけて、書道に励んでいるとのことで、今年、第40回高円宮杯日本武道館書写書道大展覧会に出品し、大会奨励賞を受賞している。作品は次の通り。


美月ちゃんの弟環太君の第40回高円宮杯日本武道館書写書道大展覧会・大会奨励賞受賞作品(美月ちゃんのInstagramから)

 いとこ会のASさんが作成してくれている4代の家系図を簡略化して示すと次のようである。ここでは私たち「いとこ」世代の次の世代までが示されているが、こうした家系図のさらに次の世代の中にとはいえ「日本一」の人材が含まれるようになるのは稀有なことで、冒頭の誕生日の確率の話とは異なる次元の問題だと思え、喜ばしい限りである。美月さん、そしてHYさんご一家の皆さん、おめでとうございます。


「いとこ会」の簡略化した家系図と中村美月さんの位置




 
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ホタル

2024-08-02 00:00:00 | 日記
 初めてホタルを見たのはいつだったのか、もう思い出せないが、小学生の低学年の頃住んでいた大阪市内でも見ることができた。あたりには田んぼが広がり、その周囲を流れている溝のような場所でも、ホタルが生育していたようである。

 大学生になって間もないころだったと思うが、小学校の同窓会で和歌山県の紀ノ川の支流にあるキャンプ場に一泊で出かけたことがあった。現地近くに着いたのは日が暮れかかった頃で、キャンプ場に向かう途中の渓流沿いの道で、それまでに見たことのないくらいのたくさんのホタルが飛び交っていたことを、思い出す。

 この光景を随分珍しく思った記憶があるので、そのころはもう大阪市内では見られなくなっていたのだろうと思う。

 次にたくさんのホタルに出会ったのは、1995年頃のことで、広島県三次市にある工場に勤務していた時であった。当時この工場に社長として赴任してきたNM氏は、昆虫好きで、若いころは地元新潟の越佐昆虫同好会に所属し、トンボの採集をしていたという人である。

 ある夏、そうした昆虫談義をしていて、ホタル狩りに行ってみようということになった。早速、子供用の捕虫網と虫かごを買い、宿舎の単身寮から少し離れた田園地帯に車で出かけた。

 そこでは、久々に大量のホタルに出会うことができ、童心に戻って夢中になりホタルを採集し、虫かごに数十匹を入れて寮に持ち帰り、それぞれの部屋に放した。

 ホタルはやがて開け放してあった窓から飛び出して、次第に姿を消していった。

 その後しばらくホタルを見る機会はなかったが、ある時妻の発案で、京都・高尾のホタル鑑賞に母を誘って行ってみようということになった。2012年頃だったと思う。

 京都駅前のホテルに一泊し、ホテルが企画したバスツアーに参加するもので、夕方出発して、現地ではホタルを見ながら、川床での夕食をするというものであった。

 この時も、目の前を流れる川の対岸付近から、川床の上空辺りを飛ぶホタルを多数見ることができ、京都ならではの優雅な気分に浸ることができた。

 軽井沢に移住してからは、すぐ近くでホタルを見られるようになった。さすがに自宅周辺というわけにはいかないが、車で10分程度離れた場所にある発地の水田地帯の「ホタルの里」に行くとホタルを保護し育成している場所があり、ゲンジボタルとヘイケボタルの両方をみることができる。

 今年6月下旬ころ、チョウ仲間で、それぞれにバタフライガーデンを主催しているMSさんやTMさんと話していて、そろそろホタルが見頃ですよと教えていただいた。これまで知らなかったのだが、TMさんのバタフライガーデン近くの渓流には毎年かなりの数のホタルが発生しているのだという。

 前日、その現地に行って数百匹のホタルを見てきました・・・というMSさんからの電話に背中を押されて、私たち夫婦も夕方カメラ持参で現地に行くことにした。

 渓流への入り口には小さな小屋があり、ここにTMさんが座っていて受付をしていた。料金徴収をするのではなく、TMさんらしく、見学に訪れる方々の人数把握や住所などのデータを収集しているのである。同時に、うす暗くなった道案内や、当日までのホタルの発生状況についての情報提供もしていただける。

 ホタルのいる場所までは、狭い坂道を下りていくことになる。ところどころに照度を落とした照明は最低限設置はされているが、やはり足元を照らすものは必要である。

 この日、私としては初のホタルの撮影に挑戦するつもりであった。そのためにわか勉強で、撮影条件などをネットで検索をして調べ、三脚も持参して行った。

 観察路の最奥部付近に辿り着いてみると、周囲には数十匹のホタルが淡い光を放ちながら飛び交っている。数メートル上空にもたくさんの光の軌跡が見られ、これまでに見た中でもホタルの数は多い方である。

 早速、撮影に取り掛かったが、思うように撮影できていないことに気がついて諦めていたところ、奥の方から三脚を抱えたカメラマンが戻ってきた。挨拶をし、ホタルの撮影は難しいですね・・・と話しかけると。「撮影方法を教えてあげましょう」との返事が返ってきた。

 先ず、私のカメラを確認し、次いで撮影条件を教えていただいた。ISO感度の設定、色温度の設定、シャッタースピード、レンズの絞り値、焦点距離の設定などなど。

 教えていただいた数値は、ほぼ私がネットで確認したものと同じようであった。あとは、ひたすらくり返しシャッターを押し続けることだと教わった。

 つまり、ホタルの撮影は1回の撮影で行うのではなく、三脚を固定して、同じ場所で複数回撮影を繰り返し、これを撮影後に重ね合わせる操作を行うのだという。これまで私は知らなかったが、比較明合成という方法があるのだと教えていただいた。

 タイムラプス機能があれば、これを設定することで、長時間のくり返し撮影が自動的に行えるので、何度もシャッター操作をする必要がなく便利だとも教えていただいた。このカメラマン氏は、ホタルのほか、花火と星の撮影を専門としているとのことであった。

 この日は、すでに遅くなり、飛翔するホタルの数も減ってきたので、翌日もう一度撮影に来ることにして帰宅した。この日撮影した写真はほとんどまともにうつっているものはなく、かろうじてホタルが写っているものは次の1枚だけであった。


軽井沢の渓流を飛ぶホタル(2024.7.4 撮影)

 翌日は、より念入りに撮影準備をして出かけ、前日よりも順調に撮影は進んだ。カメラをほぼ水平方向に向けて、渓流上を飛んでいるホタルの撮影をしていると、横で妻が北斗七星が見えると言う。上空を見上げると、両側からせり出している木々の間から見えるためか、暗くなってきた空に北斗七星が一段と大きく輝いて見える。

 この北斗七星を背景にしてホタルが撮れるといいねとの妻のアイデアに、早速カメラの向きを上空に変えて、撮影を行った。こうして、この日は北斗七星を背景に写し込んだものを含め、ようやくホタルらしい光跡を撮影することができた。


北斗七星をバックに飛翔するホタル(2024.7.5 撮影)

 3D写真仲間のTY氏に数枚の写真を送ったところ、氏は先刻「比較明合成」のことは承知で、私からの複数枚の写真を合成し、直ちに返送してくれた。次の写真である。
 
 比較明合成を行うと、ホタルの光跡は増えてくるが、同時に北斗七星が移動しているので、星の輝点もまた増えるという難点がある。暗い背景にホタルの光跡だけを写す場合には問題ないが、今回のように星を背景に写し込もうとすると、撮影回数だけ星の数が増えて、やや煩わしいものになってしまうことがわかった。

 私としては、比較明合成を行わずに、できるだけ多くのホタルの光跡が写っている写真を選んだ方が自然で、いいように感じるが、この辺は意見が分かれるところかもしれない。


6枚の写真を「比較明合成」した画像(2024.7.5 撮影、TY氏合成)

 この時、TY氏とは3D撮影をしてみてはどうだろうか、との話題に移っていった。
 
 もともと、当ブログではもっと多くの3D写真を紹介する予定であった。しかし、撮影機材の性能に不満があったことと、掲載したとしても私の友人諸氏には3D写真を見る手段が限られているという現実があるため、ほとんど実施してこなかった。

 撮影機材としては、FujiFilm製の3Dカメラ以外に、JVC製3Dビデオカメラや、一眼レフカメラを2台用いる方法などを用意していたが、あまり使うことも無くなっていた。そこで、3D撮影用に購入したままお蔵入りしていた2台の一眼レフを引っり出して、ホタルの撮影を行うことにした。このカメラは当時としては画素数が最多で、電子レリーズが改造可能な機種で、SONY-α350である。電子レリーズは、2台のカメラのシャッターを同時に操作できるようにしている。この2台のカメラを全く同じ撮影条件にあらかじめセットして撮影に臨むことにした。

 翌日は生憎の雨模様で、その次の日に3度目の撮影に出かけた。現地受付にいたTMさんには「すっかりホタルの撮影にはまってしまいましたね」と笑われる始末であった。

 こうして2台のカメラで撮影した左右のそれぞれ6枚の画像を、再びTY氏に送り、比較明合成していただいた写真は次のようである。ここでは星の位置を調整して、数が増えて見えないように工夫していただいている。ブログの画面では限界があるが、立体視ができていると思う。


北斗七星とホタルの3D写真(平行法 2024.7.7 撮影、TY氏合成)


北斗七星とホタルの3D写真(交差法 2024.7.7 撮影、TY氏合成)

 撮影したホタルの写真を整理しているところに、元の勤務先のOB会から訃報が届いた。突然のことに驚いたが、先に紹介した三次でホタル狩りに一緒に出掛けたNM氏のものであった。7月1日に85歳で亡くなられていたという。

 あの時、単身寮の部屋の窓から飛び出した数匹のホタルが絡み合いながら上空高く飛び消えていった光景を思い出し、NM氏の魂の安らかなことを願った。

 
  
 


 

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