新幹線で移動するときの楽しみのひとつは、車内誌「トランヴェール」を読むことである。上越市に赴任していた1998年ころからの話であるが、出張で東京方面に出るときには、長野経由と、越後湯沢経由の2ルートがあった。どちらも経由駅で新幹線に乗り換えるのだが、その「あさま」や「とき」、「たにがわ」の車内には「トランヴェール」が備えられていた。
多い時には、ひと月に何度も東京に出る機会があったが、月初めに出張のあった時には、真新しい「トランヴェール」をお土産に頂いてくるのが習慣になっていた(「ご自由にお持ち帰りください」と書かれている)。
会社を定年で辞めて、軽井沢に住むようになってから少しの間ブランクがあったのだが、まもなく、今度は毎月のように大阪の実家に出かけるようになった。一人暮らしをしている母と10日程度一緒に過ごしてくるためであった。軽井沢から大阪に行くには、東京経由と金沢経由とがあり、新幹線を2本乗り継ぐ東京経由の方が、所要時間は多少短くなるが、私は両方のルートを適宜利用した。そして、このときも新幹線に乗ると「トランヴェール」があった。
今年夏に母が亡くなり、定期的に大阪に行く機会はなくなったが、ここしばらくはまだ東京に出る機会もあり、今も私の「トランベール」愛読は続いている。
トランヴェールには「巻頭エッセイ」や「特集記事」があり、私はのこ両方を読むのを楽しみにしている。エッセイの作者には嵐山光三郎、高橋克彦、藤原正彦、内田康夫、浅田次郎、泉麻人、村松友視、伊集院静、角田光代、荻原浩、山田五郎さん等が続き、ここ2年半ほどは沢木耕太郎さんが担当している。
私と同年代ということもあるが、沢木さんのエッセイは共感するところが多く、いつも「トランヴェール」を手にすると、真っ先に読んでいる。
私が読み始めたころの、ずいぶん古い「トランヴェール」が残っていたので、関西在住の私の友人各位にはなじみが薄いことと思うので、最近のものと合わせてその表紙をご紹介する。
JR東日本車内誌「トランヴェール」2001年-11月号の表紙
JR東日本車内誌「トランヴェール」2018年-12月号の表紙
さて、最近また東京に出かける機会があり、車内でいつものように「トランヴェール」を手にしたところ、今回の特集記事は「こけし」についてであった。早速、読んでみると、ちょっと意外なことに、今、『「コケ女」なる言葉が生まれるほど、女性を中心に「こけし」が人気』なのだそうである。
TVや新聞で採りあげられていた記憶がないので、静かなブームということなのだろうか。そういえば知り合いの女性が、我が家にある義父のコレクションの「こけし」が見たいといって、これまでに2度来訪している。実は、我が家にはいわゆる「伝統こけし」が数百本あって、専用の棚を設けて飾っているのである。
この義父の「こけし」コレクションは1952年頃から集め始めたものらしいが、いずれも東北地方の温泉場に出かけて買い求めて来たものという。中には直接こけしの工人を訪ねて、買ったものもあるらしい。若いころ、妻も同行して買ってきたり、時には義父から頼まれて、旅行途中に温泉場に行って買ってきたものもあるという。
この多数のこけしは、数年前に軽井沢に移住する際に、妻の実家からこちらに引っ越しをしてきたものである。我が家を訪ねてきた家族や友人は、このこけしを見て、その数の多さに一様に驚くのであるが、母はその中から2本を選んで、欲しいといって大阪に持ち帰っていた。
ところで、このこけしについては、気になることが一つあった。今回「トランヴェール」の特集で、その点がどのように扱われているのかという関心もあり、読み進めた。
この「特集」は次のような構成である。
■ 冬は東北 こけしをめぐる旅に出る
■ 福島・宮城・青森 こけしを知る旅
■ どうしてこけしが好きなんですか?
■ 秋田・岩手・山形 こけしに惹かれて湯けむり紀行
■ フシギでかわいい創作こけしたち
我々にも身近なこのこけしは、いつどこで、なんのために生まれたのか、という疑問に対する答を求めて、記者はまずこけしの「いろは」を知るために、福島県の土湯温泉にあり、伝統こけしの蒐集と研究に尽くした西田峯吉氏のコレクションを展示する「原郷のこけし群 西田記念館」に向かう。
ここで、学芸員から「こけしは元々おもちゃとして作られました。胴が細いのは、子どもが持ちやすいように作った名残です」という説明を受ける。「現在11系統に分けられているこけしのうち土湯系や、宮城県の弥治郎系、遠刈田系、鳴子系、作並系のこけしは江戸後期から作られたと伝えられているが、残された品も記録も少なく、はっきりした発祥地や時期は分かっていない」という。生産地が東北地方だけに限られていたのは、「東北では昭和初期まで陶磁器ではなく、日常的に木の器が使われていたことに関連しているのではないか」とのことである。
この子どものおもちゃとしてのこけしは大正時代後期から衰退に向かうが、代わってインテリ層を中心にこけしに美を見いだす人々が現れ、昭和初期には、観賞品として人気を博す。さらに昭和30~40年代の高度成長期には大ブームが起き、中高年男性を中心に蒐集熱が高まり、即売会やコンクールが行われて産地は活況を呈したようである。義父がこけし蒐集を始めたのは、ちょうどこの第二次のブームの時期に一致している。
現在は、これらに次ぐ第三次ブームとされる。推進役は若い女性に替わった。
こけし製作はろくろで行われる。どこも製法の大枠は同じというが、胴と頭のつなぎ方は異なり、3パターンある。頭と胴もつなげて一本の木材から彫るのが津軽系や木地山系。別々に作って頭を胴にはめ込むのが鳴子系と土湯系、南部系。それ以外は別々に作った首と胴を動かないように固定してつなぐ。
こけしの頭と胴のつなぎ方(左から一本式、首回り式、キナキナ式、)
こけしの頭と胴のつなぎ方(差し込み式の3方式)
鳴子系など、頭を胴にはめ込む方法はなかなか高度な技術が必要で、完全に経験と勘の世界とされている。
この最大の産地でもある鳴子では、昭和15年に開かれた会合で、それまで「でく」や「きぼこ」などさまざまであった呼称を、現在の「こけし」に統一したという。「木(こ)」とこけし以前にあった玩具「芥子(けし)人形」が合わさって「こけし」になったなど語源は諸説あるが、鳴子や遠刈田での呼び名だそうである。
伝統こけしの産地の11系統とは、北から1.津軽系、2.南部系、3.木地山系、4.鳴子系、5.作並系、6.遠刈田系、7.弥治郎系、8.肘折系、9.山形系、10.蔵王系、11.土湯系である。
少し前の本や、伝統こけしの工人リストなど、10系統に分類されている場合もある。トランヴェールの特集記事に示されている11系統と、手元にある少し古いカラーブックス「こけし」(山中 登著、1969年 保育社発行)で紹介されている10系統、ネットで検索した系統・工人一覧表(2015年の検索)の10分類を比較すると、次のようである。
山中 登著「こけし」の表紙
こけし産地と系統
現在山形系として、独立しているものは、以前は作並系と同一に扱われていたことがわかる。また、以前は土湯系に含まれていた中ノ沢温泉産と、蔵王高湯系に含まれていた温海温泉産は11系統から切り離して、独立系として扱うようになっていることもわかる。
ところで、私が気になっていたことであるが、それは「こけし」という呼び名の由来である。我が家のこけしを見た人から、その名の由来として「こけし」=「子消し」ということを聞いたからであった。それも前後して二人の口からこれを聞いた。
「子消し」とは、過去に東北地方が飢饉に見舞われたときに、我が子の命を奪わざるを得なかったできごとに由来している。これは本当だろうか。
今回、トランヴェールの記事では、「こけし」という呼称が、昭和15年に決められたと、その由来が紹介されているが、それ以外の説については触れていなかった。
1969年発行のカラーブックス「こけし」でも同様で、”「こけし」ということば”として、次のように書かれている。
「『こけし』という名は、最近になってできた新造語で、とくに固定した意味を持っていない。いうなれば、上物や駄菓子などいろいろなお菓子をひっくるめてわれわれが『菓子』と呼んでいるのと同じように解釈すればよいと思う。
しかし、『こけし』ということばには、親しさと愛憐のこまかい心情をあらわすひびきがこもっていることは確かで、たとえ形や大きさがいろいろと異なっても、このことは『こけし』全般に通じることである。・・・
しかし、これだけの説明ではこころのおさまらない人がいるかもしれない。それは昔あったコゲスを多少なりとも知っているか、こうしたロクロの挽き物人形に興味を持っているか、趣味にしている人たちかである。・・・
こけしの母体はコゲス(木削子)か はやい話が、『コゲスとコケシ』で、『スシとスス』(東北弁)みたいなものである。そこで、コゲスをこころの中に浮かべて、大衆が作り上げた語だろうと考えたいところだが、事実はそうでもない。『こけし』ということばの語呂が清くてかわいい感じだから、つい呼んでみたというのが真実らしい。
コゲスとはコゲスオボコの略語で、そもそもが東北地方に昔からあった、木製のロクロで挽いて作った、こどもの玩具なのである。木を削って作ったので木削子(こげし)からコゲスになり、・・・そのコゲスについてはいろいろな話がある。・・・姿態がケシボウズに似ているから、『こけし』の名が起こったとか・・・。
要するに、一般にいう『こけし』という名には、れっきとした骨組みはないが、ここに書いたような、いやそれ以上の昔のゆめが含まれていると思うのである。」
もうひとつ、ウィキペディアの「こけし」の項の「名称」欄の記述を見ておこう。
「こけしの名称は元来、産地によって異なっていた。木で作った人形からきた木偶(でく)系の「きでこ」「でころこ」「でくのぼう」、這い這い人形(母子人形説もある)からきた這子(ほうこ)系の「きぼこ」「きぼっこ」「こげほうこ」、芥子人形からきた芥子(けし)系の「こげす」「けしにんぎょう」等があった。また一般に人形という呼び名も広く行われた。他に「こげすんぼこ」「おでこさま」「きなきなずんぞこ」と呼ばれることもあったもあった。
「こけし」という表記も、戦前には多くの当て字による漢字表記(木牌子、木形子、木芥子、木削子など)があったが、1940年(昭和15年)7月27日に東京こけし会(戦前の会)が開いた「第1回現地の集り・鳴子大会」で、仮名書きの「こけし」に統一すべきと決議した経緯があり、現在ではもっぱら「こけし」という用語がもちいられる。
幕末期の記録「高橋長蔵文書」(1862年)によると「木地人形こふけし(こうけし)」と記されており、江戸末期から「こけし」に相当する呼称があったことがわかる。こけしの語源としては諸説あるが、木で作った芥子人形というのが有力で、特に仙台堤土人形の「赤けし」を木製にしたものという意といわれる。「赤けし」同様、子貰い、子授けの縁起物として「こけし」が扱われた地方もある。またこけしの頭に描かれている模様「水引手」は京都の「御所人形」において、特にお祝い人形の為に創案された描彩様式であり、土人形「赤けし」にもこの水引手は描かれた。こけしは子供の健康な成長を願うお祝い人形でもあった。
一方、近年ではこけしの語源を「子消し」や「子化身」などの語呂合わせであるとし、貧困家庭が口減らし(堕胎)した子を慰霊するための品物とみる説も存在する。これは1960年代に詩人・松永伍一が創作童話の作中で初めて唱えたとされる。しかし、松永以前の文献にはこの説を裏付けるような記述が見られず、松永自身も説得力ある説明はしていないとされ疑問が持たれている。明確な出典が存在しないため民俗学的には根拠のない俗説であり、都市伝説と同様、信憑性の無い与太話の類とされる。」(ウィキペディア 最終更新 2018年12月1日 (土) 11:22 )
ウィキペディアで初めて私の疑問に対する答えが得られたが、ここで示されている詩人・松永伍一の創作童話とは何か、どのように書かれているのかを確認しておく必要があるだろう。詳しく調べていくと、創作童話に該当するものかどうかは定かではないが、松永伍一全集(全六巻、法政大学出版局、1972年~1975年発行)の第2巻と第3巻の目次の中に次の2つの項目が見つかった。
■ 子消し曼荼羅(第2巻、1973年発行)
■ こけし幻想行(第3巻、1972年発行)
このうち、第3巻の「こけし幻想行」は、1971年に「時代」(昭和46年8月号)に発表され、その後単行本として出版された「原初の闇へ」(昭和46年11月 春秋社発行)にも掲載されている。この書籍「原初の闇へ」を入手することができたので、その記述を見ておこう。
松永伍一著「原初の闇へ」の箱の表
単行本に掲載されていた「こけし幻想行」は12ページの比較的短い内容であるが、ごく一部を引用すると次のようである。
「こけしの前に座ると、私の心が複雑に歪み、重い息づかいになっていく。・・・九州に生まれて、こけしで遊んだ経験がないからだ、と言ってすませるだろうか。そうではないらしい。熱狂的な愛好者もいるかわりにたとえ東北に生まれた人でも、あれに一種の生理的反発を感ずることだってあるだろうと思う。・・・
こんど、弥治郎や遠刈田を歩きながら、その内なる問いに答えることができた。結論を言おう。『いま流布しているこけしはすべて偽物である』。・・・こけしに関しては『昔はよかった』に嘘はない。・・・私は弥治郎へ足を運んだ。のどかな山村という感じであった。『三界万霊塔』とか『馬頭観世音』とか『子安観世音』とかが、曲がりくねった道路のわきに立っている。二百五十年ほど前のものである。・・・木地師たちの村にさりげなく建てられているものを見てすぎると、特別の意味がそこに感じられてくるのである。特別のといっても、どのように特別なのか、それは自分でもわからないが、何となく・・・・・・・である。・・・
今弥治郎には五軒しかこけしを作る家はないが、・・・機械音のウーンウーンという唸りとともに、つぎつぎとこけしが出産するのである。・・・民芸品とは本来『手づくり』なのである。・・・(機械でつくったものは)もう民芸品ではなく、ただの商品である。・・・私たちは日暮れの弥治郎を去った。ため息ばかりついていた。・・・
子安観世音の石塔が、小高い丘の根もとに立っていて、そこだけがまだ、私の気持ちのなかで暮れ残っていたのである。こけしとは『子消し』のことか。私は、ひらめくものの命ずるままにアッと声を上げ、憂鬱とも悲しみとも、あるいはひたひたとくる救いともつかぬ心象の雫を胸に受け止めて、坂をくだった。・・・
この旅は、地獄から極楽への巡礼であった。人の鑑賞眼に疑念をはさみながら、本源的なものを探しつつ歩く意地悪な幻想行であった。そして、こけしをむかしから好まなかったことを、いまあらためて幸せと感じている。・・・」
こうしてみてくると、「子消し」を「こけし」の語源とするには、詩人・作家のあまりにも個人的なひらめきから生まれた解釈であることがわかる。カラーブックス「こけし」に関しては、その発行が1969年であり、「こけし幻想行」の発表が1971年であることを考えると、そこに「こけし」の語源として「子消し」が紹介されていないのは当然であった。
また、トランヴェールがこうした説を採りあげなかったことも、その影響の大きさを考えると明察であったと思う。
東北地方だけではなく、日本が飢饉により直面せざるをえなかった悲しい過去が存在していることは、事実であり、人々がこけしに寄せる思いの中にそうしたものが含まれていたということは、あるいはあったのかもしれない。しかし、それはこけしの名前の語源とはべつなものであったろう。
トランヴェールにも、多くのこけしの姿が紹介されていたが、よく似たものが我が家にもあった。いずれ、我が家のこけしたちの可愛い姿も、ここで紹介させていただこうと思う。
トランヴェールの表紙のこけしに似た我が家のこけし3体(2018.12.26 撮影)
追記:松永伍一全集の第2巻(1973年発行)に収められている、「子消し曼荼羅」は1972年三月号『潮』に発表されたものであるが、ここには「こけし」に言及した内容は含まれていない(2018.12.30)
多い時には、ひと月に何度も東京に出る機会があったが、月初めに出張のあった時には、真新しい「トランヴェール」をお土産に頂いてくるのが習慣になっていた(「ご自由にお持ち帰りください」と書かれている)。
会社を定年で辞めて、軽井沢に住むようになってから少しの間ブランクがあったのだが、まもなく、今度は毎月のように大阪の実家に出かけるようになった。一人暮らしをしている母と10日程度一緒に過ごしてくるためであった。軽井沢から大阪に行くには、東京経由と金沢経由とがあり、新幹線を2本乗り継ぐ東京経由の方が、所要時間は多少短くなるが、私は両方のルートを適宜利用した。そして、このときも新幹線に乗ると「トランヴェール」があった。
今年夏に母が亡くなり、定期的に大阪に行く機会はなくなったが、ここしばらくはまだ東京に出る機会もあり、今も私の「トランベール」愛読は続いている。
トランヴェールには「巻頭エッセイ」や「特集記事」があり、私はのこ両方を読むのを楽しみにしている。エッセイの作者には嵐山光三郎、高橋克彦、藤原正彦、内田康夫、浅田次郎、泉麻人、村松友視、伊集院静、角田光代、荻原浩、山田五郎さん等が続き、ここ2年半ほどは沢木耕太郎さんが担当している。
私と同年代ということもあるが、沢木さんのエッセイは共感するところが多く、いつも「トランヴェール」を手にすると、真っ先に読んでいる。
私が読み始めたころの、ずいぶん古い「トランヴェール」が残っていたので、関西在住の私の友人各位にはなじみが薄いことと思うので、最近のものと合わせてその表紙をご紹介する。
JR東日本車内誌「トランヴェール」2001年-11月号の表紙
JR東日本車内誌「トランヴェール」2018年-12月号の表紙
さて、最近また東京に出かける機会があり、車内でいつものように「トランヴェール」を手にしたところ、今回の特集記事は「こけし」についてであった。早速、読んでみると、ちょっと意外なことに、今、『「コケ女」なる言葉が生まれるほど、女性を中心に「こけし」が人気』なのだそうである。
TVや新聞で採りあげられていた記憶がないので、静かなブームということなのだろうか。そういえば知り合いの女性が、我が家にある義父のコレクションの「こけし」が見たいといって、これまでに2度来訪している。実は、我が家にはいわゆる「伝統こけし」が数百本あって、専用の棚を設けて飾っているのである。
この義父の「こけし」コレクションは1952年頃から集め始めたものらしいが、いずれも東北地方の温泉場に出かけて買い求めて来たものという。中には直接こけしの工人を訪ねて、買ったものもあるらしい。若いころ、妻も同行して買ってきたり、時には義父から頼まれて、旅行途中に温泉場に行って買ってきたものもあるという。
この多数のこけしは、数年前に軽井沢に移住する際に、妻の実家からこちらに引っ越しをしてきたものである。我が家を訪ねてきた家族や友人は、このこけしを見て、その数の多さに一様に驚くのであるが、母はその中から2本を選んで、欲しいといって大阪に持ち帰っていた。
ところで、このこけしについては、気になることが一つあった。今回「トランヴェール」の特集で、その点がどのように扱われているのかという関心もあり、読み進めた。
この「特集」は次のような構成である。
■ 冬は東北 こけしをめぐる旅に出る
■ 福島・宮城・青森 こけしを知る旅
■ どうしてこけしが好きなんですか?
■ 秋田・岩手・山形 こけしに惹かれて湯けむり紀行
■ フシギでかわいい創作こけしたち
我々にも身近なこのこけしは、いつどこで、なんのために生まれたのか、という疑問に対する答を求めて、記者はまずこけしの「いろは」を知るために、福島県の土湯温泉にあり、伝統こけしの蒐集と研究に尽くした西田峯吉氏のコレクションを展示する「原郷のこけし群 西田記念館」に向かう。
ここで、学芸員から「こけしは元々おもちゃとして作られました。胴が細いのは、子どもが持ちやすいように作った名残です」という説明を受ける。「現在11系統に分けられているこけしのうち土湯系や、宮城県の弥治郎系、遠刈田系、鳴子系、作並系のこけしは江戸後期から作られたと伝えられているが、残された品も記録も少なく、はっきりした発祥地や時期は分かっていない」という。生産地が東北地方だけに限られていたのは、「東北では昭和初期まで陶磁器ではなく、日常的に木の器が使われていたことに関連しているのではないか」とのことである。
この子どものおもちゃとしてのこけしは大正時代後期から衰退に向かうが、代わってインテリ層を中心にこけしに美を見いだす人々が現れ、昭和初期には、観賞品として人気を博す。さらに昭和30~40年代の高度成長期には大ブームが起き、中高年男性を中心に蒐集熱が高まり、即売会やコンクールが行われて産地は活況を呈したようである。義父がこけし蒐集を始めたのは、ちょうどこの第二次のブームの時期に一致している。
現在は、これらに次ぐ第三次ブームとされる。推進役は若い女性に替わった。
こけし製作はろくろで行われる。どこも製法の大枠は同じというが、胴と頭のつなぎ方は異なり、3パターンある。頭と胴もつなげて一本の木材から彫るのが津軽系や木地山系。別々に作って頭を胴にはめ込むのが鳴子系と土湯系、南部系。それ以外は別々に作った首と胴を動かないように固定してつなぐ。
こけしの頭と胴のつなぎ方(左から一本式、首回り式、キナキナ式、)
こけしの頭と胴のつなぎ方(差し込み式の3方式)
鳴子系など、頭を胴にはめ込む方法はなかなか高度な技術が必要で、完全に経験と勘の世界とされている。
この最大の産地でもある鳴子では、昭和15年に開かれた会合で、それまで「でく」や「きぼこ」などさまざまであった呼称を、現在の「こけし」に統一したという。「木(こ)」とこけし以前にあった玩具「芥子(けし)人形」が合わさって「こけし」になったなど語源は諸説あるが、鳴子や遠刈田での呼び名だそうである。
伝統こけしの産地の11系統とは、北から1.津軽系、2.南部系、3.木地山系、4.鳴子系、5.作並系、6.遠刈田系、7.弥治郎系、8.肘折系、9.山形系、10.蔵王系、11.土湯系である。
少し前の本や、伝統こけしの工人リストなど、10系統に分類されている場合もある。トランヴェールの特集記事に示されている11系統と、手元にある少し古いカラーブックス「こけし」(山中 登著、1969年 保育社発行)で紹介されている10系統、ネットで検索した系統・工人一覧表(2015年の検索)の10分類を比較すると、次のようである。
山中 登著「こけし」の表紙
こけし産地と系統
現在山形系として、独立しているものは、以前は作並系と同一に扱われていたことがわかる。また、以前は土湯系に含まれていた中ノ沢温泉産と、蔵王高湯系に含まれていた温海温泉産は11系統から切り離して、独立系として扱うようになっていることもわかる。
ところで、私が気になっていたことであるが、それは「こけし」という呼び名の由来である。我が家のこけしを見た人から、その名の由来として「こけし」=「子消し」ということを聞いたからであった。それも前後して二人の口からこれを聞いた。
「子消し」とは、過去に東北地方が飢饉に見舞われたときに、我が子の命を奪わざるを得なかったできごとに由来している。これは本当だろうか。
今回、トランヴェールの記事では、「こけし」という呼称が、昭和15年に決められたと、その由来が紹介されているが、それ以外の説については触れていなかった。
1969年発行のカラーブックス「こけし」でも同様で、”「こけし」ということば”として、次のように書かれている。
「『こけし』という名は、最近になってできた新造語で、とくに固定した意味を持っていない。いうなれば、上物や駄菓子などいろいろなお菓子をひっくるめてわれわれが『菓子』と呼んでいるのと同じように解釈すればよいと思う。
しかし、『こけし』ということばには、親しさと愛憐のこまかい心情をあらわすひびきがこもっていることは確かで、たとえ形や大きさがいろいろと異なっても、このことは『こけし』全般に通じることである。・・・
しかし、これだけの説明ではこころのおさまらない人がいるかもしれない。それは昔あったコゲスを多少なりとも知っているか、こうしたロクロの挽き物人形に興味を持っているか、趣味にしている人たちかである。・・・
こけしの母体はコゲス(木削子)か はやい話が、『コゲスとコケシ』で、『スシとスス』(東北弁)みたいなものである。そこで、コゲスをこころの中に浮かべて、大衆が作り上げた語だろうと考えたいところだが、事実はそうでもない。『こけし』ということばの語呂が清くてかわいい感じだから、つい呼んでみたというのが真実らしい。
コゲスとはコゲスオボコの略語で、そもそもが東北地方に昔からあった、木製のロクロで挽いて作った、こどもの玩具なのである。木を削って作ったので木削子(こげし)からコゲスになり、・・・そのコゲスについてはいろいろな話がある。・・・姿態がケシボウズに似ているから、『こけし』の名が起こったとか・・・。
要するに、一般にいう『こけし』という名には、れっきとした骨組みはないが、ここに書いたような、いやそれ以上の昔のゆめが含まれていると思うのである。」
もうひとつ、ウィキペディアの「こけし」の項の「名称」欄の記述を見ておこう。
「こけしの名称は元来、産地によって異なっていた。木で作った人形からきた木偶(でく)系の「きでこ」「でころこ」「でくのぼう」、這い這い人形(母子人形説もある)からきた這子(ほうこ)系の「きぼこ」「きぼっこ」「こげほうこ」、芥子人形からきた芥子(けし)系の「こげす」「けしにんぎょう」等があった。また一般に人形という呼び名も広く行われた。他に「こげすんぼこ」「おでこさま」「きなきなずんぞこ」と呼ばれることもあったもあった。
「こけし」という表記も、戦前には多くの当て字による漢字表記(木牌子、木形子、木芥子、木削子など)があったが、1940年(昭和15年)7月27日に東京こけし会(戦前の会)が開いた「第1回現地の集り・鳴子大会」で、仮名書きの「こけし」に統一すべきと決議した経緯があり、現在ではもっぱら「こけし」という用語がもちいられる。
幕末期の記録「高橋長蔵文書」(1862年)によると「木地人形こふけし(こうけし)」と記されており、江戸末期から「こけし」に相当する呼称があったことがわかる。こけしの語源としては諸説あるが、木で作った芥子人形というのが有力で、特に仙台堤土人形の「赤けし」を木製にしたものという意といわれる。「赤けし」同様、子貰い、子授けの縁起物として「こけし」が扱われた地方もある。またこけしの頭に描かれている模様「水引手」は京都の「御所人形」において、特にお祝い人形の為に創案された描彩様式であり、土人形「赤けし」にもこの水引手は描かれた。こけしは子供の健康な成長を願うお祝い人形でもあった。
一方、近年ではこけしの語源を「子消し」や「子化身」などの語呂合わせであるとし、貧困家庭が口減らし(堕胎)した子を慰霊するための品物とみる説も存在する。これは1960年代に詩人・松永伍一が創作童話の作中で初めて唱えたとされる。しかし、松永以前の文献にはこの説を裏付けるような記述が見られず、松永自身も説得力ある説明はしていないとされ疑問が持たれている。明確な出典が存在しないため民俗学的には根拠のない俗説であり、都市伝説と同様、信憑性の無い与太話の類とされる。」(ウィキペディア 最終更新 2018年12月1日 (土) 11:22 )
ウィキペディアで初めて私の疑問に対する答えが得られたが、ここで示されている詩人・松永伍一の創作童話とは何か、どのように書かれているのかを確認しておく必要があるだろう。詳しく調べていくと、創作童話に該当するものかどうかは定かではないが、松永伍一全集(全六巻、法政大学出版局、1972年~1975年発行)の第2巻と第3巻の目次の中に次の2つの項目が見つかった。
■ 子消し曼荼羅(第2巻、1973年発行)
■ こけし幻想行(第3巻、1972年発行)
このうち、第3巻の「こけし幻想行」は、1971年に「時代」(昭和46年8月号)に発表され、その後単行本として出版された「原初の闇へ」(昭和46年11月 春秋社発行)にも掲載されている。この書籍「原初の闇へ」を入手することができたので、その記述を見ておこう。
松永伍一著「原初の闇へ」の箱の表
単行本に掲載されていた「こけし幻想行」は12ページの比較的短い内容であるが、ごく一部を引用すると次のようである。
「こけしの前に座ると、私の心が複雑に歪み、重い息づかいになっていく。・・・九州に生まれて、こけしで遊んだ経験がないからだ、と言ってすませるだろうか。そうではないらしい。熱狂的な愛好者もいるかわりにたとえ東北に生まれた人でも、あれに一種の生理的反発を感ずることだってあるだろうと思う。・・・
こんど、弥治郎や遠刈田を歩きながら、その内なる問いに答えることができた。結論を言おう。『いま流布しているこけしはすべて偽物である』。・・・こけしに関しては『昔はよかった』に嘘はない。・・・私は弥治郎へ足を運んだ。のどかな山村という感じであった。『三界万霊塔』とか『馬頭観世音』とか『子安観世音』とかが、曲がりくねった道路のわきに立っている。二百五十年ほど前のものである。・・・木地師たちの村にさりげなく建てられているものを見てすぎると、特別の意味がそこに感じられてくるのである。特別のといっても、どのように特別なのか、それは自分でもわからないが、何となく・・・・・・・である。・・・
今弥治郎には五軒しかこけしを作る家はないが、・・・機械音のウーンウーンという唸りとともに、つぎつぎとこけしが出産するのである。・・・民芸品とは本来『手づくり』なのである。・・・(機械でつくったものは)もう民芸品ではなく、ただの商品である。・・・私たちは日暮れの弥治郎を去った。ため息ばかりついていた。・・・
子安観世音の石塔が、小高い丘の根もとに立っていて、そこだけがまだ、私の気持ちのなかで暮れ残っていたのである。こけしとは『子消し』のことか。私は、ひらめくものの命ずるままにアッと声を上げ、憂鬱とも悲しみとも、あるいはひたひたとくる救いともつかぬ心象の雫を胸に受け止めて、坂をくだった。・・・
この旅は、地獄から極楽への巡礼であった。人の鑑賞眼に疑念をはさみながら、本源的なものを探しつつ歩く意地悪な幻想行であった。そして、こけしをむかしから好まなかったことを、いまあらためて幸せと感じている。・・・」
こうしてみてくると、「子消し」を「こけし」の語源とするには、詩人・作家のあまりにも個人的なひらめきから生まれた解釈であることがわかる。カラーブックス「こけし」に関しては、その発行が1969年であり、「こけし幻想行」の発表が1971年であることを考えると、そこに「こけし」の語源として「子消し」が紹介されていないのは当然であった。
また、トランヴェールがこうした説を採りあげなかったことも、その影響の大きさを考えると明察であったと思う。
東北地方だけではなく、日本が飢饉により直面せざるをえなかった悲しい過去が存在していることは、事実であり、人々がこけしに寄せる思いの中にそうしたものが含まれていたということは、あるいはあったのかもしれない。しかし、それはこけしの名前の語源とはべつなものであったろう。
トランヴェールにも、多くのこけしの姿が紹介されていたが、よく似たものが我が家にもあった。いずれ、我が家のこけしたちの可愛い姿も、ここで紹介させていただこうと思う。
トランヴェールの表紙のこけしに似た我が家のこけし3体(2018.12.26 撮影)
追記:松永伍一全集の第2巻(1973年発行)に収められている、「子消し曼荼羅」は1972年三月号『潮』に発表されたものであるが、ここには「こけし」に言及した内容は含まれていない(2018.12.30)