軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

庭にきた鳥(8)シメとモミジの木

2021-05-28 00:00:00 | 野鳥
 窓のすぐ近くに餌台を設置して、そこに集まって来る野鳥をビデオ撮影し、後で見直していたところ、いつもやって来るスズメ、シジュウカラ、キジバトなどに混じって、見慣れない鳥が映っていた。しかもかなり長時間にわたり餌台にいた。

 残念ながらこの時の映像はピントが大きくずれてしまっていたが、種の同定は可能であり、「シメ」と分かった。この後、数年にわたり餌台に来る野鳥の撮影は行ってきたが、モミジの木にくることはあったものの、シメが餌台にやってきたのはこの時だけであった。

 単独で餌台にやってきたシメであったが、あっという間に常連のスズメに囲まれてしまった。しかし、臆することなく、時にはスズメを威嚇しながら長時間居座り続けた。キジバトがやってきて、スズメと共に一度は追い払われたが、その後今度は、先に来ていたシジュウカラを追い出す勢いでまたやってきて、シジュウカラの大好物である牛脂には目もくれず穀類を食べ続けた。

 
餌台にきたシメ(2016.2.1 撮影後編集) 

 庭のモミジの木に止っているところはこの後も何回か見かけたので写真撮影はできた。図鑑によると、シメはエノキやモミジの種子が好物とのことで、これが狙いであったことがわかる。時には散って雨樋の中に溜まっているモミジの種子を熱心についばむ姿も見られた。

 ずんぐりした体に、やや不釣り合いに太い嘴が印象的である。羽色は地味だが、なかなか美しいとの印象を与える。ウィキペディアによると、蝋嘴鳥(ろうしょうちょう)という異称があるとのことで、「シー」と聞こえる鳴き声と、鳥を意味する接尾語である「メ」が和名の由来となっているという。 

 いつもの原色日本鳥類図鑑(小林桂助著、1973年保育社発行)には、シメは次のように記されている。
 「形態 体の割合に嘴巨大。嘴峰20~21mm、翼長98~102mm、尾長53~65mm、跗蹠21~22mm。♂は頭上黄かっ色、上頸灰色、翼は光沢ある藍黒色で幅広い白帯がある。目先、腮(あご) から喉中央にかけて黒。尾は藍黒色で尾端に幅広い白帯がある。嘴は白黄色であるが、夏期は鉛色になる。♀は頭上♂よりも著しく淡色である。
  生態 渡りの時は小群をなすが、冬期は単独のことが多い。樹枝上に止まり、チチッ、チチッとなく。地上に下りて植物の種子をついばむこともある。
  分布 北海道で繁殖し、秋期本州・伊豆七島・四国・九州・屋久島・対馬などに渡来して越冬する。まれに本州中部以北の山地で繁殖するものがある。」

 以下、庭のモミジに来ているところを撮影したものを紹介する。

雪の降った朝、庭のモミジにきたシメ 1/2(2016.3.14 撮影)

雪の降った朝、庭のモミジにきたシメ 2/2(2016.3.14 撮影)

庭のモミジにきたシメ 1/11(2016.12.21 撮影)


庭のモミジにきたシメ 2/11(2016.12.21 撮影)

庭のモミジにきたシメ 3/11(2019.1.28 撮影)


庭のモミジにきたシメ 4/11(2019.1.28 撮影)


庭のモミジにきたシメ 5/11(2019.1.28 撮影)


庭のモミジにきたシメ 6/11(2019.1.28 撮影)



庭のモミジにきたシメ 7/11(2019.1.28 撮影)

庭のモミジにきたシメ 8/11(2019.1.28 撮影)

庭のモミジにきたシメ 9/11(2019.1.28 撮影)

庭のモミジにきたシメ 10/11(2019.1.28 撮影)

庭のモミジにきたシメ 11/11(2019.1.28 撮影)

 以前にもこのブログに書いたことがあるが(2016年11月11日公開)、我が家にはモミジの木が4本ある。イロハモミジが3本、ヤマモミジが1本である。土地を購入した時にすでにあったもので、2本ある樹高15mほどの大木のうちの1本と、次に大きい10mほどの木とは、建築予定場所にかかっていたので設計・建築士のMさんに相談したところ、これほどの大木を移植するには費用もかなりかかるので、伐りましょうかという答えであった。

 我が家よりも先に家を建てて越してきている近隣の人の話では、秋には近くを通りかかった観光客が、この木の紅葉を見に立ち寄り、写真を撮っていましたよ、などと聞いていたし、軽井沢という土地柄、そう簡単に樹木を伐ることもためらわれたので、この土地を斡旋してくれたIさんに相談したところ、造園業のSさんを紹介していただいた。

 Sさんによると、移植はそんなに難しいものではなく、費用もMさんから聞いていたものの1/10くらいで済むというし、準備して進めれば絶対に枯れることはないと太鼓判を押してくれた。

 そこで、すぐに、Sさんに2本のモミジの移植をお願いし準備に入った。まず最初は、木はそのままにして太い根を切り、1年程度かけて新しく細い根が成長するのを待つことから始まった。

 そして、翌年家の建築が始まる時期に合わせて、これらを所定の場所に移動してもらった。この移植からすでに7年ほどが過ぎているが、移植後しばらくは、やや元気がなかった大木のモミジもここ数年で樹勢は回復してきている。そして、移植しないですんだ、他のモミジの木と共に毎年大量の種子をつけ、それを周囲にばら撒いている。

 「シメ」がその種子を食べてくれるのであるが、何しろ庭にやって来るシメはこれまでのところ、先に紹介した一羽だけで、とてもモミジの種子の量を減らすことはできない。

 おかげで、我が家の庭にはモミジの実生苗が一面に生えてきている。雑草を抜くときに、多少ためらいもあって、そのままにしておくと、すぐに成長して3年目には50cmほどに成長して、周囲の木の根に絡んで手に負えなくなってしまう。

 そこで、仕方なく抜いていたのであるが、3年ほど前に、私共のガラスショップの隣で手作り雑貨や朝採りの野菜などを販売しているNさんに、妻がそんな話をしたらしく、モミジ苗を販売しましょうということになった。

 しかし、50cmほどに育った苗を鉢に植えて店頭に置いていただいたものの、まったく売れる気配はなかった。そうこうしているうちにNさんは一昨年末に、コロナの始まる前であったが店をたたんでしまった。

 相変わらず庭にはどんどん新しい実生苗が生えてきているので、昨年初夏のころ1年から3年目の実生苗を抜いて、小さいものはビニールポリポットに、大きく育っているものは素焼きの鉢などに、捨てないで植えておいたところ、活着しているようであった。

 100~200個ほどたまっていたこの苗を、秋の紅葉シーズンが近くなった頃、ガラスショップ前にワゴンを出してその上に並べ、「軽井沢のモミジ苗・ご自由にお持ちください」と張り紙をしておいたところ、大人気で全部貰われていった。

 
モミジ苗配布用の張り紙(2020年秋に使用)

 今年もまた庭の草取りの時期になり、昨年と同じようにモミジの苗を抜き取り、せっせとビニールポリポットなどに移している。夏になり活着が確認出来たら、また昨年同様配布できればと思っている。

庭から抜いてビニールポリポットなどに植えた実生のモミジ苗(2021.5.27 撮影)

 私自身も、昨年実家を整理した際に持ち帰ってきた、父が使っていた浅めの植木鉢にモミジ苗を盆栽風に植え、楽しむことにした。

浅い植木鉢に植えたモミジ苗(2021.5.27 撮影)
 
 ところで、このモミジの大木を移植してくれた名人Sさん、集金に来てくれるよう再三にわたり連絡していたが、いまだにその費用を支払えないでいる。

 なんでも、当時中軽井沢に建設中であったビル・ゲイツ氏の巨大別荘の植栽を(一部?)請け負っていたそうで、忙しくまた相当な売り上げになっていたので、我が家のゴミのような商売はもうどうでもよかったのかもしれないと思っている。


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三波石(2/4)

2021-05-21 00:00:00 | 岩石
 三波石が中央構造線に沿って見つかるということを知り、その中央構造線が軽井沢からそう遠くない下仁田町で地表に現れていて、河原で三波石の見られる場所や、河岸に断層を確認できる場所があるということもわかったので、先日現地に出かけてきた。

 下仁田町には、三波石の巨岩がある「青岩公園」や、中央構造線を見ることができる「川井の断層」の他にも、先ごろ富岡製糸場と共に世界遺産登録された「荒船風穴」など独自の地形や地下資源を活用した歴史や産業の遺産があり、平成23年9月に日本ジオパークネットワークへの加盟が認定されている。

 町が作成した「下仁田ジオパーク」というパンフレットには、町内に点在する31カ所の見どころ「ジオサイト」が紹介されているが、妻と私はその内の三波石と中央構造線に関連した次の6カ所を見学した。またこれらとは別に下仁田町自然史館にも立ち寄って情報を入手した。

 下仁田町自然史館は、平成20年に廃校になった元町立青倉小学校を活用したもので、展示室や実習室を備えていて、館内には、町やその周辺で採取した岩石や化石などが展示されているということであるが、生憎当日は休館期間中で、内部の見学はできなかった。

 館員の方から資料をいただき、道路を隔てて反対側には「跡倉クリッペのすべり面」があるのでぜひ見ていくといいと教えていただいた。館は6月1日には再オープンの予定とのことでまた改めて訪問したいと思っている。

下仁田町発行の観光パンフレットから

同上の拡大地図、中央構造線が走る位置と「川井の断層」、「青岩公園」の場所が示されている

 さて当日、出発時点ではまだ上掲の地図を入手しておらず、ネットで調べた情報を元に現地に出かけたので、先ず見つけやすい「青岩公園」を目指した。青岩公園はすぐに見つかり、ここから見学を始めた。ここに来れば、次の目的地「川井の断層」についての情報が得られるのではと思っていたが、はっきりしなかったので、見学ののち改めて下仁田町役場に行き、「下仁田ジオパーク」地図を入手するとともに、川井の断層に行く道順、駐車場所などを教えていただいた。

 今回見学した6か所の詳細については、案内地図に次のように示されている。「クリッペ」という聞きなれない語が出てくるが、これは三波川変成帯の上にあり、ここまで移動してきたとされる地層のことで、「根無し山」との意味があるようだが、具体的なことについては別途触れることにする。

1.青岩公園
  青い石畳が広がる公園で、河原では約16種類の石の採取ができる。
2.川井の断層
  西は九州から始まる西日本の地質を大きく二分する大断層「中央構造線」。関東では大部分が
 地下に隠れてしまい、地上に露出しているのは下仁田だけ。
3.跡倉クリッペのすべり面
  跡倉クリッペのすべり面の中で、最も大規模な露頭。この露頭ではクリッペを構成する地層が
 動いた時の痕跡に触れることができる。
4.大桑原のしゅう曲
  クリッペを構成する地層が、移動時の運動によってV型に大きく折れ曲がった様子が確認でき
 る。
5.宮室の逆転層
  大きな力を受けて地層が上下逆さまになっているところと、正常に堆積しているところの両方
 がみられる。逆転した部分では、当時の海底面にできた生物の這い跡が見られる。
6.跡倉れき岩
  長源寺橋下の岩盤は、固い礫岩が川の流れで浸食され、表面が良く磨かれているため礫の入り
 方や礫の種類をよく観察でき、昔から多くの研究者が訪れる地質の名所。  

 最初に訪れた「青岩公園」は、南牧川が鏑川に合流する地点にあり、文字通り河原に青緑色の巨大な三波石の岩塊が横たわっているところである。すぐ近くに狭いながらも駐車スペースがあるのでここに車を停め、土手を下って河原に降りると、岩を巡る歩道や階段が設けられている。

 川の両岸にも三波石の露出しているところが見られ、鏑川が三波石地帯を削り流れていることが分かる。

 この河原では、16種類の石の採取ができるとのことで、我々も手ごろな大きさの三波石をお土産に拾い持ち帰った。これで、我が家には3地域の三波石が集まったことになる。

 青岩公園とその周辺の風景は次のようである。駐車場の周辺では「スジグロシロチョウ」が飛び回っていて、河原に下りると、三波石の割れ目には「ド根性スミレ」がまだ最後の花を付けていた。また、川岸の三波石塊には白いウツギの花が覆いかぶさるように咲いていた。

土手から青岩公園に続く歩道(2021.4.20 撮影)

三波石の中を巡る歩道(2021.4.20 撮影)

河原に広がる三波石塊(2021.4.20 撮影)

鏑川左岸に露出する三波石塊(2021.4.20 撮影)

鏑川右岸に見える三波石塊(2021.4.20 撮影)

鏑川右岸に見える三波石塊(2021.4.20 撮影)

2川の合流地点に見える三波石の岩塊(2021.4.20 撮影)


河原に見られる三波石とさまざまな色の石(2021.4.20 撮影)


駐車場周辺を飛ぶスジグロシロチョウ(2021.4.20 撮影)


河原の三波石の割れ目に咲くド根性スミレ(2021.4.20 撮影)


三波石の壁に咲くウツギの花(2021.4.20 撮影)

 この青岩公園近くの河原で拾い、記念に持ち帰ったもの(右下)を加えて、我が家の三波石は4個になった(右上:和歌山産)。色がよく判るようにと、濡らしてみたが、下仁田産のこの石は緑色部に比して白色部が多い。


写真(2021.5.2 撮影)



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山野でみた鳥(7)オオルリ

2021-05-14 00:00:00 | 野鳥
 今回はオオルリ。昨年1月に始めた雲場池の朝の散歩では、多くの野鳥に出会ってきたが、中でもこのオオルリは印象深いものとなった。

 最初に見かけたのは、昨年4月26日のことで、いつものように遊歩道を歩きながら写真を撮っていたが、さっと目の前を横切る鳥の姿に、青い輝きを認めて追うように視線を移動すると10メートルほど離れた別荘のフェンス脇の木の枝先ににオオルリが止まっていた。

 この日めずらしく持っていた双眼式ビデオカメラを構え撮影し始めたが、僅か20秒ほどで、すぐに視界から消えていった。この時の映像は次のようである。

 
オオルリのビデオ映像(2020.4.26 撮影)

 映像内容としては、まともなものではないが、記憶に残る出会いであった。この年はその後オオルリに出会うことはなかった。

 そして今年、昨年とまったく同じ4月26日の朝再びオオルリが、今度は後ろから飛んできて、すぐ前の木に止った。

 今回は飛び去ることなく、長い時間、周りの木から木へと移動しながら時々囀っていたので十分撮影ができた。

雲場池のオオルリ 1/5(2021.4.26 撮影)

雲場池のオオルリ 2/5(2021.4.26 撮影)

雲場池のオオルリ 3/5(2021.4.26 撮影)


雲場池のオオルリ 4/5(2021.4.26 撮影)

雲場池のオオルリ 5/5(2021.4.26 撮影)

 そして、2日後の28日。今度は高い木の上にいるオオルリに気が付き、撮影を始めると、飛び去ることなく、むしろ近寄ってきて撮影に応じてくれた。

 ヒタキの仲間はこうした行動を示すことがあると聞くが、私は初めての経験であった。以前、妻の手にコガラが止まったことがあり、その時は随分驚いたのであったが、たいていはカメラを向けると飛び去ってしまうのである。

雲場池のオオルリ 1/7(2021.4.28 撮影)

雲場池のオオルリ 2/7(2021.4.28 撮影)

雲場池のオオルリ 3/7(2021.4.28 撮影)

雲場池のオオルリ 4/7(2021.4.28 撮影)

雲場池のオオルリ 5/7(2021.4.28 撮影)


雲場池のオオルリ 6/7(2021.4.28 撮影)


雲場池のオオルリ 7/7(2021.4.28 撮影)

 いつもの「原色日本鳥類図鑑」(小林桂助著、1973年保育社発行)でオオルリの項を見ておくと、次のように記されている。
 「形態 ♂はルリ色で美しい。嘴峰12~14mm、翼長88~96mm、尾長57~66mm、跗蹠15~17mm。♂は頭上光沢あるるり色で以下の背面、尾は藍色。顔、腮、喉、胸は黒。以下の下面は白く脇は黒色。♀は上面暗緑かっ色で下面は淡黄かっ色である。♂の幼鳥は♀に似るが腰と尾はるり色を帯び、風切羽の外弁もるり色である。
  生態 我国には夏鳥として渡来繁殖し各地に普通。低山帯に営巣することが多いが、渡りの際には市街地の庭園、公園にもまれでない。高いこずえに止まってピッ、ピッ、ギチ、ギチ、ギチと美声でなく。冬期は中国南部・馬来(マレー)諸島などに渡る。
  分布 北海道・本州・四国・九州で繁殖する他、伊豆七島・対馬・屋久島にも渡る。」

 姿だけではなく、声も美しい鳥ということになるが、今回は鳴き声は聞けたものの、それほどの美声とは感じなかった。他の図鑑、「野鳥観察図鑑」(2005年 成美堂出版)にも、「雄は樹木の枝先で、大きな声で盛んにさえずる。その声はウグイスやコマドリと並んで日本三鳴鳥といわれるほどの美声であり、雌もさえずることがある。・・・」と記されているのであるが。

 ちょうど今の季節はコマドリは聞けないがウグイスが盛んに鳴いている。それとミソサザイの長い囀りが聞かれ、私はこのミソサザイも三鳴鳥に勝るとも劣らないと思っているのだが、オオルリの美声も聞いてみたいものと思う。

 ところで、オオルリの羽のこの美しい青色は、カモ類の翼鏡の青色にみるような金属光沢ではないが、やはり構造色だとされている。次の写真はオオルリの青色に似たカルガモの翼鏡のとマガモの翼鏡のおよび頭頸部のいわゆるアオクビと言われている緑色である。マガモの翼鏡の色はカルガモも同じで、見る角度が変化しても比較的安定して青色を呈しているが、頭頸部の色は光の当たり具合で緑色~青色~紫色まで変化する。

カルガモの翼鏡の青色構造色(2020.5.18 撮影)


マガモの翼鏡の青色と頭頸部の緑色構造色(2020.1.29 撮影)

 マガモの頭頸部の色が変わって見える様子は次のようである。

紫色に輝くマガモ♂の頭頸部の構造色(2020.3.25 撮影)


緑~青~紫色と微妙に変化するマガモ♂の頭頸部の構造色(2020.3.25 撮影)

 オオルリの色も光線の当たり具合によっては、例えば頭頂部などは先の写真でも明らかなように、しばしば白っぽくあるいは水色に見える。この頭頂部も見る角度によっては、背の部分と同じようなルリ色に見えることもあるので、羽の構造が背や尾の部分とは微妙に違っているのだろう。

 オオルリの構造色については、軽井沢でオオルリの観察をした徐敬善さんのレポートに詳しい(Bird Research News Vol.15 No.7 , 2018.7.10)。

 それによると、「羽一枚を詳しく観察 すると,中央の羽軸の両側に複数の羽枝 (barb)が付いている. この一つの羽枝を光 学顕微鏡で観察すると,羽枝を中心として両側に多くの小羽枝 (barbule) が付いている.オオルリの青い羽は実際には羽全体がすべて青色で はなく,羽枝は青い色,小羽枝は黒色だということがわかっ た。(徐2016)」としている。

 そして、「この鮮やかな青色は、羽枝の内部のβケラチ ンのスポンジ構造における光の干渉性散乱などによって作 られる(Prum et al. 1999)。一方、小羽枝にはケラチン構造 がなく、メラニン色素があるために黒色味を帯びている。こ の青い羽枝が数えきれないほど重なっており、全体的に羽 をみると青くみえる。(徐2018)」としている。

 ところで、このオオルリを見ていると、これこそがメーテルリンクの童話に登場する「青い鳥」かと思えてくる。物語ではチルチルとミチルが探し求めた青い鳥は実在しない象徴的なものであるとされているので、青い鳥はヨーロッパにはいないか、極めて珍しい鳥ということになるのだが。

 実際、オオルリの生息域はアムール・ウスリー・中国北東部・朝鮮半島で繁殖し、冬期は中国南部・インドシナ・スマトラ・ジャワ・ボルネオ・フィリピンに渡るとされ、ヨーロッパは含まれていない。

 日本にはオオルリの他コルリがいて、よく似た青い鳥といえるが、これも生息域にヨーロッパは含まれていない。

 カワセミ、ルリビタキ、イソヒヨドリといった種もまた日本では青色の鳥として知られていて、これら3種はヨーロッパにも生息域が広がっているので、ヨーロッパの青い鳥とみてもいいようだが、これらの羽色には他の色が部分的に含まれているので、やはり理想的な「青い鳥」とは言えないのかもしれない。

 一方、名前の方から見るとEurasian Blue Tit というヨーロッパ全域に生息している日本のシジュウカラに近い種がいる。背中などは美しい青色をしているが、全体の配色をみると前3種と同様、青色の鳥ではあっても「青い鳥」とはみなされないようである。やはりヨーロッパにはオオルリのような青い鳥はいないということになる。


Eurasian Blue Tit のプリントされたイギリス製マグカップ
 
 物語の作者メーテルリンク(Maurice Maeterlinck, 1862年8月29日 - 1949年5月6日、ベルギー生まれ)は最も大きな成功作であるこの『青い鳥』(1907年発表)などにより1911年にノーベル文学賞を受賞している。

 1919年には米国に渡り、その後1930年にはフランス・ニースで城を買い取っていたが、1939年母国滞在中に欧州で第二次世界大戦が勃発すると、彼はナチス・ドイツのベルギー・フランス両国に対する侵攻を避けリスボンへ逃れ、更にリスボンからアメリカに渡った。彼は、1918年のドイツによるベルギー占領を批判的に書いていたからである。

 また、ドイツとその同盟国であった日本には決して版権を渡さないよう、遺言で書き記しているという。

 もっとも、『青い鳥』が刊行されたのは1908年で、日本では1911年には翻訳が出ているので、戦前に日本の出版社は『青い鳥』の版権を獲得している。

 しかし、遺言の影響もあり、戦後1980年頃まではメーテルリンクの新たな作品は翻訳されていなかったが、その後は遺族との交渉で版権が取れるようになったとされている。さらに、2000年以降は日本ではメーテルリンクの著作権が切れたので、現在は問題がなく刊行ができているという。

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ニコンF

2021-05-07 00:00:00 | 日記
 少し前になるが、今年2021年4月2日の新聞紙上でニコンが一眼レフ本体の国内(仙台ニコンの工場)生産を終了するというニュースが流れた。すでに一眼レフ生産拠点としてはタイ工場が主力になっていたというが、国内生産終了というニュースはやはり時代の移り変わりを強く印象づけるものである。

 1年ほど前の2020年6月1日には、94年の歴史を誇る日本最古の総合カメラ誌「アサヒカメラ」を発行する朝日新聞出版が、9日発売の7月号をもって同誌を休刊すると発表している。こちらは写真をより簡単に撮ったり見たりできるようになっている中、意外な感があったが、当時の記事によると、「アサヒカメラの編集部は休刊の理由について『コロナ禍による広告費の激減』が原因だと説明している。」ということなので、今回のカメラメーカーの判断とは理由が異なっているように思えるが・・。

 私自身は小学生のころ「スタートカメラ」という名前だったと思うが、初めてカメラを買ってもらって以来、写真を撮ることが唯一の趣味になっている。

 その後、高校生になって塾教師のアルバイトを始め、そこで得た報酬で初めての一眼レフ「アサヒペンタックスS2」を買った。


アサヒペンタックスS2(ウィキペディア「アサヒペンタックス」から引用)

 ただ、このカメラとは縁がなくて、1年ほどでキャンプに出かけた海岸で盗難に遭い失ってしまった。次に手に入れたのはキャノンのやはり一眼レフFTであった。ペンタックスはとても使いやすく、手にもよくなじんで気に入っていたはずであるが、再び同じペンタックスにしなかったのは縁起を担いだからだったかもしれない。


2台目一眼レフカメラ・キャノンFT

 大学では入学してすぐに写真部に入部。写真部ともなると、さすがに大半の部員はニコンFを持っていたが、親しかったK君は愛用のミノルタを、私はこのキャノンFTを4年間使い続けた。

 就職してからは20年ほどは写真撮影からはやや遠ざかっていたが、広島県三次市に単身赴任した時に、中国地方の巨樹・巨木撮影を思い立ち、この時初めてニコンの一眼レフカメラ「F90D」を手に入れた。1993年頃のことである。本体ボディーには「MADE IN JAPAN」の表示がある。

 当時参考にしていた1993年9月発行の「ニコンの使い方」(日本カメラ社発行)を見直してみると、次の記事に出会う。


「ニコンの使い方」(1993年9月発行)の表紙
同誌の解説ページ

 「ニコンF90シリーズの開発コンセプトは、『自動化、多機能化』による真の使いやすさの追求、『高品質化』による信頼性の向上を推し進め、基本機能の充実を目指したものである。・・・
 撮影結果に直接関係する測光、オートフォーカス、スピードライトなどの基本機能に最新のテクノロジーを使い性能の向上がはかられた。・・・」

 オートフォーカス一眼レフは当時すでに普及し始めていて、ミノルタα7000が先行していたが、その当時アメリカ・ハネウェル社から自動焦点機構に対する特許侵害の訴訟が起こされ、ミノルタ側が敗訴するといった事件が起きていた。

 ニコンがこの特許問題をどのように回避あるいは解決したのかは定かではないが、オートフォーカス機能は私には初めての経験であり新鮮であった。

 この機種はしばらく使い続けていたが、その後写真のデジタル化が進む中で、小型のデジカメを使う機会が増え、次第に使用頻度は少なくなっていった。

 次に新たにニコンの一眼レフの入手を検討し、購入したのは、デジタル化技術が進み、撮像素子の画素数が1000万を超えた手ごろな機種「D200」が発売された直後の2006年頃であった。このボディーの表示は「MADE IN THAILAND」である。

 当時の「アサヒカメラ」2005年12月号の特集記事にこのニコンD200 が次のように紹介されている。

「アサヒカメラ」(2005年12月号)の表紙


同誌の解説ページ

 「ニコンD200の衝撃 D100の発売から3年、ニコンは満を持して後継機D200を発表した。1020万画素CCDセンサー、高倍率ファインダー、11点測距AFなど、豊富な先進技術を盛り込みながらも、実売予想価格は20万円を切り、コストパフォーマンスは最高だ。
 D200と同時に、手振れ補正機能を搭載したAF-S DX VR 18~200mm(35㎜換算で約27~300mm)ズームニッコールも発売される。」
 
 撮影した写真の良し悪しを決定づけるものに露出、ピント、手振れなどがある。この最後の項目の「手振れ」を補正する技術もこの当時開発されていて、いち早く一眼レフ用のレンズに手振れ補正機構を取り入れたのは1995年に発売されたキヤノンのEF75-300mm F4-5.6 IS USMだとされる。

 一般的には、「使用レンズの焦点距離分の1のシャッター速度」が手ぶれしない限界の目安と言われているが、200mmという望遠レンズの場合、D200ではCCDセンサーのサイズの関係で実質300mm相当ということになるので、この手振れ補正機能はありがたいものである。

 デジタル一眼レフの進化は目覚ましく、次々と新機能を盛り込んだモデルが登場してきたし、私自身このニコンD200に必ずしも満足していたわけではなかったが、その後これ以上ニコンの一眼レフカメラを買い足すことはなかった。

 この当時、仕事では3D・立体ディスプレイの開発に従事していたので、3Dカメラに興味が移っていった。3D撮影専用のデジタル機がまだなかったこともあり、2台のSONY製一眼レフα350を連動させてシャッターが切れるようにして使ったりもした。この時、すでに持っていたニコンD200あるいは別のニコンのシリーズから選ばなかったのは、主にこのレリーズの機能に関するものであった。2008年頃のことである。

 また、α350には液晶モニターが付いていて、ライブビューが可能となっているることや、画素数が1400万画素超であり、将来主流になる4KーTVで3D画像を見る場合にも対応できると考えたことも機種選定の理由であった。

 ちなみに、ニコンD200の画像サイズはLモードで、3872x2592ピクセルであり、SONYα350のLモードの場合、4592x3056ピクセルになる。 

 尚、この機種には、シャッター速度換算で約2.5~3.5段のボディ内蔵手ブレ補正機能が付いている。生産地表記は「MADE IN JAPAN」である。
 
 1台のカメラで、撮影位置を左右にずらして3D写真を撮ることもできるが、動いている被写体、例えば動物や、風景でも噴水などの撮影では、どうしても同時にシャッターを切る必要があり、こうした使い方を選択したのであった。


3D撮影用の2台のSONYα350、レリーズを改造して2台同時にシャッターが切れる

 以前、このブログで詩人・萩原朔太郎をとりあげた際、彼が3D写真に熱中していたことを知って紹介したが(2019.9.20 公開)、あの当時すでに3D専用機があったにも関わらず、その後は長い間3D写真が普及しなかったのは、やはり3D写真を鑑賞する方法が容易でなく、一部のマニアだけの世界にとどまっていたからだろう。

 手元には、ソ連のGOMZ社製3Dカメラ「スプートニク」があるが、ブローニーサイズのフィルムを使用するもので、資料として手に入れただけで、撮影したことはない。1955年頃から86,000台ほど生産され、下の写真のモデルは輸出用に作られたもので、カメラ本体の名称はローマ字表記になっている。箱の方にはロシア文字表記がみられる。


ソ連製3D-3眼カメラ「スプートニク」

「スプートニク」の箱

 その後、しばらくして、富士フィルム社から3D映像を撮影できる世界初のコンパクトデジタルカメラ「FinePix REAL 3D W1」が発売された。2009年8月のことである。レンズは焦点距離35〜105mm相当(35mm判換算時)の光学3倍ズームレンズを2つ搭載していて、さらにそれぞれに対して1/2.3型有効1,000万画素CCDが装備されている。


富士フィルム製 FinePix REAL 3D W1

 カメラと共に富士フィルムからは、3D液晶モニターと3Dプリントの3点セットが提供され、さらに翌年2010年9月には続いて「FinePix REAL 3D W3」が発売された。
 このW3機では、 W1機において最大640×480ピクセルまでであった3D動画記録を、1,280×720ピクセルのハイビジョンサイズに対応させた。当時3DTVが普及してきたことに対応したものであった。これら2機種には、肉眼では見えないほどの大きさで「MADE IN CHINA」と記されている。


富士フィルム製 FinePix REAL 3D W3

 こうして、3D写真・動画の時代が来るかと期待したこともあったが、ニコンなど主力カメラメーカーが追随することはなく尻すぼみに終わってしまった。

 それから10年近くが経った現在、このブログを始めたこともあり、しばらくの間しまいこんであったニコンD200をメインに、カシオのコンデジとフジW3をサブ機に持って朝の散歩を兼ねて、写真撮影に出かける毎日である。ニコンからはその後も次々と新機種が発売され、最新のスペックを見ると画素数では4500万画素以上の機種や、ISO常用感度10万以上の機種など驚くほどの技術進歩があるが、新たに買い足そうとは思わなくなった。

 毎日の散歩にはフジの3D専用カメラ W3を欠かさず持って歩き、撮影もしているが、その写真をブログで紹介する機会はほとんどない。ブログのタイトルの「ときどき3D」は返上しなければならないかもしれない。

 さて、今回のニコン社に関する報道は、ニコンFで一時代を築いた一眼レフカメラという商品が、社会の変化と技術革新の両方の波に飲み込まれていったことを示しているが、これはあらゆる業種・製品で起きていることに他ならない。

 写真関連技術でいえばコダックの写真フィルムがそうであるし、インスタントカメラのポラロイドも同じである。
 私は縁あって、アメリカ・ボストンにあるポラロイド社を訪問したことがある。ポラロイド社は偏光板を発明したランド博士の設立した会社で、続いてインスタントカメラを開発して一時代を築いたが、技術革新の波に飲み込まれて消えていった。

 ニコン社は多角化を進めているので、企業としての存続が危ぶまれる状況ではないし、一眼レフカメラの生産そのものがただちになくなるわけでもないので、今後の健闘を期待したいとの思いが強いのだが、それは私自身がニコン一眼レフカメラの一人のユーザーであると同時に、製品開発のごく一端であるが、部品の供給で参画したことがあるからでもある。

 数年前に、北陸地方に妻と出かけて市内を散策しているときに、小さな写真店のショウウインドウにフィルムカメラで、すでに生産中止になっていたニコンF3が展示されているのが目に入った。このカメラには私たちが開発し、供給した液晶パネルが採用されていた。

 液晶ディスプレイの黎明期まもない頃のことであるが、ニコンF3には絞り優先の自動露出機能があり、液晶表示素子は、ファインダー内でその時のシャッター速度を確認するためのものである。この小さな液晶パネルには、私が担当していた斜方蒸着という無機材料の液晶配向膜技術を使った素子が用いられていた。
 
 そのカメラがショウウインドウに展示されているのを、散策の途中で見つけて思わず店内にいた店主と話をした。その結果このカメラは今私の手元にある。その時の店主の話では、未使用状態の商品で、少しだけ手入れをして飾っていたとのことで、ファインダー内の液晶パネルも正常に動作していて、もちろん撮影も可能である。底面には「MADE IN JAPAN」と刻まれている。


ニコンF3

 裏ブタを開けフィルム室を見ると、次のような紙が挟まれていて、確かに全く使用したことがないのかもしれないと思わせる。


フィルム室に挿入されていた注意書き

ニコンF3のファインダー内の液晶表示(左上)

 ニコンF3の生産経緯を改めて調べてみると、発売は1980年3月で、以来20年以上にわたり、改良を続けながら2000年まで生産されている。後継機種のニコンF4やF5が発売されても生産は続いていたそうで、累計販売台数は80万台以上とされる。

 最近フィルムカメラがちょっとしたブームだと聞く。撮影対象によってはそうしたこともあるのかと思うが、私自身は今はもう後戻りする気にはなれないのでこのニコンF3は使用することなく、このまま記念の品として持ち続けようと思っている。

 私が今も使っているニコンD200のCCD撮像素子を製造していたのはSONYであった。SONYはカメラのデジタル化にはかねて強い関心を示していて、早い段階からマビカなどを開発・販売していたが、やがてコニカ・ミノルタのカメラ部門を引き継ぎデジタル一眼レフカメラの製造・販売に乗り出した。

 私が3D撮影用に購入した2台のSONYα350はミラー式一眼レフ機であり、ミノルタの技術が流れている。

 調査会社BCNによると、2020年のデジタルカメラ国内販売台数のシェアはキヤノンが1位(36・8%)、2位はソニー(19・5%)、ニコンは3位(12・6%)だという。ニコン社はコスト負担を軽くし、競争力を維持するためにも海外への完全な生産移管が必要だったのだということになる。

 「メイド・イン・ジャパン」のデジタル一眼レフカメラは国際的にも評価が高く、私たち夫婦がいつも見ている光TVの海外ミステリードラマでも、現場写真の撮影に使われているカメラは決まってニコンFである。

 この一眼レフなどのデジタルカメラの市場が失われた要因は、スマートフォンの性能向上とされる。スマホに組み込まれたカメラの性能が劇的に良くなり、あえてカメラを持ち歩く理由が無くなってしまった。
 また、撮影した写真や動画を友人・家族と共有するにはスマホカメラが圧倒的な優位を持つ。

 最初に影響を受けたのはコンパクトデジカメであり、スマホに市場を奪われ売上げが落ちた。その結果、デジタルカメラで先陣を切ったカシオなど、いくつものコンデジメーカーは撤退を余儀なくされた。

 次いで残っていた高性能機では、ニコンとキヤノンが世界の二大巨頭として長年君臨していて、プロの写真家の多くがこの2社の機器を使っていたが、ここにソニーが台頭してきた。従来の一眼レフと比べコンパクトなミラーレス機で「フルサイズ」と呼ばれる大型の画像センサーを搭載した「α7」シリーズを2013年に売り出し、一気に存在感を高めシェアを伸ばした。

 プロの世界でもニコンはキャノンに追い越されるといったことが起きた。私の娘婿は新聞社の報道カメラマンをしているが、ある時この社の社用一眼レフ機がニコンからキャノンに一斉に切り替わるといったことが起きたと聞いた。

 詳しい理由は聞かなかったが、プロカメラマンの世界で一体どのような評価が行われて、こうした事態が起きたのか、いぶかしく思ったのであった。

 革新技術を武器に登場した新製品に、旧製品が追い落とされるストーリーは多くの分野で見られるが、こうして一連の出来事を通してみていると、一眼レフの世界でも同じことが起きていたと思うのである。








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