軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

真田丸の点と線

2016-09-30 08:00:30 | 日記
 大河ドラマ、「真田丸」が好評なようだ。真田昌幸・信幸・信繁(幸村)親子の武将としての生き様を描くこのドラマの舞台は、長野の上田から大阪に移り、そして今週は和歌山の九度山(くどやま)に移った。昌幸と幸村は徳川家康に蟄居を命じられ、ついに父昌幸は故郷の上田に再び帰ることなく、この地九度山で没した。

 この3府県はいずれも私には縁が深い。

 先週から、高齢で一人暮らしをしている母を見守るために、大阪に来ているので、今回の通信は軽井沢を離れて、大阪からの通信となります。

 大阪は私の生まれ故郷であり、大学卒業までを過したところである。九度山は父の生まれ故郷である。私も小さい頃からよく父に連れられて祖母が住んでいたこの地に行っていたし、夏休みには一人で出かけて祖母と一緒に過ごした懐かしい土地である。

 久しぶりにこの九度山を訪れて、真田丸効果で賑わいを見せる真田庵に出かけた。


和歌山県九度山にある真田庵(2016.9.25 撮影)

 真田昌幸公の墓は真田庵に設けられた墓地の中にあった。


真田昌幸公の墓地を示す案内板(2016.9.25 撮影)


墓地の中にある真田昌幸公の墓(2016.9.25 撮影)

 真田庵の中には真田宝物資料館があり、昌幸、幸村にまつわる品々と共に、真田紐とその織機も展示されていた。ふるさとの上田地方からもたらされた技術によるものである。この真田紐は商品として二人の生活を支えるものでもあったようだ。

 一方、幸村に関しては大阪により多くの史跡があった。

 ドラマのタイトルにもなった真田丸(出城)が築かれたとされる場所近くにある三光(さんこう)神社には、幸村の立派な銅像(立像)が建てられていた。冬の陣では徳川方に大打撃を与えたといわれているので、この姿もうなずける。


三光神社境内にある真田幸村公の銅像(2016.9.26 撮影)

幸村の最期はその翌年の夏の陣で、場所は現在の安居(やすい)神社の境内とされている。そこにはもう一つの銅像(坐像)と、幸村戦死跡と刻まれた石碑があった。


安居神社境内の真田幸村公の銅像と石碑(2016.9.26 撮影)


真田幸村公の銅像(2016.9.26 撮影)


安居神社境内にある説明板(2016.9.26 撮影)

 こちらの銅像の幸村の姿と表情はさすがに寂しさが漂うものであった。

 その後、近くのアベノハルカスの最上階展望台に行ってみたが、この300mの高さから、安居神社を見ることができた。


アベノハルカスの展望階から見た安居神社周辺(2016.9.26 撮影)

 ところで、幸村の墓所はどこであろうか。真田庵には昌幸、幸村と幸村の息子大助と三代の御霊を祀る真田地主大権現があるが、墓は昌幸のものだけであった。上記の2つの神社にも見られなかった。

 今回、真田丸の遺跡を探して、三光神社から真田公園を回って裏側に位置する心眼寺の境内を訪ねたときに、偶然その幸村の墓に出会うことができた。


心眼寺境内にある真田信繁(幸村)公の墓碑(2016.9.26 撮影)

 この墓碑の横に立てられている説明板には次のように書かれている。

 「・・・真田信繁は、一般に「幸村」として知られる。しかし、現存最後とされる慶長二十年三月十九日付の書簡にも「左衛門佐信繁(さえもんのすけのぶしげ)」と署名があり、生前「幸村」と名乗ったことはなかったと考えられる。

 徳川時代中期にあたる十八世紀のなかばごろには、「幸村」の呼称が流布していた。本墓碑は、生前の確実な”いみな”である「信繁」を採用した。

 豊臣姓は秀吉が創始したもので、弟秀長や甥(のち養子)秀次ら親族のほか、毛利輝元や徳川秀忠(おそらく家康も)など有力大名も称した。

 当寺は徳川時代より信繁の菩提を弔っている。信繁の四百回忌に際して、墓碑を建立する。

 平成二十六年(2014)十月吉日  真田山  心眼寺」

 ただしかし、この墓所も遺骨が埋葬されているものではなく、全国にいくつかある供養墓の一つであるらしい。幸村の本当の墓は見つかっていないということである。

 さて、北陸新幹線の全線開通と長野善光寺の御開帳が重なって、昨年大いに賑わった軽井沢を含む沿線各地であるが、今年も引き続いてこの「真田丸」効果で和歌山、大阪と共に上田周辺もまた盛り上がりを見せている。

 普段は大河ドラマを見ることがほとんどない私だが、今回は地元ということで1回目から欠かさず妻と一緒にこの大河ドラマを見たり、上田に出かけて展示物を見たりしている。

 実は、これまでにも似たようなことが2回あった。広島県三次市に転勤・赴任していた1997年に、「毛利元就」が放送され、これを機に小説を読んだり、地元の史跡を訪ね歩いたことがあった。

 ちなみに、勤務先企業がこのころ新設し、私もお世話になった独身者と単身赴任者用の社員寮の名前は「一心寮」であった。毛利元就の「百万一心」から採ったものである。

 そして、その後転籍により新潟県上越市に移り住んでいた2009年には上杉景勝に仕えた上杉家の家老であった直江兼続(なおえかねつぐ)を主人公とする「天地人」が放送されて、これも1年間を通じて楽しく見ることになった。

 しかし、昨年軽井沢を終の棲家と定めたので、もう多分これが最後で、これからはこんなドラマとの出会いはなさそうである。

















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シャーロック・ホームズ(1)

2016-09-23 11:53:01 | 軽井沢
 軽井沢にシャーロック・ホームズ像があるとされているが、いったい両者にどんな関係があるのかと不思議に思っていた。先日国道18号から旧街道沿いに入ったところにある追分宿に行き、そこから案内板を頼りにその像を見に行ってきた。

 軽井沢の観光地図にも、このシャーロック・ホームズ像のことが書かれているものと、そうでないものとがあって、実際の場所がよくわからなかったため、まずは現地近くに行ってみることにした。

 目指す像は、旧街道から再び国道18号に出た追分の分去れ(おいわけのわかされ)を右に道をとって、さらに少し先を右折してしばらく行ったところにある庚申塚公園の中にあった。ちなみに、この追分の分去れとは旧中山道と北国街道の分岐点に当たる場所で、右が旧北国街道である。


シャーロック・ホームズ像は庚申塚公園の中にある(2016.9.11 撮影)

 この庚申塚公園には、いくつかの石碑が建てられているが、その一番奥にシャーロック・ホームズの像が建てられている。入り口からは少し見えにくい位置にあるが、像は思っていたよりも大きくて立派なものであった。


庚申塚公園の石碑の一番奥に建てられている像(2016.9.11 撮影)

 像の身長は183cmということで、実際(?)の身長に近いものと思われパイプを右手に持った姿である。顔は、テレビで見慣れたイギリス制作のドラマに出ている俳優(ジェレミー・ブレット)から受ける印象よりも大分若い感じがする。


シャーロック・ホームズ像の全体(2106.9.11 撮影)


シャーロック・ホームズ像の上半身(2016.9.11 撮影)

 台座には、Sherlock Holmes の文字が刻まれたプレートがはめ込まれている。


像の台座部分に嵌め込まれた Sherlock Holmes の銘板(2016.9.11 撮影)

 疑問に思っていた軽井沢との関係については、像の左側にこの像が建てられた由来が書き記されていた。


像が建てられた経緯が書かれたボード(2016.9.11 撮影)

 これによると、「アーサー・コナン・ドイル(1859-1930)が書いたホームズ物語全60作品を翻訳家延原謙がここ追分で全訳したのにちなんで、この地を選び、ホームズ登場100周年を記念してホームズ像野外彫刻を建てました。 1988年10月 シャーロック・ホームズを愛する有志一同」とある。

 像の台座の背面には、500名を越えるこの有志の方々の名前が刻まれたプレートが嵌め込まれているが、今からほぼ28年前に建てられていることになる。

 軽井沢は多くの文学者が逗留、移住したことで知られているが、そうした歴史の一つに数えることができるものと言えるようだ。ただ、その割には、観光案内などでの扱いが目立たないのには何か理由があるのだろうか。

 私は、このホームズ物語が好きでイギリス制作のドラマ「シャーロックホームズの冒険」のDVDを見ている。そんなこともあり、過日ロンドンに旅行した折にも物語の舞台になった地下鉄の駅に立ち寄ったことがあった。そのベイカー・ストリート駅構内の壁面には、シャーロック・ホームズの横顔を表すタイルが貼られていたのが思い出される。


地下鉄ベイカー・ストリート駅にあるシャーロック・ホームズの横顔を表すタイルの前で(2013.12.21 撮影)


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浅間石(1)

2016-09-16 09:36:09 | 軽井沢
 軽井沢の町を歩いていて目に付くもののひとつが、町のさまざまな場所にに使われている「浅間石」だ。

 別荘地の道路側境界の石垣や門柱などによく使われていて、軽井沢のシンボル的な存在にもなっている。古いものには苔が生え、石の隙間からはシダなどが生えて風格が感じられる。


旧軽井沢の別荘の道路に面した石垣に使われている浅間石(2016.8.26 撮影)


苔むして隙間にはシダ類などの生えた石垣(2016.8.13 撮影)

 信濃追分にある浅間石の専門業者によると、最近はいい浅間石が取れなくなったということであるが、新たに作られた石垣や門柱にきれいな浅間石が使われているのを見ることができる。


新たに建設された、きれいな浅間石を使った門柱(2016.8.13 撮影)

 軽井沢の鉄道の玄関口である軽井沢駅北口1階を出るとその前はロータリーで、タクシーの発着場所や、送迎車用の駐車場になっている。

 その一角に浅間石を用いたモニュメントがあって観光客を迎えている。

 ここに用いられている浅間石は、別荘地などの石垣に用いられているものよりもずいぶん大きいものが使われている。

 浅間石は浅間山の1108年の噴火活動により麓に運ばれた追分火砕流から掘り出されたものとされているが、巨大なものから砂状のものまでその大きさはさまざまで、ある程度以上の大きさのものが浅間石と呼ばれているようだ。


軽井沢駅北口1階前にある浅間石のモニュメント(2016.8.7 撮影)


軽井沢駅北口1階前にある大きい浅間石の石組み(2016.8.7 撮影)

 軽井沢駅から、しなの鉄道で一駅行くと中軽井沢駅に着く。

 この駅舎は、2013年にくつかけテラスという地域交流施設および中軽井沢図書館と一体になった建物としてリニューアルされたものだが、その外壁や柱などに浅間石をタイル形状に切断したものが用いられている。その様子は斬新で見ごたえがある。


中軽井沢駅、くつかけテラスの外壁に用いられているタイル状にカットされた浅間石(2016.8.25 撮影)

 そのほか、軽井沢警察署の正面の植え込みは、季節の花が美しいが、この植え込みを囲んでいる石垣にも浅間石が使われている。

 この軽井沢警察署の浅間石については、私がまだ神奈川県に住んでいた頃に買った「ロックガーデン・と山草の栽培」(昭和51年 誠文堂新光社刊)に”軽井沢警察署前のロータリー式ロックガーデン”がカラー写真で、他の多くの内外のロックガーデンと共に「日本のロックガーデン」として紹介されていたことを覚えている。

 本に紹介された頃からの時間の経過を考えれば当然ではあるが、実際に行ってみると紹介当時とは様子がやや違っているように感じた。


軽井沢警察署正面玄関前の植え込み(2016.8.3 撮影)

 ロックガーデンに興味があったので、私も昨年当地に移住した際に浅間石を買い求めて、ミニロックガーデンを作り、山野草を育てて楽しんでいる。


拙宅の浅間石利用ミニロックガーデンに咲くミヤコワスレの花(2016.6.6 撮影)

 先日、浅間牧場に蝶の「アサマシジミ」の写真撮影に出かけた時、売店の一角に設けられた火山・浅間山の説明コーナーがあり、そこに「追分キャベツ」として、浅間石に似た石が展示されているのを見かけた。

 色は灰褐色をしていて、普段軽井沢で見慣れた真っ黒の浅間石とは少し様子が違っているように思えたし、重さもずっしりと重いように感じた。


浅間牧場に展示されている「追分キャベツ」(2016.8.1 撮影)

 こうしたこともあって浅間石のことを調べてみようと思い、ネットで群馬大学教育学部の早川由紀夫教授が書いておられるHPを見ていたところ、「浅間石」のことを火山学者は「パン皮岩塊」と呼んでいて、その愛称が「追分キャベツ」だということが判った。

 同じものの別称であった。元のマグマが、組成の差や流れ出した場所、酸化の条件の違いなどで、比重や外観色が異なったものになっているということのようだ。


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タマゴタケ

2016-09-09 17:20:38 | キノコ
先日妻の友人のMさんから借りている群馬県の畑に行ったところ、Mさんの弟さんのYさんが山採りのタマゴタケを持ってきてくださった。

 名前を聞いたことはあったが、実際に見るのは初めてで、その色と姿にはちょっと驚いた。食用のキノコということだが、山でこれを見かけても、毒キノコと思ってしまうに違いないような派手な色をしている。

Yさんが持参してくださったタマゴタケ(2016.9.3 撮影)

 上の写真は、土の中から頭を出したばかりのもので、根元のほうはタマゴタケの名前の由来と思われる白い卵の殻に似たもの(外被膜というらしい)に覆われている。

 もう少し成長したものもあったが、こちらは次の写真のように、柄が伸びてかさが開き、色がオレンジ色に変化したかさの周縁部には放射状に条線が出ている。

成長して柄が伸び、かさが開いたタマゴタケ(2016.9.3 撮影)

 このYさんは群馬県の職員で、山林関係の仕事をされているということで、山野の植物にはとても詳しく、今年の春には山菜の代表格であるタラの芽とコシアブラをやはり持ってきていただいたことがある。このときはてんぷらにしておいしくいただいた。

 今回もありがたく頂戴して、自宅に持ち帰りさっそくホットプレートで焼いていただくことにした。縦に割いてみると柄の部分は空洞になっている。

縦に割いたタマゴタケ、長さは15センチくらいで、柄の部分は空洞になっている(2016.9.3 撮影)

 さくさくとした食感で、おいしく頂くことができた。

 これを機にと、自宅周辺に生えているキノコを見て回ることにした。これまで散歩中にたくさんのキノコを見かけていたが、特に興味を持ってみていたわけではないので、どんなキノコが生えているのかまったく知らなかった。

 歩き始めてすぐに、妻が「タマゴタケ!」と叫んだ。まさかと思いつつ近くに行ってみると本当にあの見覚えのあるタマゴタケに違いなかった。こんなに近くに生えていたなんてまったくの驚きであった。

自宅近くで見つけたタマゴタケ(2016.9.5 撮影)

 途中さまざまなキノコの姿を確認しながら、さらに歩いていくと、今度は別荘地の敷地内にタマゴタケがまとまって出てきているところを見つけた。名前がわかってみると見方がこんなにも変わるのかと思えるくらいであった。

別荘の敷地内に出ているタマゴタケ(2016.9.5 撮影)

 こうしてみると、近くの山に出かけるとこのタマゴタケは簡単に見つけることもできそうなのだが、しかし現在軽井沢ではキノコを採集して食べることは規制されている。3.11の事故以来の放射能汚染に伴う措置がまだ継続しているためだ。

 林野庁のホームページ(http://www.rinya.maff.go.jp/j/tokuyou/kinoko/qa/seigennagano.html)によると、2016.5.30付けで長野県下では軽井沢町と隣の御代田町に、基準値(100Bq/kg)を越える数値が確認されているとして、キノコや山菜の出荷制限をしている。

 また、軽井沢町のホームページ(http://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1001000000847/index.html)にも、「山菜は取らない、食べない、販売しないでください」とのPRが現在も継続してなされている(2015.10.30登録の情報)。

 自然の恵み豊かなこの地方で、住民が自由に山菜を楽しむことができないのは残念なことだ。早く安心してキノコ狩りができる日が来ることを望みたいものである。














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ミヤマカラスアゲハ

2016-09-02 15:27:06 | 
 ミヤマカラスアゲハは日本産の蝶の中でも、最も美しい種類のひとつといわれている。私は小学生の頃、夏休みの宿題に昆虫採集を始めて以来高校生ごろまでは蝶の採集に夢中になっていたことがある。その時も、ミヤマカラスアゲハは捕らえることができなかった憧れの蝶であったと思う。

 昨年、軽井沢に住むようになって、時々それらしい姿を目にするようになっていたが、素早く飛び去っていく姿からは、それがミヤマカラスアゲハか類似のカラスアゲハかは確かめることができないでいた。

 7月下旬、妻の誕生日祝いに食事に出かける途中、離山通りを歩いていて、反対側の歩道に黒い蝶が行き倒れ状態になっているのを見つけた。近寄ってみると、ミヤマカラスアゲハのようで、弱っているもののまだ生きていたので、持っていた紙にそっと挟んでそのまま食事に行き、持ち帰ることにした。

 道路側に飛び出して車に轢かれてしまうのを避けるためだ。実際、軽井沢では道路上に、車に轢かれたと思われる黒い蝶の姿を時々見かけていた。


離山通りで保護したミヤマカラスアゲハ♂(2016.7.21撮影)
 
 このミヤマカラスアゲハは飛び立つだけの力はなかったが、ブッドレアの蜜を吸わせるなどして数日間は生き続けそして死んだ。翅は少し傷んでいたが、妻がきれいに展翅をして標本箱に収めることにした。

 その後、今度は南軽井沢の別荘地付近を車で走っているときに、目の前を黒い蝶が通り過ぎた。あたりを見回すと、道路を少し下ったところに「クサギ」の花が咲いているのが目に留まった。クサギはアゲハ類の蝶が好んで吸蜜に訪れる花を咲かせる。


クサギの花(2016.8.5 撮影)

 車を降りて近寄ってしばらく様子を見ていると、次々と黒いアゲハがやってきていて、クロアゲハ、オナガアゲハに混じって強い光沢のカラスアゲハかミヤマカラスアゲハもいることが分かった。

 この日はカメラを用意していなかったので、その後この場所には数回通って写真撮影に挑戦し、撮影した写真からミヤマカラスアゲハもいることが確認できた。


クサギの花を訪れるミヤマカラスアゲハの♂(2016.8.9 撮影)


クサギの花を訪れるミヤマカラスアゲハの♀(2016.8.9 撮影)

 ミヤマカラスアゲハとカラスアゲハはとてもよく似ていて、素人目にはなかなか判別がつきにくい、私よりも蝶のことに詳しい妻や友人に撮影したこれらの写真を見てもらって、ミヤマカラスアゲハの写真を選び出すことができた。

 決め手は、後翅裏に白い帯があるかどうかと、強い光沢のある帯の幅であった。上掲の写真は2枚とも表面だけが写っているので、この白い帯は確認できないが、同時に撮影した他の写真と見比べながら判定した。

 雌雄の判別については、雄の前翅表の下側に現れる性標という黒い帯で判断する。これは上掲の写真にもはっきりと現れている。

 このミヤマカラスアゲハの幼虫をできれば飼育して、その生態撮影をしてみたいとの思いがあって、食樹の「キハダ」を自宅に植えてあるのだが、卵や幼虫の発見はおろか、蝶が訪れる様子は今年はまだない。樹がだいぶ大きく育ってきているのでこれからを楽しみにしていきたい。












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