軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

ガラスの話(10)偏光とガラス

2018-08-31 00:00:00 | ガラス
学生時代に読んだ物理に関する本の中で、今でも印象深い本の一つが「ファインマン物理学」(1968年 岩波書店発行)である。全5巻のこのシリーズのⅡが「光 熱 波動」に関するもので、大学の授業で学ぶものとはまた一味違った解説がされていて、興味深く読んだ覚えがある。

 その中に、「偏光」についての記述があって、この時はじめて偏光についてきちんと理解したように思う。企業に就職し、当時揺籃期にあった液晶ディスプレイの開発に従事することになったが、この液晶ディスプレイは偏光板の働きで、液晶の示す動きを目で見えるようにしたものである。

 その後、職場を移り、一旦は液晶ディスプレイから離れることになったが、新たな職場では、すぐに3D・立体テレビ開発への取り組みがスタートし、偏光メガネを利用したシステムの開発を行うことになった。考えてみると、仕事の面では、偏光に始まり偏光に終わる会社生活であったことになる。

 さて、先のファインマン物理学の「偏光子」の項に、次のような記述があって、今でも記憶に残っている。この実験は、ヘラパタイト(沃素と硫酸キニンの化合物)の小さな結晶の薄い層からできているポーラロイド偏光板を用いるという設定であるが、現在私たちが入手できる各種(直線)偏光板でももちろん同様である。

 「・・・次のような実験を考えると、面白いパラドックスができる。2枚のポーラロイド板で、両者の軸が互いに垂直になっているとすると、光をあてても、通り抜けないことを知っている。ところがこの間に第三のポーラロイド板をおき。それの光を通す軸を、さきの二つの軸に対して45°の傾きをもたせると、ある程度光が通る。ポーラロイドの板は光を吸収するが、何物をも造りださないはずである。それなのに、第三のポーラロイド板をおくと、光が多く通るようになる。この現象の解析は諸君の練習問題としておこう。・・・」

 図示すると、次のようなことを言っているのであるが、本の、このページには何の書き込みも見当たらないので、当時私が解答をだせたかどうかは今となっては判らない。

ファインマンが提示した3枚の偏光子によるパラドックス問題

 次に、この本の「異常屈折」の項には次のような記述がある。

 「・・・アイスランドに行った水夫が方解石(Iceland spar;CaCO3)の結晶をヨーロッパにもち帰った。この結晶はそれを通してものを見ると、二重に見える、つまり二つの像ができるという面白い性質をもっている。このことがホイゲンスの注意をひき、偏光の発見に重要な役を演ずることになった。・・・」

 この異常屈折という現象は、複屈折をする結晶が起こす特殊な例で、上記のとおり方解石などで見られるものであるが、光軸すなわち非対称の分子の長い方の軸が結晶の表面(通常は劈開面)に平行でない場合におこる。

 手元にあった、あまり品質がよくない方解石の結晶(25mm x 60mm x 30mm)でこれを再現してみると、次のようである(注:写真の「方解石・・・」の文字は液晶モニターに表示させているが、そのままでは画面からは直線偏光が出てきているので、これを1/4波長板で解消して撮影した)。

方解石の結晶が示す二重像(液晶パネルで文字を表示しているが、直線偏光を解消して使用している)

 方解石の劈開面の一つから入射した光のうち、光軸と90度で交わる成分は直進するが、これと直交する成分の方は光軸の傾きに応じて屈折して、斜め方向に進む結果、2本に分かれることになる。方解石結晶を面内で回転させると、直進光はそのままであるが、屈折光の文字は同じ方向に回転する。写真では、下の文字が常光線によるもので、上が異常光線による。この様子は次の図のように説明される。

複屈折をする結晶内を通る常光線と異常光線の経路

 アイスランドで水夫が見つけたという、この方解石には別な話がある。それはバイキングの伝説として知られているという。

 古代スカンジナビアの海洋民、すなわちバイキングたちは、今から1000年以上前、羅針盤などまだ発明されていなかった頃、故郷のスカンジナビア地方からアイスランドやグリーンランドへ向かって進み、さらに何千キロをも航海し、クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)に数世紀先駆けて北米にも到達していた可能性が高いといわれている。

 この船乗りたちが、陸の目印や、潮流や波に関する深い知識を駆使し、太陽や星の位置を読み取りながら航海していた証拠はある。しかし、彼らがどのようにして、霧や雲に覆われやすい高緯度の北半球で長距離を旅することができたのかはこれまで謎のままだったようだ。

 これに関して、2011年に、仏レンヌ大学(University of Rennes)のギー・ロパール(Guy Ropars)氏率いる国際研究チームが、実験的証拠と理論的証拠を集め、その答えを見つけたと発表している(http://www.afpbb.com/articles/-/2838887;バイキングの伝説の石「サンストーン」、実際の航海に使用 2011年11月4日)。

 それによると、バイキングたちは上記の方解石(カルサイト)の結晶を使い、太陽の方角を誤差1度以内という正確さで把握していたという。

 その仕組みは次のように説明されている。「カルサイトの上部に点印をつけ、下からカルサイトを通してその印を眺めると、印はふたつあるように見える。次に、ふたつの印の濃さや暗さがまったく同じに見えるところまで、結晶を回転させる。それらが同じになった角度の時、上を向いている面が太陽の方向を指している。薄明の状態でも誤差は2、3度という精度が得られる・・・バイキングたちは隠れた太陽の方向を正確に見極めることができただろう(ロパール氏)」。

 バイキングが採用していたとされるこの方法は経験に基づいたもので、彼らが雲を通して地球に届く太陽の光が方角により偏光になっていると理解していたわけではもちろんない。

 この点について、再びファインマンの本の説明をみてみよう。「散乱光の偏り」の項である。

 「・・・空に輝く太陽からの光線をとりあげてみよう。この光の電場は空中の電荷を振動させ、この電荷の運動は、その振動方向に垂直な平面内で極大の強さをもつような光を輻射する。太陽からくる光は偏らず、偏りの方向は絶えず変化し、空気中の電荷の振動の方向も絶えず変わっていく。もし90°だけ散乱した光を考えると、荷電粒子の振動は、振動が観察者の視線の方向に垂直になるときだけ、観察者の方に光を送る。このとき光は振動の方向に偏っている。このように散乱は偏光をつくる一つの手段になっている。」

 太陽から、直接我々の目に届く光は偏光ではない。一方、大気で散乱され我々の目に届く光は一定の方向に偏った光、偏光になっている。バイキングが行っていたとされる方法は、この散乱現象と、方解石が二重像をつくりだすという性質を巧みに利用した方法であるといえる。

 バイキングが用いたという、方解石の一つの面に印をつけて、これをもう一方の面から眺めてみるやりかたを、再現すると次のようである。背景の光が偏りのないものであると、方解石を面内で回転させても、印の黒さ(明るさ)には変化がない。しかし、背景の光が直線偏光の場合には、方解石を回転させると二重の像の黒さは順次変化し、ある角度では一方の印は消えてしまう。われわれが実際に目にする空からの光は部分的に偏光状態にあるので、この実験の中間の状態が観察されることになる。そして、方解石の印をつけた面を、正しく(雲に隠れた)太陽の方向に向けたときに、二つの印は方解石をいくら回転させても、同じ黒さに見える。

偏りのない光源に方解石をかざした場合、方解石を回転させても、印の黒さには変化がない

横方向の直線偏光を光源とした場合、方解石の角度により印の黒さが変化し、一方が完全に消える角度がある

 方解石のこの不思議な性質は、ホイゲンスだけではなく何人もの物理学者に光の本質についての示唆を与えたようである。そして、ついに、エティエンヌ=ルイ・マリュス(Etienne-Louis Malus ,1775.7.23-1812.2.24)は反射光の偏光についてのマリュスの法則を発見した(ウィキペディア)。

 その発見時の様子は、偏光に関するウェブサイト(http://www.polarization.com/history/history.html)に次のように記されている。

 「彼の最も重要な発見は、彼がパリの Rue d'Enfer にある彼のアパートでアイスランドスパー(方解石)の結晶で遊んでいたときに訪れた。彼は通りを隔てた Luxemburg Palace の窓からの、沈んでいく太陽の反射光を見ていて、方解石の結晶を回転させるときにどのように強度が変化しているかに気づいた (太陽のイメージは、反射により部分的に偏りをもっていた)。彼はその後、さらにいくつかの実験を行い、光を偏らせる性質は、非常に特別な結晶に限られているのではなく、透明・不透明を問わず、ごくありふれた、普通の物質からの反射光に見いだせることを知った。」

 ガラスの表面で光が反射する時に、偏光が生まれていた。

 またここで、ファインマンに登場していただく。

 「偏光の最も興味ある例の一つは、複雑な結晶やむずかしい物質に関するものではなく、最も簡単な最もなじみの深い現象に関するものである。それは表面からの反射である。光がガラスの表面で反射するとき、諸君が信じようと信じまいと、反射光は偏るのである。その物理的説明は極めて簡単である。光が表面から反射するとき、もし反射光線と物質中の屈折光線との間の角が直角になるなら、反射光は完全に偏るということが、実験的にブルースターにより発見された。・・・」

 最後に、ファインマンについて記しておく。

 「リチャード・フィリップス・ファインマン(Richard Phillips Feynman, 1918.5.11 - 1988.2.15)は、アメリカ合衆国出身の物理学者。1965年、量子電磁力学の発展に大きく寄与したことにより、ジュリアン・S・シュウィンガーや朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を共同受賞している。
 カリフォルニア工科大学時代の講義内容をもとにした物理学の教科書『ファインマン物理学』は、1961 - 1963年にファインマンがカリフォルニア工科大学で行なった講義の内容をもとにして、ロバート・B・レイトン、マシュー・サンズと共に構成した物理学の教科書である。大学初年度レベルの物理学の入門書という位置付けながら、随所に物理法則に対する深い見方が示され専門家からの評価も高い。原書は3分冊である。また、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』などユーモラスな逸話集も好評を博している。生涯を通し、抜群の人気を誇っていた。(ウィキペディアからの抜粋)」





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庭にきた蝶(23)イチモンジチョウ

2018-08-24 00:00:00 | 
 先日の朝、妻が小鳥たちのエサ台に給餌に行った時、ブッドレアの花にイチモンジチョウが吸蜜に来ているのを見つけて知らせてくれたので、急ぎカメラを持ち出し撮影した。

 このところ毎日ガラスショップに出かけていることと、今年はどうも庭にくる蝶の姿を見ることが少なくて、ほとんど機会がなかったのだが、久々の庭での撮影になった。

 「庭にきた蝶」としての紹介は、昨年までにやって来た22種で一旦終わりにしていたが、これを機に随時追加として紹介させていただこうと思う。先日もクジャクチョウと思しき姿を見かけたが、これはすぐに飛び去り、撮影までには至らなかった。

 さて、イチモンジチョウ、一文字蝶の意で、黒地の翅に縦一文字の白帯が走ることからこの名前がある。前翅長24~36mmの中型で、翅表は黒褐色、裏面は茶褐色。北海道、本州、四国、九州と広く生息し、長野県では、標高1,700m程度以下の山地に普通にみられる種である。

 以前「庭にきた蝶(4)」で紹介した、日本特産の独立種である、アサマイチモンジ(2017.2.10 公開)と酷似しているため、ちょっと見ただけでは判別できないが、写真を撮るなどして微妙な違いを確認することで同定できる。2種の相違点については、アサマイチモンジの項で紹介しているし、下でも一部触れているので、ここでは詳しいことは割愛するが、一点追加すると、複眼に毛が生えているのがイチモンジチョウで、毛の生えていないのがアサマイチモンジであるとされる(ウィキペディア)。

 複眼に毛が生える点が両者の相違点と言われても、そう簡単に見るわけにもいかないのだが、今回撮影した写真を拡大すると、イチモンジチョウの目の周りには、確かに毛が見える。


イチモンジチョウの複眼周辺のアップ(2018.8.17 撮影)

 イチモンジチョウの幼虫はスイカズラなどの葉を食べるが、幼虫はその葉先から中脈を残して両側を食べ、特徴のある食痕を残すという。また、幼虫は3齢に達すると葉を筒状に巻きその中で越冬する。

 ところで、イチモンジチョウとアサマイチモンジの食草は共にスイカズラ科であるが、アサマイチモンジはスイカズラ、タニウツギなど(ニシキウツギを挙げている本もある)とされているのに対し、イチモンジチョウの方は、スイカズラ、キンギンボク、タニウツギ、ニシキウツギ、ヤブウツギなどとされていてより多くの種が挙げられている(「フィールドガイド日本のチョウ」誠文堂新光社発行)。


イチモンジチョウとアサマイチモンジの幼虫の食草

 このことに関して、西口親雄氏の著書「森と樹と蝶と」(2001年 (株)八坂書房発行)の「スイカズラをめぐって-イチモンジチョウの遍歴-」の項に興味深い記述があるので、次に紹介させていただく。

 「私には、スイカズラを憎めない理由が、ひとつある。それは、スイカズラの葉がイチモンジチョウとアサマイチモンジという、かわいい蝶の、幼虫の餌になっているからである。
 この両者は、羽の図柄がよく似ている。識別点はただ一ヶ所。黒地に白斑列がたて帯状に並ぶが、前翅の上から四番目の白斑が、イチモンジチョウではごく小さくて消えかかっているが、アサマイチモンジでは、比較的大きく、はっきりしていることである。
 両種とも、日本の里山のどこにでも見られる、ごくふつうの蝶であるが、そんな蝶に私が興味を引かれたのは、イチモンジチョウが日本からヨーロッパまで広く分布しているのに、アサマイチモンジは、日本にしかいない、日本特産の蝶だからである・・・。
 ・・・アサマイチモンジは、なぜ日本にしか生息していないのか。・・・」

 著者はこの理由を、両種の食草の違いに着目して、次のように推理している。

 「アサマイチモンジの先祖は、おおむかし、スイカズラ大国・中国西部を生息中心地として、日本の温帯域にまで分布を広げ、ゆうゆうと生活していた。ところが、進化したイチモンジチョウ群(ミスジ型)の出現で、ふるさとを追われ、一部は、四川省やチベットの寒冷な山岳地帯に逃げこみ、一部は、日本という、隔離列島で生き残ることができた。・・・
 時代はややおくれて、今度はイチモンジチョウ(アサマイチモンジよりやや進化型)にも、似たような状況がおきる。しかし、イチモンジチョウの場合は、一部はヨーロッパへ、一部は東アジア北部と日本へ逃げて、生きのびている。アサマイチモンジより、生活力があったからだ、と思う。
 日本列島へ逃げてきたイチモンジチョウは、アサマイチモンジと混生することになる。アサマイチモンジは、食餌植物をスイカズラ属に限定しているが、イチモンジチョウは、食餌植物をスイカズラ属からタニウツギ属にまで広げている。じつは、日本はタニウツギ属の天国で、各地にさまざまな種が分布している。そのおかげで、日本は、イチモンジチョウにとっては住みよい国となった。・・・」

 日本での両種の生息域分布を見ておくと、イチモンジチョウは上記の通り日本のほぼ全域であるのに対し、アサマイチモンジは本州に限定されている。

 では、庭にやってきたイチモンジチョウの写真を見ていただこう。


庭のブッドレアの花で吸蜜するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のブッドレアの花で吸蜜するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のブッドレアの花で吸蜜するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のブッドレアの葉上で休息するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のブッドレアの花で吸蜜するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


8庭のブッドレアの花で吸蜜するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のモミノキの葉上で休息するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のブッドレアの花で吸蜜するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のブッドレアの花で吸蜜するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のブッドレアの葉上で休息するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のブッドレアの葉上で口吻を伸ばすイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のブッドレアの花で吸蜜するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のブッドレアの葉上で休息するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のブッドレアの葉上で休息するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のサクラの葉上で休息するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のブッドレアの花で吸蜜するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のブッドレアの葉上で休息するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のブッドレアの花で吸蜜するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)


庭のブッドレアの花で吸蜜するイチモンジチョウ(2018.8.17 撮影)

 庭の一角に、2年前に山から移植したスイカズラは活着して元気につるを伸ばしている。そのうち、庭で特徴あるイチモンジチョウの幼虫の食痕が見られるようになるかもしれないと楽しみにしている。 
 
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橿原市昆虫館

2018-08-17 00:00:00 | 日記
 小学校時代の同級生のYさんから教えていただいていた、奈良県橿原市の昆虫館に出かけた。連日の猛暑の中ではあったが、大阪の実家にこもりがちであったので、気分転換も兼ねてのことであった。

 実家から現地までは車で約50分ほど、南阪奈道路を利用し、終点で下りてから20分ほど一般道を走って昆虫館に着いた。高速道路を下りたときには周囲はビルが立ち並ぶ市街地であったが、すぐに田園地帯を走るようになり、昆虫館の近くに来ると、辺りは新興住宅地と古くからの町並みが混在しているところであった。

 近くになってから、橿原市昆虫館までは案内もしっかりしていて、もちろんナビを利用してはいるが、迷わず到着することができた。


同館のパンフレットにある案内図、大和三山が近くに見える

 夏休みということもあって、施設の入り口に近いがそれほど広くない第一駐車場は満車で、建物裏側の第二駐車場に車を停めた。そのおかげでというか、第二駐車場からはすぐ目の前に巨大な放蝶温室をさっそく目にすることができた。放蝶温室は、全体が細長く設計されている施設の、一番奥に造られているので、直接玄関に行ったのでは、その姿を見ることはできない。ここに来るまでは田園地帯の中を走ってきていたので、この巨大なガラス張りの建物は偉容を誇って見えた。


到着後最初に目に飛び込んできた放蝶温室の偉容(2018.8.3 撮影)

 クマゼミしぐれの中を建物に沿って半周し、入り口まで歩き、観覧券510円を購入して中に入った。


橿原昆虫館の入り口付近の様子(2018.8.3 撮影)


入り口前のトンボのモニュメント、日時計になっているようである(2018.8.3 撮影)

 親子連れが、順路に従って標本展示室や生態展示室で展示品に見入っている中、私はまっすぐ一番奥にある放蝶温室に向かった。

 以前、寒い季節に伊丹市の昆虫館に行き、同様の蝶温室に入った時には、持ち込んだカメラのレンズが曇り、しばらくは撮影にならなかったのであったが、さすがに真夏の今はそうしたこともなく、早速蝶の撮影に取り掛かかることができた。


放蝶温室内部(2018.8.3 撮影)

 一番数多く見らたのは、オオゴマダラで、優雅にふわりふわりと飛び交っている。その他、スジグロカバマダラ、ツマムラサキマダラ、リュウキュウアサギマダラ、シロオビアゲハ、カバタテハ、ジャコウアゲハなどが見られた。

 放蝶温室の入り口に用意されている「温室探検ノート」によると、このほかにアサギマダラ、カバマダラ、ツマベニチョウ、クロアゲハ、カラスアゲハも放されているとのことである。私がひそかに期待していた、ツマベニチョウの姿は残念ながらこの日は見られなかった。

 撮影したチョウの写真をご覧いただこう。

 最初はオオゴマダラ。鹿児島県喜界島と沖縄島以南の南西諸島に分布する種で、喜界町では天然記念物に指定され、保護されている。前翅長は60~75mmと非常に大きく、日本産最大種の一つとされる。白地に黒斑と翅脈に沿う黒線があり、近似種はいないため判別は容易である。自然界でも、やや高所をフワフワとゆっくり飛翔し、林内に静止したり、訪花したりするとされる。

 食草は、キョウチクトウ科のホウライカガミ。園内にはこのホウライカガミの鉢植えが配置されていた。


オオゴマダラ(2018.8.3 撮影)。


オオゴマダラ(2018.8.3 撮影)


オオゴマダラ(2018.8.3 撮影)


オオゴマダラと食草のホウライカガミ(2018.8.3 撮影)

 次に多く見られたのは、スジグロカバマダラであった。この種も南方系のチョウで、八重山諸島では土着。それより以北では迷チョウまたはそれに由来する一次発生とされる。前翅長35mm~43mm。食草はガガイモ科のリュウキュウガシワやアマミイケマなど。近似種にカバマダラがいるが、本種は翅脈に沿って太い黒条があることから識別は容易。♂には後翅中央やや肛角部寄りに黒い性標があり、♂♀を判別できる。


スジグロカバマダラ♂(2018.8.3 撮影)


スジグロカバマダラ♂(2018.8.3 撮影)


スジグロカバマダラ♂(2018.8.3 撮影)


スジグロカバマダラ♂(2018.8.3 撮影)


スジグロカバマダラ♀(2018.8.3 撮影)

 これら2種もそうだが、温室内で見られるチョウの多くは、主な生息地である八重山諸島地方で、周年発生を繰り返していることから、温室内で飼育すれば年間を通して見学することができる。我々は、チョウは季節ごとに現れるものと考えがちであるが、暖かい地方では一年中発生している。

 今回前2種に次いで多く見られたジャコウアゲハは、本州でも普通に見ることができる種で、前翅長は42mm~60㎜と大型で長い尾状突起を持つ優美な種である。寒冷地では年2回の発生だが、南西諸島ではやはり周年発生することからこうした温室のチョウに選ばれているようである。ジャコウアゲハは雌雄で翅表地色が異なり、♂はツヤのない黒色、♀は黄灰色~暗灰色になるので差異は明瞭である。他のチョウは割愛することにして、ジャコウアゲハの写真をいくつか紹介させていただく。


ジャコウアゲハ♀(2018.8.3 撮影)


ジャコウアゲハ♀(2018.8.3 撮影)


ジャコウアゲハ♀(2018.8.3 撮影)

 しばらく写真撮影を楽しんだ後、放蝶温室の奥にある特別生態展示コーナーに行ってみると、ここでは、オオゴマダラの幼虫の飼育の様子を見ることができた。食草であるホウライカガミに産みつけられた卵や、5cmほどに成長した幼虫を直径12cmほどのプラスチック容器の中にみることができた。また、その容器の蓋にさかさまにぶら下がり、金色の構造色に輝く蛹も見せていただいた。


オオゴマダラの幼虫(2018.8.3 撮影)


オオゴマダラの蛹(2018.8.3 撮影)

 今回見たチョウは、年間を通じて見ることができるように、別室の飼育室で羽化させたものを、温室に放しているという。

 飼育に必要な餌の食草は、昆虫館が保有している石垣島の圃場から定期的に宅配便で送られてくるとのことで、通年、羽化させて放蝶するために大変な努力をしていることが感じられた。

 ところで、橿原昆虫館にはもう一つの話題があった。オオムラサキの飼育である。 

 今回は時期が合わず見ることができなかったが、ここ橿原昆虫館では国蝶のオオムラサキの飼育も行っているとのことで、羽化を見ることができる時期には高級一眼レフを持ち、撮影に来る年配の客が増えるのだと説明していただいた。

 同級生のYさんからは、朝日新聞に掲載された次の切り抜きも送っていただいていた。山梨県北杜市のオオムラサキセンターはオオムラサキの飼育では国内随一であるが、1000頭に及ぶオオムラサキの成虫を羽化させているというこの橿原昆虫館と林太郎さんの取り組みも相当なものである。今後別の機会に、季節を合わせ蛹化や羽化の時期に再訪したいものである。


オオムラサキの羽化成功を伝える朝日新聞2017.6.16日付けの記事

 これまで、大阪を起点にしていくつかの博物館や美術館見て廻ったが、これは今回が最後になってしまった。今後は、また軽井沢にもどり、ここを起点としてさまざまな事物を紹介していこうと思う。





 

  

 



 
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ガラスの話(9)香水瓶 ② Rene LALIQUE

2018-08-10 00:00:00 | ガラス
 先週に続き、資生堂アートハウスで開催された企画展「ヴィンテージ香水瓶と現代のタピスリー」で展示された、香水瓶を紹介させていただく。後半の今回は、ルネ・ラリック制作の香水瓶。

 ルネ・ラリックについてはパネルで次の説明が示されている。

《Rene Lalique / ルネ・ラリック》
 「ルネ・ラリック(Rene LALIQUE 1860-1945 )は、19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍した、フランスの芸術家です。
 ラリックのキャリアは、宝飾工芸家としてスタートしました。アール・ヌーヴォーの時代、ラリックは特権階級のために一点物の装身具を制作し、1897年にはレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ工賞を受賞、1900年のパリ万国博覧会では宝飾部門のグランプリを受賞するなど高い評価を受け、アール・ヌーヴォーの申し子のような存在として、フランスの宝飾会に君臨していました。
 しかし、世紀が変わりアール・ヌーヴォーが衰退し始めたのと歩を合わせるように、ラリックは活動の場を宝飾品からガラス工芸へと移行させていきます。そのきっかけは、1908年から始まった香水商のフランソワ・コティとの協力関係でした。コティから依頼された香水瓶ラベルのデザインに対し、ラリックはガラス製のレリーフをバカラが制作したガラス瓶に溶着させる提案で応えます。この成功が大きな契機となり、ラリックはガラス工芸の道に専心することになります。
 ラリックは当初香水瓶においても、宝飾品と同様の職人的な技術を重視しますが、次第に工業的な技術と芸術性を結び付けた作品を制作していくことになります。当時発展しつつあった機械化を最大限に利用し、高級感のあるガラス製品を比較的安価に提供することによって、ガラス産業における企業家としても大成したのです。
 ラリックが制作した香水瓶は、香水の存在をより際立たせる詩的な叙情にみちており、1920年から30年代にかけては、ウビガンやドルセー、ロジェ・ガレなどの名門香水商がこぞって制作を依頼しました。
 ラリックが生前に制作した香水瓶の数は400種類にも及び、文字通り現代香水瓶の父として、今日に至るまでその歴史に不動の地位を築いています。」

 上記説明にあるように、ラリックが最初に手掛けたのは、香水瓶本体ではなく、他社(バカラ)の香水瓶に貼りつけるガラス製のレリーフであった。コティ社向けに制作したレリーフが貼られた香水瓶が、ラリックのコーナーの最初に展示されていた。ただ、これは年代としては初期のものではなく、後年の類似のものとの説明がされていた。


c1912年 コティ社「L'EFFLEURT(花摘み)」の香水瓶
 ラリックによる香水瓶の幕開けを飾る記念碑的作品です。1908年、著名な宝飾工芸家であったルネ・ラリックは、フランソワ・コティの依頼を受けて香水、「L'EFFLEURT(花摘み)」のラベルをデザインしました。このラベルは矩形のガラス板に香気の渦から立ち上る裸婦をレリーフで表現したもので、バカラによる古風なカラフォン型の瓶に取り付けられました。
 展示の香水瓶は「L'EFFLEURT(花摘み)」のセカンドバージョンです。ラベルや瓶の形は踏襲したものの、多面体のカットガラスだった栓はプレス加工による2匹の蝉が腹を合わせたデザインに変更されました。


1909年 ピヴェール社「SCARABEE(スカラベ)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


左から 1918年 アリス社「 EN FERMANT LES YEUX(瞳を閉じて)」
1914年 ドルセー社「POESIE D' ORSAY(ドルセーの詩情)」
1910年 コティ社「AMBRE ANTIQUE 「」(いにしえの琥珀)」
1911年 ドルセー社 「AMBRE(アンブル)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1912年 メゾン・ラリック「TROIS GROUPES DE DEUX DANSEUSES(二人で踊る3グループ)」の香水瓶
(2018.6.16 撮影)


1912年 ロジェ・ガレ社「NARKISS(水仙)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


左:1920年 メゾン・ラリック「BOUCHON CASSIS(カシス)」
中:1913年 ロジェ・ガレ社「PAQUERETTES(ひな菊)」
右:1914年 ドルセー社「LEURS AMES(彼らの魂)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1919年 ヴォルネイ社「CHYPRE AMBRE(琥珀色のキプロス)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1920年 メゾン・ラリック「HIRONDELLES(燕)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1924年 ウォルト社「dans la nuit(夜に)」の香水瓶とアトマイザー(2018.6.16 撮影)


1924年 フィオール社「CHOSE PROMISE(約束されたもの)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1925年 ウビガン社「LA BELLE SAISON(美しい季節)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1926年 ロジェ・ガレ社「LE JADE(翡翠)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1926年 ウォルト社「VERS LE JOUR(光に向かって)」の香水瓶とアトマイザー(2018.6.16 撮影)


1928年 モリナール社「LE BAISER DU FAUNE(牧神のキス)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1928年 カナリナ社「LES YEUX BLEUS(青い目)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


ウォルト社 6種 左から:
1931年 「JE REVIENS(再会の時)」
1933年 「VERS TOI(あなたのもとへ)」
c1935年 「PROJETS(計画)」
1929年 「SANS ADIEU(さよならは言わない)」
1929年 「SANS ADIEU(さよならは言わない)」
1929年 「SANS ADIEU(さよならは言わない)」(2018.6.16 撮影)

 ルネ・ラリックは、顧客である香水商向けの香水瓶だけではなく、自社製品として、空の香水瓶も制作し販売した。それがメゾン・ラリックの香水瓶である。パネルに、次のような説明があった。

《メゾン・ラリックの香水瓶について》
 「この展示場でご覧いただく香水瓶18点は、すべてLA MAISON LALIQUE(メゾン・ラリック)によるものです。
 Maison(メゾン)とはフランス語で家や建物を意味する言葉ですが、店舗や会社などの意味もあり、ここではラリックが経営していたガラスメーカーが独自に販売した香水瓶を指しています。香水商から依頼されたものではないこれらの香水瓶は、空のまま販売され、購入した顧客は好みの香水を入れて楽しんだのでした。
 メゾン・ラリックの香水瓶は、ラリックの創作欲を随意に反映させることができたためか、ユニークで贅沢な作品が多いこともその特徴の一つです。
 中でも、扁平なボトルの両面にそれぞれ異なるガラス製のカメオを嵌め込んだ『FOUGERES(シダ)』や、ラリックとしては珍しくクリスタルガラスを用い、大きなティアラ型の栓に燕をインタリオ(陰刻)した『BOUCHON TROS HIRONDELLIES(三羽のツバメ)』などはその典型で、想像力に遊ぶラリックの豊かな芸術性をみてとることができます。」


1910年 「PETITES FEUILLES(小さな葉)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1910年 「QUATRE CIGARES(四匹の蝉)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1911年 「A COTES, BOUCHON PAPILLONS(パピヨン)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1912年 「LUNARIA(ルナリア)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1912年 「PANIER DE ROSES(薔薇籠)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


左:1920年 「PAN(牧羊神)」
中:1919年 「ANSES ET BOUCHON MARGUERITES(ひな菊)」の香水瓶
右:1912年 「FOUGERES(シダ)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1912年 「DEUX FIGURINES, BOUCHON MARGUERITES(二人の肖像)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1912年 「ROSASE FIGURINES(薔薇窓)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


左:1919年 「BOUCHON EUCALYPTUS(ユーカリ)」
中:1920年 「BOUCHON TROIS HIRONDELLES(三羽のツバメ)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)
右:1920年 「BOUCHON CASSIS(カシス)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1931年 「CLAIREFONTAINE(クレールフォンテーヌ)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)
 
 多くの香水瓶を見学してきたが、自由に撮影することを許可していただいた、資生堂アートハウスに感謝申し上げる。

 今回展示されていた、バカラやラリックのほとんどの作品は、資生堂アートハウスが、過去の展覧会(前期|バカラ クリスタルの雅歌2015.7.17-9.27、後期|ルネ・ラリック 幻視のファンタジー 2015.10.2-12.13)の際に発行した素敵なカタログ「香水瓶の世紀」に収録されていて、改めてじっくりと見ることができる。参考書としてこの本を購入し、同じ敷地内の少し離れた場所にある、資生堂資料館に移動した。


「香水瓶の世紀」(2015年 資生堂アートハウス発行)の表紙

 この後、資生堂アートハウスでは、続編の企画展「ヴィンテージ香水瓶とタピスリー 様々なデザイン」が、2018.7.3-9.2の期間開催され、多くの香水瓶が展示されているようである。さてどうするか。


2018.7.3-9.2 開催の「ヴィンテージ香水瓶と現代のタピスリー さまざまなデザイン」のパンフレット

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ガラスの話(8)香水瓶 ① Baccarat

2018-08-03 00:00:00 | ガラス
 毎月の大阪行きを利用し、大阪ではあちらこちらの博物館、美術館を訪問しているが、今回は途中下車をして、静岡県掛川市にある資生堂アートハウスで開催されていた香水瓶などの展示「ヴィンテージ香水瓶と現代のタピスリー/ラリックとバカラを中心に」(2018.4.10-6.24)を妻と共に見学した。

 香水については、小学生の頃親しかった同級生のA君の家が、化粧品店を開いていて、そこに行くと店先に香水サンプルがいくつも置かれていて、見せていただいた思い出がある。

 それぞれ小さなガラス瓶の中に香水が入っていたが、何故かその中で「ヘリオトロープ」という名前が印象的であった。

 今改めてその「ヘリオトロープ」について調べてみると、これはペルー生まれの植物の名前で、フランスの園芸家が1757年にペルーからパリの王室の庭園に種子を送り、ヨーロッパに伝えたとされる。その後アメリカや他の国に伝えられ、日本には明治時代に伝わり、栽培されている。

 この「ヘリオトロープ」が香水の名前として用いられ、明治30年に日本に初めて入ってきた香水として有名であり、夏目漱石の小説「三四郎」にも登場する。もしかしたら、学生時代に読んだこの本のこともあって、私の記憶に強く残っているものかもしれない。

 記憶に残る2番目の香水は「シャネル5番」である。これは大学時代の友人Yさんから海外生活のお土産としていただいた。このことがきっかけになり、その後私も仕事で海外に出かけることがあると、必ず香水を1瓶お土産に買って帰ることが習慣になった。たいていは機内販売で、その時々の新製品を選んでいたように思う。そんな訳で、自宅には未使用の香水が結構溜まっていた。

 こうしてたくさんあった香水だが、その後娘がやってきた折に、孫が通っている幼稚園のバザーで販売するのにちょうどいいというのでほとんど持ち帰り、いまは手元には残されていない。

 今思い返すと、これらの香水は、それぞれ意匠を凝らした瓶に入っていた。香水の中身についてはよく判らなかったが、選ぶときには、機内誌を見ながら、瓶のデザインが気に入ったものを選んでいたように思う。

 今年、軽井沢でアンティークガラスショップを始めたが、扱っている商品はテーブルウエアがほとんどで、香水瓶は妻がたまたま仕入れた数点にとどまっている。

 しかし、ガラス工芸の近代史の中では、テーブルウエアの中心であるリキュールグラス、ワイングラス、デキャンタなどと共に、香水瓶もまた重要な役割を果たしている。

 今回、見学した資生堂アートハウスでの展示品は、現在ガラス器のメーカーとしては共に世界のトップにランクされているバカラ社とラリック社の作品が中心であるが、これらを見ていると、バカラ社は香水瓶の製造をとても大切にしてきたことがわかるし、ルネ・ラリックにいたっては、香水瓶製造によってガラス器メーカーとしてのスタートを切ったのであった。

 さて、今回訪問した資生堂アートハウス、パンフレットには次のように書かれている。

 「資生堂アートハウスは、1978年(昭和53)に開設しました。その後、2002年(平成14)のリニューアルを機に、美術館としての機能を高め、近現代のすぐれた美術品を収集・保存すると共に、美術品展覧会を通じて一般公開する文化施設として活動しています。
 ・・・当館の建物は高宮真介、谷口吉生両氏の設計によるもので、1979(昭和54)年度の「日本建築学会賞(作品)」を受賞しており、建物自体がアートとしての価値を有しています。」


資生堂アートハウス外観(2018.6.16 撮影)

 また、今回の企画展「ヴィンテージ香水瓶と現代のタピスリー」の開催については次のように記されている。

 「資生堂アートハウスでは、19世紀末から第二次世界大戦前を中心にフランスで制作された香水瓶と、1960年代から70年代にかけて国内で制作されたタピスリーの展覧会を開催いたします。
 ・・・
 香水瓶は、フランスの装飾工芸家ルネ・ラリック(1860-1945)と、クリスタルガラスのブランド、『バカラ』が手がけた作品を採り上げます。アール・ヌーヴォーからアール・デコに至る時代、香水産業が飛躍的に発展するにつれて、一部の香水は現代では考えられないほどの贅を凝らした瓶やケースに入れられ店頭を飾るようになりました。その時代を代表する香水瓶の担い手が、ルネ・ラリックとバカラだったと言えるでしょう。・・・
 本展ではラリックとバカラの代表作を約100点展示し、香水と香水瓶が真の贅沢を謳歌していた時代の片鱗を目の当たりにしていただきたいと思います。・・・」


資生堂アートハウスの企画展のパンフレット。上部5点は、ラリック作、下部の7点はバカラ作の香水瓶。

 出品作品一覧によると、香水瓶の出品数は102点、その内バカラのものは42点、ルネ・ラリックのものは56点、その他が4点である。

 バカラとルネ・ラリックの出品作品を制作年代別に見ると

1900-1909 バカラ・・・ 3 / ルネ・ラリック・・・ 3
1910-1919 バカラ・・・13 / ルネ・ラリック・・・35
1920-1929 バカラ・・・16 / ルネ・ラリック・・・14
1930-1939 バカラ・・・ 7 / ルネ・ラリック・・・ 4
1940-1949 バカラ・・・ 3 / ルネ・ラリック・・・ 0

である。
 
 これらの中からいくつか作品を紹介させていただく。当日は来場者もまばらで、ゆっくりと鑑賞でき、また自由に写真撮影も行うことができた。

 最初に紹介するのは、私だけではなく、日本人が最初出会ったという、あの「ヘリオトロープ」を入れた香水瓶。ゲラン社から発売されていた。瓶の製作者はバカラでもルネ・ラリックでもなく、特に示されていない。


1870- ゲラン社「HELIOTROPE BLANC 000(ヘリオトロープ・ブラン 000)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)

 ここには、次のような説明文が示されている。

 「1870年代から第二次世界大戦後まで用いられた、ゲランの汎用香水瓶です。肩の部分に面取りを施しただけの角型の瓶で、栓は多面体のカットガラスです。
 ここに見られるように、19世紀の香水瓶は薬瓶のように簡素な形状がほとんどでラベルを変えることによって、複数の香水に用いられました。この瓶が初めて作られた頃、ゲランのメゾンはRue de la Paix(平和通り)にありましたが、展示品のラベルには、1914年に移転し、ゲランが今もメゾンをかまえている、シャンゼリゼ通り68,Champs-Elyseesの住所がき記載されています。」

 次に、バカラの香水瓶から。バカラ社についてはパネルに次の説明文が展示されていた。

《Baccarat / バカラ社について》
 クリスタルガラスで知られるバカラ社は、1764年、ロレーヌ地方バカラ村に国王ルイ15世の勅許を得て設立されたガラス工場に端を発します。
 その後に起きた革命の動乱や経営者の交代を経ながら歴史を刻み、現在ではフランスの奢侈産業を代表するブランドの一つとして、世界中に販路を広げています。
 テーブルウエアや室内装飾品を主に生産していたバカラが、香水商の要請に応える形で小型香水瓶を手がけ始めたのは、1900年前後からになります。この背景には、19世紀に起きた香水史上の大変革がありました。一つは「合成香料」の開発、もう一つは香料の抽出法の革新であり、この結果、香水はこれまでになく豊かなヴァリエーションと生産量を獲得することになりました。フランスの香水産業は急速に拡大し、膨らんだ購買層は争って新しい香水を求めたのです。
 香水瓶はそれまでの簡素な容器から逸脱し、ラベルや外箱とともに、収められた香水のイメージを高める重要な小道具となりました。さまざまなメーカーがその需要に応じる中、裕福な顧客を抱えた香水商が求めた高品質の容器を製造できる企業の代表が、バカラだったのです。
 もともとバカラはテーブルウエアの一つとして、豪奢なデカンタ(酒類を小分けしておくための瓶)を製造しており、ここに用いられていた技術をそのまま香水瓶に転用することができたのでした。
 同社の工場における香水瓶の一日の生産量は、1897年には150個だったものが1907年には4000個となり、10年間の間に実に27倍近くに増加しています。
 その後バカラはさまざまな香水商やオートクチュールのメゾンと共に、歴史に残る香水瓶を次々に制作していくことになります。
 ここでは、バカラを中心に、20世紀初頭からアール・デコの時代を経て、1940年代に至るまでに制作された名作の数々を展示します。」

 バカラのコーナーでの最初の香水瓶は、香水商の要請に応えた最初のものと同型とされている作品。


1914-1917年 オリザ・ルイ・ルグラン社「CHYPRE MOUSSE(キプロス島の苔)」、「JASMIN D'ASIE(アジアのジャスミン)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)

 ここには、次のような説明文が見られる。

オリザ・ルイ・ルグラン社 「CHYPRE MOUSSE(キプロス島の苔)」、「JASMIN D’ASIE(アジアのジャスミン)」の香水瓶 1914-1917年 バカラ製 個人蔵
 「バカラが、香水商の要請に応えて制作した初めての香水瓶は、ORIZA L.LEGRAND(オリザ・ルイ・ルグラン)の「VIOLET(ヴィオラ)」のための瓶(1889年)とされています。本作はこれと同型の瓶で、「VIOLET(ヴィオラ)」には金彩によって香水名や写実的な蜜蜂がえがかれていましたが、ここでは緑、青、黒のエナメル彩で円形の文様が表現されています。リズム感のある装飾はいかにもモダンな雰囲気ですが、瓶自体のデザインは19世紀の簡素な様式をよく伝えています。」


c1907年 ウビガン社「LE PARFUM IDEAL(ル パルファム イデアル)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


左:1908年- ゲラン社「Cuir de Russie(ロシア皮)」の香水瓶
右:1911年 ゲラン社「L'HEURE BLEUE(ルール ブルー)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1911年 ヴィオレ社「VALREINE(蜜蜂の女王)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


左から:1921年 フォンタニス社「JASMIN FONTANIS(フォンタニスのジャスミン)」
1912年 ドルセー社「TOUJOURS FIDERE(いつも忠実)」
1913年 グルノーヴィル社「BLEUET(矢車菊)」
1912年 ドルセー社「LEURS AMES(彼らの魂)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


左:1919年 ウビガン社「SUBTILITE(シュブティリテ)」の香水瓶、バカラ製
右:1927年 ゲラン社「LiU(リュウ)」の香水瓶、ポシェ・エ・デュ・キュルバル製(2018.6.16 撮影)


左:1924年 ゲラン社「SHALIMAR(シャリマー)」
中:1925年 エドゥアード社「EGYPITIAN ALABASTRON(エジプトの香油壺)」
右:1921年 リュバン社「KISMET(運命)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1922年 ドルセー社「LE DANDY(ダンディー)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1922年 ドルセー社「LE DANDY(ダンディー)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1925年 キャロン社「NUIT DE NOEL(クリスマスの夜)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1925年 ウビガン社「LUXUARY FLACON(デラックス香水瓶)」(2018.6.16 撮影)


左:1913年 ドルセー社「LEURS CEURS(彼らの心)」
中:1929年 ガビラ社「LA VIERGE FOLLE(陽気な乙女)」
右:1925年 ピヴェール社「REVE D'OR(黄金の夢)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


c1930年 ウビガン社「Essence Rare(珍しいエッセンス)」のアトマイザー(2018.6.16 撮影)


左:1925年 リュバン社「L'OCEAN BLEU(ロセアン ブルー)」
右:1925-1934年 コルデー社「le lilas(ル・リラ)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1927年 ピヴェール社「ASTRIS(星)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1938年 エリザベス・アーデン社「CYCLAMEN(シクラメン)」の香水瓶(2018.6.16 撮影)


1949年 クリスチャン・ディオール社
左:「Miss Dior」、中:「Diorama」、右:「Diorama」の香水瓶(2018.6.16 撮影)

 この後、ルネ・ラリックの香水瓶の展示コーナーに続くが、次週に譲る。

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