軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

死ぬまでに学びたい5つの物理学

2023-02-17 00:00:00 | 
 もうだいぶ前のことになるが、職場の先輩であったHさんから、1冊の本が送られてきた。書名は「死ぬまでに学びたい5つの物理学」(山口栄一著 2014年 筑摩書房発行)というちょっと大層なタイトルの本である。
 
 Hさんは現役時代、本社の営業関連の部署に所属していたが、G大学・理学部物理学科の出身と聞いていたので、この本が送られてきたことに関しては、なるほど、しかしどうしてという感じがしたのであった。

 すぐにざっと目を通したが、細部までとなるとそんなに簡単に読めるものではなく、これまで長い間何度となく本棚と机の上を行ったり来たりしている。

 この本で採りあげている5つの物理学とは何かというと、①万有引力の法則、②統計力学、③エネルギー量子仮説、④相対性理論、⑤量子力学である。

 確かにこれらの学問はいずれも現代物理学の根幹をなすもので、それぞれ偉大な一人(下表で赤字で示す。量子力学だけは複数の名前が紹介されている。それ以外の黒字は関連する人物)の物理学者が大きな貢献をして発見されたものである。

 これらの発見者の名前は、万有引力と言えばアイザック・ニュートン(1642~1727)、統計力学はルートヴィッヒ・ボルツマン(1844~1906)、エネルギー量子仮説はマックス・プランク(1858~1947)、相対性理論はアルベルト・アインシュタイン(1879~1955)、量子力学の基になる物質波の概念はドゥ・ブロイ(1892~1987)である。

 ちなみに、ノーベル物理学賞の受賞について触れておくと、5人の内ニュートンは別にして、1901年からスタートしたノーベル賞を受賞したのはマックス・プランク(1918年、エネルギー量子の発見による物理学の進展への貢献 )、アルベルト・アインシュタイン(1921年、理論物理学に対する貢献、特に光電効果の法則の発見 )、ドゥ・ブロイ(1929年、電子の波動的特性の発見 )の3人である。1906年に没したルートヴィッヒ・ボルツマンはノーベル賞を受賞していない。
 尚、下表のエルヴィン・シュレーディンガーとヴェルナー・ハイゼンベルグのノーベル物理学賞の受賞年と受賞理由は、それぞれ「1933年、原子論の新しく有効な形式の発見」と「1932年、量子力学の創始ならびにその応用、特に同素異形の水素の発見 」であった。 


5つの物理学の発見に貢献した科学者とその生没年表(☆はノーベル賞受賞年)

  著者の山口栄一京都大学教授はこの本を出版した目的を序章の中で次のように記している。

 「本書の第一の目的は、『物理学の学び直し』です。今の教育制度では高校時代に文系に進んだ若者は、生涯二度と物理学に触れようとしないでしょう。そのために多くの人がこの宝物の価値を知らずにいます。だから大人になった後でも、科学、とくに相対性理論などの現代物理学を学んでみたいと思う人たちに、物理学への入門を果たす手伝いをしたい。・・・

 本書では5つの物理学を取り上げ、それがどのような環境と着想のもとに生れたか、それぞれの物理学はどんなふうに理解できるかを述べます。・・・ 

 なぜ科学は、15世紀までの最先進国である中国や、その知識を受け継いで独自な進化を遂げた日本で生まれなかったのでしょうか。あるいは化学の原初である錬金術を生み出し高度な物質技術を開発していたアラブ世界で生まれなかったのでしょうか。
 こうした疑問に対して腑に落ちる答えを得ることが、本書の第二の目的です。・・・」

 ここで述べられている第一の目的とは、5つの物理学そのものについてである。一方、第二の目的は著者独自の理論についてである。イノベーション・ダイヤグラムと著者が名付けた図を用いて「知の創造」に至る知的営みについて述べ、これにより5つの物理学が発見されたプロセスを検証している。

 このイノベーション・ダイヤグラムに関し、「ブレークスルーを成し遂げた物理学者たちの思考プロセスは人類にとっての宝物です。これを知らずに死ぬのはもったいない。・・・人類のもっとも美しい物語を知ることができる。・・・」と書かれている部分を読むと、この思考プロセスこそ著者が一番読者に訴えたかったことであり、本のタイトルもそのことを示していると思えるのである。 

 著者が挙げたこの2つの目的の他に、著者がもう一つ力を込めているのが「ゆるぎない軸」ということである。これについてはやはり序章で次のように述べられている。

 「ぼくは物理学に出会ったおかげで、どんな困難に出会っても、軸をぶらさずに生きてこられた。物理学は、ぼくの人格を強くしてくれた。・・・」

 これより少し前の部分で、スイスの物理学者ヴォルフガング・パウリの書いた『相対性理論』を読み、その数式を理解し、その美しさに感動した時に、「こんなに美しい世界があることを知った以上、自分はもう何があっても揺らぐことはない」と思ったとも述べている。著者19歳の時のことである。

 この、著者の経験を多くの学生に伝えたい、道に迷った若者たちが自分で困難に立ち向かっていける。・・・そういう物理学を教えたい・・・との思いで大学院で教えた講義をもとにしたものがこの本であるという。

 ところで、Hさんがこの本を私に送ってくれた理由は、今も謎のままである。Hさんは理学部・物理学科の出身、私は、物理系ではあるが、物性物理学科の出身であり、バックグラウンドはやや異なっている。それでもこの本が取り上げている5つの物理学は一通り学んできた。特に、統計力学と量子力学は岩波全書の著者である中村 伝教授と小谷正雄教授から直接教わっており、テキストでもあったその本は今も手元にある。

 
岩波全書「統計力学」(中村 伝著、1967年 岩波書店発行)のカバーケース表紙


岩波全書「量子力学Ⅰ」(小谷正雄著、1965年 岩波書店発行)の表紙

 この本の著者が記した第一の目的である「物理学の学び直し」はHさんにも私にもちょっと当てはまらないのではというのが、この本を手にしたときの最初の印象であったが、本文を読み進むうちにやや考えは変わっていった。

 著者は序章で次のようにも述べている。

 「これまでの物理学の教科書はすべて『物理学を利用する』ということを暗黙の前提として書かれています。だから教師は、物理学をあくまで『道具』として学ぶように指導してきました。
 たとえば、工学部の教育課程とその教科書には、最初の基礎科目に物理学が入っているけれども、一つ一つの理論に魂が込められていません。『道具』や『機械』なのだから単に覚えればよい。使えればよい。そんなふうな書き方がしてあります。
 じつは、理学部の物理学科でさえそうなのです。教師は、学生が将来、教師や企業の科学者・技術者になることを暗黙の前提にしています。だから、やっぱり物理学はここでも『道具』なのです。・・・」

 ここに述べられた意味では、Hさんも私も「道具」としての物理学を学んできたということになる。

 学生時代に受けた授業内容は、もう霞のかなたでよく覚えていないが、これら5人の科学者がどのようにして革新的なアイデアに到達したのかという、個人の内面にまで入り込んだ思考プロセスについては、確かに授業では触れられていなかったように思う。

 ただ、19世紀後半から20世紀前半のこの時代に、物理学が飛躍的に発展し、その成果が物性物理学にもおよび、磁性体や半導体の性質が深く理解されるようになっているのを生きいきと学ぶことができたと思っている。

 5つの物理学に戻ると、量子論・量子力学については、卒業後これを駆使した研究を行った同級生は、大学に残り学者としての道を選んだ人や、企業に就職して磁性体や半導体研究開発の分野に進んだ一部の人たちではないかと思うし、相対性理論になると、物性を考える際に僅かにその影響が出ているとされていたり、通信分野で利用されているといわれるが、使いこなした人はさらに数は減るのではないかと思う。

 そうした意味では、量子力学や相対性理論は「道具」としても使いこなすという機会もないままに今日に至っていることに気づき、この本を改めて読んでみようという気にさせられたのである。
 
 もう一つの目的である思考プロセスでいえば、イノベーション・ダイヤグラムはもちろん当時知られておらず、授業以外では武谷三男氏の著作を読み、三段階論を勉強したことを懐かしく思い出すというところにとどまる。

 さて、この本では文科系の読者にもわかるようにということで、数式を極力排して、5つの物理学の神髄ともいうべき部分を解説するとともに、3つの演習を行っている。なかなか興味深い内容なので、この演習について、項目だけを紹介しておくと次のようである。

1.万有引力の法則
  天才のインスピレーションを追体験する・・・として、ケプラーの第2法則を万有引力の法則
  から証明している。
2.統計力学
  世界の乱雑ぶりを弾きだす・・・として、「同じ量の80度の水と20度の水を接触させると、し
  まいには両方とも50度になってしまうけれども、50度の水から、80度の水と20度の水をつく
  ることはできない」のはなぜかについて、エントロピーを求め、これが熱平衡で最大になるこ
  とを示している。
3.相対性理論
  中学生の数式で相対性理論を導く・・・として、座標系の「相対性原理」と「光速度不変の原
  理」から相対性理論を導き、時間の進み方の変化や物体の長さの変化が導かれることを解説す
  る。

 著者が力説している自身の説、イノベーション・ダイヤグラムについては5つの物理学についての章の後に第6章を設けて詳述しており、ここで「演繹」、「帰納」、「創発」というプロセスを経て新たな知が創造されることを示している。また更に「回遊」というプロセスに触れて、山中伸弥博士(1962~)によるノーベル賞受賞研究であるiPS細胞の発見についても言及している。

 改めて、Hさんがこの本を私にプレゼントし、伝えたかったことは何だったのか。5つの物理学の学び直し・・・、5つの物理学がどのように発見されたかの個人の内面にまで入り込んだ科学史・・・、それとも新たな知が生み出されるプロセスを一般化したイノベーション・ダイヤグラムについてだろうか・・・結局のところこのどれでもないように思えてきた。

 今もなお書棚と手元の間を行ったり来たりしているこの本を通じて、Hさんが私に伝えたかったのは、十分消化しきれなかったところはあるけれども、「物理学を学生時代に学んでよかったね」、ということかもしれないと思うようになった。Hさん、ありがとう。

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合成生物学

2022-02-11 00:00:00 | 
 数年前に読売新聞の書評欄で見かけた「合成生物学の衝撃」(須田桃子著 2018年4月 文藝春秋発行)という本のことが気になっていたが、入手することなく時間が過ぎて行って、はやいものでもう4年近くになる。

 スクラップしてあったこの書評(評者 塚谷裕一・東大教授)を読み直してみると、次のようであり、最初にこの書評を読んだ時に受けた衝撃が蘇る。

 「合成生物学ということばをご存じの方は、まだ日本ではごくわずかだろう。生物学者であっても馴染みのある人は未だ多くない。
 しかし日常生活とは縁の遠い学問の話、と悠長に構えている暇は、実はない。
 すでにこの世界では、ヒトを、そのDNA配列から、それも一から『合成』し、組み立てようというプロジェクトが始まっているのだ。その当初のもくろみ通り、十年程度で実現するかどうかは、まだ分からない。
 しかし微生物レベルであれば、すでに人類は、そのDNA配列の設計から始めて一から合成することに成功している。・・・」


「合成生物学の衝撃」についての書評が掲載された読売新聞(2018.5.20付)

 この本のことを思い出したのは、「エントロピー」に関連する本をいくつか読んでいて、ポール・ナース博士の著書「生命とは何か」(竹内 薫訳 2021年ダイヤモンド社発行)に出会った時である。後半の章「世界を変える」の中に「合成生物学」のインパクトについての次の記述がある。

 「今後10年で、遺伝子工学的手法を利用する必要性がさらに出てくると私は思う。・・・
 遺伝子組み換えと合成生物学により、生命の輝きを再編成し、別の目的に向かわせることができる。・・・再設計された動植物や微生物を作り出して、そこからまったく新しいタイプの薬剤、燃料、生地、建築材料を生産しているわれわれの姿が目に浮かぶ。・・・」

 ここで博士は、ポジティブな捉え方を述べているのであるが、実際のところはどうだろうか。前述の書評との差も気になり、早速「合成生物学の衝撃」を注文したのであった。

「合成生物学の衝撃」(須田桃子著 2021年6月発行 文春文庫)のカバー表紙

 そうこうしているうちに注文してあった須田さんの本が届いた。2021年6月に文庫化された本の方を選択したが、これが幸いした。
 この文庫版には「文庫版あとがき」が追加されているので、先ずそこから見ておくが、2018年4月発行の単行本とこの文庫版との間の3年間に「ゲノム編集ベビー」の誕生と、「コロナワクチン」の開発というこの本の内容に関連した二つの大きな出来事が起き、そのことが採りあげられているのである。いずれも中国が関係している内容である。

 その一つは、2018年11月下旬、中国の研究者、南方科技大学(広東省深圳市)の賀建奎・副教授(当時)が、CRISPR(米国で開発された究極の遺伝子編集技術とされるもの)を使って遺伝子改変したヒト受精卵から双子を誕生させたという出来事である。

 技術が未成熟で国際的な議論が進まない中での暴挙に、世界中から非難の声が上がり、中国でも遺伝子操作した子供を出産させることを禁止する指針があることから、賀氏は大学を解雇され、2019年12月に懲役3年の実刑、罰金300万人民元(4,700万円相当)の判決を受けた。

 二つ目は、今も尚世界中を混乱に陥れているパンデミック(世界的大流行)を引き起こした新型コロナウィルス感染症(COVID-19)のワクチンの開発である。

 日本でも、最も新しいオミクロン株が第6波として現在も猛威を振るっていて、3回目のワクチン接種、いわゆるブースター接種が始っている。

 軽井沢でも「新型コロナワクチン3回目接種券」の送付がはじまり、1月31日から予約受付が開始された。昨年実施された中央公民館などでの集団接種時に使用されたワクチンは米ファイザー社製であったが、今回は日本でライセンス製造された、武田/モデルナ社製が先行接種される予定である。ファイザー社製のワクチンの集団接種については、少し遅れて2月22日に予約が開始され、3月16日から接種が始まる。

  さてこのワクチン、いくつかの治療薬と共に、COVID-19によるパンデミックのゲームチェンジャーとなっているが、通常、新規の感染症のワクチン開発には10年かかるとされる中で、1年未満というごく短期間のうちに実用化にたどりついた。

 2020年1月11日に中国の研究チームがウィルスのゲノム情報(塩基配列)を公表すると、その2日後にワクチンの設計を終え、3月16日には実際に被検者に投与する第1相臨床試験を開始するという驚異的な開発速度で一躍、世界の注目を浴びた企業がバイオベンチャーのモデルナ社であった。

 モデルナ社は今回のm-RNAワクチンを米国立衛生研究所(NIH)と共同開発しているとされるが、米国防高等研究計画局(DARPA)から出資を受けた企業であり、著書「合成生物学の衝撃」でも取り上げられていた。

 この二つの出来事はいわば、合成生物学に関連した光と影という事になるが、やはり気になるのは影の部分である。では、この著書に戻って、どのような衝撃的な内容が紹介されていたのかを見てみようと思う。

 その前に先ず、「合成生物学」とは何かについてウィキペディアの記述を見ると、次のようである。

 「合成生物学(ごうせいせいぶつがく、英語: synthetic biology)は、生物学と工学の学際的な分野である。構成的生物学や構成生物学とも呼ばれる。・・・
 合成生物学は、幅広い研究領域を統合して生命を全体的に理解しようとする学問であったが、科学と工学の融合が進むにつれ、新しい生命機能あるいは生命システムをデザインして組み立てる分野も含むようになっていった。生物を設計する、作成する、操作することで生命への理解を深めるアプローチや、有用物質を生産するキメラの作製も主要なテーマとなっている。」

 このように、合成生物学は事前に私が考えていたよりも広い範囲をカバーする学問として定義されていることが判る。今回の著書「合成生物学の衝撃」では、この中の「新しい生命機能あるいは生命システムをデザイン」する学問にフォーカスしていることになる。

 実際、この本の中で、須田氏のインタビューに答えて、クレイグ・ベンター博士(1946.10.14ー)はDNAを一から合成することを含むミニマル・セルプロジェクトの一連の研究を総称して、かなり広い意味を持つ「合成生物学」ではなく、その一部である「合成ゲノミクス」という言葉を使っているとして、彼の「我々の研究を『合成生物学』と呼ぶのは、東京に住んでいるのを『日本に住んでいる』というようなものだ。」という言葉を紹介している。

 こう話した「クレイグ・ベンター博士」と、博士たちの作った「ミニマル・セル」がこの本の主人公ともいえる。

 彼が主催する非営利の研究所「J・クレイグ・ベンター研究所」がミニマル・セル研究の本拠地とされるが、サンディエゴ市北部の地区ラホヤにあり、2006年に、それまであった5つの組織を統合してできたとされる。

 ここで、ベンター博士と共に、ハミルトン・スミス、クライド・ハッチンソン、ジョン・グラスの三人がミニマル・セルプロジェクトを主導しており、研究所は250人以上の研究者やスタッフを擁している。

 さて、ミニマル・セルとは何か。それは、生命の維持に欠かせない最小のゲノムを持つ人工遺伝子を持つ細胞のことで、遺伝子数は473個、塩基対で約53万とされる。

 ここで用いられた遺伝子は、酵母を利用して合成され、およそ100万塩基対のゲノムを持つマイコプラズマ・マイコイデスという細菌の遺伝子を入れ替える形で移植された。その研究過程で、不要な遺伝子をそぎ落とす作業をして、この数字にたどり着いたのである。着想を得てから20年目に成功したとされるもので、この研究成果は2016年3月、米サイエンス誌で発表された。[ Hutchison, C. A. III et al. Science351, aad6253 (2016). ]

 遺伝子を入れ替えた細胞は生きていて、増殖をすることが確かめられた。その様子は次の「J・クレイグ・ベンター研究所」のウェブサイトの動画で見ることができる。

 各遺伝子の持つ機能や役割を追求すること、そして細胞の生命維持に必要な最小限の遺伝子を見いだし、それを人工的に合成し、既存の天然の細胞に移植し、その細胞が生き続けることを確認した偉業であるが、考えてみると、人工と言えるのは遺伝子であり、細胞そのものを作ったわけではない。

 いわば、少しばかり居心地の悪い貝殻に引っ越したヤドカリのようなものである。ところが、これから先が違っている。移植された遺伝子は、自らの設計図に基づいて新たな細胞を作りはじめる。
 DNAの指令に基づき、すべてのタンパク質、細胞質から細胞膜までが入れ替わり、分裂を繰り返すうちに、元の細胞の特徴はすっかり失われ、理論的には30回の分裂を繰り返した細菌には、元の細胞に由来する分子はたった一つしか含まれていないのだと、同研究所のハッチンソン博士は説明しているという。

 最小の細菌を構成する原子数はおよそ10億個とされている。30回の分裂を起こすと1個の細胞は2の30乗個、すなわち10億個に増えるので、こうした説明がなされるのだろう。最初の細胞に含まれていた原子が分裂を繰り返すごとに1/2ずつ次の細胞に受け継がれていくとしての計算である。

 この技術の先に何が待ち受けているのか。細胞の生命維持に必要な最小限の遺伝子が突き止められたとしているが、重要なことはコンピュータ上で設計したDNAが生命の基本的な働きである細胞分裂を起こし、自己を複製したことである。そしてもう一つは、人工合成したDNAを、まるごと細胞に移す技術が確立されたことである。

 さて、このベンター博士たちの挑戦とは別に「ヒトゲノム合成計画」のことが本では紹介されている。

 2017年5月に「ゲノム合成計画」のキックオフがニューヨークで開かれたが、これはその前にあった「ヒトゲノム合成計画」の名前を変えたものであった。

 「ヒトゲノム合成計画」はその1年前の2016年6月に米国などの研究者25名が米科学誌「サイエンス」に構想を発表していた。発起人の一人、フューチャリスト(未来学者)のアンドリュー・ハッセルに須田氏はインタビューを試みている。
 この計画の概要は、ヒトゲノムを含む医療や農業分野で役立つさまざまな生物のゲノムの合成を目指す過程で、DNAを合成したり、できたDNAの機能をテストしたりする費用を現在の1000分の1にするというものであった。

 この発表は、メディアが取り上げ、米国内では大きな反響を巻き起こしたが、報道の多くは批判的なトーンだったという。

 この構想を作り上げた会議自体が秘密会議であった事、そして内容では、やはり人工的なヒトゲノムを作ること自体がはらむ倫理的、宗教的な問題がその批判の的であった。

 多くの議論を経て、「ヒトゲノム合成計画」のリーダーたちは、計画のタイトルから「ヒト」を外し、「ゲノム合成計画」としたのであったが、合成ゲノムを持つヒト細胞の作製は、重要なコアの活動として残し、倫理的な課題について議論を重ねていくとされた。

 2017年5月に開催されたキックオフ会合には、日本を含む10か国から約250人が参加している。以前とは異なり、事前に登録して参加費を払いさえすれば誰でも参加できる”オープンな”会議であったという。

 会議ではすでに選ばれていたものを含め、最初の5年間で取り組むパイロット・プロジェクトとして14件の研究課題が出そろい、日本からは唯一東京工業大学の相澤康則准教授が提案した課題が含まれている。

 本の著者須田氏はここで次のように述べている。

 「この計画を取材中、私はある人物の”不在”がずっと気にかかっていた。かつてのヒトゲノム解読計画で公的研究チームと競い、実質的な勝利を収めたクレイグ・ベンターその人である。その後の合成生物学へと向かう研究の潮流でも常に第一人者として走り続け、合成ゲノムで働く細胞を世界に先駆けて作製した。彼こそ、地球上で最もヒトゲノムの合成に近いところにいるのではないだろうか。・・・」

 そのベンター博士に須田氏はインタビューをするが、その際、彼は次のように語ったという。
 「ヒトゲノムの合成は現実的なプロジェクトではない。なぜなら、それについて話している人々は、私達の研究所がやったような、小さな細胞を作る能力すら持ち合わせていないからだ。もし小さな細胞を作ることができないとしたら、どうやってその数百万倍も複雑な細胞を作ろうというのだろう? 10年以内に成し遂げるなど、絶対に不可能だと確信している」

 この部分を読むと、複雑な思いにとらわれる。20年間の苦労を重ね、ようやくミニマル・セルにたどり着いたことを考えると、ベンター博士の云う通りかもしれない。しかし、技術は日々進歩しており、計画は遅れることになるかもしれないが、そして研究チームとベンター博士のどちらが先行するかは判らないが、いずれこのプロジェクトが目指す技術が出来上がることだろう。
 
 著者の須田氏はそうした未来を想像して、取材をしていた。人類が得た究極のテクノロジーの一つ、原子の核に迫る技術は核兵器を生み出した。今進んでいる細胞の核に迫る技術を進めていくと、人工生命の次には人工人間を生み出す技術なっていくことになる。
 
 核兵器の製造と使用を人類が止めることができなかったように、人工人間の製造に人類が手をつけることもまた止めることができないのではという懸念が著者の須田氏にはあるし、そしてもちろん多くの人にもある。

 こうしたことを踏まえて、この本の第四章では旧ソ連のシベリアの生物兵器研究所で、約50人を擁する研究部門の部門長だった微生物学者、セルゲイ・ポポフ氏とのインタビュー内容を紹介している。氏はソ連崩壊後に米国に渡り、現在はバージニア州にあるジョージ・メイソン大学・システム生物学スクールの教授を務める。

 ポポフ氏だけではなく、1989年以降、西側諸国に亡命した複数の科学者らが、手記などを発表して告発をしているという。それによると、1973年にはある大型プロジェクトが始まったとされる。
 
 二つあるというこのプロジェクトの目的は、従来の生物兵器を近代化することと、遺伝子操作を行って抗生物質やワクチンにも耐えうる病原体を作り出すことであった。
 こうした研究には多数のDNA断片を合成する手法を学ぶことが必要であり、ポポフ氏はそのために英国に留学し、ケンブリッジ大学に半年滞在し、自動合成装置を使ってどのようにオリゴヌクレオチド(ごく短いDNA断片)を合成するかを学んでいる。帰国後、彼は1981年、シベリアにあった研究所で約50人を擁する研究部門の部門長になる。研究計画の目的は、新たな症状、誤診断を促す症状、治療や検知が難しいといった高い病原性をもつ人工ウイルス作製である。

 米国の諜報機関は、ソ連が生物兵器研究に携わっていないと信じていたが、ソ連は米国が生物兵器を製造していると信じていたという、ある種の相互不信が背景にあった。

 研究は成果をあげ、ラットやモルモットを使った動物実に成功し、後は霊長類であるサルで効果を試す最終実験をするばかりになっていたが、1992年5月のソ連崩壊ですべての研究が中断された。

 ポポフ氏は、その後英国に渡り、次いで米国に移り、ここで2000年になって自身の経験を周囲の専門家に語り、米国の複数の記者から取材を受けている。旧ソ連の科学者たちの中には、米国以外の国に亡命した者もいる。ポポフ氏によると、旧ソ連の研究で培われた知識が、それらの国々に拡散したと確信しているという。

 1999年に首相に就任したウラジミール・プーチン現大統領は、旧ソ連で行われた研究はすべて防衛目的であり、生物兵器禁止条約に違反する内容ではなかったとの公式見解を出している。

 科学者のあくなき探究心は多くの光を我々人類に与えてくれているが、そのもたらす影の部分について制御する力を科学者と政治家が持ち合わせているかどうか、問われるのはこれからだが、どのような未来が我々を待ち受けているのか。見たいようであり、恐ろしくもある。



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巨樹

2020-10-02 00:00:00 | 
 私が購読している新聞の文化欄には、毎週日曜日に書評が掲載されるが、9月13日の”本 よみうり堂”には「九州・沖縄の巨樹(写真集)」(榊晃弘著)が紹介されていて、「福岡市在住の80代半ばの写真家は、100本の名木を訪ね歩き、仰ぎ拝むように撮っている。・・・」と評されている。

 温暖な九州・沖縄は巨樹、中でも常緑高木、クスの宝庫だという。写真集にはこのほかスダジイ、スギ、イチョウ、ケヤキ、ヒガンザクラ、イチイ・・・などが紹介されている。

 今回の著者・榊氏に限らず、巨樹・巨木に魅せられる人は多いようで、全国を巡ってのスケッチ集や写真集などもこれまでにいくつも出版されている。

 私の手元にある「新 日本名木100選」(読売新聞社編 1990年発行)には北海道から沖縄までの各県の名木が選ばれているが、その大半は樹齢500年以上で、巨樹の仲間とも言えるだろう。

 この本に採り上げられた100本の名木の選定過程が「まえがき」に紹介されていて、それによると、まず新聞読者を対象に、日本各地で親しまれている木や由緒ある木の投票・推薦をしてもらったところ、全国から1万6188件の応募があったという。
 その中から、各都道府県ごとに10本の木を選び、合計470本の中から100本を選出したとされる。選出に際しては、各都道府県から(少なくとも)1本ずつ選ぶということで全委員の意見が一致したという。

 こうして選ばれた全国各地の100本の名木の他に、「選に落ちた木がもったいない」という声が多くあったので、更に「親しまれている木の部」、「イチョウ」、「マツ」、「サクラ」、「スギ」の5部門を設けて、それぞれ各10本計50本を追加して発表している。

 名木として選ばれた100本の樹齢分布をみると次図のようであり、樹齢500年を超える木が74%である。尚、樹齢100年以下と3001年以上にそれぞれ1本ずつが選ばれているが、3001年以上の1本は、ご存じの屋久島の縄文杉で樹齢は7200年である(出版当時、現在では諸説あるが3000年以上とされている)。

                樹齢(年)
「日本名木100選」に取り上げられている樹の樹齢分布(作成筆者)

 手元にあるもう一冊の本、「巨樹に会いにゆく」(2005年 学習研究社発行)には文字通り国内の巨樹が紹介されているが、採り上げられている59本のうち、前出の「日本の名木100選」と重複するものは10本と意外に少なく、対象を広げて各県ごとに10本づつ選ばれた計470本を見比べても、7本増えて合計17本であった。名木と巨樹では選定の基準も異なっているのであろうが、日本には巨樹・巨木とされるものが実にたくさん存在していることの証ともいえるようである。

 環境省では昭和63年(1988年)から巨樹・巨木林調査を実施しているが、それによると、初回に全国から55,798本の巨樹が報告されている。

 最近の環境省のHPには、全国最大級の巨木上位10位と、全国の樹種別巨木総数が、次の表のように纏められている。大きさの点ではクスノキが目立つ結果であるが、分布がどうしても温暖な地域に偏るので、全国的にみると数の多さではスギの数が断然多くなっている。

全国の巨木上位10位(環境省HPを参考に作成)

全国の樹種別巨木総数(環境省HPを参考に作成)

 樹齢では最長の屋久島の縄文杉であるが、意外にも幹周は1610cmであり、20位程度になるので、ここには登場しない。

 ちなみに、樹齢およそ3000年と縄文杉に並ぶ長寿の巨樹が3本知られているが、それらは次のとおりである。

*黄金水松(イチイ)樹齢3000年、幹周620cm 北海道芦別市
*杉の大杉(スギ)樹齢3000年、幹周1500cm(2本計2560cm) 高知県長岡郡
*川古のクス(クスノキ)樹齢3000年、幹周2100cm 佐賀県武雄市 

 私自身はというと、若いころから大きな樹木には多少の関心はあったものの、就職して長く神奈川県に住んでいた間は、特に名木・巨木に関心を持つこともなかったと思う。しかしその後、広島県三次市に転勤が決まった時に、どういう加減か先に紹介した本「日本名木100選」を買っている。

 三次に住むようになってから、月に1‐2度の週末は神奈川の自宅に戻っていたが、それ以外の休日には中国地方5県をドライブして過ごした。そのコースに、時には意識して「日本名木100選」に紹介されている名木を取り入れ、現地では写真撮影もしていた。

 今、その頃のアルバムを見かえしていると、少しづつ当時見た名木のことが思い出される。

 本などに紹介されている名木は山野および寺社にあることが多いが、中には個人の住居の庭に植えられているものもあって、ことわって見せていただいたこともあった。御調郡久井町吉田の「吉田のギンモクセイ」と「オガタマノキ」を見に出かけた時には、撮影を終えてお礼を言おうと住まいの方に行って声をかけると、「ご苦労様」といってコーヒーをごちそうになったこともあった。

 きちんと整理していなかったので、撮影時期の情報は正確ではないが、いずれも1993年から94年にかけての撮影である。アルバムから探し出したプリントには次のようなものがあった。結構あちらこちらに出かけていた。一覧表と共にご覧いただく。


撮影した巨樹・名木リスト


現地の説明板(1993-94年 撮影) 

下蚊屋(さがりかや)のミョウジンサクラ(鳥取県 幹周590cm/樹齢300年)

極楽寺のシダレザクラ(鳥取県 幹周260cm/樹齢170年)

伯耆の大シイ(鳥取県 幹周1140cm/樹齢1000年)

醍醐サクラ(岡山県 幹周920cm/樹齢700年)

菩提寺のイチョウ(岡山県 幹周1100cm/樹齢800年)

正伝寺のクロガネモチ(広島県 幹周340cm/樹齢350年)

唯称庵のカエデ林(広島県 幹周330cm/樹齢200年)

熊野神社のシラカシ(広島県 幹周480cm/樹齢400年)

小奴可の要害サクラ(広島県 幹周570cm/樹齢260年)

灰塚のナラガシワ(広島県 幹周351cm/樹齢300年)

吉田のギンモクセイ(広島県 幹周319cm/樹齢400年)

莇原(あぞうばら)のオガタマノキ(広島県 幹周200cm/樹齢300年)

大願寺の九本マツ(広島県 幹周360cm/樹齢120年)

熊野の大トチ(広島県 幹周1114cm/樹齢300年)


熊野神社の巨スギ群(広島県 幹周400cm/樹齢1000年)

徳佐八幡宮シダレザクラ(山口県 幹周データなし/樹齢195年) 

 今回30年近く前に撮影した中国地方の名木・巨木のことを改めてみることになったが、さてではこれから再び巨樹を求めて撮影に行ったものかどうか。

 日本には多くの魅力的な樹木がある。樹種別にみると次のようなデータもあり、長野県の樹も4本入っている。





樹種別の巨樹ランキング上位3位(環境省HPを参考に作成)

 冒頭紹介した写真家・榊晃弘氏が80代半ばであることを考えれば、私にはまだ時間はある気がするが。。。




 

 

  

 


 



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フーコーの振り子

2020-03-06 00:00:00 | 
 「ナガサキアゲハとトランプ大統領」というタイトルで5回にわたり記事を書いたが、その最終回でフーコーの振り子について触れた。地球が自転していることを、判りやすく実証した実験のことで、自転運動する物体上で、長い弦をもつ周期の長い振り子を長時間振動させると、次第に振動面が変化することが観察できるというもので、1851年、フランスのレオン・フーコー(1819-1868)が考案し、パリの天文台で初の、これに続いてパンテオンでも2度目の公開実験が行われたのであった。


レオン・フーコー(作画:妻)

 このフーコーについては、「フーコーの振り子」(アミール・D・アクゼル著、水谷 淳/訳 2005年 早川書房発行)という本があることを知った。後日読んでみたがとても面白い。私が「ナガサキアゲハとトランプ大統領」でフーコーの振り子について触れたのは、これが長い間の論争であった、「天動説」と「地動説」に見事に終止符をうったからであり、現代の地球温暖化論議と重なってみえたからである。

 この本では、フーコーのこの発明と共に、彼の才能を見抜いて重用したナポレオン3世や、彼を助けた科学者アラゴー、フーコーを取り巻く科学者・数学者とのかかわりなど当時のフランス社会が描かれている。

 ご存知の方が多いと思うが、フーコーの振り子について再度写真を示しておくと、次のようである。驚くほど単純なものであるが、これが地球が自転していること、すなわち地動説を人々に知らしめ、何世紀にもわたる執拗な懐疑論や科学と宗教との論争に終止符を打ったということに改めて感銘を覚えるのである。次の写真のフーコーの振り子のワイヤー長は7mあり、その上部を撮影することはできなかったが、おもりとその下に描かれた方位を示す図形が確認できる。


大阪大学理学部に設置されているフーコーの振り子(ワイヤー長7m、おもり重量32kg、2019.11.13 撮影)

 フーコーはパリで行った2つの公開実験により一躍一般大衆にも業績が認められた。そして1851年3月31日には《ジュールナル・デ・デバ》紙の第三面(彼が担当していた紙面)に長大な論文が掲載された。その一部は次のようである。

 「地球の運動はゆっくりであるため、それを取り扱うには工夫を凝らした方法を用いなければならない。そこで地球自体に注目する前にまず、自由に動かすことのできるテーブルのそばに座り、その上に鉛の球をワイヤーで吊るして作った小さな振り子を置いたとしてみよう。実験を行う部屋が宇宙で、テーブルが地球を表わす。振り子は支柱から吊るされ、円盤の上を動く。円盤上にその中心を通る線を何本か引き、それらの交点を静止時の振り子の位置と合わせる。振り子と支柱と円盤を一つの装置と見なし、それをテーブルの中央に置く。そして、円盤に引かれたどれか一本の線の方向に沿って球を離す。すると何が起こるだろうか? もっとも単純かつ当たり前のことが起こる。振り子が手から離れると、円盤の中心に向かって出発し勢いでそれを通り過ぎ、そして戻ってくる。行ったり来たりを繰り返し、最後は円盤の中心で静止する。その振動面は、最初に振り子を合わせた線の方向のままで一定だ。この運動をテーブルの外側、たとえば部屋の壁を基準とした座標系で観察しても、同じ結果が得られる。しかしもし、振り子が運動しているあいだに、テーブルを振動しないよう静かに回転させると、テーブルと振り子の振動面との関係はどうなるだろうか? この実験を行ったことのない人は、この質問にどう答えるだろうか? 一見したところ、振動面はテーブルと一緒に回転し、振り子は円盤上の同じ線の上を揺れ動きつづけると思われたのではないだろうか? それは全くの間違いである! 実際にはそれとまったく逆のことが起こるのだ。振り子の振動面は実在の物体ではない。それは支柱にもテーブルにも、そして円盤にも属していない。空間、いわゆる絶対空間に属しているのだ。(本「フーコーの振り子」から引用)」

 これを、実際に行うと次のようになる。テーブルは小さなターンテーブルになっているが、起きていることは全く同じである。

 
フーコーが論文で示した振り子の実験を再現した様子(2020.1.30 撮影)

 フーコーが論文で示した振り子と円盤を用いた思考実験は実際に北極点で起きるものであるが、フーコーが実験を行ったパリでは事情が異なる。本「フーコーの振り子」には次のような図が示されていて、北極点でフーコーの振り子を運動させると、振り子の振動面は24時間で1周し、赤道上の振り子の振動面は、地球の自転に伴って振動することはないことが示されている。


右図:北極点に置かれた振り子の振動面は、24時間で1周する。
左図:赤道上の振り子の振動面は、地球の自転に伴って変化することはない。
 
 では、パリに設置された振り子の振動面はどのような動きをするか。フーコーは振り子の実験をするに際して、これについても答えを用意して臨んでいた。パリの緯度θ(度)に対して、振り子の振動面の回転角が1日あたり360 x sinθ(度)になるというものであった。いいかえれば、北極点や南極点では、振り子の振動面が1周するのに24時間かかり、赤道上では、振り子の振動面は全く移動しないが、中間の地点では、1周にかかる時間は24時間を緯度のサインで割った値に等しくなるというものである。これは今日フーコーの正弦則として知られているもので、次の式で表される。もし仮に、フーコーがこの式を示すことができず、振り子の回転角が24時間で360度に達していなかった時のことを想像すると、この式を提示したことがいかに重要であったかが理解される。

       T=24/sin( θ )

 ここでTは1周するのにかかる時間、sinは三角関数の一つであるサイン関数、そしてθは緯度である。したがって、北緯48度51分に位置するパリでは、振り子の振動面が出発点に戻るまでに32時間弱かかる。
 
 フーコーは、この振り子を製作するにあたって、注意深く実験の準備を進めた。最初は自宅地下室で実験を行ったが、その時からワイヤーや金属裁断機、計測道具、秤を駆使した。そしてついに、長さ2mの鋼鉄製ワイヤーの一端を地下室の天井に固定し、しかもねじれることなくそれが自由に回転できるように工夫した。ワイヤーのもう一方の端には、重さ5kgの真鍮製のおもりが取り付けられた。こうしてフーコーは、天井から吊り下げられ自由に揺れ動く振り子を完成させた。この振り子は彼の目の前でゆっくりと揺れ動き、おもりの揺れ動く面(振動面)は徐々にだがはっきりと目に見える変化を起こした。

 パリ天文台長で科学アカデミーの終身書記、そして国民議会の重要人物である老人アラゴー(1786-1853)はフーコーの才能をよく理解していた。彼はフーコーの振り子を天文台で公開することを喜んで許可し、天文台で最も広く最も天井が高く、そして最も有名な部屋、メリディアン・ホールがフーコーに提供された。


フランソワ・アラゴー(作画:妻)

 フーコーは自宅地下室から、ワイヤーにねじれを与えることなく、振り子をどんな方向にでも揺り動かせるように自前で考案した精密装置を、パリ天文台に運んだ。メディリアン・ホールの天井は彼の地下室よりはるかに高かったため、今度は11mの長さの振り子を使うことを検討した。

 フーコーは、今度は探しうる限りの最高の職人、ポール・ギュスターヴ・フロマンを自腹で雇った。完璧な振り子を用意し、それをぴったり垂直に吊り下げ、そしてその自然な運動が人の手によって攪乱されることのないよう、極めて注意深く揺り動かし始めることが肝心だった。フロマンはこれを完璧にこなし、今日でも人々を驚かせるほどの、完璧なおもりを作成した。実際の実験ではフロマンは、振り子を壁に固定している毛糸を焼き切ることで、人の手による攪乱なしに振動を開始させた。

 実験は成功し、振り子はゆっくりとその振動方向を変化させた。招待されていた科学者は、自分たちが何を目撃しているのかをただちに理解したとされる。さらに居合わせた観客が中でも数学者が驚いたことに、この時フーコーは前出のとおり「正弦則」の公式を発表している。この公式はそう簡単にわかるものではなく、その証明も簡単なことではないからであった。当日発表されたフーコーの論文には次のように記述されている。

 「振り子に関して従来取り上げられてきた膨大な数の重要な観察結果は、その大半が振動の持続時間に関するものだった。ここで私がアカデミーの注目を喚起するために発表するのは、おもに振動面の方向に関するものである。振動面は東から西へとゆっくり移動し、これは地球が日周運動していることを示す知覚可能な証拠となる。この解釈が正しいことを証明する前に、まず地球の運動について概説し、そして最も単純な場合として観測者を極点に立たせたと仮定しよう・・・」

 当時のアカデミーメンバーたちはみなフーコーの偉業に面目をつぶされたと感じたのであった。地球の自転を振り子によって驚くほど単純に証明しただけでなく、その振り子の振動面の移動速度を記述する法則を導いたことでショックを受けたのであった。

 当時のアカデミーには今日知られている多くの数学者がいた。しかし、ラプラス、ガウス、ポワソン、オイラー、ラグランジュなどの結果を引用してもフーコーの導いた法則を証明するには至らなかったという。

 パリ天文台での公開実験の翌月、今度は1848年にフランス共和国大統領に選出されたルイ=ナポレオンの命により、フーコーはパンテオンで2回目の公開実験を行うことになり、新たな振り子を再びフロマンを雇って作製した。振り子のおもりは真鍮で作られ、重さは28㎏、ワイヤーの長さは67mにもなった。

 1851年3月27日に行われた公開実験もまた成功裏に終了し、後日ルイ=ナポレオン・ボナパルトは、フランスの英雄に与えられる最高の栄誉、レジオン・ドヌール勲位をフーコーに授けている。

 この2回の実験のことが伝わると、ただちに世界各地で同様の実験が行われている。1か月余り後の5月8日には、パリ北東のランスの大聖堂でA.M.モームネが長さ40mの鋼鉄製のピアノ線を使って重さ19㎏のおもりを吊り下げて実験を行ったのをはじめ、年内にリオデジャネイロ、オックスフォード大学、ジュネーヴ、ダブリン、ロンドン、ニューヨーク、コロンボ、ヴァチカンで実験が行われた。これらをまとめると次のようである。最後に示した1902年のフラマリオンによるパンテオンでの実験は、フーコーの実験を記念して半世紀前と同様の公開形式で行われた。使用した振り子は1851年にモームネがランスで使用したものであった。


フーコーによる3回の振り子実験条件とこれに続いて行われた実験

 現在、世界各地の博物館や大学など、実に多くの場所にこのフーコーの振り子が設置されている。その状況はウィキペディア「フーコーの振り子のある施設の一覧」で見ることができる。

 ところで、地動説をみごとに証明して見せたフーコーの振り子であるが、フーコーのいた時代までの地球科学の状況はどうであったのか、紀元前のピロラオスに遡って見ておこうと思う。次の表は「天動説」、「地動説」に関連して本「フーコーの振り子」に登場する哲学者・科学者・数学者を生年順に記したものである。


本「フーコーの振り子」に登場する哲学者・科学者・数学者

 1600年2月19日、イタリア人修道士で教師でもあったジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)は、宗教裁判の結果、ローマ中心部のフィオーリ広場で生きながら火刑に処された。罪状の一つは、地球が自転していることを信じたことだった。


ジョルダーノ・ブルーノ(作画:妻)

 その少し後の1616年と1636年には、イタリアの天文学者ガリレオ=ガリレイ(1564-1642)がローマで同じ宗教裁判にかけられた。木星の衛星を発見し、土星の輪を見つけ、物理世界に関する多くの事柄を解き明かした偉大な科学者は、拷問され屈辱を受けて訴追人たちの前に跪かされ、地球が自転しているという信念を撤回させられた。このように改心する以外に、ジョルダーノ・ブルーノと同様の痛ましい死から逃れ、死刑を無期限の自宅軟禁へと減刑してもらう術はなかったのである。しかし彼は、この試練によって精神と健康を病み、その数年後に亡くなった。


ガリレオ=ガリレイ(作画:妻)

 この宗教裁判の時代よりはるか以前に遡ると、ギリシャ人哲学者、クロトナのピロラオス(前470-前385)が紀元前四世紀中ごろに著した『天空の書』には、次のように記されているという。
 「・・・相対する意見の代表が、ピタゴラス学派と呼ばれるイタリア人の学派の考えである。彼ら曰く、中心を占めるのは太陽であり、地球は移動する星の一つにすぎない。そして、地球が自らの中心を軸に回転することによって、昼と夜が作り出される。彼らはまた、われわれの地球の反対側にもう一つの地球があると考えており、彼らはそれを反地球と呼んでいる。・・・」

 ピロラオスより少し後に生まれたプラトン(前427-前347)とアリストテレス(前384-前322)は、地球は不動であり、星や惑星がちりばめられた天空が太陽や月とともに地球の周囲を回転している、という信念を持ち続けた。


アリストテレス(作画:妻)

 このアリストテレスの理論は、その500年後にエジプトのアレクサンドリアで予期せぬほどの支持者を獲得し、古代世界で最も偉大な天文学者クラウジウス・プトレマイオス(83-168)の心を掴んだ。プトレマイオスは、当時得られていたあらゆる天文学的知識を収集し、それを『アルマゲスト』という一冊の本として出版した。この本に記された宇宙のモデルは、すべての恒星を含む天球を表す円、惑星や月の周転円、そして太陽の軌道を表す円から構成されている。そしてモデル全体の中心には、静止した地球が位置している。こうしてプトレマイオスはその数学的才能を駆使し、地球が宇宙の中心だということを人々に信じ込ませつつ、天体の見かけの動きをすべて説明するという偉業を成し遂げた。


クラウジウス・プトレマイオス(作画:妻)

 教会は、自然界の完全性を説いたアリストテレスの考えを教え、教会による聖書の記述の解釈と一致するプトレマイオスの宇宙モデルを引き合いに出して、それを正当化した。そして教会は、16世紀から17世紀にかけて登場したニコラウス・コペルニクス(1473-1543)の宇宙観を糾弾する際にも、プトレマイオスの理論を利用したのだった。

 プトレマイオスの『アルマゲスト』を入念に勉強していたコペルニクスは、そこにいくつかの間違いがあることを発見した。彼は『天体の回転について』という天文学の本を書いて、その中で地球ではなく太陽が太陽系の中心にあるという説を展開した。太陽を中心に、太陽から見て水星、金星、地球、火星、木星、土星という順序も正しく記述していた。コペルニクスは宗教裁判を免れた。『天体の回転について』は、彼が亡くなった1543年に出版されたからである。


ニコラウス・コペルニクス(作画:妻)

 コペルニクスの死後、科学者は『天体の回転について』を読み、コペルニクスの理論を研究し、教会の不服をよそに、この新理論に合致する見解と研究結果を発表しようとした。そうした中、デンマーク人天文学者ティコ・ブラーエ(1546-1601)はデンマーク王から賜った島に作った天文台で膨大な量の天文観測データを収集した。その中にはごく稀な天文現象である超新星の観察も含まれる。しかし、ブラーエには宗教裁判に立ち向かう覚悟はなく、彼は一連の見事な観測データをもとに、地球が宇宙の中心に静止しているというモデルを導いた。ブラーエによる太陽系モデルは、太陽と月が地球の周りを回り、当時知られていた五つの惑星は太陽の周りを回るというものだった。


ティコ・ブラーエ(作画:妻)

 ブラーエの下で助手として働いていたドイツ人ヨハネス・ケプラー(1571-1630)はブラーエの死後その天文学者としての地位を引き継ぎ、その後何年にもわたりブラーエのデータを解析した。こうしてケプラーは今日でも利用されているケプラーの法則を見いだす。また、ケプラーはコペルニクスの宇宙観の正しさを信じていた。


ヨハネス・ケプラー(作画:妻)

 フランス人数学者で物理学者でも哲学者でもあったルネ・デカルト(1596-1650)は、教会がコペルニクスの説を猛烈に拒絶したことに当惑していた。デカルトの考え出した物理理論は、太陽系内の全天体が太陽の周りを回っているという信念と密接に関連していた。彼は、教会の教義に真っ向から相反する自説を持ったかどで迫害されることを恐れた。デカルトが、彼の味方と考えたカトリックの司祭であったマラン・メルセンヌに、1634年2月末に次の手紙を送っている。


ルネ・デカルト(作画:妻)

 「・・・もちろんあなたは、ガリレオが宗教裁判で有罪となったのがそんなに昔のことではなく、地球は動いているという彼の説が異端として非難されたことはご存知でしょう。ここで言いたいことは、ガリレオと同様の地動説に関して私が本に記したすべての事柄は、どれもお互いに密接に結びついており、しかもいくつかの明白な事実に基づいているということです。それでも私には、教会の権威に立ち向かうつもりは微塵もありません。・・・私は平和に生活したいし、歩みはじめた道をこれからも進んでいきたいのです。・・・」

 イングランド生まれのアイザック・ニュートン(1642-1727)が「私がより遠くを見通せるのは、巨人たちの肩に乗っているからだ」という有名な言葉を発した際に、彼が巨人として思い浮かべていたのは、デカルト、ケプラー、ガリレオだったとされる。彼は微積分法を開発し、それを用いて万有引力の法則と運動の法則を導いた。彼は自らの導いた法則をもとに、地球が自転しながら太陽の周りを公転していることを確信した。自然界を驚くほどよく理解していたニュートンは、落下する物体はこのために予想地点よりも東にそれるはずだという結論に達した。彼はこの現象を次のように説明した。


アイザック・ニュートン(作画:妻)

 「塔のてっぺんに立つ人物が球を持っている。地球の自転のために、塔のてっぺんは地球の中心の周りを回転運動している。そしてその速さは塔のふもとの地点より大きい。なぜなら、塔のふもとは地球の中心により近く、そして地球の中心は地球が自転してもまったく動かないからだ。塔のてっぺんにいる人が球を手から話すと、球は地球に向かって落下しはじめる。塔のてっぺんで獲得していた水平方向の速さは、球の落下中も一定に保たれたままだ。したがって、球は塔のふもとよりも大きく東に移動する。このために、球は塔のふもとよりも東の地点に落下するというわけである。」

 何人もの科学者がニュートンの死後もこの実験に取り組んだ。しかし、実験の結果球は真下より東ではなく南東に外れて落下した。このため、これらの実験結果が決定的な地球自転の証拠だと見なされることはなかった。この理論からのずれについて相談を受けたのが、当時弱冠25歳だった有名な数学者カール・フリードリッヒ・ガウス(1777-1855)やフランス人数学者のピエール=シモン・ド・ラプラス(1749-1827)である。二人はそれぞれ独立に、地球が地軸を中心に自転していることを証明する目的で、物体落下の理論を構築し、これらの実験結果について研究した。ガウスもラプラスも、予測される実験結果をいくら計算しても南側へのずれを導くことはできなかった。


カール・フリードリッヒ・ガウス(作画:妻)

 長年にわたり行われた実験でも、結果は決して明確なものではなく、理論通り東側にずれたと確実に結論することは誰にもできず、科学は地球の自転を証明することができなかった。ヨーロッパ内外の多くの知識人は、地球は地軸を中心に自転しながら太陽の周りを公転していると信じていたが、それでも世間は、地上でははっきりとわかる証拠を求めていた。

 ポワソン(1781-1840)は落下実験だけではなく振り子にも言及している。その中で彼は「振り子の振動面に作用するこの力は非常に小さいため、知覚できるほどに振り子を移動させ、その運動に検出可能な影響を与えることはできない」と述べている。

 コペルニクスの宇宙観、ケプラーの惑星運動の法則、ガリレオによる木星の衛星の発見、ニュートンによる数学と科学に関する重要な研究、地動説に一致する数々の天文観測結果、そしてあらゆる科学の進歩にもかかわらず、1851年の時点では、地球の自転を地上ではっきりと証明することは不可能だった。そこにフーコーの振り子が登場したのであった。

 ニュートンはじめガウス、ラプラスやポワソンが予測した落下する物体に働く力、これは今日「コリオリ力」として知られるものであるが、ガスパール=ギュスターヴ・コリオリ(1792-1843)が、回転運動をする系に影響を及ぼす奇妙な物理現象を発表したのは1835年のことであった。フーコーが実験を行った時には、コリオリはすでに亡くなっていた。


ガスパール=ギュスターヴ・コリオリ(作画:妻)

 フーコー自身、あるいは当時フーコーの実験を数学的に解釈しようとした科学者たちはコリオリの研究を用いて振り子実験を説明しようとしなかったのかという疑問が残る。実際にはフーコーは、振り子実験の中でコリオリについては一切言及していないとされる。コリオリの研究については何も知らなかったようである。

 コリオリ力は、北半球における台風やハリケーンや竜巻の回転方向が一つに決まっている原因であり、南半球ではそれは逆になる。コリオリ効果はわずかなものであるが、現実に存在する。砲術技師たちは、北向きに発射した砲弾は東にそれ、南向きに発射した砲弾は目標より西にずれることを知っていた。

 しかしフーコーは、自らの振り子の運動を説明する上で、コリオリ力も運動方程式も、そして数学者たちの厳密な幾何学理論も必要としなかった。フーコーはまったく独自の巧妙な方法を使っていたそうである。

 フーコーは振り子の実験の後、早くも地球の自転の次なる証明に取り組んだ。パンテオンでの振り子実験と同じ年の1851年、彼はジャイロスコープの発明という偉業を成し遂げた(筆者注:これには異説がある)。彼は、多くの人びとが振り子実験の複雑さを理解できないと気付いていた。正弦則を理解することが困難であることも一因であった。そこで考案したのが、小さな真鍮製のトーラス(ドーナツ型の物体)の中心に金属製の円盤を取り付け、そこに棒を通したものだった。このジャイロスコープは、地球の自転を証明するもう一つの証拠となり得たが、装置が小さいものであり、長時間の駆動が困難であったため、微小な時間的変化を記録するには顕微鏡が必要であった。そのため演示実験としては振り子よりも効果に劣り、印象も薄いものであった。

 この後、フランスではフランス人の生活を一変させ、世界中に影響を及ぼす出来事、ルイ=ナポレオン・ボナパルト(1808-1873)によるクーデターが起きた。1851年12月2日のことである。


ルイ=ナポレオン・ボナパルト(作画:妻)

 皇帝となり、ナポレオン三世を名乗るようになったルイ=ナポレオンは、アム監獄時代に科学を独学で学んでいた。やはり独学のレオン・フーコーに自分の姿を重ね合わせた彼はフーコーに、他の科学者には望むべくもない便宜を図り、パリ帝国天文台付き物理学者に任命した。

 この職位でフーコーはもう一度地球の自転を証明する実験の機会を与えられた。1855年、パリで開催された第1回万国博覧会である。この時フーコーは鉄製のおもりを用いた。そして、展示会に訪れた人々のために新たな振り子に、途切れることなしに一定に揺れ動かす画期的な発明品、電磁石駆動を取り付けた。振り子のおもりが降下している時だけ電磁石から力を与えるもので、この電磁石は振り子の振動面の回転方向に追随できるように工夫されていた。

 フーコーの物語の最後の所で登場する人物は、エルンスト・マッハ(1838-1916)、アルバート・アインシュタイン(1879-1955)である。本「フーコーの振り子」にはその登場の理由を説明しているが、これについては、この物語に興味を持たれた方自ら読んでいただくのがよいと思う。


エルンスト・マッハ(作画:妻)


アルバート・アインシュタイン(作画:妻)

 パリのヴォージラール通りとダサス通りの角に立つフーコーの生家の3階と4階部分の外壁には2枚のレリーフがあり、左には振り子が、右にはフーコーの略歴が描かれているという。また、彼の名は偉大なフランス市民たちの名前とともにエッフェル塔の鉄骨に刻まれ、彼の像は、現在はパリ市庁舎の入り口に飾られている。そして、望遠鏡で月を眺めると、雨の海の北西、北緯50度西経40度の地点に直径22kmのクレーターが見つかる。このクレーターの名は、レオン・フーコーである。

 レオン・フーコーにこの機会を与えたフランソワ・アラゴー、彼の名前を見たければ、パリ中に埋められている、135個の「Arago」と刻まれた直径約15cmの真鍮製のメダルを探せばよい。これはパリ天文台の南北に延びる子午線上に埋められているという。ヒントは「リュクサンブール庭園、ルーヴル美術館、パレ・ロワイアル、歩道のカフェ、セーヌ川沿いの波止場」と本の著者が明かしている。

 最後に、ここで紹介した本の表紙を次に示す。


「フーコーの振り子」(2005年 早川書房発行)の表紙
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松本清張「熱い絹」

2020-02-28 00:00:00 | 
 昨年から地域の区会の役を引き受けている。この地区では厳冬期以外の4月から11月まで月に1回早朝の街路清掃を自主的に行っている。やはり、観光地ということでそうした観光客への気配りがあるからなのだが、その早朝清掃で近隣のKさんから次期の区の役を引き受けてもらえないだろうかと打診があった。リタイア後は、地元のこうした仕事を積極的に引き受けなければ、との思いがあったので、勧められるままに役員を引き受けることにした。

 毎月1回区の役員会があって、これに出席することになったが、ここで同じく役員をしているYさんと時々私的な話をする機会があり、ある時「蝶」の話になったところ、Yさんからそれなら面白い本があると紹介されたのが、松本清張の「熱い絹」であった。

 Yさんによれば、この小説には軽井沢と蝶の両方が出て来るので、きっと私が興味を持つだろうと思うということであった。Yさんが持っているので貸していただけるのだが、蝶関連ということで、手元に置いてもいいと考え、早速上下2巻のこの本を買い求めて読んだ。舞台は東京、軽井沢に始まり、そしてマレーシアのカメロンハイランドへとその中心が移っていく。

 確かに熱帯のマレーシア産の蝶の標本も登場し、重要な役割を演じている。更に面白いことに、東京の骨董店も登場する。そしてこの骨董商の店主は夏には軽井沢にも店を出すという設定になっていた。Yさんは私がアンティーク・ガラスショップを開いていることを知っているので、この事もYさんが本書を紹介しようと思った理由の一つかもしれない。

 物語は1967年7月のある夕方、東京の赤坂見附にある骨董店「瑠古堂」に服飾デザイナーの山形佐一が入るところから始まる。外から見える陳列窓に置かれた女人像に眼をひかれたからであった。その像は、タテ六十センチ、ヨコ四十センチくらいの大きさで、ヨコが欠げて砂岩の粗い断面がむき出しになっているものであった。女人像は四人の女が横一列に並び、腕を組むようにしてうずくまっている。頭上にもりあがった結髪は両端が少女のようなお下げになって、ゆたかな頬の横に垂れている。額がひろく、眼はまるく、鼻はいくらか扁平で、唇は情熱的に大きい。クメール彫刻の特徴だった。

 日陰のようなこんな路地中に骨董店があることじたいが思いがけないことであったが、この陳列物はもっと意外であり、高樹町にならぶ大きな古美術店でもついぞ見かけたことがない古美術であった。店には若い女性店員と、奥から出てきた主人がいた。主人の話では、この陳列物のリリーフは戦前にある会社のシンガポール支店長をしていたことのあるコレクターの遺族から買ったもので、カンボジアあたりからの出土品ということであった。非売品であるが、「できるだけ多くの方に見ていただきたい」ということで陳列窓に出していたという。

 この瑠古堂は7月末に東京の店を閉めて、夏の間1か月ほどは旧軽井沢の商店通りに小さな店を借りてここに引っ越している。瑠古堂が夏の間軽井沢に移動していることを偶然知った山形はここを訪れる。しかし、店にはクメール美術の浮彫りはなく、店主も不在で地元の佐久に住むアルバイトの青年高橋不二夫が店番をしていた。彼によると主人の名前は広沢(久太郎)だという。

 同じころ、中軽井沢の貸し別荘の寝室内でアメリカ人女性の他殺死体が見つかる。名前はフランシス・ウィルバーといい、45歳の独身。住まいは東京目黒区の青葉マンションで、夏の間は軽井沢で愛犬2匹と共に過ごしていた。出身はコロラド州のデンバー。牛乳配達員が、昨日配達した牛乳瓶がそのままになっているのを不審に思い軽井沢警察署に通報をし、刑事課の村田と谷山の二人が現場に来て、別荘内に入り死体を発見した。

 被害者がアメリカ人ということもあり、長野県警刑事部から即刻捜査係が数人応援に来て、軽井沢署に「合同捜査本部」が設置された。合同捜査本部長には、県警刑事部からきたメンバーの中の長谷部忠雄捜査一課長が就いた。

 ミス・ウィルバーはガウン姿でうつ伏せに倒れていて、頸動脈を絞められており背後から扼殺されたものと思われた。死亡日時は、十日午後七時から十一時と推定され、死後まる二日間が経過している。室内を見ても、ミス・ウィルバーには、とくに特徴ある趣味はないようであったが、好みとしては、カーテンやテーブルクロスでも、パジャマでもガウンでも、みんな光沢の強い絹布や絹織物を使っていた。また、寝室の壁には蝶の標本入りの額を掲げていた。

 蝶の標本を見ると「緑色に黒い鋸歯紋のある翅、緑に黒のじぐざぐの縁どりのついた翅、黄色に茶の模様が地図のようについている翅、紅葉のように赤い翅、刺繍のような艶ある緑の翅、焦茶にうすい茶色の点をつけた翅、全体の白色に黒褐色の斑を散らした翅など十三の蝶が翅をひろげ、ならんでいた。」

 同種のものが二つあったり三つあったりするが、標本の下には蝶の学名らしい名が手書きで書かれていて、次のようであった。

〇 Trogonoptera brookiana albescens.
〇 Graphium Sarpedon luctatius.
〇 Cepora judith Malaya.
〇 Appias nero figutina.
〇 Cyrestis nivea nivalis.
〇 Parnassius jacquemonti west Pamir.
〇 Austrozephyrus absolon Malayicus Pendlebury.

 後日、被害者の身元確認のために急遽香港から呼ばれた被害者の妹アン・バートン夫人によると、これらの絹製品や蝶の標本は、タイのバンコクにいる彼女らの兄ジェームス・ウィルバーが送ったものであるという。その兄は現在出張中でフランシスの遺体との対面のため来日できないとアンは長谷部に告げたが、後に現地の知人からの連絡で、実はジェームス・ウィルバー氏がマレーシアの保養地カメロンハイランドに出かけ、七月十六日の午後三時ごろ、単独で散歩に出かけたまま行方不明になっていることを長谷部は知る。

 その後捜査は難航していたが、長谷部は八月三十一日付の長野県で発行されている新聞の朝刊の第一面に五段抜きで、《長野県の青年、マレーシアで殺さる 熱帯蝶採集の旅に参加して》という記事を見つける。記事は次のようであった。

 「マレーシアのカメロンハイランドに二十七日から来ていた『マレーシアの蝶の旅』の参加者二十一名の内、長野県佐久郡字古坂田、農業高橋市太郎さんの二男不二夫さん」(二十七)は、二十九日午後、蝶の採集中に行方不明となったので、引率者がカメロンハイランドのタナー・ラタの警察隊に届け出て捜索方を依頼した。同隊で捜索隊を出して行方をさがし求めたところ、午後六時半ごろ、カメロンハイランドの東北方のブリンチャン山(6666フィート)の山腹東側の密林中に高橋さんが惨殺死体となっているのを発見した。・・・」

 この事件を受けて、マレーシア政府から、ICPOの条項によって、長野県警に捜査員を至急派遣するように要請があった。長野県警を指名したのは、この高橋不二夫氏が長野県佐久市の青年だというだけではなく、軽井沢の別荘で起ったアメリカ婦人フランシス・ウィルバー殺人事件の捜査状況を知りたいという事情があった。現地では兄ジェームス・ウィルバー氏の失踪に関して、誘拐説と事故説の両面から捜索が続けられていたのである。

 こうして、話の舞台はマレーシアのカメロンハイランドに飛ぶ。現地には、長谷部たち警察関係者だけではなく、骨董店の女性従業員下沢ヒロ子や店主広沢久太郎、さらにこの骨董店を訪れた山形佐一もまたそれぞれの事情でカメロンハイランドに集まってくる。下沢ヒロ子には舞踊団の団員三笠月子、店主にはこの舞踊団の透視術師小川華洋という、それぞれもう一つの顔があった。山形佐一は新しいデザインを求め民族美術に関心を持ち現地を訪れていた。

 ここで更に骨董店の店主の広沢久太郎、そして日本人の舞踊団団長の川口義夫が殺されるという事件が起きる。またジェームズ・ウィルバーがすでに殺害されていることが判り、妹フランシス・ウィルバー殺害との関連やその殺害動機、さらに佐久市の青年高橋不二夫、広沢久太郎と川口義夫の死の真相が、クメール彫刻の盗掘という問題と関連して明らかにされていくという上下2巻の長編小説であった。


マレーシアの地図(「熱い絹」より)


カメロンハイランドの地図(「熱い絹」より)

 小説の内容の紹介はここまでにしておこうと思う。

 ところで、随所にマレーシアの蝶が登場するが、どのような種なのか、見ておく。

 上で学名を挙げた蝶の日本名は、小説の中でも明らかにされているが、それぞれ次のとおりである。

1.〇 Trogonoptera brookiana albescens. (和名)アカエリトリバネアゲハ=アゲハチョウ科
2.〇 Graphium Sarpedon luctatius. (和名)アオスジアゲハ=アゲハチョウ科
3.〇 Cepora judith Malaya. (和名)キタシロチョウ=シロチョウ科
4.〇 Appias nero figutina. (和名)ベニシロチョウ=ベニシロチョウ科
5.〇 Cyrestis nivea nivalis. (和名)シロイシガケチョウ=タテハチョウ科
6.〇 Parnassius jacquemonti west Pamir. (和名)ジャクエモンアゲハ=アゲハチョウ科
7.〇 Austrozephyrus absolon Malayicus Pendlebury. (和名)ネッタイミドリシジミ=シジミチョウ科

 この中で1.のアカエリトリバネアゲハの属するアカエリトリバネアゲハ属は、マレー半島、インドネシアのボルネオ島、スマトラ島に産する。各種ごとの分布は局所的であり、ニューギニアでは峰ごとに、インドネシアでは島ごとに産する種が異なる。また、近縁のトリバネアゲハ属も含め、どの種も例外なく大型のチョウであり、世界最大とされるアレキサンドラトリバネアゲハ Ornithoptera alexandraeになると胴長が最大 76mm 、開翅長は 280mm にもなる(ウィキペディア)。そして、アカエリトリバネアゲハの学名(Trogonoptera brookiana albescens)は19世紀のサラワク王国初代白人藩王(ラージャ)だったジェームズ・ブルック卿(Sir James Brooke, 1803年4月29日 - 1868年7月11日)に献名されたものとされる。

 今世紀に入って、原産国の近代化に伴う急速な開発で生息地である熱帯雨林が破壊され、個体数が激減しているという。現在、アレキサンドラトリバネアゲハを除く全種が ワシントン条約 附属書IIに記載されている危急種もしくは希少種に認定され、アレキサンドラトリバネアゲハはさらに厳しい附属書Iに記載されており、ワシントン条約加盟各国間での商取引は規制されている。

 ところが、我が家にも以前昆虫展などで買い求めた、海外産の蝶の額入り標本が3点あって、そのうちの1種は偶然「アカエリトリバネアゲハ」である。添付されているラベルを見ると、その採集地は「Cameron Highland W-Malay Pen. , MALAYSIA」とある。小説の舞台となっていたカメロンハイランド産であった。


「アカエリトリバネアゲハ」の標本(2020.2.9 撮影)

 ワシントン条約のことが気になったが、標本の裏側を見ると、次のように記されていて、正規の手続きを経て日本に来たものということであった。

 「ワシントン条約に抵触する蝶について:本種は絶滅が予想される野生動植物を保護する目的から、商用の目的での輸出入を禁止すべく国際間での取決めが行われている蝶ですが、個人の調査研究用に正規の手続きを経て日本に持ち込まれたものです。」

 2.のアオスジアゲハは日本でも普通に見られる種と近縁で日本産は次の写真のようである。


日本産アオスジアゲハ(2016.9.30 静岡県登呂遺跡で撮影)

 3.のキタシロチョウ、4.のベニシロチョウは日本には似た種がいない。

 5.のシロイシガケチョウは日本産のイシガケチョウによく似ていて次の様である。


日本産イシガケチョウ(2019.1.11 ぐんま昆虫の森で撮影)

 6.のジャクエモンアゲハは日本産では北海道でしか見ることのできないウスバキチョウが一番近いと思われる。軽井沢周辺で見られる近縁種はウスバアゲハであるが、こちらは翅に赤い斑点がない。


日本産ウスバアゲハ(2017.6.17 軽井沢で撮影)

 また、7.のネッタイミドリシジミは小説の中でも「カメロンハイランドにだけ生息している幻のゼフィルス」として表現されているが、実際ウィキペディアで探してもその写真はとても少なく、実際の姿がよくわからないという状況である。こちらは容易に標本にお目に掛かれるものではなさそうである。義父のコレクションから、よく似た日本産のミドリシジミの標本写真を次に示す。


自宅の日本産ミドリシジミ標本

 私は特に松本清張のファンではないが、小説も多少読んでいるし、松本清張原作の映画も見ている。その範囲で言えば、海外を舞台にした作品はなかった。詳しく調べたわけではないが、その点では本作品は珍しいものと言えるようである。この「熱い絹」は実際に起きたジム・トンプソン失踪事件を下敷きに、著者が組み立てたミステリー長編とされるが、このジム・トンプソン失踪事件の概略は次の様である。

 「1967年3月26日に、休暇で訪れていたマレーシアの高級別荘地、キャメロン・ハイランドにあるシンガポール人の友人の別荘「ムーンライト・コテージ」で忽然と姿を消し、マレーシア軍や警察、現地の住人などのべ数百名を動員した大規模な捜索活動にも拘らず、その姿は二度と発見されることはなかった。
 失踪当時、トンプソンは自らの名を冠したタイ・シルク製品生産、販売の成功によりアジアをはじめ、アメリカやヨーロッパでも有名になっていただけでなく、失踪当時ベトナム戦争が激化しており、それに伴い東南アジアでも諜報活動が盛んになっていた上に、トンプソン自身が以前諜報機関に所属し、失踪当時もアメリカなどの諜報関係者と接触を持っていたこと、政変が繰り返されていたタイの政府上層部や反政府指導者に知人が多かったことなどから、身代金目的の営利誘拐から諜報活動がらみの誘拐と暗殺、単なるジャングルでの遭難から地元住民による殺害まで、さまざまな失踪理由が取りざたされたものの、現在に至るまでその行方も生死も謎のままである。(ウィキペディアより)」

 「熱い絹」は劇場での映画化はされていないが、TVドラマとして放送された。この作品はDVDとしても発売されている。 


TVドラマ「熱い絹」のDVD版

 この時のキャストは次の通りであった。

長谷部忠雄 - 渡瀬恒彦
村田五郎 - でんでん
山形佐一 - 村上弘明
下沢ヒロ子 - 鈴木京香
広沢久太郎 - 長門裕之
高橋不二夫 - 佐伯太輔
川口団長 - 伊藤敏八
ジェームス・ウィルバー - ケント・ギルバート

 最後に「熱い絹」上下2巻の表紙を示す。



「熱い絹」(1985年 講談社発行)の表紙(上下)
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