軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

数あそび

2019-04-26 00:00:00 | 日記
 昨年からガラスショップをオープンして、日々仕入れ・売上げ・在庫の管理と数字との格闘が続いていて、3月には青色申告と確定申告をしなければならず、慣れないことに大いに悩まされたが、今はそれも済んでほっと一息という状態である。ただ、もともと数字を眺めたり扱うことは嫌いではなくむしろ好きな方なので、こうした作業を楽しんでいるというところもある。

 小学生のころ、親から「学習百科」という名前だったと思うが、主要教科に関するあれこれが書かれた分厚い本を買ってもらって隅から隅まで熱心に読んだ記憶がある。その中の算数の部分に、自然数、素数といった言葉のほかに、2、3、4、5、などの数で割り切れる大きな自然数の見分け方といったことや、魔方陣の作り方が解説されていて興味深く読んだ。3で割り切れる数、すなわち3の倍数の見分け方は、もちろんご存知の方も多いことと思うが、各桁の数字を加えてその合計が3の倍数になれば、元の大きな数も3で割り切れるというものであり、子ども心にとても感心した。たとえば、

 12345という数はは各桁の合計が1+2+3+4+5=15で3の倍数なので、12345÷3=4115と割り切れるが、23456の場合は、2+3+4+5+6=20なので、23456÷3=7818・・・2と割り切れず、3の倍数ではないといったぐあいである。

 もう一つの、魔方陣というのは3x3、4x4,5x5・・・のマス目にそれぞれ1~9、1~16、1~25・・・までのすべての数字を入れて、タテ・ヨコ対角の数字の合計がどこも同じ値になるように配置したもので、自分で考えて作ろうとすると、なかなかむつかしいのだが、本に書かれている方法だと3x3や5x5などの奇数x奇数のマス目の場合は簡単に作れてしまうので大いに感心したのであった。

 奇数x奇数のマス目の魔方陣の作り方については、ご存知の方も多いと思うが、次のように書かれていたことを覚えている。解法は、すべて共通しているが、3x3のマス目の場合で言うと、次の図の右側のように、中央の行と列をひとマスだけ外にはみ出させてできるひし形のマス目に、一番上から左下(右下でもいいが)に向かって1から順に3まで数字を置いてゆき、4は1の右下(左下)に置いてまた同じように6までを置く、7から9までも同様にしてマス目を埋め終わったら、外にはみ出している数字を、3x3のマス目内に戻す作業をする。その時のルールは矢印で示したように上下左右に移動させるが、一番遠い位置に戻すのである。

 5x5のマス目の場合でも、ルールは全く同様なので確認していただければと思う。ただし、はみ出させるマス目の数は変化する。


3X3マス目の魔方陣の答え(左)と作り方(右)、タテ・ヨコ対角の数字の合計はすべて15になる


5X5マス目の魔方陣の答えの1例(左)と作り方(右)、タテ・ヨコ対角の数字の合計はすべて65になる

 3x3のマス目の魔方陣は上下・左右の対称的配置は除くと、答は上記の配列だけである。一方、5x5のマス目の魔方陣については答は非常に多く、2億7530万5224通りあるとされている。上記解法で得られるものは、その1例に過ぎない。

 4x4のマス目の魔方陣についての解法は出ていなかったように思うが、正確な記述についてはもう忘れてしまった。この4x4のマス目の魔方陣の答えは880通りあるとされているが、答えの一例は次のようなものである。


4X4マス目の魔方陣の答えの1例、タテ・ヨコ対角の数字の合計はすべて34になる

 7x7のマス目の場合の解法も基本的に同じであるが。外にはみ出ている数字を戻す場合に、一番遠い位置という考えはできなくなるので、下図のように同じ色で示した2つの数字はそのまま一緒に同じ色の場所へ上下左右に移動させることで成立する。


7X7のマス目の魔方陣の答えの1例(左)と作り方(右)、タテ・ヨコ対角の数字の合計はすべて175になる

 魔方陣に関する情報を検索していくと、更に大きなマス目の魔方陣や複雑なものも見られるが、この話題はこれくらいにしておく。

 上記のマス目の問題は、自然数nの2乗に関する話ということもできるのであるが、これについてもう一つ興味深い話題がある。これは、知人の書いた「Why? 数の不思議あそび」(北川恵司著 2007年サイエンステイスト発行)で紹介されているものであるが、自然数nの2乗の数が見せるちょっと不思議な話題である。

 10の2乗=100、11の2乗=121、12の2乗=144 といっても何の不思議もないが、これらの右辺の合計を見ると、100+121+144=365となり、どこかで見た数字になる。そう、1年の日数と一致している。話はこれだけで終わらない、続く13の2乗=169、14の2乗=196を見ると、169+196=365と再び365が登場する。これは何故か。もちろん数字の世界と、地球が太陽の周りを公転する周期と自転周期の比である1年の日数との間に関係などあるはずもなく、偶然の一致ということになろうが、数字の世界と自然界のもつ数値との関係を感じさせるということでちょっとした不思議である。

 話は少し飛ぶが、数字と自然・宇宙との間にはなにか特別な関係が存在しているのではないだろうかという問題を考えた数学者は数多くいて、その究極が今からちょうど160年前に提出され、未だに解かれていないという数学史上最大の難問「リーマン予想」ということになる。

 昨年2018年9月に、1859年に提出されたこのリーマン予想の証明が行われたとの報道がなされたが、数学の証明が正式に認められるまでには、2年間をかけての検証が必要とされているから、現時点ではまだ何とも言えない。

 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10・・・と続く自然数。その中には素数が含まれている。素数という数は1またはそれ自身以外に約数を持たない自然数ということになるが、2,3,5,7,11,13,17・・・という小学校で学ぶ数列である。この素数の謎を解明しようとした何人もの天才数学者の取り組みの中から生まれてきたのが、この「リーマン予想」だったということもできる。

 もうずいぶん前にNHKのTV番組で素数問題に取り組む数学者をとりあげたことがあった。とても興味深い内容であったので、今もその放送を録画したディスクを大切に持っている。放送は2回、別々の番組として行われたが、内容はほぼ同じであった。探し出してみると「魔性の難問~リーマン予想・天才たちの戦い~」、「素数の魔力に囚われた人々~リーマン予想・天才たちの150年の闘い」というタイトルでそれぞれ、2009.11.15日と2009.11.21日に放送されたものの録画であった。

 この放送はご覧になった方もおられることと思うが、次のような内容であった(今はYouTube で見ることができる)。

 2,3,5,7,11,13,17・・と無限に続く素数には一見何の規則もなくランダムに出現しているように思える。素数であることを確認しながら、ずっと自然数を追っていくと次々と素数が見つかる場所があるかと思うと、しばらくは全く素数が現れない場所もあって、規則性などまったくないように思える。

 しかし、この素数にはなにか宇宙の秘密が隠されているのではと直感的に感じた数学者もいて、根気よく素数を調べていった。その一人が、1700年代のスイス人の天才数学者・天文学者と言われているオイラー(1707.4.15~1783.9.18)であった。

 彼は素数だけを用いた次のような数式(オイラー積)を考えてみた。するとその結果は収束して円周率π(パイ)の2乗を6で割った数字になることを見出した。このことからやはり素数にはなにか大自然とのつながりのある秘密が隠されているのではないかとの確信を深めていったが、当時はそれ以上進むことはなかった。


オイラーの肖像(ウィキペディアから)

 次に番組で紹介されているのは、やはり天才数学者・天文学者・物理学者といわれたドイツ人ガウス(1777.4.30~1855.2.23)である。彼は15歳の頃、毎日1000個の自然数を検証することを自らに課し、その中にいくつの素数が含まれているかを数えたとされているが、その結果300万までの自然数のなかの素数を確認したとされている。


ガウスの肖像(ウィキペディアから)

 一方、彼が素数の秘密に迫るために採ったアプローチは、自然対数表を用いるもので、見つかった素数Pをその素数の自然対数で割り答えQを求め、これをPが何番目の素数であるかを示すRと比較していった。素数Pが小さい間はQとRは一致せず、例えば素数9227に対するQ=1010、R=1144という具合であったが、次第に大きい素数になっていくにしたがって、素数262069の場合には、Q=21005、R=22992と、次第に両者の誤差が小さくなり、最終的にはQ=Rに収束するという発見をする。

 このことは、素数が自然対数の底であるe(ネイピア数、=2.7182818284・・・)という、自然界でπ(パイ)と並んで最も重要な定数と関係していることが示された。

 ガウスから約50年後に登場するのが、リーマン予想を提出したドイツ人の数学者リーマン(1826.9.17~1866.7.20)その人である。彼はオイラーやガウスの採ったアプローチに不満があったとされ、もっと数学的に厳密な方法で素数の並びに意味があるかどうかを調べようとして、オイラーが用いた式を少し変えた式リーマンゼータ関数というものを考案した。次のようなものである。


リーマンゼータ関数

 この関数がゼロになる点、すなわち「ゼロ点」を先ず4つほど求めてみたところ、予想外の結果が得られた。4個のゼロ点は一直線上に並んでいた。


リーマンの肖像(ウィキペディアから)

 TV放送では特に触れられていなかったが、この関数の変数は複素数で、ゼータ関数がゼロになる位置=ゼロ点は複素平面上の直線上に並んでいるということになる。

 この結果を見て、リーマンはこのあと何人もの天才数学者の人生を翻弄することになる「リーマン予想」を提出することになる。それは次のようである。

 リーマン予想:「ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上に並ぶはずだ」

 ここで、非自明という言葉が使われているのは、自明なゼロ点というものも存在するからであるが、ここではこれ以上は触れない。

 リーマンは、このリーマンゼータ関数のゼロ点という概念を素数の問題に取り込むことによって、「素数の並びには意味があるか」という漠然とした問題を素数だけからなる「ゼータ関数のゼロ点は直線上にだけ現れるか」という数学的な問題に置き換えることに成功した。

 番組ではこのあと1950年代に、リーマン予想を証明しようと取り組んだ天才数学者を紹介していくが、かれらは次々と挫折し、その人生を狂わせていく。この挑戦者とは次のような人々である。

・ゴッドフレイ・ハーディー(1877.2.7~1947.12.1 英国・数学者)
・ジョン・リトルウッド(1885.6.9~1977.9.6 英国・数学者)
・ジョン・ナッシュ(1928.6.13~2015.5.23 アメリカ・数学者)
・アラン・チューリング(1912.6.23~1954.6.7 英国・数学者、論理学者、暗号解読者、コンピュータ学者)

 3人目のジョン・ナッシュ博士は、1994年のノーベル経済学賞を受賞しているが、リーマン予想に取り組む中で、精神を病んでいく物語は、「ビューティフル・マインド」という映画に描かれたという。後年、ナッシュ博士は「数学的に考えるということは、心の内面に向き合うことであり、ある時には論理的にあるときは非論理的に考える必要があり、そうして心を病んでいった。」と振り返っている。

 リーマン予想に取り組んだ数学者の多くは、自らも素数と自然界のつながりを信じ、これを証明しようとした。しかし、4人目の第二次大戦中にナチスドイツのエニグマ暗号を解読したことで知られるチューリング博士の場合は違っていた。彼は、素数の並びに意味があるとは信じておらず、ゼータ関数の4個のゼロ点が乗っている直線上以外の場所にあるセロ点をコンピュータを駆使してしらみつぶしに探していった。しかし、3カ月かけて1000個以上のゼロ点を見つけたものの、これらはすべて直線上にあり、直線の周辺にはまったく見つからなかった。さらにその後、チューリング博士は謎の死を遂げるという不幸に見舞われる。

 仮に1個でも直線から外れた場所にゼロ点を見つけることができれば、リーマン予想はその意味を一気に失うことになったのであるが・・・。

 このように不幸な出来事が続いた結果、リーマン予想に取り組むこと、あるいは取り組んでいるということを知られることは数学会のタブーのようになっていく。

 放送で、その挑戦者の最後の一人として紹介されているのが、すでに数学の分野で多くの業績を挙げてきているフランス人数学者のルイ・ド・ブランジェ博士(放送当時77歳、1932.8.21~)であった。博士もまた素数と自然界との間の強い関係を信じ、独自の見解を持ち、素数を研究していた。それは素数は原子や素粒子などのミクロの世界とつながっているはずだというものであった。


ド・ブランジェ博士(ウィキペディアから)

 この素数とミクロの世界とのつながりは、その後劇的なかたちで展開を見せる。舞台はヨーロッパからアメリカに飛ぶが、プリンストン高等研究所のお茶の時間に数学者ヒュー・モンゴメリ博士(ミシガン大学教授)と理論物理学者・宇宙物理学者フリーマン・ダイソン博士(プリンストン高等研究所名誉教授)が出会い、お互いの研究テーマを紹介しあったところ、それぞれの分野で取り組んでいる内容を数式化したものがぴったりと一致することが判った。

 すなわち、ヒュー・モンゴメリ博士が示したものはリーマン以後数多く見出されてきている、ゼータ関数のゼロ点の間隔を数式化したものであり、フリーマン・ダイソン博士が示したものは元素ウラン(U)の原子核の飛び飛びのエネルギー状態の間隔を示すものであった。このことが公表され、これまで疑問視されていた、素数と自然界の関係性についての関心が一気に高まり、1996年年にはアメリカ・シアトルで第1回世界リーマン予想会議が開催されるに至った。

 ド・ブランジェ博士の抱いていた素数とミクロ世界にはつながりがあるという考え方の正しさが証明された形になった。ただ、リーマン予想そのものはまだ解決していない。

 番組では、ド・ブランジェ博士はこれまでに3度リーマン予想を証明したと発表したものの、これらはその後証明が不完全であることがわかり、オオカミ少年になっていると紹介しているが、博士は全くこれを気にしている様子はなく、4度目の挑戦をしている姿を映している。

 ある日の二人だけの食事の時に、博士が夫人に「(君は)いつだって疑うんだ・・・」とつぶやき、夫人が「時には信じているけど・・・」、「分からないわ・・・」と答える場面を紹介している。私はこの場面がとても好きだ。こうした家庭内のやりとりが、ド・ブランジェ博士の精神を健全に保ち、過去の多くの天才数学者が辿った道を歩ませていない理由なのだろうと思える。

 番組は4回目のリーマン予想への挑戦論文を書きあげ、博士が口笛を吹きながら歩く姿を紹介し、これが正しいかどうか2年後に判る・・・として終わる。

 前述のように、最近の情報として、昨年英国エディンバラ大学の名誉教授マイケル・アティヤ博士(1929.4.22~2019.1.11 英国・数学者、発表当時89歳)が2018年9月24日に発表した論文で、リーマン予想を証明したと伝えられているが、このことは同時に、ド・ブランジェ博士の4回目の挑戦もまた失敗であったことを物語っている。

 マイケル・アティヤ氏は、リーマン予想の証明を発表する際に次のように語ったとされている。「ある物理定数を数学的に導出する過程で、リーマン予想を背理法を使って証明できた」。

 博士の証明が正しいものかどうか、今後1年半後に判明することになるが、証明が正しいと認められたとしたらその時何がおきるのだろうか。多くの天才数学者が夢見た宇宙の大法則、根本原理が導かれることになるのだろうか。とても楽しみである。
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庭にきた鳥(1)アカハラ

2019-04-12 00:00:00 | 野鳥
 軽井沢に住みはじめて4年が経過したが、移住早々から、野鳥の餌台を庭に置いてここに集まる小鳥たちを観察・撮影してきた。この餌台は2015年に転居のご挨拶に行ったことがきっかけで、ご近所のMさんから頂いたもので、元大工であったというだけに寄棟の屋根がついた立派なものである。
 最初のうちは家の南側にあるウッドデッキの脇に設置していたが、時々カラスが来て、シジュウカラ用にと置いていた牛脂を容器ごと持ち去ったりといったいたずらをするので、居間の東側の窓のすぐ外に移動させた。窓ガラスが1枚あるだけだが、ここに設置した餌台には小鳥たちは怖がることなくやってきて餌を食べているのに、カラスは来なくなった。

 ここによく集まる野鳥の代表格はシジュウカラだが、数からいえばやはりスズメが多い。大食漢のキジバトもよくやってくる。2015年にビデオ撮影をして、ここに来る野鳥の種類を調べたことがあって、数えてみると24種類くらいになった。シジュウカラ、ヤマガラ、コガラ、ヒガラ、などの今もよくやってくるカラの仲間のほか、アトリ、シメなどそれまで見たこともなかった野鳥の姿を間近に見ることができるようになった。

 今回、こうした多くの野鳥の中から、「庭にきた鳥」として最初に取り上げようと思ったのが、「アカハラ」であるが、その理由は「あいうえお」順にということではなく、アカハラは軽井沢町の野鳥に指定されているからである。
 このアカハラ、鎌倉に住んでいた時に一度だけ窓の外の、鎌倉特有の崖地に来て、落ち葉の間をガサゴソと動き廻っているのを見たことがある。その時は名前を知らなかったので、図鑑で調べてみて判ったのであったが、軽井沢に来て、アカハラが町の鳥であることを知り、すぐにでもまた出会えるのではと思っていたのに、なかなかその機会はこなかった。上記の24種類の中にも入っていなかった。

 そのアカハラが今年になって突然毎日のように餌台にやってくるようになった。きっかけは、庭にもう一つの小さな餌箱を設置したことであった。この餌箱も、やはりご近所のIさんからいただいたものだが、500ccの牛乳パックのような箱形状をしたもので、上の扉を開けて中に餌を入れることができて、下には隙間が開いている。小鳥たちが餌を食べると箱の中から受け皿の部分に自然に餌粒が流れ出すようになっている便利なものである。

 餌箱そのものをIさんから頂いたのは半年ほど前のことであったが、しばらく設置しないでしまってあった。それを取り付けようと思いたったのは妻の勧めもあったが、3月に一週間ほど旅行で留守にする計画を立てていたので、その間小鳥たちにひもじい思いをさせるのもかわいそうと思ったことが主な理由であった。この餌箱いっぱいに餌を入れて置けば、一週間程度は大丈夫と思えた。

 2月下旬にこの餌箱をカツラの木の幹に取り付けたところ、しばらくして見慣れない鳥が受け皿部分に止まっているのが2階の窓から見えた。背中の色がモスグリーンで、これまで見かけたことのない種で、直感的に「アカハラ」ではないかと思った。

 窓の外の餌台に向けてビデオカメラを設置してしばらく撮影をしていると、同じ鳥が餌台の方にもやってきた。アカハラであった。この時の様子は次のビデオのようである。餌を食べている途中、スズメがやってきたが、これに動じることなくけんかもしないで5分ほど餌をついばんで去って行った。このあと15分ほどして再びアカハラが餌台に来たが、この時も3分ほど餌を食べて飛び去った。これ以降、この餌台のことを覚えたのか、日課のようにアカハラが来るようになった。


庭の餌台に来たアカハラ1/2(2019.2.23 10:42-47 撮影動画を編集)

 アカハラが軽井沢町の「町の鳥」に制定されたのは2003年(平成15)、町制施行80周年を記念してのことで、このとき同時に「町の獣」として「ニホンリス」も決められた。このことは、軽井沢町や軽井沢観光協会が発行している資料に記載されているし、町営の各種施設にも写真が掲示されていて、目にする機会が多い。


2018町勢要覧表紙


「町勢要覧」に記載のアカハラの写真


2018軽井沢・美しい村表紙


「軽井沢・美しい村」に記載のアカハラの写真

 アカハラが「町の鳥」に決まった理由や経緯はどのようなものだろうか。町の公式HPには特にこの点についての記載はないので、資料をあたっていたところ、書籍「軽井沢のホントの自然」(2012年 ほおずき書籍発行)に次のような記述があった。アカハラは町民にとって一番馴染みある鳥であったようだ。

 「森の町のシンボル
  アカハラが「町の鳥」に指定されたのは2002年(*)のことでした。選定委員だった町議会議員の方々の間でもアカハラという鳥の知名度は案外高く、驚きました。明け方にあちこちのモミやカラマツの梢、屋根のテレビアンテナでもさえずる『キョロン、キョロン、チリリ』という3拍子に、皆さん馴染みが深かったようです。さすが高原の町です。」
 (*筆者注:議会で決まった年のことと思われる)


アカハラの写真が使われている「軽井沢ホントの自然」の表紙

 軽井沢に近い周辺の「市町村の鳥」というものが指定されているかどうかと思い調べると、群馬県側の高崎市と下仁田町は「ウグイス」、安中市は「オシドリ」、長野原町は「ヤマドリ」が指定されていたが、長野県側の佐久市、御代田町では見当たらなかった。

 さて、アカハラについてもう少し詳しく見ると、次のようである。
 「種名:アカハラ(赤腹)、学名:Turdus chrysolaus、英名:Brown Thrush(茶色のツグミ)。
 全長24cm、翼開長37cm、下面の橙色がよく目立つ種で、雌雄ともに頭から上面が緑灰褐色で、胸と脇が橙色。目の周囲は黄色。『野鳥観察図鑑』(2002年 成美堂出版発行 )」
 
 生態については、
 「我国で繁殖するツグミ類中最も普通の種類である。北海道では平地、山地の森林中で、また本州では中部以北の低山帯から亜高山帯下部にかけて多数繁殖しているが西日本からは繁殖の確証はない。冬季は関東地方にも少数見られるが多くは西南日本の温暖地に漂行しまた一部は琉球・台湾・中国南部・フィリピンなどに渡る。繁殖期にはキョロン、キョロン、ジーと美声でなく。『原色日本鳥類図鑑』(1973年 保育社発行)」

 とあり、軽井沢でも普通に見られるなき声の美しい野鳥とされているので、町の鳥を決める時に賛同を得られやすかったことが想像される。私が鎌倉で見かけたのは冬季に温暖な場所に移動していた個体であったと思われる。軽井沢など寒冷地では春から秋にかけて多く見られるようになるので、これからも餌台にやってくる個体数も増えるのではと期待される。

 繁殖に関しては、「巣は、木の枝の叉のようなところで、上から葉がかぶさって見えにくいようなところに、枯れ草などで作ります。地上から1.5~2メートルぐらいの高さが多いですが、10メートル近いときもあります。巣作りは数日かかりますが、メスだけが早朝にひっそり行うので、気づいたときにはもう庭の生け垣の中で卵を抱いているなどということもあります。

 卵は薄青色に赤褐色のまだら模様で、毎朝一個づつ、合計4個産みます。2週間ほどメスが温め、ヒナがかえると雌雄で協力して育てます。ヒナのえさは圧倒的にミミズです。ヒナは2週間ほどで巣立ちますが、さらに1~2週間ほどは親鳥の世話を受けます。

 図鑑などを見ると、アカハラの繁殖は1繁殖シーズンに1回ということになっていますが、それは十分に調べられていないだけだと思います。2度目、3度目の繁殖をすることもあるでしょう。
 アカハラは朝夕よくさえずる鳥ということになっていますが、6月、7月、8月と夏に向かうにつれ、日中もよくさえずります。『軽井沢のホントの自然』(前出)」とあって、地元で出版された本ならではの記述がみられる。

 カラ類が以前よりも活発に餌台に集まってくるようになった今週、久しぶりにビデオ撮影をして、アカハラの様子を調べてみた。今回も、シジュウカラ、ホオジロ、カワラヒワに混じって元気な姿が映っていた。いつものように画面左側から餌台に飛び上がってきて、しばらく餌をつついていたが、その後割り込んできたキジバトの夫婦に驚いて飛び去って行った。それから10分ほどして再び餌台に来たが、この時は後からきたカワラヒワと一緒に餌を食べ、約2分間ほどいて、飛び去って行った。

 この間、窓の内側のカメラが気になるのか時々覗き込むようなしぐさを見せたが、すでに何度も来ていて慣れたのか恐れる様子は見られなかった。


庭の餌台に来たアカハラ2/2(2019.4.7 9:56-10:09 撮影動画を編集)

 アカハラは1990年代から、どうも減っているようだとの声を受けて、『軽井沢のホントの自然』の著者石塚 徹氏が調査した結果がこの本に記されている。それによると、生息域が移動して、減少している場所がある一方で、増加している場所もあって、とくに減っていないということであった(2007年の調査)。開発により自然破壊が懸念されている軽井沢であるが、町の鳥アカハラはたくましく生きているようで、ほっとする話である。


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ガラスの話(13)九州のガラス記-1/2

2019-04-05 00:00:00 | ガラス
 ショップの冬季休業を利用して、ガラスを見に出かけたいと思っていたが、福岡の友人と、鹿児島の親類の訪問を兼ねて九州に出かけることにした。

 久しぶりの九州旅行になるので、妻とも相談して、ガラスのほかにも目的地を決め、福岡と鹿児島をそれぞれ起点と終点として、博多、大宰府、吉野ケ里遺跡、伊万里・有田、嬉野温泉、長崎、雲仙・普賢岳、島原、熊本、鹿児島・桜島を巡るコースを選び、レンタカーで回ることにした。

 近代日本のガラス工芸の歴史をみると、江戸時代の長崎が重要な役割を果たしている。西洋からガラス製法が伝わる前に、すでに長崎には中国から鉛ガラスの製法が伝わっていて、長崎のガラス工人たちが、何らかのかたちでガラスを作っていたのではないかとされており、その後、1570年頃に、ポルトガルやイスパニアから鉄砲の伝来とともに、ソーダガラスの製法も長崎にもたらされたと考えられている。

 由水常雄氏の著書「ガラス工芸」(ブレーン出版 1975年発行)によると、当時の様子は次のようである。

 「・・・こうして十六世紀末ころより長崎でガラスが作られるようになると、長崎のガラス師のもとに全国から人が集まるようになり、それぞれガラスの製法を学びとって、各地に伝えていくようになる。
 まず長崎では、享保五年(1720)の西川正休(如見)『長崎夜話草』に(よると)、ガラス細工が長崎土産となるほどまでに発展しており、延宝年間(1673~)にはじまる玉屋六右衛門以下、玉屋号を名のるびいどろ細工師たちの活動がその中心をなしていたようである。主として細工もののガラス器であり、カットや色被せガラスは作られなかったようである。・・・」

 ただしかし、長崎のどこに行けばまとまった形で、16世紀末のこのガラス器とはいかないまでも、古いガラス器を見ることができるのかが判らなかった。手元にある日本ガラス工芸学会誌「GLASS」51号(2008年発行)の、GLASS(1号-50号)総目次をあたってみると、「佐賀ガラス調査」という報告が、1977年発行の第3号に見つかったが、長崎に関する記述は見当たらなかった。

 その他の情報源として、①1977年発行の「The Glass ガラス」(読売新聞社発行)、②1988年発行の「太陽 特集◎骨董の旅」(平凡社発行)、③1998年発行の「ガラスを買いに行く」(平凡社発行)などで長崎に関連した部分を探し下記の記述をみつけることができた。


「The Glass ガラス」の表紙


「太陽 特集◎骨董の旅」の表紙


「ガラスを買いに行く」の表紙

 ①には、「ビードロと切子をもとめて・九州ガラス取材記」という出版社の編集子によると思われる記事があり、ここには、カステラの老舗”福砂屋”、レストラン”銀嶺”、ホテル”十六番館・資料館”などのガラスコレクション見学と、長崎ガラスの個人収集家岩永関夫氏を訪問した時の記述がある。

 ②には、「私の銘品探訪記」として、斎藤真一・菊地信義・川本恵子氏らの新潟から長崎までの訪ねある記があり、その中で川本恵子氏は長崎市内、中島川周辺で幕末から明治にかけてのビードロやランプの品揃えの豊富さと質の良さでは市内一という”ナガサキヤ”を紹介している。

 ③の「ビードロ浪漫紀行・長崎、島原、佐賀」では前記の長崎市内の”福砂屋本店”と”銀嶺”のほか、骨董店の”アンティーク マヨリカ”、現代の長崎ガラスを生み出している工房”瑠璃庵”、観光資料館”南山手十六番館”、”大浦天主堂”が紹介されている。①でホテルの資料館として紹介されていた”十六番館・資料館”はここでは観光資料館”南山手十六番館”となっていた。この当時、ホテル経営はやめていたのかもしれない。

 こうした準備をして九州では三泊目の宿泊地に長崎を選んでいた。ガラスに関連する目的地はこの長崎が最初であった。

 九州初日の宿泊地福岡では夕食はホテルの外で取ることにして「アラ料理」の店に行くことを楽しみにしていたし、続く嬉野温泉では温泉入浴はもちろんであるが、旅館の食事として出る「温泉湯豆腐」が妻の目的になっていた。


嬉野温泉の朝食に出た「温泉湯豆腐」(2019.3.11 撮影)

 ところが、嬉野温泉の夕食の際に日本酒を注文したところ、思いがけず冷酒がガラス製”ちろり”に入れられて出てきた。この”ちろり”は今回長崎で見てみたいもののひとつに挙げていたので、早速の出会いに大いに喜んだ。これまで、こうしたガラス製のちろりに入れられた日本酒が宿で出てきたことはなかったように思う。
 実は、翌日の夕食はホテルではとらずに、長崎名物の「卓袱料理」を食べに出かけたのであったが、この店でもやはりいただいた冷酒はガラス製「ちろり」に入れて供された。ちろりは九州の文化だろうか。ただ、当然のことであるが、この嬉野温泉でのちろりは現代のもので、翌朝旅館の土産品売り場で同じものが販売されているのをみつけ、お土産に購入した。長崎の老舗卓袱料理店でのちろりはやや形状の異なるものであったのだが、場所柄撮影は遠慮したので、残念ながら写真はない。


嬉野温泉のお土産に買って帰ったガラス製”ちろり”

 さて、こうしてたどり着いた長崎であるが、事前に調査した長崎カステラの老舗”福砂屋本店”は宿泊したホテルのすぐ近くにあった。時間の都合でここを後回しにして、思案橋周辺のアンティーク・ショップから見に出かけた。

 最初に目指した店は、思案橋のすぐ近く、鍛冶市通りに面した「アンティーク マヨリカ」であったが、ここは《水曜 定休日》の表示があり店はシャッターが下りていた。道路に面したショウウインドウにはいくつかの商品が展示されていて、魅力的なガラス器も見られたのであるが、店内を見ることができなかったのは、いかにも残念であった。


定休日でシャッターが下りていた「アンティーク マヨリカ」の店舗(2019.3.13 撮影)

 この後、同じ通りに面した小さな古民芸店に入ってみたが、ガラス器はそれほど品数がなく、ペアタンブラーと前日有田で訪問したばかりの、深川製磁製の磁器皿をいくつか選び、発送の準備をしてもらいながら、女性店主とちょうど外から戻ってきた娘さんの二人に周辺のアンティークショップのことを教えていただいた。

 それによると、予定していた”ナガサキヤ”はもうだいぶ前に店を閉じているという。レストラン”銀嶺”も移転していて、少し離れた「長崎歴史文化博物館」の敷地内にあることが判った。また、アンティークガラスは、グラバー園などのある地区のショップ”グラバー”に行けば見られるのではと教えていただいた。

 次に、この古民芸店から更に通りを北東の方に進んだところにある骨董店に立ち寄った。ここは比較的大きい店舗で、多くのアンティークガラス器を含む商品が見られた。棚の高いところに金赤の「ちろり」が置かれているのが目にとまり、店番の若奥さんと思しき女性に値段を訪ねると、電話で店主に問い合わせてくれた。返ってきた答が私の予想通りであったので、これをいただくことにした。製作年代は判らなかったが、念願の”ちろり”をこうして入手することができた。


長崎市内の骨董店で購入した金赤ガラス製の”ちろり”

 移転したレストラン”銀嶺”があるという「長崎歴史文化博物館」までは、さらに1kmほどの距離があったが、昼食をここで取ることにして、商店街から離れた場所に向かった。「長崎歴史文化博物館」はそれ自体とても興味深いところであったが、今回は割愛、素通りして敷地内の南東方向にある”銀嶺”に入った。


「長崎歴史文化博物館」入り口(2019.3.13 撮影)


「レストラン”銀嶺”」のある建物(2019.3.13 撮影)
  
 まだ食事客がまばらであったので、店内に展示されているアンティークガラスを見せていただくことができ、写真撮影も自由にさせていただいた。事前に書籍の写真で見ていたが、移転前と同様と思える色とりどりのコレクションが、入り口付近を中心に店内に展示されており、すばらしいものであった。







「レストラン”銀嶺”」店内のアンティークガラスコレクション(2019.3.13 撮影)

 ここから坂道を下り、ちょっと乗ってみたかった市電を利用して、新地中華街に向かった。旅行直前に見たTV番組で、ここにある長崎ちゃんぽんや皿うどんの麺を作り続けている店が紹介されていたからである。我々もここでお土産用の麺を買ってから、午前中からとってあったもう一つの目的場所、寛永元年(1624年)創業という長崎カステラの老舗”福砂屋本店に”向かった。ホテルに預けてあった荷物を受け取り、福砂屋の店舗脇の駐車場に車を停めた。
 店内は名産の土産物を求める客で賑わっていたが、我々はまっすぐ右奥のガラスコレクション展示コーナーに向かった。ここは比較的すいていて、ゆっくりと鑑賞し、写真撮影をすることができた。このコレクションは質・量において素晴らしいものであり、英国、フランス、ヴェネチア、ボヘミア産の多くの海外のガラス器とともに、書籍③で紹介されていた薄手の長崎ガラスの瓢箪型徳利が今も変わらず展示されていた。

 ただ、前記の書籍③で写真が掲載されていたが、出版当時「現在、未展示」となっていた「江戸中期の名品とされる”長崎ガラス藍色ちろり”」はこの日も残念ながら展示品の中に見つけることはできなかった。


福砂屋本店のガラス器コレクション展示コーナー(2019.3.13 撮影)


福砂屋本店のガラス器コレクション展示コーナー(2019.3.13 撮影)












”福砂屋本店”展示コーナーのガラス器コレクション(2019.3.13 撮影)

 このあと、もちろん長崎カステラを購入し、次の目的地”大浦天主堂”や”グラバー園”のある地区に移動した。

 最初に訪れたのは現在も長崎ビードロ(ガラス)を作り続けている長崎工芸館”瑠璃庵”である。この工房ではガラス器作りを体験することもでき、工房前には若い女性の姿も多く見られた。また、ここでは現代の長崎ビードロの特徴とされる宙吹きや型吹きによる薄手で軽妙なフォルムのものが作られ、すでに同様のものは上で紹介したが、長く伸びた注ぎ口と取っ手をもつ、土瓶型の酒器「ちろり」が代表的な製品とされる。
 ちろりとはもともと銀や銅、錫などでできた酒を温めるための容器だが、江戸時代には冷酒用にガラス製のものが数多く作られたという。この瑠璃庵はそのちろりの復元に力を入れていて、ネット販売もしている。通販サイトで見ることができる藍色のちろりは、書籍③に掲載されている福砂屋の名品と似通った色・形状に作られている。


”福砂屋本店”のコレクションとされる江戸時代の「ちろり」(上)と”瑠璃庵”で製造・販売されている現代の長崎ガラス「ちろり」(下)

 次に目指した”南山手十六番館は”意外にも営業を止めていて、荒れ果てているように見えた。近くの土産物店で聞くと、もうずいぶん長い間このような状態のまま放置されているという。ここには「・・・驚くほど多様でユニークなガラスの数々が揃っている。古い木造洋館を移築した館内には、櫛やかんざし、煙管から西洋ランプ、花器、鳥籠まで、実にさまざまなガラス製品が展示されている。その数は3000点に及ぶという。・・・」と書籍③で紹介されたいただけに、とても残念でならなかった。

 多くの観光客を集める大浦天主堂やグラバー園とは対照的に、こうして営業を止めてゆくガラス関連施設があることに一抹の寂しさを感じながら、この場所を最後に長崎を後にして次の目的地雲仙に向かって車を走らせた。

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