軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

天王寺蕪

2024-11-29 00:00:00 | 日記
 故郷の話題にはやはり反応してしまうのであるが、妻から大阪・天王寺のことがTVのニュース番組(11月6日放送)に出ていたよと教えられた。

 録画してくれていたので、夕飯を食べながらその番組を見ていると、番組後半部分にその話題が特集として取り上げられていた。

 内容は、信州の名産・野沢菜のルーツが江戸時代に大阪・天王寺の特産品であった天王寺蕪(てんのうじかぶら)だというもので、長野の野沢温泉と大阪の天王寺が紹介されていた。

 長野放送局から天王寺に取材班が出かけて、本当に野沢菜のルーツが天王寺蕪であるかを調べてみようというものである。

 野沢温泉側では、名産品の野沢菜のルーツが大阪の天王寺蕪であり、260年ほど前にいた野沢温泉の僧が京都に修行に出かけた際に、土産として天王寺蕪の種を持ち帰り、この地方で育てたことがきっかけになっていることは、周知のことであったという。

 野沢温泉村の現地にはそのことを示す石碑・記念碑も建てられており、販売されている野沢菜のパンフレットにもそうした内容が記されている。

 一方、大阪側はというと、野沢菜のことはよく知っていても、そのルーツが大阪・天王寺にあるということはほとんど知られていない。だいたい、私などは天王寺蕪のことも聞いたことが無い。そこで、この番組をきっかけに、野沢菜とそのルーツとされる天王寺蕪について踏み込んで調べてみることにした。

 まず、天王寺蕪とはどのようなものか。普通の蕪とどう違うのか。いつものウィキペディアを見ると、次の説明がある。

 「天王寺蕪(てんのうじかぶら)はアブラナ科アブラナ属の越年草。なにわの伝統野菜(根菜)の一つ。日本最古の和カブといわれている大阪の在来種で、言い伝えでは野沢菜の原種ともいわれている。
 ・発祥地・歴史
 大阪府大阪市天王寺付近が発祥地だといわれている。「和漢三才図会」や「摂津名所図会大成」などにも収録されており、徳川時代から明治末期までが栽培の全盛だったが、耐病性の問題から大正末にはほとんど尖りカブに置き換わったとされる。
 ・特徴
 多肉根は白く、形はややつぶれた扁平で、甘味が強い。肉質は緻密である。・・・煮物でも漬物にしても、美味しく食べられる。
 ・野沢菜との関係
 野沢菜には、野沢温泉村の健命寺の住職、八世晃天園瑞が宝暦6年(1756年)、京都に遊学した際、大阪市天王寺で栽培されている天王寺蕪の種子を持ち帰り、子孫が野沢菜となったとの言い伝えがある。 しかし、種子表皮細胞ほかに対する遺伝的研究から、これは否定されている。
 日本のカブは、西日本主流のアジア系と、東日本の山間地に多く耐寒性に優れたヨーロッパ系に大別されるが、天王寺蕪はアジア系であり、野沢菜はヨーロッパ系の特徴が強い。 現在野沢菜は、カブに由来する別の変種と考えられ、伝統野菜の漬け菜(稲扱菜、羽広菜、鳴沢菜、長禅寺菜)や紫蕪(諏訪紅蕪、細島蕪)は、いずれも近縁とみられる。(最終更新 2024年1月13日)」

 ここでは、野沢菜との関係は単なる言い伝えであるとし、野沢菜のルーツが天王寺蕪であることはあっさりと否定されている。だとすると、今回のTV報道は一体何だったのだろうかと気になるが、その前に野沢菜について、同様にウィキペディアを見ると次のようである。同じウィキペディアの記述なので、当然ながら野沢菜側でも、天王寺蕪との関係は否定されている内容である。

 「ノザワナ(野沢菜)は、アブラナ科アブラナ属の二年生植物。日本の長野県下高井郡野沢温泉村を中心とした信越地方で栽培されてきた野菜で、特産の野沢菜漬けの材料とされる。高菜、広島菜とともに日本三大漬菜に数えられる。・・・
・ 概要
 一般にカブの品種とされているが、これは1756年、野沢温泉村の健命寺の住職が京都に遊学した際、大阪市天王寺で栽培されている天王寺蕪の種子を持ち帰り、その子孫が野沢菜となったとの言い伝えによる。しかし、種子表皮細胞ほかに対する遺伝的研究から、これは否定されている。・・・
・ 野沢菜漬け
 畑で根(蕪)を切り落としてから共同浴場で「お菜洗い(おなあらい)」したのち、大きな木の桶で漬る。そのほか家庭ごとの味付けがされる。
 乳酸発酵が進みアメ色に変色した本漬と、緑色のままの浅漬がある。
 寒冷な環境で製造・保存されるため、発酵はあまり進まず、臭いは少なめであっさりした味わいなのが特徴。・・・
 産地の長野県では一年中緑色の菜漬を供給するのに課題があったが、10月から12月にかけては主に長野県産、1月には主に徳島県産、2月には主に静岡県産、3月から5月にかけては主に山梨県産や長野県産のトンネル栽培物、6月には主に茨城県産、7月から9月にかけては主に長野県の八ヶ岳中腹から戸隠産のものと産地を移動することで解決している。
 なお長野県は、野沢菜漬けを1983年(昭和58年)に長野県選択無形民俗文化財「信濃の味の文化財」に選択した。
・ 栽培
 野沢温泉では「麻畑(おばたけ)」と呼ばれる明治時代まで大麻を栽培していた耕地の後作にノザワナが栽培されてきた。
 野沢温泉健命寺の屋敷畑で「寺種(てらだね)」と呼ばれるノザワナの原々種が作られ、「蕪菜原種」として「種一合、米一升」という高値で販売されていた。
 野沢温泉の湯治客が土産に蕪菜の種子を買い求めていったことから、野沢温泉の湯治客圏とノザワナの栽培圏はほぼ一致していた。(最終更新 2024年5月30日) 」

 次の絵は「日本山海名物図会」の「天王寺干蕪」のコマで示されているもの。


「日本山海名物図会」の「天王寺干蕪」の項(国会図書館デジタルコレクションより、コマ68 )
 
 野沢温泉村現地では実際にどのように伝えられているかということで、健命寺のHPを訪ねてみると次のような寺の紹介文と共に、野沢菜の由来が掲載されている。

 「心やすらぐ小さなお寺
 北信州野沢温泉にある健命寺は古くから村民の心のよりどころとして、また野沢菜発祥の寺として親しまれています。
 色とりどりの四季が美しい自然に囲まれた小さなお寺です。どうぞお気軽にご参拝ください。」
 
 野沢菜についても、長野県野菜花き試験場長・塚田元尚氏の次の抜粋文章が「寺種」のページで紹介されている。

 「漬け物王国日本を代表する『野沢菜』
 『野沢菜』は北信濃に位置し、温泉とスキーで知られる野沢温泉村が原産とされる。今では我が国を代表するツケナとして周年生産され、全国津々浦々で消費されている。

 『野沢菜』は野沢温泉村の健命寺の口伝によると、宝暦年間(1751~1763)当時の八世晃天園瑞和尚が京都遊学の折り、関西近辺で栽培されていた『天王寺蕪』の種子を持ち帰り栽培したことが始まりとされる。『野沢菜』と『天王寺蕪』との関連性については、その後論議されている経緯はあるが、導入以来250年近くにわたって採種と栽培が連綿と継続されてきたこと、また、その来歴が比較的はっきりしていることなど、多くの地方野菜の中でも特筆すべきツケナである。

 現在でも、健命寺領内の庫裡の南に位置する一反歩ほどの圃場では採種が継続されており、一部の種子は「寺種」と呼ばれて流通している。健命寺門前には、晃天和尚の彰徳碑とともに「野沢菜」発祥の地の碑をみることができる。寺の採種圃場では長い間、有機物の施用による地力維持に努め、結果として二百数十年にわたる連作を可能としたことも驚嘆すべき事例である。・・・(長野日報選書9、『からい大根とあまい蕪のものがたり』編著 大井美知男・神野幸洋より抜粋)」

 ここでは健命寺側の口伝が直接語られるのではなく、研究者が出版物から引用するという形で、野沢菜伝来の由来が記されている。天王寺蕪との関係については、触れられてはいるものの、明確ではない。

 健命寺の境内には「野沢菜発祥碑」があり、ここには次のように刻まれていて、口伝の内容と一致している(下記の西暦年号の1765は1756の誤記と思われる)。もっとも、この内容も口伝を書いたもので、寺側に何らかの記録があって、それをもとに書かれたものではないようである。
 
 「野沢菜は宝暦六年(1765)健命寺第八世晃天園瑞大和尚京都遊学の折持ち帰りし天王寺蕪の種子を播種せしところ野澤特有の風土により変種したと伝えられる
 爾来幾星霜寺に護られ村人に育まれ広く世の人に支えられ全国的に愛好されて今日に至る
 茲に晃天園瑞大和尚の遺徳を讃える碑と共にこの碑を建立する
                   昭和五十七年十一月吉日
                   野沢菜まつり実行委員    」

 もう一つ「野沢菜漬けドットコム」というサイトがあって、ここに「野沢菜のルーツ」として次のように記されている。内容はウィキペディアの記述、野沢菜発祥碑文と類似するが、天王寺蕪と野沢菜の関係を一概に否定しないで、口伝をふまえて理解しようとしている。

 「京都から来た蕪の種
 宝暦6年(1756年)下高井郡野沢温泉村の健命寺八代住職晃天園瑞和尚が、京都遊学の折、天王寺蕪(かぶら)の種を持ち帰り、それを寺内の畑地に蒔いたところ、それが地味に合って今日のような菜になったと伝えられています。
 風土の中で変遷 
 以後、交雑し変化した経過は明らかではありませんが、現存する物は白色根の天王寺蕪そのもので無いことは明らかで、野沢特有の風土の中で変種した雑種であるとされています。
 最近の調査によるとむしろスグキに近い品種であることがわかってきています。 」

 今では広く国内各地で栽培されている野沢菜であるが、ほとんどがF1(交配種)とされる。これに対して上記のように健命寺では、導入以来、交雑を防ぎながら250年近くにわたって採種と栽培が連綿と継続されてきたというから、現在のところ、この種がもっともよく当時の天王寺蕪の遺伝的情報を伝えているものと推察できる。

 さて、野沢菜と天王寺蕪についての概要は判ってきたので、再びTVニュースの内容に戻ってみる。ニュースの内容は、「野沢菜のルーツ探し」と、「天王寺蕪の復活」という2つの話題を紹介している。

 記者は、野沢菜のルーツを求めてまずは野沢温泉村の健命寺に向かい、そしてそこで教えられて本当のルーツである大阪に出かけている。

 大阪では、四天王寺に辿りついて、住職の紹介で境内に2016年11月に設けられた「野沢菜、伝来記念碑」を見、野沢菜のルーツが天王寺にあるとされることを確認する。さらに、天王寺蕪を復活させた立役者である、「天王寺蕪の会」の難波りんごさんと、森下正博さんを紹介している。

 天王寺蕪の会の2人によると、宝暦6年(1756年)野沢温泉村に持ち帰った種を蒔いたところ、信州の冷涼な気候のせいか、カブの部分は育たずに、葉だけが大きく伸びたので、それを食べるようになったという。

 一方天王寺の方では、長く名産として天王寺蕪の名が広く知れ渡っていたが、大正時代に害虫マユガが大量発生し絶滅の危機に瀕し、次第に忘れられていった。

 大阪の伝統野菜を調べていた難波りんごさんが偶然天王寺蕪のことを知り、詳しく調べていくうちに、野沢菜のルーツが大阪に天王寺蕪にあることと、天王寺蕪を今も細々と育ててきている農家があることを知った。

 あの有名な野沢菜のルーツが天王寺蕪であると教えられ、その復活にも力が入ったとのことであるが、このことから天王寺蕪の会では、野沢温泉村を天王寺蕪復活の恩人ととらえている。

 最初、恩人と聞いた時に、健命寺に伝えられている「寺種」を大阪・天王寺で育てて天王寺蕪が復活したのかと思ったが、そうではなかった。

 ただ、こうしたことがきっかけになり、天王寺から野沢温泉村までの野沢菜の伝来ルートを歩く企画が行われるなど、両者の交流が始まる。さらに野沢温泉村では村制施行60周年の記念行事の一環として、四天王寺に高さ1.8m、幅2.4mの前述の「野沢菜伝来記念碑」を建立した。

 こうしてみてくると、野沢菜のルーツが天王寺蕪であることが「口伝」から「事実」であると伝わっていくように思えるが、実際はどうなのだろうかと気になる。

 TV放送を見た後に、さらに調べていくと、信州大学がCATVとの連携事業の一環で作成した特別番組「信州の伝統野菜 野沢菜のルーツを探る旅(2024年製作)」が見つかった。このYouTubeは前述の口伝をもとに、信州大学学術研究院(農学系)松島憲一教授と、伊那ケーブルテレビジョン放送部長・アナウンサーの平山直子氏が大阪市にある天王寺地区などを訪ねるドキュメンタリーである。 

 この中で、天王寺蕪と野沢菜との関係について、次のように述べている。

 「(天王寺蕪の会)の森下正博氏は、天王寺蕪が野沢菜の祖先であることを証明しようと長年研究を続けている一人です。森下氏は、自ら考案した比較実験で種の特性を明らかにし、天王寺蕪と野沢菜は親子関係にある可能性を示唆する結果になったと総括しています。さらに、山形大学農学部教授の江頭宏昌氏によって、両者のDNA配列を解析した結果も最近になって学会で発表されました。これによると野沢菜の祖先が天王寺蕪だという可能性は高いといいます。現段階では確実だと断定はできないといいますが、さらなる研究が進むことが期待されます。 」

 江頭宏昌教授が発表した内容とは、「SSRマーカーによる国内在来カブの遺伝的類縁関係 その2 天王寺カブと野沢菜を中心に」というもので、2020年に育種学研究学会でポスター発表されている。まさに両者の類縁関係をDNAの解析により調べたもので、決定的なものではないかと思うのだが、そうでもないらしい。

 SSRマーカー(別名マイクロサテライト)は、ゲノム上の塩基配列の短い繰り返し部分の長さの違いを利用して品種を判別するDNAマーカーであり、集団の多様性解析や個体の識別、遺伝子流動、遺伝子地図作成に有効とされる。

 以前、当ブログでも新型コロナの検査法として取り上げたことのあるPCR技術を用いる方法で、適切に設計された一対のプライマーで、解析領域を挟み込むことで、その間の領域のゲノム配列を調べるものである。 

 ウィキペディアで一旦否定的な結果が示された「口伝」内容であるが、こうした研究により、真実が明らかにされる日が待たれる。

 私は普段あまり漬物を口にしないのであるが、今回の調査で野沢菜に関心を持つこととなり、地元軽井沢と小諸でそば店を経営しているY店が、野沢菜漬についても、こだわりをもって製造販売していることを知り、今日ランチの土産に2種買い求めてきた。おいしくいただこうと思う。


野沢菜漬け(2024.11.27 撮影)

 
 

  

 
 

 



 

 

 


 
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絵葉書

2024-11-22 00:00:00 | 日記
 旅先でお土産に買う絵葉書というのは旅の楽しみの一つといえる。特に、仕事で出かける海外では観光はほとんどできないので、代りに絵葉書を買うことが多くなる。


Museum of Fine Art, ボストン(1980年頃)


Empire State Building, ニューヨーク(1980年頃)


The Battery, ニューヨーク(1980年頃) 


Marktplatz, バーゼル(1985年頃)

 
View Biel-Bienne, スイス(1985年頃)


Les Trois Lacs Bienne-Neuchatel-Morat, スイス(1985年頃) 

 この頃は、まだ銀塩フィルム写真の時代で、自分で撮る写真の枚数も限られていたので、海外では絵葉書を買うことも多かったが、やがて小型デジカメが普及するにつれて、ほとんど絵葉書を買うこともなくなっている。

 絵葉書アルバムを見ていると、2000年以降になると、海外の絵葉書は少なくなり、国内の絵葉書が増えている。これは自分では撮影が難しいような被写体が中心になっている。


Anne Frank Huis Amsterdam, オランダ(2005年頃)

 その絵葉書を自分が作るようになるとは予想もしなかった。

 きっかけは2023年に開催された、第1回軽井沢フォトフェストで私の8作品が入選したことで、事前にこの入選の知らせを受けていたので、フォトフェストの期間中に私のショップを訪れてくれる方々に、8枚セットの写真絵葉書をプレゼントしようと思い立った事であった。この時は、ショップのダイレクトメールなどを制作している専門の業者に8作品を各200枚作成してもらった。

 今年の第2回軽井沢フォトフェストにも作品を応募し、もし昨年同様入選した時には、また写真絵葉書を作ろうと考えていた。しかし今年は入選発表のタイミングが昨年とは異なっていて、事前の入選案内はなく、展示初日に発表があり、3作品の入選を確認したものの、あらかじめ写真絵葉書を作る時間的な余裕はなかったので、写真絵葉書の作成は見送った。

 今年になって、以前から使ってきたプリンターが不調になったこともあり、それまでは外注に出していた、ショップのDM制作や、元の勤務先OBによる作品展と軽井沢町の総合文化展に出品する大判の写真作品も、自分でプリントしようと思い立ち、A3ノビサイズ対応で顔料インクのプリンターを購入した。

 昨年外注した写真絵葉書は、ショップに来ていただいた顧客の方々だけではなく、いろんな方々にも無理やり押しつけていたが、その一人で、文化遺産保存活動をしている会のM会長から、著作権の切れた古い写真絵葉書の復刻版を作りたいとの話があり、外注時の単価などの問い合わせを受けたので、同一作品を200枚制作した時の情報を伝えてあった。

 本来ならば、販売用の復刻絵葉書は、この専門の業者に依頼すべきところであるが、どの程度売れるものか予想がつかないので、先ず試験的に少量私が作成しましょうかと提案したところ、すぐに承諾していただき、話が進むことになった。

 次は、この頃私が独自に入手した古い写真絵葉書をもとに作った試作品の例である。

軽井沢から見た浅間山(1886年頃の撮影写真より)

 復刻絵葉書の原版となる古い写真絵葉書は、会のメンバーのコレクションから20数枚提供していただいたが、その中からM会長に10枚選定していただき、試作品を作ることになった。

 原版絵葉書のデータをスキャナーで取り込んだ後、古さ故えの汚れやシミなどを画像処理ソフトで修正した後、写真内容の説明文や保存会のロゴを追加してプリントした。

 写真画質のほか、画面サイズ、文字のロゴ・配置、用紙の質など数回の試作を繰り返した後、Mさんからもこれなら販売できそうですねとの判定をいただき、販売用を数組制作してみた。

 これらの試作品は、原版絵葉書を提供していただいたメンバーの方々にも1セットづつ届けて感想もお聞きしている。また、町内の書店の店長さんにも見ていただき、おおむね良好なコメントをいただけた。

 復刻絵葉書の方は、今のところこうして順調に販売に向けて推移しているようであるが、このほかにも、自分で撮影した写真を絵葉書にしてみようと思うようになった。

 これには軽井沢フォトフェストで選んでいただいたことがとても支えになっている。軽井沢フォトフェストに応募した作品は、ほとんどがこのブログに用いるために撮影したものだが、普段このブログに載せている写真を見てくれている妻から、入選作品だけではなく、季節の写真や浅間山の風景、野鳥、昆虫、植物などの写真も絵葉書にしてショップで販売してはどうかと言われた。

 雲場池の散歩を始め、写真を撮りはじめた頃から、できることなら写真集を作って見たいと思うようになっていた。以前、3つの私の夢をこのブログに書いたことがあった。写真集を作るのは、いわば4番目の夢で、これは他の3つの夢とは違って、自分で努力すれば叶えられる。まずは写真絵葉書から始めて、その結果が写真集につながっていけばいいと思っている。

 今年の営業期間も終盤にさしかかってきたので、先月下旬から2週間にわたり、いつもご利用いただいている顧客宛に、秋の特別セールを企画し、DMはがきを郵送した。雲場池の紅葉の写真を使用したものであるが、この写真絵葉書はいわば自作の第一号絵葉書になる。

ショップのDMに使用した雲場池の紅葉の絵葉書

 もうすぐショップは冬季休業期間に入る。この冬籠りのあいだに絵葉書の候補となる写真を選び、来春からの発売に備えようと思っているのであるが。


 

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入浴

2024-11-08 00:00:00 | 日記
 先日、学生時代の友人Nさんから次のようなメールが届いた。

 「Iさん、Mさん
 寒くなってきたので、 昨夜から シャワーを止め  湯船 にしました。
暖まりました。 皆さんは どうしていますか? N 」

 Nさん達とはグループメールにしているので、いつも返信の早いYさん、Kさん、Iさんから、早速、次の回答があった。

 「Nさん
 お元気ですか? 湯舟での入浴は理想ですね。
 ゆったりくつろぐことが体を芯から回復させてくれますね。
 私は年に数回しか湯船に浸れません。
 なんだかせわしなく毎日シャワーで済ませてしまいます。 Y 」

 「Nさん
 私んちは女房が風呂好きなので夏でも風呂沸かしますが、後から入る私は湯船につからなくてもお湯がもったいないので湯船のお湯使って洗って流します。
 でも涼しくなった最近は湯船で少し温まってから上がってます。
 最近は浅くて長い寝れるタイプの湯船が多いみたいですが、背の低い高齢者は足元の方へ滑り、湯船に顔が浸かり、起きれなくて水死する人がいるらしいので、注意が必要のようです。
 私んとこのは昔ながらのステンレスでお尻が床について座るタイプなので大丈夫ですが・・・。
 ちなみに発泡スチロールの落とし蓋作って、お湯の冷めるのを防いでいます。女房は熱い湯が好きで私はぬるいのが好きなので、女房が10時前に入浴し、落とし蓋と普通蓋の二重にしておいて11時過ぎに私は入浴しますが、適温になっているので加温もしないので冬場でもガス代は5000円ほどです。(今年は6000円超えそうです)エコ・バスです。 K 」
 
 「Nさん
 寒くなってきましたね。
 私のところは、まだシャワーにしています。
 もうちょっと寒くなったらお風呂でしょうね。

 Yさん
 年間を通じてほとんどシャワーとは元気ですね。
 多分、全館暖房なのでしょう。
 羨ましいですね。 I 」

 私は、外出していたので、少し遅くなったが、次のように返信した。
 「Nさん 皆さん
 今日は小学校の同窓会があり大阪・天王寺までとんぼ返りで行ってきました。これからお風呂に入ります。
 我が家では毎日のお風呂は欠かしたことがありません。今の家を建てる時に1階と2階の両方に風呂場を作りました。
 母が来た時に便利なようにと作ったのが1階の方で、2階の方は寝室に近いところにしています。
 ちなみに、私は長湯で、たまに湯船につかったままうとうとしてしまうこともあるので、これから先要注意です。 M 」

 と、こんなやりとりがあった。私には意外なことに、シャワー利用者がとても多かった。ライフスタイルの欧米化の一環なのだろうか。

 今では、自宅に風呂場があるのは当たり前だが、私が子供の頃住んでいた大阪では、銭湯に行くのが当たり前だった。近くに住んでいる仲のいい友達3人で、学校が終わるとすぐに示し合わせて、銭湯の一番風呂に出かけたことがある。
 まだ誰も来ていないので、浴場のタイル張りの床は乾いていて、傍らには木の湯桶が積み上げられていた。湯桶を使い始めるとその音が風呂場に響く。誰もまだ来ていない浴槽でひと泳ぎである。

 銭湯には父と出かけることが多かったが、たまに母と出かけることもあり、まだ小学生の低学年の頃は女湯に一緒に入っていた。

 すると、同級生の女子と一緒になることもあったが、あとで小学校でその女子からとがめられたので、女湯にいくのは止めるようになった、3年生くらいだっただろうか。

 しばらくして、器用な父が庭に別建てで風呂場を作ってくれた。外ガマ式で、風呂を沸かすのは私の役目であった。燃料は主に薪で、少し離れたところにある製材所で束にした薪を売っていたので、乳母車を押してその薪を買いに行くことも私の仕事であった。

 自宅の2軒先には、食堂などで見かける、食品見本を作っているお宅があり、蝋でできているその見本の不良品や端材品などを頂いてきて、薪と一緒に燃やしたことがあったが、その時は勢い良くゴーゴーと燃えて、煙突の先からも炎が見えて恐ろしい思いをしたことを思い出す。

 風呂のことで思い出すもう一つの話がある。大学の先輩で、放送大学の教授をしていたTさんの話であるが、学生時代に下宿をしていた時の思い出話を聞いたことがある。

 その下宿の女主人はとても倹約家で、風呂の湯を決して換えようとはしなかったという。浴槽の湯量が少なくなるとその分の水を足すだけで、全量を換えることはなかったそうである。そのため長年使い続けた湯の色はまっ黒で、学生時代Tさんは一度でいいからきれいな湯の風呂に浸かりたいと思ったという。まるで老舗の鰻屋のかば焼きに使う「たれ」のような具合である。

 さて、大方の同級生とは異なり、毎日寝る少し前に風呂に入る習慣がある私は、少数派のようだが、ショップに仕事に出ている日の日課というと、17時に店を閉めて5分ほどで帰宅。夕食は19時半からで、夕食後は海外のミステリードラマを1本見てから風呂に入っている。

 このミステリードラマは、ほぼ毎日見ているが、光テレビで配信されるものの中から、妻が録画しているもので、はじめの内はシャーロック・ホームズシリーズや、名探偵ポワロ、ミス・マープルなどのアガサ・クリスティーの作品群を見ていたが、すぐに見終わってしまったので、その後は米欧のいろんなミステリー作品を見ている。秀逸な作品も多い。

 その後、22時半頃に入浴、就寝は23時半くらいになるというのがおおよその日課である。

 メールの返信にも書いたように、私はやや長湯の方だが、実際のところ健康にいい入浴法というのはあるのだろうか。

 中学生の時に、保健・体育の授業の試験に、「少し熱めの風呂に短時間はいる」のと「ややぬるめの風呂に長時間はいる」のでは、どちらが健康にいいかという問題が出た。私は間違って答えたことははっきり覚えているが、どちらを選んで間違えたのか、思い出せない。

 この際、健康に良い入浴法を調べてみようと思い、次のサイトを見つけた。少しぬるめの湯に長めに浸かるというのが正解のようである。

 「毎日入浴すると心疾患や脳卒中のリスクが減る『40℃の風呂に10分』がコツ(温泉療法専門医による)
 
 *毎日入浴すると
  □ 心疾患、脳卒中、糖尿病を防ぐ
  □ 免疫力が高まる
  □ 幸福度が高まる

 *基本の入浴方法
  □ できれば毎日
  □ 40℃で10分間
  □ 全身浴

 *より免疫力を高めるリラックス入浴方法
  □ 眼を閉じる
  □ 腹式呼吸で3秒息を吸う
  □ 口をすぼめて5秒かけて息を吐き出す
  □ 上の2番目と3番目とを繰り返し行う

 *こういう時は入浴を避けよう
  □ 入浴前の上の血圧が160以上
  □ 入浴前の下の血圧が100以上
  □ 入浴前の体温が37.5℃以上

 *入浴中に不調になった家族を見つけたらやるべきこと
  □ 湯船の栓を抜く(溺死防止)
  □ 窓やドアを開けて涼しくする
  □ 湯船の外で横向きに寝かせる

 *入浴から最高の睡眠をとるための時間割
  □ 眠る3~2時間半前 帰ったらまず食事
  □ 眠る2時間半~2時間前 食後の30分~1時間は休憩
  □ 眠る1時間半前 入浴
  □ 体温がほどよく下がったら 就寝する    」

 というものである。失礼ながら真偽のほどはともかく、シャワー派の友人各位には興味を持たれたら実践してみてはいかがだろうか。

 私の場合、幸福度を求めているのが実態で、この内容とはやや異なる生活のリズムが出来上がっているので、すぐには難しいが、できるだけこうした指針に近付けるよう工夫をしてみようと思う。

 知人の中には、「癌は怖くないよ、癌が判ったらぎりぎり熱めの風呂に入ることでがん細胞を死滅させることができるので、そうするつもりだ。」という人もいるのだが、どうだろうか。これは普段から実践するわけにもいかないので、もしそうした事態になればという話として聞いておこう。

 最後に旅館の風呂場の写真を、といっても通常は写真を撮ることはできないが、最近は眺めのいい風呂場を備えた客室もあって、そうした部屋を利用した時にたまたま撮影できたものである。

秋保温泉の客室の風呂場(2012.11.19 撮影)

堂ヶ島温泉の客室の風呂場(2013.3.17 撮影)


 
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If I must die

2024-11-01 00:00:00 | 日記
If I must die
  by Refaat Alareer (1979.9.23ー2023.12.6) in 2011 
                もし、私が死ななければならないのなら
                リファアト アライール(1979.9.23ー2023.12.6)2011年作  
          
If I must die,
                                             もし、私が死ななければならないのなら
you must live
                  あなたはどうしても生きなければならない
to tell my story
                                   私の物語を語るために       
to sell my things
                  私の遺品を売って
to buy a piece of cloth
                  一切れの布と
and some strings,
                  糸を少し買うために
(make it white with a long tail)
                   (色は白で、長い尻尾をつけてほしい)
so that a child, somewhere in Gaza
                    そうすれば子どもたちが、ガザのどこかで
while looking heaven in the eye
                  天を見つめながら
awaiting his dad left in a blaze—
                  激しい炎の中に消えた父親を探し求め
and bid no one farewell
                  誰にも
not even to his flesh
                  自分の肉体にも
not even to himself—
                  魂にさえも別れを告げることなく消えた父を
sees the kite, my kite you made, flying up above
                  あなたが作った凧、私の凧が空高く舞うのを見て
and thinks for a moment an angel is there
                    束の間、天使がそこに現われて
bringing back love
                  愛をよみがえらせてくれるから
f I must die
                 もし私が死ななければならないなら
let it bring hope
                 それが希望をもたらしますように
let it be a tale
                 それが物語になりますように


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森村 桂さん

2024-10-18 00:00:00 | 日記
 軽井沢町町制施行100周年を機に、軽井沢町教育委員会が1968年から発行し、12版を重ねてきた「軽井沢文学散歩」が装いも新たに新編となり昨年発刊された。

 当ブログでも紹介してきた明治・大正生まれの多くの作家がここに紹介されているが、その中に昭和生まれの作家も含まれるようになっていて、その一人、森村桂さんの名前も登場している。


「新編 軽井沢文学散歩」(2023年、 軽井沢町教育委員会発行)の表紙

 この「軽井沢文学散歩」の中で、森村桂さんは「南軽井沢エリア」の項で紹介されている。それは彼女がこの地区に「アリスの丘」ティールームを開いていたという関係からである。

 著書「アリスの丘の物語」(1984 角川書店)からの引用として、次の文が紹介されていて、軽井沢とゆかりのある近代の作家と言えるだろう。

 「北窓から何気なく外を見たとたん、息をのんだ。
 左ななめの浅間山、あの、いつも青黒くあずき色っぽかった、私には一つも美しいとはいえなかった浅間山に、うっすらと雪がかかり、まるで、モンブランのようなのだ。
 何と、お前が・・・・・、こんなにも、白鳥の羽のように、やさしく、きれいだったとは・・・・・。
 〈中略〉
 『すてきよ、とてもきれいよ』
 軽井沢は幼いころからなじみのあるところだった。でも今のような思いで浅間山を見たことがあるだろうか。あの初雪の白さが、陽のかげんだろうか、淡いバラ色にでもそまりそうな、神秘的なやさしい色になっているのである。」

 この森村桂さんが見たという浅間山はこんな風だったのだろうか。

朝焼けの浅間山と満月(2023.11.29 筆者撮影)

 森村桂さんと言えば、我々の年代の者にとってはデビュー作「違っているかしら」(1966年 オリオン社発行 )に続く2作目「天国に一番近い島」(1966年 学習研究社発行)が強く印象に残っている。

 当時、大学同級のNさんがこの本のことを紹介してくれた時の様子が今も思い出される。

 その後、前記2作品を原作として、NHK朝の連続テレビ小説「あしたこそ」(1968.4~1969.4 橋田寿賀子脚本)が作られるなど、「天国に一番近い島」は最終的には200万部を超える大ベストセラーとなった。

 さらに、「違っているかしら」と「天国に一番近い島」は映画化もされている。
 □ 私、違っているかしら(1966年、監督:松尾昭典、主演:吉永小百合)
 □ 天国にいちばん近い島(1984年、監督:大林宣彦、主演:原田知世)

 そんな森村桂さんが南軽井沢に手作りのケーキとジャムの店「アリスの丘」を開いたのは1985年のこと。

 開店当初のこの店については、
 「アリスの丘のケーキ屋さん」(1986年、中央公論社刊)、
 「桂のケーキ屋さん」(1986年、)、
 「忘れんぼのバナナケーキ」(1986年、ハーレクイン・エンタープライズ日本支社刊)などに見ることができる。

 その後もこの店やケーキ作りについての次のようないくつかの著書がある。

 「桂のクッキー屋さん」(1989年、)
 「皇太子の恋にささげたウェディングケーキ」(1993年、青春出版社)
 「桂のマイケーキ」(1994年、)
 「アリスの丘のお菓子物語」(2004年、海竜社刊)

 軽井沢の地元新聞社が発行している季刊雑誌「ヴィネット」には店の開店まもなくから森村桂さんのエッセイが寄せられていて、1989年からは「アリスの丘からこんにちわ」(1989年~1998年)の連載も行われていた。

 休止期間もあったようだが、2004年に「新連載」と題してエッセイが再開されて間もなくの2005年春号に、突然「森村桂さん死亡」とする編集長の広川小夜子さんの記事が書かれた。次のようである。

 「軽井沢取材日記㉖ 
 『天国に一番近い島』で知られる作家、森村桂さんが天国へと旅立った。アッといわせるいでたちで編集部を訪れた7月上旬、とても元気な様子に見えた。 それから2ヶ月、いったい、桂さんに何があったのか・・・。

 『森村桂が本日亡くなりました』と夫のM一郎さんから電話を受けたのは平成16(2004)年9月27日のこと。それは突然の信じられない出来事だった。・・・
 長い間、入退院を繰り返し治療を続けていた森村桂さん・・・元気を取り戻したのは、平成15(2003)年8月下旬、13年ぶりに天皇皇后両陛下が軽井沢を訪問されたことがきっかけだった。美智子皇后からケーキの注文を受け、スタッフに『皇后様のケーキは桂さんが焼かなくてはいけないですよね』と言われ、・・・桂さんはハッとしたという。そして心をこめて作り、滞在されているホテルにお届けした。その時、美智子様の嬉しそうな様子に桂さんの心は病から立ち直ったのだった。・・・」

 病から立ち直った後、2004年春号から「森村桂のエッセイ・アリスの丘からこんにちわ」が新連載として始まり、第1回のテーマは「皇后さまと思い出のお菓子」であった。

 続いて2004年夏号には第2回「九ちゃん、また、夏が来たよ!」というタイトルで、仲良しだった坂本九さんのことを書いた。九ちゃんを忘れないようにと「忘れんぼのバナナケーキ」を作るようになったのだという。このエッセイの最後に ー 今年も九ちゃんの命日に、今では名物になった「アリスの丘」の”忘れんぼのバナナケーキ”をモチ網にのせて持ち、御巣鷹山に向かって「上を向いて歩こう」を歌うだろう ー これが桂さんの遺稿になった(一部上記「軽井沢取材日記」㉖ からの引用)。 

 私は森村桂さんの著書の読者ではなく、私が軽井沢に移り住んだのは2015年のことで、森村桂さんはすでに亡くなった後のことであったし、「アリスの丘」もすでに閉じられていたので、ご本人や店との軽井沢での接点はない。

 子供のころからよく軽井沢に来ていて、義母と「アリスの丘」にも行ったことがあるという妻から、店のあった場所近くを車で通りすぎるときに、折に触れて話を聞くだけであった。ただ、学生時代にNさんから聞いた「天国に一番近い島」の作者としてのイメージは強く印象に残っていた。

 今年になって、「軽井沢新聞」に次のような記事が載った。

 「森村桂さん、浅間山麓に眠る

 『天国に一番近い島』で知られる作家、森村桂さんの納骨式が7月19日、西軽井沢の向原霊園で行われた。森村さんが亡くなったのは平成16(2004)年9月だが、夫の三宅一郎さんが身近に置きたいと遺骨を自宅に持ち続けていた。 
 三宅さんが亡くなった後、親族は長く生活していた軽井沢で二人を眠らせてあげたいと考えて場所を探し、樹木に囲まれたこの環境を選んだ。
 墓石には二人の名を刻み、その横には森村さんが描いた自画像とアリスの丘の文字、猫のプーさんのイラストを彫刻した石が置かれている。・・・(軽井沢新聞、2024年8月号から引用)」

 霊園のある場所は、「アリスの丘」から西方に約6キロ離れた場所である。佐久平方面に出かける時にはよく通っている抜け道の道路からもほど近い場所にある。
 
 先日、妻とこのお墓に立ち寄ってみた。管理人のいない人気のない霊園であったが、それほど広い所ではないので、お二人のお墓はすぐに見つかった。いかにも桂さんらしく、彼女が笑顔で語りかけてくる姿が思い浮かぶようなお墓であった。

森村桂さんと三宅一郎さんの墓(2024.9.17 撮影)

森村桂さんと三宅一郎さんの墓(2024.9.17 撮影)


墓石脇の石に刻まれた自画像、アリスの丘、ネコのプーさん(2024.9.17 撮影)

 「アリスの丘」は取り壊され、更地になってしまい、森村桂さんが軽井沢にいたという記憶も消えてしまいそうであるが、ヴィネットに載ったエッセイを読んでいると、彼女が軽井沢に残したものが、お墓のほかにもいくつかあることが知れる。

 「アリスの丘」の前面道路である軽井沢バイパスに架かる3つの橋にはそれぞれ親柱に森村桂さんが描いた4枚のエッチングのプレートが配置されている。橋両側の中央部にもそれぞれ次の解説板が設けられていて、今はだいぶ読みにくくなっているが文面は次のようである。

 「メルヘン橋
 軽井沢バイパスには三つの橋があります。この度、橋の改修工事にあたり、何か軽井沢らしいイメージをと、軽井沢在住の作家 森村桂さんにお願いして、『緑よ水よ森の動物たちよ永遠に』をテーマに『森のプーさんの見た夢』12点の絵童話によるエッチングを親柱に配しました。散歩やサイクリングのあいまに、軽井沢を舞台に生れた森の動物たちのメルヘンの世界をお楽しみ下さい。
                               建設省長野国道工事事務所」


橋に設けられた森村桂さんのエッチングの解説板(2024.10.16 撮影)

 このエッチングの制作年についての記載はないが、軽井沢バイパスが緑化工事も含めて完成したのが1987年で、「アリスの丘」の開店が1985年であるから、ちょうどこの間に制作されたものと推測される。説明版の文字同様、エッチングの絵も文字も一部かなり読みにくくなっているが、今も健在である。


「雨宮橋」のエッチングプレート①花の枕でスヤスヤと(2024.10.16 撮影)

「雨宮橋」のエッチングプレート②幸せのウディングケーキ(2024.10.16 撮影)


「雨宮橋」のエッチングプレート③木さんは天才(2024.10.16 撮影)

「雨宮橋」のエッチングプレート④雪をよぶお菓子(2024.10.16 撮影)

「湯川橋」のエッチングプレート⑤魔法のじゅうたん(2024.10.16 撮影)

「湯川橋」のエッチングプレート⑥ぶどうの季節(2024.10.16 撮影)


「湯川橋」のエッチングプレート⑦くまさんは冬眠(2024.10.16 撮影)


「湯川橋」のエッチングプレート⑧誰がおいたか金の露(2024.10.16 撮影)


「鳥井原橋」のエッチングプレート⑨皇太子の恋(2024.10.16 撮影)


「鳥井原橋」のエッチングプレート⑩こわい山道(2024.10.16 撮影)


「鳥井原橋」のエッチングプレート⑪星をまく人(2024.10.16 撮影)

「鳥井原橋」のエッチングプレート⑫しょうにゅうどうのお姫さま(2024.10.16 撮影)

 以上紹介した「アリスの丘」ティールーム、メルヘン橋のエッチング ①~⑫、お二人の墓の場所は次のようである。

 「アリスの丘」ティールーム、メルヘン橋のエッチング ①~⑫、お二人の墓の概略地図

 このエッチングのほかに、軽井沢駅の改札口脇には桂さんが描いた、畳4枚分の大きな壁画があった。この壁画制作時のことはエッセイに書かれていて、次のようである。

プーさんの壁画描き
 軽井沢駅のホームで、ガタガタふるえながら”壁画”を描いていたら、子供たちの澄んだ声がひびいてきた。
 『わあ、きれい!』『かわいい!』『うまい』『がんばってください』
 あまりその声が続くので、うれしくて、『ありがとう、どこの学校?』
 『柏四小です』
 『柏!?』
 私はびっくりした。はじめて絵童話展をしていただいたのが柏なのだ。
 その、同じ柏の子供達が、この壁画を励ましてくれるなんてーーー。

 おととしの夏、うっかり、躁状態で引き受けてしまったものの、板にいきなり描き出しちゃったものだから、長雨でカビがはえたり、雪がふきこんで、色が後退したりあせたりしてさんざんだった。・・・
 1年後の春、ようやく・・・仕上げにかかることにした。・・・何とか完成。
 今度は、・・・額が気になってきた。洋画の友達が、額も模様にしちゃえば、と言ってくれたので、ぶどう唐草を描こうとしたが、描いても描いてもしみこんでしまう。
 『駄目だよ、ペンキ塗ってからじゃなきゃ』・・・
 さて、ペンキを塗るには、絵を寝かせなければならないという。駅員さんに頼んだところ、『困ったなあ、駅長が今日は出ちゃって。駅長がいちばん力持ちなんだ』・・・
 『すみません、どなたか手伝って・・・』 と、ちょうどホームに来た人に呼びかけた。と、すてきな紳士が二人、スッと近寄って加わって下さり、壁画が動いた時は感動した。
 友人が、額にこげ茶のペンキを塗ってくれ、私はその上に、アリスの丘の天井の梁に描いたと同じ白ペンキで、ぶどう唐草様のものを描いた。・・・
 さて、額を描き上がったら、今度は額だけが目立ってしまった。ではと、森の小人を登場させることにした。・・・

 六時すぎ、これ以上遅くなっては、駅員さんたちの数が少なくなり、もう、もとにもどせなくなるので、止めることにした。
 しかし、あまりの冷えのせいか、同じ姿勢だったせいか、立ち上がりはしたものの、まるで内臓が全部脚に落ちてしまったようで、歩くことがうまくできない。
 『うわあ、まだ、いたんですか』 
 アリスの丘の仲間たちだった。・・・」(「軽井沢ヴィネット」1992年 SUMMER号 より引用)

 壁画は、新幹線開通に伴い駅舎が新しくなった時に取り外され、桂さんの自宅に保管されていたというが、ご主人の三宅一郎さんが亡くなってからは別の場所に保管されているので今は見ることができない。


 
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