軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

大阪の軽井沢

2018-01-26 00:00:00 | 日記
 高齢の母の見守りに、毎月大阪に来るようになって1年半ほどになるが、その機会を利用して大阪周辺の観光地や各種展示施設などを訪れている。私自身は大阪出身ではあるが、学生時代までを過ごしただけで、当時はまだ車を持っておらず、行ったことのない場所は結構多くあるし、この50年ほどで、大阪も大きく変貌しているから、見所は随分ある。

 今回、軽井沢を出るときに、妻から「大阪にも軽井沢がある」との情報を得た。渡されたプリントを見ると、「大阪の軽井沢」との文字が見える。とりあえず受け取って、移動の列車内で見ることにして出かけてきた。

 その場所は、大阪北部の豊野郡能勢町・豊能町と言うことで、両町内全域が標高200m地帯で、500mに及ぶ地域もあり、夏は大阪市内とは5~6℃気温差があり涼しいところから、このように呼ばれているということであった。

 いつごろからこう呼ばれるようになったのか、私が大阪で過ごした頃には聞いたことがなかったように思う。

 母は、毎週、月・水・金とデイサービスに行っていて、朝出かけて夕方には帰ってくる。火・木は自宅で過ごしているが、このどちらかの日に、毎月のように映画を見に行っている。

 先月などは、2回も見に行ったが、これは母が映画を見に行ったことを忘れてしまい、数日後にまた「映画を見に行きたい!」と言いだした結果である。

 週末は食料品の買い物などに出かけたり、外出したりすることが多いが、今回の「大阪の軽井沢」行きも日曜日になった。ドライブ好きの母も当然一緒に付いて来ることになる。

 車のナビに目的地のひとつ「豊能町中心部」をセットして、自宅のある堺から近畿自動車道に乗り茨木方面に向かった。吹田ICを出るとすぐそばに大阪万博記念公園や阪大病院の建物があり、その横を通り抜ける。

 就職のため大阪を離れる頃にちょうどこの大阪万博が開催され、見に出かけたのであったが、その頃とは周囲の様子が一変していることに少なからず驚いた。

 市街地を通り抜けて、坂道に差し掛かると、少し離れた場所に「ガラシア病院」という看板を掲げた大きな病院の姿が目に入った。この「ガラシア」という名前が、これから目指す「大阪の軽井沢」豊能町高山地区は、高山右近の生誕地であり、高山右近といえば、戦国時代のキリシタン大名として有名であったことを思い出させてくれた。

 ただ、帰宅後この「ガラシア病院」について調べたところでは、高山右近との関係については見出すことはできず、病院のウェブサイトには次のような説明があった。

 「ガラシア病院は1953年(昭和28年)11月、カトリック大阪大司教区および大阪聖ヨゼフ宣教修道女会を設立母体として、キリストの愛に基づいた医療奉仕を目的に大阪市西区に設立されました。 1969年 (昭和44年)4月、箕面市に移転し、現在は9の診療科をもって診療を行っています。
 各科ともレベルの高い専門医療を目指すとともに、近隣の医療・福祉施設や大学病院との連携のもと、地域の方々に安心していただける医療の提供に努力しています。」とある。

 さて、ここを過ぎてから道路標識を見ていると「勝尾寺」という名前がでてきて、この勝尾寺には中学生の頃、昆虫採集に行ったことがあるのを思い出した。

 阪急電車箕面線の終点・箕面駅で下車し、箕面滝まで途中昆虫館などに立ち寄りながら歩き、更にそこから奥に向かっていくと勝尾寺に出るのであった。

 今、車で逆方向から勝尾寺に向かっていることになるが、このあたりは周囲の景色から今でも昆虫採集にはいい場所ではないかと思える。道路は上り坂が続くが、日曜日ということもあって、多くの自転車に乗った人の姿を見かける。中には上のほうから小学校低学年と思える子供がヘルメット姿で坂道を下って来るのに出会い感心する。

 勝尾寺に着いてみると、予想以上の人出で、第一駐車場は「満」状態で停めることができず、更に上の方の立派な建物の内部にある第二駐車場に車を停め、参拝者出入口に向かった。ここで、一人400円也の入山料を払い、境内に入る。
 
 中学生の頃の様子を思い出そうとしたが、古い山門を見たような記憶しかなく、それも本当にこの勝尾寺であったのかどうか確信が持てない。今、目の前にある境内の様子は、広く手入れが行き届いている素晴らしい場所であった。

 ここまでは、千里中央からバスが出ていて、門前のバス停には多くの人がこのバスを利用している姿が見られた。


勝尾寺前のバス停、路線バスは千里中央駅との間を結んでいる(2018.1.21 撮影)

 山門には一対の仁王像があり、その向こう側の庭園には大きい池(弁天池)が広がっている。境内の案内用の地図を見ると、右手方向には勝尾寺霊苑という分譲墓地があって、それで多くの人がお墓参りを兼ねて来ているようであった。


勝尾寺の山門(2018.1.21 撮影)


勝尾寺の境内の様子(2018.1.21 撮影)

 境内の売店では寺の名前の「勝」にちなんで、縁起物の勝ちだるまが売られているが、このだるまの小さいものが境内のあちらこちらに置かれていて、なかなか楽しい雰囲気を演出している。


境内のあちこちに置かれているだるま(2018.1.21 撮影)

 勝尾寺で思いがけず時間を過ごすことになったが、簡単に昼食を済ませ、目指す高山地区に向かった。途中、箕面滝に向かう道と別れてからは急こう配の曲がりくねった道を登る。

 集落のある場所に出ると道路沿いに、「右近の郷」と書かれた看板を見つけたが、ちょうどそこがバス停の高山であった。

 車を移動させながら、プリントの「高山右近生誕の地」の石碑の案内を探していたら、プリントにはないが、「マリアの墓」という案内標識が見つかった。車を道路わきの駐車スペースに停めて、先ずこの「マリアの墓」を見に行くことにして、母を誘ってみたが、車で待っていると言う。


県道沿いに、掲げられている「マリアの墓」の案内標識(2018.1.21 撮影)


同上拡大(2018.1.21 撮影)

 この標識のある場所から、県道をそれて細い道を一人で歩き始めたが、道がしだいに険しくなり、どうもこの先いくら行っても「マリアの墓」にたどり着けそうにないと感じ、引き返した。母はこういう時なかなか感が鋭い。

 少し戻り、分かれ道を別の方向に行くと、ここで「マリアの墓」の案内板が見つかり、この後はスムーズに目的の墓に行くことができた。


「マリアの墓」の案内板 1(2018.1.21 撮影)


「マリアの墓」の案内板 2(2018.1.21 撮影)

 県道から入る最初の道を選び間違えたのが原因のようであった。人生、こういうことがよくあるな、など余計なことを思いつつ歩き、目的の場所に着いた。

 「マリアの墓」という名前に疑問を持ちながらやってきたが、この「マリア」とは高山右近の母親の洗礼名であった。ただしかし、ここに4基ある墓のどれかが、実際に高山右近の母のものであるというのは、墓碑の年代とも合わないし、墓の横にある説明板にも次のように記されていた。

 「墓碑は4基からなり、なぜか1基が離れている。墓碑には、江戸時代中期の元文・延享・寛延(1730~51)の年号が刻まれており、2組の夫婦の墓と伝えられている。
 当時、高山はキリシタン大名として名を馳せた高山右近の居城のあともあり、キリシタンとは関係の深い土地柄である。
 『マリヤ』の墓の所伝は不明であるが、明治時代の古老によると江戸幕府のキリシタン禁教後、キリスト教徒はほとんど姿を消したが、村には2軒が残り、やがて転宗したと言われている。所伝が正しければ、この2軒の夫婦が、墓碑2組の夫婦とも考えられ、江戸時代、高山でのキリシタンは寛延年間頃で後を絶ったことになる。
 平成5年11月    豊能町教育委員会」


「マリアの墓」を示す案内板(2018.1.21 撮影)


豊能町教育委員会が設置した、墓の由来の説明パネル(2018.1.21 撮影)


「マリアの墓」とされる4基の墓碑、そのうち1基は離れて木の陰に見える(2018.1.21 撮影)

 この道を下ったところに、本来の「マリアの墓」への案内板があった。


県道沿いに、掲げられている「マリアの墓」の案内標識(2018.1.21 撮影)
 
 ここから、もと来た道を少し戻ったところに、元小学校であったと思われる場所があり、「右近の郷」と書かれているので、そこに行ってみた。ここは現在「高山コミュニティーセンター」になっていて、建物の前には、地元産の御影石で作ったとされる高山右近夫妻の像と説明板があった。説明によると、この像は高山右近没後400年を記念して建立されている。


高山コミュニティーセンター、旧高山小学校(2018.1.21 撮影)


高山右近・志野夫婦像(2018.1.21 撮影)


像の横に立てられている、高山右近・志野夫婦像建立に寄せる碑文、平成27年(2015年)5月31日建立とある(2018.1.21 撮影)


「キリシタン大名・高山右近のふる里」の案内板(2018.1.21 撮影)

 旧高山小学校というこの運動場の反対側には、子供たちが作ったのであろうか、やはり高山右近夫婦のものとおもわれる胸像が残されていた。


旧小学校の校庭の一隅にある、高山右近夫婦のものとおもわれる胸像(2018.1.21 撮影)

 ただ、ここにはプリントにある「高山右近生誕地」の碑は見当たらなかった。

 建物から出てきた男性に、「生誕の地」碑のある場所を訪ねると、県道の反対側の小高い場所を指して、あの神社の中にあると教えてくれた。

 教えられた場所に行ってみると、神社入り口脇の整備された場所に目指す石碑が見えた。


八幡神社境内の一角にある「高山右近生誕の地」碑(2018.1.21 撮影)


碑の裏側に刻まれた説明文(2018.1.21 撮影)

 この碑の背面には次のように記されている。

 「キリシタン大名高山右近は西暦1552年(天文21年)是より西北に隔たること三百米高山城で、父高山飛騨守 母マリヤの長男として生まれ、幼名を彦五郎と称した。
 1573年 天性文武にすぐれ、乱世の中若くして高槻城主となる。また深くキリシタンを信奉し布教につとめ、厳しい弾圧の中にも、その節をまげず一貫してキリストの愛の教えに殉じた郷土ゆかりの偉大な人物であった。   
                                   1998年3月建立
                                                      寄贈 大西 昇」

  ここは、八幡神社のほか、稲荷神社、愛宕社、観音堂などの社が立っている場所で、石碑のある場所から高山の町が見通せる位置にある。


「高山右近生誕の地」碑から高山地区を望む(2018.1.21 撮影)

 この碑にはこれ以上の詳しいことは記されていないが、1552年から1615年までを生きた高山右近にとり時代は厳しいものへと変わっていった。

 16世紀末の日本人口に占めるキリシタンの割合は約10%とされていて、その普及ぶりが感じられるが、高山右近も当初は多くの大名をキリシタンへと変えている。

 しかし、その後豊臣秀吉によるバテレン追放令が施行されると、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てて、1588年には前田利家に招かれて加賀に赴いている。

 さらに、徳川家康の時代になると、キリシタン国外追放令を受けて、加賀を退去し、長崎から家族と共にマニラに送られる船に乗った。マニラではスペインの総督らから大歓迎を受けたとされているが、その後まもなく旅の疲れや慣れない気候のため病を得て、マニラ到着後わずか40日で、63歳の生涯を閉じた。

 島原の乱が起きたのは、それから22年後の1937年のことであり、日本は鎖国の時代に入るが、昨年上映され、母と見に行った映画「沈黙」の舞台になった時代はこの少し後のことである。

 高山右近が信仰のために、大名の地位を捨て日本を追われることになるが、「沈黙」が描くイエズス会の司祭で高名な神学者、クリストヴァン・フェレイラは、日本での過酷な弾圧に屈して、棄教する。その知らせを受けた弟子の2人が日本に潜入するが、一人は命を落とし、もう一人は師と同じように、日本人の命を救うために信仰を捨てたという話である。

 ところで、信州の軽井沢は、元々は江戸時代の5街道の一つ、中山道69次の宿場町であった。明治維新のあと一旦は寂れることになるが、日本に来ていたキリスト教の宣教師が、この地が故郷に似ていることを見出し、それ以降別荘地として発展してきた。

 冷涼な気候が、豊能町周辺を「大阪の軽井沢」と呼ばせていたが、信州の軽井沢とはもうひとつキリスト教というつながりがあったことに気がついた。

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ガラスの話(5)ローマン・グラス

2018-01-19 09:53:03 | ガラス
 ガラス工芸のことについて、まだそれほどよく知らなかったころ、有楽町の駅近くにあるアンティークショップ街を歩いていて、古いガラス器に目が留まった。表面が虹色に輝いていて、昆虫の玉虫色のように見えるもので、これがローマン・グラスであった。とても高価なもので、その時は通り過ぎてきたが、その後、骨董市やミネラルショウなどに出かけると、意識してローマン・グラスを見るようになった。

 それからしばらくして、このローマン・グラスを思いがけず手に入れることができた。妻が私の誕生日にプレゼントしてくれたのであった。そんなに物欲しそうな目で見ていたのかと反省させられたが、実際に手にしてみるとなかなか嬉しく楽しいものである。

 思えば、私のガラス器への興味はここから始まったように思う。元々ガラスという素材への興味は強く、ガラスの研究ができればと思い就職先にガラス会社を選んだのであったが、ガラス器に対してはそれほどの関心は無かった。

 それが、ここにきてにわかに興味の対象範囲が広がってきたようであった。それからしばらくして、我が家にローマン・グラスの仲間がもう1個増えた。今度のものは大きさは同じくらいで、よく似ているが、首の横に持ち手がついているものであった。これも妻が買ってきたもので、最初にプレゼントにと買ったものとよく似たものが、とても安く売られていたので・・と言うのがその理由であった。

 ローマン・グラスとは文字通りローマ帝国時代のガラスと言うことであるが、厳密には帝政ローマが始まった紀元前30年から東西分裂の395年までの期間に、ローマ帝国の領内で作られたガラス器を指す。

 この時期、日本はどうであったかというと、弥生式土器時代から古墳時代に相当し、この頃の遺跡からはガラスの小玉は発掘されるものの、ガラス器はまだもう少し先のことで、わが国でガラス器が最初に見られるのは、5世紀頃の古墳からとされている。

 ローマン・グラスのこの時代に、紀元前4000年まで遡るといわれるガラス工芸技術の歴史に革命的な進展があったが、それは現在まで、延々と用いられ続けている「吹きガラス」の発明であった。

 それまでのガラス器製作技術の中心はコア・テクニックと呼ばれるもので、砂質粘土で作った内型の周りを溶解したガラスの帯で覆ってから均(なら)して一体化させ、固化した後、内部の粘土を掻き出して容器を作る方法であった。


コア・テクニックによるガラス器の製造方法

 これに対して、「吹きガラス」の技法は、たった一本の鉄製のパイプの先に溶けたガラスを巻き取り、丸く整えてから、もう一方の端から息を吹き込んでガラス玉を膨らませる方法である。


「吹きガラス」作業の様子(ウィキペディア「吹きガラス」、2016年8月23日より)

 この技法により、紀元1世紀には、ほとんどあらゆる種類の器物が作られるようになっていた。

 紀元2~3世紀のギリシャ人アテナエウスは「ダイプノソフィスト」に、次のように書き記している。

 「アレキサンドリアの人々は、いろいろの地域から輸入されたあらゆる形式の焼きものを模倣して、ガラスでいろいろな種類の杯類を作っているという。(「ガラスの道」由水常雄著 昭和48年徳間書店発行より引用)」

 また、紀元5世紀のテオドレトは、「先見論」の中で、次のように述べている。

 「このような固まりから、火と息を使って、あのさまざまな杯や、皿や、足つき杯や、鶴首瓶や、小さなアンフォーラ(*)や、道具や、肉や飲み物用に使えるそれぞれに適った器を作るすべを、一体どこから覚えるのであろうか。(「ガラスの道」より引用、*:2つの取っ手のある器)」

 新たに発明された、この「吹きガラス」技術が当時どれほど大きな影響を与えたかというと、それまでの、100年間の生産量が、僅か1年もかからないで作れてしまうと言われるほどである。

 また、この吹きガラス技術により、従来とは比べ物にならないほど大型のものができるようになり、様々な形を、非常に速く作りだすことができるようになった。

 古代ギリシャの地理学者であるストラボンが記した「地理志」巻16には、この状況について次のようなことを述べられている。

 「アチェとティロスの間には砂浜があって、そこでガラス製造用の原料砂が採れる。今日ではこの砂はシドンに運ばれて、そこで熔解され、型に入れられるという。

 熔解できるガラス用の砂は、多くの地方の中でもシドンだけにあるという人もいるが、他の人々の話では、どこのどんな砂でも熔解できるという。私がアレキサンドリアのガラス職人に聞いたところでは、一種のガラス性の砂があって、これがなくては多くの色のついた豪華な模様(ガラス)はできないという。

 他の諸国にもそれぞれ独特の混和剤がある。ローマではガラスの発色や能率的な作業について数々の発明が行われた。その結果、ガラスの瓶やコップが銅貨1個で買えるようになった。(「ガラスの道」より引用 )」

 それ以前は、ガラスと金とはほとんど同価値に考えられていたと言うから、銅貨一個で買えるようになったことで、貴族対象であったものが当時の一般民衆の間にも急速に広まっていったと考えられる。

 ローマン・グラスには、それ以前およびそれ以降のものとは異なる特徴があるとされる。それらは次のようなものである。

 1. 吹きガラス法で作られていること(押型ガラスも若干あった)。
 2. 素材がソーダ・ガラスであること。
 3. 素地の色が、主として天然原料の発色による青、緑、茶系統色およびコバルト青であること。
 4. ガラスの素材の性質を生かした、非常に素直な形態に作られていること。

 私たちが得た2個のローマン・グラスがいつごろ、どこで作られたかは、はっきりしないが、遺跡から発掘されたままと思われる土が乾いてこびりついており、ガラスの厚みはとても薄く、軽く作られていて、上記の内容にも合致している。また、ガラス器の表面はいわゆる「銀化」状態にあって、虹色の光沢がある。


ローマン・グラスの小瓶-1(2018.1.12 撮影)


ローマン・グラスの小瓶-1(2018.1.12 撮影)


ローマン・グラスの取ってつき小瓶-2(2018.1.12 撮影)

 この銀化現象は、2000年近く地中にあって、この間に基質であるソーダ(ナトリウム)ガラス表面からナトリウム成分が溶け出したために、基質とは異なる、屈折率の小さな層が形成されたために起きているものと考えられている。実験室などでこの再現ができそうに思うのだが、まだ成功したという話は報告されていないようである。単に温度・湿度と時間だけでない別の要因がからんでいるのであろうと思う。

 先に、昆虫などが持つ色のようだと書いたが、まさに同じ原理である構造色で、光の干渉により生じているものである。

 私もそうだが、日本人の多くはこのローマン・グラスの瓶などの銀化色を好ましいものと感じ、大切に扱うのであるが、ドイツ人などはこの表面の層を削り取って瓶本体の形や色を楽しむのだと、どこかで読んだ記憶がある。人の感じ方にはずいぶんと差があるものである。

 約400年間にわたり作り続けられたローマン・グラス、その量は膨大で、古代ローマ帝国領域内の出土点数や出土遺跡の数は他を圧倒して多くなっているが、その出土分布はユーラシアの全体に広がっている。さらには、当時の交易ルートを通じて中国を経て日本にも渡ってきていたことが、5世紀ころの古墳からガラス器が発掘され、確認されている。

 ローマン・グラスが作られていたこの時代に、現代に繋がる以下のような多くのガラス工芸技法が開発されていることもまた驚きである。

 1. カット加工
 2. エナメル彩画
 3. カメオ・カット
 4. 線描画
 5. ゴールド・サンドウィッチ(2層のガラスで、金箔に描いた文様を挟み込む)
 6. ディアトレッタ(厚手のガラス器の表面を削り、透かし彫文様をつけたもの)
 7. ミルフィオリ
 8. 吹き型装飾

 「吹きガラス」の技法は現在も多くのガラス器製作現場で採用されている方法であるが、20世紀初頭にはこの手吹き法で「窓ガラス」が生産されていた。その様子は次のようなものであった。

 「激しい熱気を発して燃えさかっているルツボ炉の近くに、窓ガラス(厚さ2~3mm)を吹く職人たちの足場が作られている。この職人たちは、彼らが宙吹きするもの――ガラスの円筒状のたま――にちなんで、円筒工(ハリャーヴァ)と呼ばれた。

 足場のそばに、深く狭い溝のような空所が設けられている。円筒工は、ルツボから数回にわたって、20キログラムもある溶融ガラスのかたまりを吹き竿の先に巻き取る。できるだけ多量の空気を吹き込んで、職人はガラスのたま――筒をしだいに大きく膨らます。息を吹き込みながら彼らは、たえずたまのついた吹き竿をまわし、また溝に沿って振り子のようにそれを振りまわす。

 職人は重くて熱いガラスのたまといっしょに溝の中に落ち込まないように、作業中はいつも鎖で柱にむすびつけられている。(「ガラスの科学」クリュチニコフ著 東京図書1967年発行より引用)」 

 これはソビエトでの様子を記したのもであるが、日本でも同様であって、当時の日本ではこの円筒工は元相撲取りが多く行っていた。

 
筒から窓ガラスを作る方法を示す図(「ガラスの科学」)

 現在「窓ガラス」と言う言葉は生産現場では使われなくなり、大面積の平坦なガラスは「板ガラス」と呼ばれるようになっている。この最新の「板ガラス」は、いくつかの技術を経てきてはいるが、ほとんどが英国ピルキントン社で開発されたフロート法で造られている。

 この方法は溶融金属スズの上に比重の差を利用して溶解ガラスの生地を広げ、スズ面の平滑さを写し取りながら連続的に生産するものである。

 かなり古い住宅などの窓のガラスは波打っていて、外の景色が歪んで反射しているのを見かけることもあるが、最近のガラスは驚くほど平坦で、高度の平滑性を求められる鏡用の板ガラスも、少し前までは板ガラスを製造した後、更に表面を研磨して平滑にしていたものが、最近では研磨無しで使えるようになっている。(このブログを読んでくれた友人のIさんから、沼津御用邸で撮影した次の写真を送っていただいたので、追加しておきます。)


古い窓ガラスを通してみる外の景色の様子(2017.12.19 沼津御用邸にてI氏撮影)

 このフロート技術は更に進化を遂げて、0.1mmという極薄の「シートガラス」まで量産できるようになってきていて、曲面形状のTVなどへの応用が検討されるところまで来ている。

 こんな風にたどって見ると、ただ古くて美しいガラス器だと思っていたローマン・グラスが古代と現代をつなぐ架け橋のように思えてくるのである。




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庭にきた蝶(20)モンキチョウ

2018-01-12 00:00:00 | 
 今回はモンキチョウ。前翅長は22~33mmで、「モンシロチョウ」と共に最も身近な蝶である。食草はマメ科の植物で、1964年発行の古い「原色日本蝶類図鑑」(保育社発行)には、ミヤコグサ・クサフジ・ダイズなどの名前が挙げられているが、最近発行された本にはまずアカツメクサ・シロツメクサが、続いてレンゲソウ・コマツナギ・ミヤコグサ・クサフジなどが挙げられていて、この間の植生の変化を反映していることが感じられる。

 成虫は年3~5回、4月から11月にかけて発生し、幼虫で越冬するが、冬も休眠せず、暖かい日には食草を食して成長し、早春に蛹になるとされる。雌雄で翅色が異なり、♂は黄色だけであるのに対し、♀の翅の色は白い個体と黄色の個体とが混在する。

 食草のアカツメクサやシロツメクサが法(のり)面の緑化材として使用されていることから、分布域は広がり、個体数は長野県内でも増加傾向にあるとされている。

 昨年の夏、類似種で長野県の天然記念物に指定されている「ミヤマモンキチョウ」を見るために池の平湿原に出かけたが、その時モンキチョウの♂と、ミヤマモンキチョウの♀の求愛行動と思われる飛翔中の姿を目撃し、撮影したことがあった。

 ミヤマモンキチョウの生息域は、北アルプスや浅間山系など、ごく狭い範囲に限定されているが、モンキチョウの方は平地から高山にまで広く分布していて、一部ではハイブリッドの存在も確認されていると言うから、そうした行動であったのかもしれないと思っている。


池の平湿原で見かけた、モンキチョウの♂(上)とミヤマモンキチョウの♀の求愛行動と思われる飛翔中の姿(2017.7.31 撮影)

 さて、本題に戻る。我が家の隣地はまだ空き地になっていて、そこにはシロツメクサ・アカツメクサ・ヨモギなどが生えているが、モンキチョウがよく飛び回っている。

 これまでに「庭にきた蝶」で紹介してきた多くの蝶は、庭にあるブッドレアやキャットミントなどの花に吸蜜にやってくるのだが、このモンキチョウの場合は庭の周辺で姿を見かけることはあっても、庭の花にやって来て止まることは稀で、したがって撮影の機会がほとんどなかった。

 ようやく撮影できたのはこれまでに1回だけであった。


ブッドレアの花で吸蜜するモンキチョウ♀(2017.7.25 撮影)

 この1枚だけではいかにも寂しいので、軽井沢とその周辺で撮影した写真をいくつか紹介する。


シャスターデイジーの花で吸蜜するモンキチョウ♀(2017.6.17 撮影)


クルマユリの花で吸蜜するモンキチョウ♀。触角に小さなアリが止まっているが、棍棒状の触角はびくともしないようだ(2016.8.1 撮影)


ジシバリの花で吸蜜するモンキチョウ♀(2016.8.25 撮影)


ヒメジョオンの花で吸蜜するモンキチョウ♀(2016.8.1 撮影)


オミナエシの花で吸蜜するモンキチョウ♂(2017.8.5 撮影)

 吸蜜中の姿はご覧のとおり翅を閉じている。翅表は飛翔中に見ることができるので、少しピンボケの写真になるが紹介させていただく。


コセンダングサの花に向かって飛翔するモンキチョウ♀(2016.7.28 撮影)


クルマユリから飛び立つモンキチョウ♀(2016.8.1 撮影) 

 ある日、隣地のアカツメクサの葉上にモンキチョウの♀が止まり産卵しているところを目撃したので、その場所に行ってみると、細長い、よく見ないと判らない、長さが1.5mmくらいの卵が1個産みつけられていた。

 周りを探してみると、同様の卵が数個見つかった。目印の棒を地面に挿しておいて、時々見に行っていると、産卵直後には白~黄色をしていた卵がオレンジ色に変化してきていたので、孵化の様子を3D撮影することにして、アカツメクサの株を掘り出し、鉢植えにして家に持ち込んだ。


アカツメクサの葉に産み付けられたモンキチョウの卵(2017.8.4 撮影動画からのキャプチャー画像)

 オレンジ色になってきていた卵は更に黒く変化し、中で幼虫が動いている様子も見えるようになる。そして幼虫は中から卵の頭頂部をかじって穴を開け、そこから這い出してくる。その後少し休んでから卵の殻を食べてしまう。

 この様子を3D動画撮影したが、そこからのキャプチャー画像を見ていただく。







モンキチョウの孵化(2017.8.7, 10:00~17:40 撮影動画からのキャプチャー画像)
 
 孵化した幼虫は、やがてアカツメクサの葉を食べ始める。葉の先端部を、葉脈を避けて穴を開けるように食べるが、少し食べると葉の中心葉脈の上にもどり、じっとしている。しばらくすると、食べかけの穴に行き、少し食べてはまた中心葉脈に戻るという行動を繰り返す。



モンキチョウの1齢幼虫の食餌と休憩(2017.8.7 撮影動画からのキャプチャー画像)

 幼虫の脱皮の様子は残念ながら撮影できなかったが、4回の脱皮を繰り返し、5齢幼虫になると食草を離れて飼育箱の中を這い回るので、この段階で枯れ枝を用意してやると、そこで静止してキタキチョウ(2017.5.19 付け当ブログ)の時と同様糸かけをして前蛹になり、次いで脱皮し蛹に変身する。



モンキチョウの前蛹(上)と蛹(2017.9.7 撮影動画からのキャプチャー画像)

 この蛹はちょうどこの日から2週間後の9月21日に羽化した。








モンキチョウの羽化(2017.9.21 9:40~10:10 撮影動画からのキャプチャー画像)

 羽化したモンキチョウは♂で、まだ飛び立つ様子が無く、庭のキャットミントの花に移して、そのままとまらせておいた。長い間じっとそのままでいたので、妻がつまみあげて手のひらで包んでやったりしていたが、やがて生まれ故郷の隣地の方に飛び去っていった。


羽化後、キャットミントの花に止まり翅が乾くのを待つモンキチョウ♂(2017.9.21 撮影)


まだ飛ぶ力が無いのか、手の中でじっとしているモンキチョウ♂(2017.9.21 撮影)





 
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浅間26景

2018-01-05 00:00:00 | 浅間山
 少し遅いのですが、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。このブログを2016年7月にスタートして1年半ほどが過ぎましたが、今年の元旦現在でサイトを見に来ていただいた方の累計数は20,376名になりました。今回から、ページに訪問者数累計を表示することにしましたので、ご覧ください。  

 年頭に当たり、昨年に続いて今年も浅間山の姿をお届けします。1年間を通じて定点撮影をしました。

 花は盛りに、月は隈なきをのみ、みるものかは・・・という言葉がありますが、浅間山の姿を撮影するとなると、どうしても美しい姿を撮影したくなります。ここはそれをぐっと我慢して一年を通じて、ありのままの姿を撮影してみました。



 撮影場所は発地(ほっち)で、軽井沢駅の南西方向に位置しており、広い畑地が残されている場所である。この撮影ポイントの近くには、昨年「発地市庭(いちば)」がオープンし地場野菜や土産物の販売を行うようになった。これまでは駅周辺の混雑を迂回する車が通る程度であったが、俄かににぎやかになってきている。それでも、この定点からの浅間山の姿には人工的なものがほとんど写ることがない。浅間山の姿と共に、この周辺の畑地の変化も写っていて、季節感を与えてくれている。

 最初は2017年元旦の姿。浅間山の2000m辺りから上の方はうっすらと雪に覆われている。


2017. 1. 1, 10:24 撮影 

 その後降った雪で様子が一変し、軽井沢にも雪が積もった。


2017. 1. 10, 10:11 撮影

 山頂付近の雪は少し溶けたようだ。


2017. 1. 19, 16:51 撮影

 夕焼けに山肌が染まる時間帯に撮影に出かけたが、雲がかかり、残念。


2017.1.22, 16:50 撮影

 雪がさらに溶ける。


2017.1.28, 17:28 撮影


2017.2.2, 10:25 撮影

 夕焼けの撮影に再度挑戦。山頂から立ちのぼる噴煙も赤く染まる。


2017.2.2, 17:06 撮影

 アップにすると山腹に赤い顔の猿が見える。


2017.2.2, 17:08 撮影

 数分後にはもとの色調に戻る。


2017.2.2, 17:16 撮影

 3月になると、冬のきりりとした感じがなくなってくる。


2017.3.16, 17:20 撮影

 雪も溶け始める。


2017.4.16, 06:36 撮影


2017.4.19, 15:27 撮影


2017.5.4, 11:15 撮影


2017.5.31、10:08 撮影

 厚い雲に覆われることが多くなって、次第に浅間山の姿が見えない日が増えていく。


2017.6.28, 11:45 撮影


2017.6.30, 16:47 撮影


2017.7.2, 11:29 撮影


2017.8.9, 16:27 撮影


2017.8.24, 15:04 撮影


2017.9.1, 14:33 撮影

 早くも畑地には秋の気配が感じられるようになる。


2017.9.29, 14:06 撮影

 初冠雪。山麓には紅葉が見られる。


2017.10.26, 11:23 撮影

 浅間山特有の縞模様が美しい。


 雪はいったん消える。


2017.11.9, 16:08 撮影

 そして、長い冬が始まる。


2017.11.26, 15:44 撮影

 12月は撮影の機会がなく、写真がありません。最後に現在の姿を。


2018.1.2, 14:37 撮影

 では、今年が平和な年でありますように。


コメント
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