「大正から令和まで4つの時代を生きた瀬戸内寂聴さん(1922年5月15日生まれ、本名三谷晴美)が11月9日、心不全のため99歳で京都市内の病院で亡くなった」というニュースが11月11日、TVで報じられ、在りし日の映像が流された。その映像の中には数年前に体調をこわした際に、リハビリに取り組む姿も見られた。また、片方の視力を失い、92歳で胆のうがんの手術を受けても、正座して机に向かったとも報じられた。
11月12日の読売新聞の6面には、作家井上荒野さんの追悼文が掲載され、川端康成氏と共に、晴美さん時代の瀬戸内さん、円地文子さん等3人の女性が座卓を囲んで座っている写真も添えられていた。
井上荒野さんの父上は、やはり作家の井上光晴氏(1926.5.15-1992.5.30)である。この文章の冒頭で、荒野さんは瀬戸内さんが光晴氏の恋人であったと明かしている。
このことは、荒野さんの小説「あちらにいる鬼」のモチーフにもなっているというが、その小説の中で、「荒野さんの母親をモデルにした白木笙子が、寂聴さんをモデルにした長内寂光について『大らかで率直で、無邪気で軽妙なひとだ』『太陽みたいな人だ』『この世の女というものの豊かさが全部備わっている』と思う場面がある。」と紹介している。
いかにも瀬戸内さんのことらしいと思わせる形容の仕方であるが、さらに荒野さんが小説「あちらにいる鬼」を書くために光晴氏のことをインタビューしているとき、「『歴代の恋人の中で、父は何番目くらいですか』と聞いたら、『みーんな、つまらない男だったわ!』とこれも破顔された。」とも明かしている。
私自身は瀬戸内作品の愛読者ではなかったが、我が家には瀬戸内さんに関係した品が2つある。
ひとつは、嵯峨野の寂庵で行われた法話を録音したCDセット「寂庵法話集」と、もう一つは瀬戸内さんから母に送られてきた手紙・ハガキと著書、そして人形である。
瀬戸内作品の愛読者でもなく、仏教に関心があるわけでもない私が、法話のCDを購入したいきさつについては、今はもうはっきりしないが、たまに母をドライブに連れて行く際に、車内で聞かせるために入手したのではなかったかと思う。3年前にやはり99歳で亡くなった母は、瀬戸内さんよりも3歳年上の大正8年12月の生まれであった。ちなみに、母は11月9日に私を生んだ。
車に取り付けた、10枚のCDを装着できるオートチェンジャーにそのCDを何枚か入れたままにしていたので、母が乗っていない時にもドライブ中にはしばしばこの寂庵法話を聴いていて、CDの内容は繰り返し何度も聞いてすっかり頭に入ってしまった。
寂庵法話集の収納木箱表の絵
「寂庵法話集」と題されたこの12枚のCDの内容は次のようである。
【第1巻】出家について(収録日:1989年11月18日)
来庵者へのあいさつ・お寺とは?・私が出家したわけ・大乗仏教と小乗仏教の違い・自分に何ができるか考えて生きるのが人生・南無阿弥陀仏の意味・どう生きればいいか・般若心経読経
【第2巻】修行について(収録日:1992年6月18日)
来庵者へのあいさつ・加持の不思議・六郷満山の行・私たちは死ぬために生きている
【第3巻】釈迦について(収録日:1989年5月18日)
来庵者へのあいさつ・お釈迦様の誕生・殺すなかれ・再びお釈迦様のこと・お釈迦さまの最期・釈迦の無記
【第4巻】巡礼について(収録日:1989年6月18日)
来庵者へのあいさつ・六郷満山巡礼へ・何のために巡礼するのか・巡礼の時に唱える観音経の意味は・信仰とは
【第5巻】無常について(収録日:1994年4月18日)
来庵者へのあいさつ・無常とは・歳の取り方、死に方は難しい・忘己利他・煩悩をなだめることが仏教の勉強・プラスイメージで生きましょう・愛した人の魂は残された者の幸せを祈ってくれる
【第6巻】彼岸・六波羅蜜について(収録日:1992年3月18日)
来庵者へのあいさつ・仏教の始まり・二河白道の話・信は任すなり・六波羅蜜の行・我々は死ぬまで凡夫なり
【第7巻】愛について(収録日:1995年7月18日)
来庵者へのあいさつ・先のことを思い煩うなかれ・震災は無常の最低の時と思いましょう・相手の言うことを聞く耳を持とう・仏さまの耳が大きいわけは?・押しつけは愛ではない・愛には渇愛と慈愛がある・和顔施とは
【第8巻】老いについて(収録日:1991年10月18日)
来庵者へのあいさつ・ボケは防ぎようがない・人間は誰でも孤独である・遠い将来に目的を置くことが大事・性格は変えられないが、視点は変えられる・人には優しくしましょう
【第9巻】死と墓について(収録日:1991年12月18日)
来庵者へのあいさつ・ソ連の崩壊で困ったのはアメリカ・自分にしてほしくないことを他人にするな・イラクへ命懸けで薬を持っていく・高僧たちの葬送観・向こう岸に渡る六つの切符
【第10巻】祈りについて(収録日:1993年1月18日)
来庵者へのあいさつ・人知れずにすることが奉仕すること・祈りで湾岸戦争が終結した!・阿闍梨さんの祈りで癌が消えた・寝ずに観音経を何千回もあげた祈りは通じた・三世の思想とは?・目の前の今だけを考える
【第11巻】定命について(収録日:1997年3月16日)
来庵者へのあいさつ・清凉寺御縁・「源氏物語」の舞台・一度結んだ縁は大切に・人間なんてほんとにわからない・今日一日を悔いがないように
【特別盤】講演「生きる喜び」(収録日:1986年5月21日)
来庵者へのあいさつ・曼陀羅山寂庵の誕生・お金を一銭も取らずにお寺の門を開いた・私は命ある限りこの寺を守っていきたい
各巻の初めには、毎回来庵者へのあいさつとやりとりが含まれていて、どこから来たかを訪ね、一番遠方から来た人から数名には記念品が配られる様子が紹介されている。これに続く法話を聴いていると、寂聴さんが出家するに至る経緯や出家後の修行の様子、周囲の僧侶たちとの交流、仏教についての考えなどがよくわかってくる。中には政治的な話題も含まれている。
瀬戸内さんは1973年11月14日、51歳の時に岩手県・中尊寺で得度した。その出家の理由について第1巻の法話「私が出家したわけ」で次のように話している。この法話収録日は1989年11月18日であるが、当時寂聴さんは67歳である。
「・・・当時、流行作家であり、小説は今と同じくらい売れていた。なに不自由のない生活もできて、着物や宝石もたくさん持てるようになり、すべてを手に入れたと思うようになっていた。しかし、欲を言えばきりがない、次第に空しさを覚えるようになり、違う生き方をしなければならない、このままでは同じような小説しか書けないと思うようになった。・・・
そうした時に、出家ということを思いついた。今から思えば縁だと思える。それはカソリックでも何でもよくて、遠藤周作さん(1923.3.27-1996.9.29)に神父さんを紹介していただいて聖書も読んでもらっていた。その若い神父さんが、4度目くらいに私に身の上相談を始めた。その神父さんは立派な方だが、当時は頼りなく思いカソリックはやめにしたので縁がなかった。・・・
そうして、最終的にはたまたま天台宗になったが、これも他のあらゆる宗派に行ったが誰も相手にしてくれなかったからで、結局天台宗の大僧正で中尊寺の管主である今東光先生(1898.3.26-1977.9.19)が弟子にしてくださって、11月14日に中尊寺で頭を丸めることになった。
この日、今東光先生はがんの手術を受けた後で来ることができず、代わりに先生の親友で東京・上野の寛永寺の管主であった杉谷義周大僧正が来てくださった。この方が私の頭を丸めるわけではなく、かみそりを当てるだけで、別室で剃ることになった。私はかみそりで剃るのではなく電気バリカンで丸めてもらったのでした。・・・」
出家後、京都に庵を結びこれまでと同じように小説を書いていたが、10年を過ぎたころから考えが変わってきたという。
それまでは門を閉ざして人を受け入れることがなかった庵を寺にして開放することを思い立つのである。この時の様子は、「特別盤」の講演「曼陀羅山寂庵の誕生」で紹介していて次のようである。収録日は1986年5月21日で、この時瀬戸内さんは64歳、故郷徳島に出かけての講演である。
「・・・私は去年の5月15日に自分の住んでおります京都の嵯峨野の寂庵という住まいの横に嵯峨野サンガという道場を建てました。そしてそれを5月15日に落慶法要を致しまして、16日から門を開きました。これはたいへんな決断を要します。・・・1973年の出家後も自分のところをお寺にはしないで、普通の家にして、そこに小さな持仏堂を作り、そこで仏さんを祭って朝晩拝んで、そして相変わらず小説を書かしてもらってたわけでございます。ところが、そうして10年も過ぎてまいりますと、これは非常に有難いことで、これは自分の力で無事に10年が出家者として過ぎたのではないと言うことをつくづく考えさせられました。・・・
これは自分の力ではなくて、まったく仏に護られやってきたんだということが身にしみて分りました。・・・
これまでは自分のために自分のためにといってやってまいりましたけれども、・・・これからはお返しをする時だということに気がつきました。・・・
私は出家をしたけれども、門を閉ざして人を入れていない。・・・けれども仮にも頭を丸めて出家者となった以上、作家瀬戸内晴美ならばそれでいいけれども、瀬戸内寂聴の私の部分が、それは余りに傲慢ではないかということに気が付きました。・・・それでは思い切って門を開こう・・・出家した以上は坊主なんだから(プライバシーがなくなるなどの不自由は)仕方がないと思いまして、思い切って門を開ける決心をいたしました。
この時、初めてお寺の申請をいたしました。・・・門を開けた以上はお寺にしないことには受け入れ態勢ができないと思いました。そのために申請をいたしますと即下りました。非常に珍しいことだそうでございます。・・・
私は、単立寺院として申請をいたしました。・・・(出家後)比叡山の横川(よかわ)で2か月の修業をいたしますと、お寺の住職になる資格がいただけます。1974年には住職になる資格を持っているわけです。それを使わなかったんですが、これでやろうと思いました。・・・自分でお寺を作ろう・・・その時に、単立寺院と申請いたしました。
何故単立寺院にしたか、これは私がもしお寺の住職になった場合、おそらく私は勝手気ままなことをするから、比叡山に迷惑をかけるに違いないと思ったんですね。・・・比叡山の天台宗の教えと違ったことを言うかもしれない、あるいは少し過激なことを言うかもしれない。・・・単立寺院にしておけばそれは私一人の責任になりますからそうしようということで、単立寺院の申請をしました。
(それまで)庵は寂庵という名前を勝手につけておりました。・・・この嵯峨野の寂庵という名前が定着しておりました。・・・ところが、本当のお寺にする時は山号がいるわけですね。・・・ちょうど私の寂庵のすぐそばに曼陀羅山という山がございます。・・・それで曼陀羅山という名前を付けようと思い、曼陀羅山寂庵とつけました。それでお寺が許可になりました。お祭りするのは小観音様で、経典は法華経ということで下りました。その後私は思い切って門を開けました。・・・」
こうして出家後10年余を経て、庵はお寺として解放され、多くの人が訪れることになった。京都のお寺では多くはお金を取るが、瀬戸内さんはお金を取ることはしなかった。替わりにお賽銭箱を置いて、どうしてもという人はここに入れることができるようにした。
寺を開いてみると、予想外に多くの人が訪れることになり、そのための場所として、100人は入れるようにと40畳の黄色の絨毯敷きの部屋を作り、ここで写経・座禅・法話が行えるようにした。これらは全て無料で行うこととし、そのための資金はすべて作家活動で得たお金を使うことを決意したという。
このようにして、前記の法話集で紹介されている活動が始まったことになる。
ところで、私の母はこの嵯峨野の曼陀羅山寂庵に出かけたことはなかったと思う。その代わり、その理由は判らないが手紙を書き送ったり、何かの品物かお賽銭を送ったようである。
その返礼として送られてきた次のハガキが母の遺品の中にあった。日付は平成21(2009)年なので、母が90歳、瀬戸内さんが87歳の時ということになる。
瀬戸内寂聴さんからのハガキ
また、母の生前、瀬戸内寂聴さんから頂いたという返信の手紙と、同封されていた著書を見せてもらったことがあった。今回そのことを思い出して、捜してみたが見つからない。まだ、母の遺品の数々の整理がきちんとできていないのである。
二人の妹に問い合わせてみると、上の妹の所には寂聴さんのサイン入りの本があり、その写真が送られてきた。次のようである。
寂聴さんから母に送られてきたサインの入った著書
この本の一部の内容についての写真も送られてきたが、そこには人形のことが書かれていた。
手作りの人形のことが書かれているページ
このページには次のように書かれている。
「戦時中の北京で、初めて産んだ娘の初節句には、
お雛さまも飾ってやれなかった。
私は色紙(いろがみ)を買ってきて
小さな紙のお雛さまをつくってやった。
大豆を頭にして、顔を書いて、
それでもどうやら紙の衣装のお雛さまが揃った。
引揚げ後は雛など飾るどころではなかった。
娘は大豆のお雛さまなど覚えていない。」
そして、下の妹の所には寂聴さんから手紙・本と共に送られてきたというこの人形があり、次の写真が送られてきた。
寂聴さんから母に送られてきた手作り人形
母は、少女時代本を読むことが好きで、祖父母から何か買ってあげようといわれると、決まって本がほしいと言ったという。
私の子供時代の母の記憶には本を読んでいる姿は全くない。いつも私たち兄妹を護ることに必死であった。
私が就職して実家を離れてからの様子も判らないので、いつごろから再び母が本を読むようになったのかは知らないが、父の死後一人暮らしになった母を、定年になり時間がとれるようになった私が見守りに行くようになった頃にはいつも図書館で借りてきたという数冊の本がそばにあった。
その中に瀬戸内寂聴さんの本があったかどうか定かではないが、手紙を送ったりしていたところをみると、同年代の瀬戸内さんに何か共感するところがあったのではと推察する。今はどこかでそんな話でもしているのだろうか。
私は瀬戸内さんのことはほとんど何も知らない。知っているのは寂庵法話集で聞いた内容がすべてといってもよい。12巻のCDに収められた法話の中では実に様々なことが話されているが、今はっきりと思い出されるのは、寂聴さんの次の言葉である。前出の、第12巻【特別盤】の「生きる喜び」の講演の中で語られている。
「・・・出家するまでの私は自分が自分がと思っておりました。自分が才能があるから、あるいは努力するから作家になれるという風な自惚れできておりまして、自分の力を極限に押し開くことが生きる喜びであるという風に考えていたわけですね。
けれども、出家してから私は自分一人が幸せになってもしようがない、結局私たちが今生きている地球の上に起こっているすべての不幸は私たちの責任を負わなければならないことだという風に考えが変わってまいりました。
私が1人幸せであってもしようがない、アフリカに飢えた子があればしようがない、どこかで原子炉が爆発したらそれはしようがない、みんなその雨はやはり我われが一緒にかぶるものなんですね。
そういう風にこの地球の上に起こるすべての不幸に自分が責任をもたなければいけない。そして、自分が幸せになるように、すべての人が幸せになってもらわなければしようがないという風な考えを持つに至りました。そのために私は本当にこのごろ生きていることが楽しく喜ばしく思われます。力がある限り、体力の続く限りこういう生活をしていこうと思います。・・・
私は、人間が生きるのは自分一人の幸せを考えているだけでは本当の幸せでなく、他のすべての人々、今一緒に地球の上に生きているすべての人類が一人残らず幸せにならなければ真の生きる喜びというのは得られないのだということをこの頃考えます。そのことをお話しして今日のお話に代えさせていただきます。どうも有難うございました。」
瀬戸内寂聴さんのご冥福を心よりお祈りします。