軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

山野でみた鳥(9)ガビチョウ

2021-12-31 00:00:00 | 野鳥
 鎌倉に住んでいた頃なので、もう7-8年ほど前になるが、近くの山林で賑やかに長い間鳴き続ける鳥がいて、あれは「ガビチョウ」だと妻が教えてくれた。昼の間家にいる妻の話では、とにかくうるさく鳴き続けるのだという。時には他の鳥の鳴きまねもするらしい。

 このガビチョウという名を、私はその時まで聞いたことがなかったが、外来種ということで納得した。手元の野鳥図鑑を見てみるが、3冊あるうちで、ガビチョウを紹介しているのは、2000年発行の「日本の鳥 550 山野の鳥」(文一総合出版発行)1冊だけであり、2005年発行の「野鳥観察図鑑」(成美堂出版発行)には出ていない。また、これは当然だが、いつも参考にしている「原色日本鳥類図鑑」(1973年 保育社発行)にも取り上げられていない。

 「日本の鳥 550 山野の鳥」には写真入りで紹介されていて、眼の周囲が太めの白色で縁取りされていて、後方に伸びており特徴的である。漢字で書くと「画眉鳥」というのも納得である。

 元は台湾・中国南部・インドシナに分布していたが、1980年代から東京・神奈川・山梨・福岡などで野生化・繁殖が報告されるようになったというこのガビチョウ、鳥類では「コウライキジ」、「シロガシラ」、「ソウシチョウ」、「ドバト」と共に5種が特定外来生物に指定されていて、ウィキペディアには次のようになかなか厳しいことが書かれている。

 「ガビチョウ(画眉鳥、学名 Garrulax canorus)はスズメ目チメドリ科に分類される鳥。同属のカオグロガビチョウ、カオジロガビチョウと共に外来生物法で特定外来生物に指定されており、『日本の侵略的外来種ワースト100』選定種にもなっている。
 日本では、ペットとして輸入された個体がかご脱けにより定着した。日本国内では留鳥として生息し、南東北、関東、中部、九州北部で見られる。本種が多く観察されるポイントとして、東京都内では高尾山が有名である。・・・」

 「体長約 22-25cmで、嘴と尾が長い。体色は全体的に茶褐色~黄褐色で、腹の中央は灰色、喉と上胸に細いすじが入る。尾羽はやや黒い。眼の周り及びその後方に眉状に伸びた特徴的な白い紋様を持つ。嘴の色は黄色。
 かなり大きな音色で美しく囀る。ウグイスやキビタキ、オオルリ、サンコウチョウといった他種の囀りをまねることがある。・・・」

 「名の由来:和名は中国名の漢語表記を日本語読みにしたもの。中国語: 画眉は、「塗った眉」の意味で、眼の周りにある眉状の模様から。・・・」

 「日本に定着した経緯:ソウシチョウ同様、香港および華僑が進出した東南アジア各地で愛玩鳥として広く一般的に飼われていた本種は価格が非常に安価であり、ゆえに1970年代の飼い鳥ブームに乗って大量に輸入された。しかし体色が地味なことや、本種は和鳥と同じく手間のかかるすり餌によらねばならず面倒、といった理由もあって人気がなくなり、大量の在庫を抱えたペット販売業者が始末に困って遺棄(放鳥)に及んだ個体が少なからずあると見られる。」

 「生態系に与える影響:現在までとくに確認されていない。だが生息地である里山の生態系においてツグミやシロハラ、アカハラといった地上採食性のヒタキ科鳥類のニッチに相当する本種は、それらを駆逐する可能性がある。・・・」

 軽井沢では、朝の雲場池の散歩時にそれらしい鳴き声をたまに聞くことがあり、存在は感じていたが、姿を見たことはなく、あまり気にならなかった。そのガビチョウと先日突然出会うことになった。

 寒さが厳しくなってきた11月下旬、雲場池に面した別荘の庭先にカケスの姿が見えたので、超望遠レンズでその姿を追っている時に、地上で餌を探すしぐさをしている別の鳥がいることに気がついた。アカハラかと思ったが、顔が見えた瞬間に、その眼の特徴からガビチョウだと分かった。

 しばらく餌を探していたが1分もしないうちに飛び去り、姿を消してしまった。帰宅して写真を確認すると次のように、特徴ある姿が写っていた。

雲場池脇の別荘地の庭で餌を探す鳥(2021.11.30 撮影)

顔が見えて眼の縁取りからガビチョウと判明(2021.11.30 撮影)

別荘地の庭で餌の木の実を見つけて咥えるガビチョウ(2021.11.30 撮影)

人の気配に警戒する様子をみせるガビチョウ(2021.11.30 撮影)

再び餌を咥えてこの後飛び去って行った(2021.11.30 撮影)

 このガビチョウは特に姿が美しいということもないので、余りに鳴き声が大きく、うるさいと感じる日本人には合わず、人気がなくなっていったという話はわかるような気がする。

 一方、ウィキペディアにも出ていたが、先の図鑑にはこの「ガビチョウ」と並んで「ソウシチョウ」も外来種として紹介されていた。このソウシチョウも一度だけチラと雲場池で見かけたことがあるなかなか美しい鳥で、また出会えるといいなと思っていたが、今回このガビチョウのことを読んでいて、ソウシチョウもまた、飼育されていたものが1980年代から野生化しているのだと知り複雑な気持ちになった。

 個々の鳥には責任はないが、野鳥の多い軽井沢ではあっても、ガビチョウはアカハラなどを駆逐する可能性が指摘されるなど、生態系に次第に影響が出てくるであろうことを思うと、やはり安易に外来種を野に放すことは慎まなければならないと改めて思う。

 ガビチョウを撮影した日の朝は気温が下がり、暖かい湧き水が源流となっている雲場池にはケアラシが見られた。また、自宅庭に咲き始めていたバラも凍りついていた。元は台湾・中国南部・インドシナなど温暖な地域に分布していたとされるこのガビチョウ、寒い軽井沢でなかなかたくましさを感じさせてくれるのだが。

ケアラシが見られた朝の雲場池(2021.11.30 撮影)

咲き始めたバラも凍りついた(2021.11.30 撮影)



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マンロー病院

2021-12-24 00:00:00 | 軽井沢
 軽井沢を外から見ていた頃、堀辰雄の小説に登場する「サナトリウム」という語がとても印象的であった。

 堀辰雄の小説「風立ちぬ」と「美しい村」には2つのサナトリウムが登場する。美しい村には主人公の「私」が毎日のように軽井沢を散歩をする様子が描かれるが、4本の道筋があるとされる主な散歩コースの一つが、「サナトリウムの道」である。


堀辰雄著「風立ちぬ・美しい村(新潮社 昭和二十六年発行・平成二十三年改版)」のカバー表紙

 このサナトリウムの道は、軽井沢銀座通りを観光会館の横の道に折れて、さらにテニスコート沿いに東に進むと矢ケ崎川にかかる橋(中村橋)に出る。橋の手前の道を右に折れて川沿いに進むと、途中からやや狭い道になるが、これを進んでいくと、万平通りに架かる橋(森裏橋)のたもとに出る。橋を渡ってすぐ右に折れると、再び川沿いの道になるが、この道が現在「サナトリウムレーン」または「ささやきの小路」と呼ばれる道で、「美しい村」に登場する場所である。

 この道がサナトリウムの道と呼ばれるのは、万平通りから入ってすぐ左手に「軽井沢サナトリウム」または「マンロー病院」と呼ばれていた病院がかつて存在したからである。

 この病院は、当時軽井沢に別荘を建て暮らしていた避暑客の会である軽井沢避暑団と、やはり別荘を借りるなどして診療を行っていたマンロー医師が提携し、1924(大正13)年に設立したものであり、小説「美しい村」には「レエノルズさんの病院サナトリウム」として登場する。マンロー医師がモデルと思われる人物は、「いつもパイプを口から離したことのないレエノルズさん」「レエノルズ博士」として描かれている。

 また、ある日のこととして、「・・・向こうの小さな木橋を渡り、いまその生垣にさしかかったばかりのレエノルズ博士の姿を認めた。すぐ近くの自宅から病院へ出勤して来る途中らしかった。片手に太いステッキを持ち、他の手でパイプを握ったまま、少し猫背になって生垣の上へ気づかわしそうな視線を注ぎながら私の方へ近づいて来た。が、私を認めると、急にそれから目を離して、自分の前ばかりを見ながら歩き出した。そんな気がした。私も私で、そんな野薔薇などには目もくれない者のように、そっぽを向きながら歩いて行った。そうして私はすれちがいざま、その老人の焦点を失ったような空虚(うつろ)な眼差しのうちに、彼の可笑しいほどな狼狽と、私を気づまりにさせずにおかないような彼の不機嫌とを見抜いた。」と自らの目で見たレエノルズ博士を描いている。

 更に次は、宿の爺やの話として紹介されるレエノルズ博士の話であり、思いがけないことが述べられている。軽井沢でこうした火災が起きたという記録はなく、後に移住した北海道でのことと思われるが、これがどこまでマンロー博士の実像であるかどうかは判らない。
 「・・・それはあの四十年近くもこの村に住んでいるレエノルズ博士が村中の者からずっと憎まれ通しであると言うことだった。ある年の冬、その老医師の自宅が留守中に火事を起こしたことや、しかし村の者は誰一人それを消し止めようとはしなかったことや、そのために老医師が二十数年もかかって研究して書いていた論文がすっかり灰燼に帰したことなどを話した、爺やの話の様子では、どうも村の者が放火したらしくも見える。(何故そんなにその老医師が村の者から憎まれるようになったかは爺やの話だけではよく分からなかったけれど、私もまたそれを執拗に尋ねようとはしなかった。)---それ以来、老医師はその妻子だけを瑞西(スイス)に帰してしまい、そうして今だにどういう気なのか頑固に一人きりで看護婦を相手に暮らしているのだった。
 ・・・私はそんな話をしている爺やの無表情な顔のなかに、嘗つて彼自身もその老外人に一種の敬意をもっていたらしいことが、一つの傷のように残っているのを私は認めた。それは村の者の愚かしさの印であろうか。それともその老外人の頑な気質のためであろうか? ・・・そう言うような話を聞きながら、私は、自分があんなにも愛した彼の病院の裏側の野薔薇の生垣のことを何か切ないような気持になって思い出していた。」

 サナトリウムの建物の様子についての記述もあり、次のように紹介されている。
 「・・・、それらの生垣の間からサナトリウムの赤い建物が見えだすと、私は気を取り直して、黄いろいフランス菊がいまを盛りに咲きみだれている中庭のずっと向うにある、その日光室(サンルウム)を彼女に指して見せた。丁度、その日光室の中には快癒期の患者らしい外国人が一人、籐椅子に靠れていたが、それがひょいと上半身を起して、私たちの方をもの憂げな眼ざしで眺め出した。・・・」

 さて、堀辰雄のもう一つの小説「風立ちぬ」には、別のサナトリウムが舞台として登場する。八ヶ岳山麓にあるサナトリウムであり、実在した富士見高原療養所(現在の富士見高原病院)がモデルであるが、次のように描かれている。

 「八ヶ岳の大きなのびのびとした代赭色の裾野が漸くその勾配を弛めようとするところに、サナトリウムは、いくつかの側翼を並行に拡げながら、南を向いてたっていた。」

 この小説「風立ちぬ」では、主人公と節子が最初に出会った場所は軽井沢であるが、節子の結核の療養のために二人が入院するのは八ヶ岳高原にあるサナトリウムであり、節子の死後主人公が滞在するのはふたたび軽井沢という設定になっている。

 しかし、これらの小説をもう随分前に読んでいた私などは、結核を患った堀辰雄も、「風立ちぬ」の節子のモデルとされる綾子も、軽井沢のサナトリウムに入院していたとの誤解をしていた。そして軽井沢に住むようになり、改めて堀辰雄とサナトリウムのことを調べなおして、その誤りに気がついたのであった。

 さて、ふたたび軽井沢のサナトリウム、すなわちマンロー病院のことに話を戻そうと思う。
 軽井沢に本格的な西洋式の病院ができたのは、このマンロー病院が最初ということになるが、マンロー博士ははじめ、婦人アデールと来軽してタッピング別荘を借りてクリニックを始めた。その後、京三度屋(現坂口医院)の裏で、さらに萬松軒(現軽井沢郵便局)の別館を買い取り診療所としている。

 その頃の様子を桑原千代子氏の大変な労作「わがマンロー伝」(桑原千代子著 1983年新宿書房発行)から引用すると次のようである。

桑原千代子著「わがマンロー伝」(1983年新宿書房発行)のカバー表紙

 「・・・諏訪の森の近くの外人タッピングの別荘を借りて診療開始、次に京三度屋裏、一、二年後に萬松軒別館を買い入れ、改装してクリニックを開設した(現在のテニスコートの近く)。それはかなり手を加えて白塗鎧窓の瀟洒な建物となった。・・・で、兎も角もクリニック開設資金はみんな大貿易商の岳父から出たし、またアーデル名義で軽井沢町国際病院隣地三千坪も購入する。」

 そして、つづいてマンロー病院の建設である。

 「外人別荘が増えるにつれて、岳父の援助で萬松軒別館を買い取り開設したクリニックは、マンローの優れた技術と良心的な治療で大繁昌であった。一方、軽井沢避暑団(KSRA、日清戦争後できた軽井沢避暑人会が発展改名したもの)はこれまで再三にわたって、直営の国際病院(内実は診療所程度)」の院長兼任を頼んできていた。マンローは夏季(七、八、九月)三カ月だけ大正十年からこれを引き受けることになった。この時兼任を引き受ける条件として、自分のめがねにかなった優秀な婦長を就任させることがあった。マンローは神戸クロニクル社の社長と懇意であったので、神戸の万国病院からスカウトしてきたのが木村チヨ婦長であった。・・・
 この軽井沢の病院は呼称がいろいろと変化した。ナーシングセンターから出発して、国際病院、マンロー病院、軽井沢病院等とさまざまに呼ばれたが、大正十三年マンローの正式院長就任後からは、『軽井沢サナトリウム』が正しい呼称となる。」

 マンロー博士は軽井沢滞在中に、関東大震災に遭遇した。急ぎ、自宅や勤務先の病院があった横浜に駆けつけるが、惨禍は東京よりもひどかったとされる。横浜全市は廃墟と化し、山手町の病院も新居、夫人の実家も同様消失した。
 
 以下、「わがマンロー伝」からの引用を続ける。

 「震災のあとマンローは、横浜の病院の復興に力を尽した気配がない。夏だけの兼任ではなく年間を通じての国際病院の院長になるため、横浜の病院へは年末までと限って辞表を出している。ところが軽井沢避暑団は日本屈指の経済人の集まりだった。夏期七月から九月までの最も収入の多い期間は避暑団の経営で、患者が激減する他の長い季節はマンローの個人経営にするという、何とも虫のいい一方的な条件をおしつけたのだった。
 そして1924(大正十三)年一月から、『軽井沢サナトリウム』として発足するのだが、避暑団はあまり施設には手をかけない主義で、病室を増やすことに熱心だった。
 しかしシーズン・オフの軽井沢は全く寂しい。別荘は皆空き家となり、患者は土地の人々がほんの時折来るだけで、それに加えてマンローは貧しい小作人や木こり達からは相変わらず治療費はとらない。医薬品代、看護婦人件費、患者給食費等支出超過は多く、以前のように豊かな生活ではなくなった。そうした生まれて初めての経済的苦痛は次第に夫妻を苛々させることになった。
 夫人のアデールにとってはそれだけではなく、その以前から夫の背信に悩まされ続けていた。神戸からスカウトした木村婦長と夫は、すでに親しい関係に陥っていたのであった。・・・
 アデール夫人は悩んだ。だが悩んだあげくサナトリウムに隣接した自分名義の三千坪を避暑団に売り、マンローの負債を補って国外に去ってゆく。・・・
 三千坪を買い取った避暑団は病棟や外気小屋(軽症患者の開放療法室)を増築した。何のために院長を引き受けたのか、マンロー側の大きな誤算に終わり、昭和三年に入ると院長は加藤伝三郎博士に切り替えられた。・・・」

 名誉院長という、実質的には退職に追い込まれて、悶々の日々を送っていたマンロー博士は、この後ロックフェラー財団からの研究奨励金を得て、これまでも時々訪問していたアイヌの人々の研究のため、北海道に渡ることを決意した。1930(昭和5)年のことである。

 マンロー博士は、北海道に渡ってからも、殆んどの夏には軽井沢サナトリウムに出張診療を行っていた。それは生活のためであったとされる。そして、マンロー博士が1942(昭和17)年に北海道・二風谷で亡くなり、現地に埋葬されたのち、チヨ夫人は再びマンロー博士の分骨を抱いて軽井沢に戻り、軽井沢サナトリウムで婦長として職につき、1952(昭和29)年に69歳で退職するまで働いている。マンロー博士の分骨された遺骨は、百か日目に六本辻の外国人墓地に埋骨された。

 マンロー博士が去ってしばらくしてからの「軽井沢サナトリウム」については、「軽井沢病院誌」(1996/平成8年軽井沢病院発行)の中の「軽井沢町の医療の変遷」の冒頭部分に次の記述がある。

「軽井沢病院誌」(1996/平成8年軽井沢病院発行)の表紙【軽井沢図書館蔵】

 「1951(昭和26)年10月、医療法改正に伴い、名称が軽井沢診療所と変わり、翌1952(昭和27)年10月、加藤先生は退任されている。
 1953(昭和28)年から8年間は慶応内科の医師が交代で夏期3か月の診療に当たった。この間、昭和29年に長年婦長を勤めたチヨ夫人が辞め、昭和34年から歯科診療も行った。・・・
 昭和42年5月には赤字が嵩み廃止が決定された。跡地は旧軽井沢ビラとして宿泊施設に利用されたが、平成7年末に取り壊され、現在はすでになく、昔日の面影のある建物は見ることが出来ない。・・・」(片山氏)

 こうしてマンロー病院は姿を消すことになるが、それ以前に一時期、現在の軽井沢病院の前身である町営診療所がマンロー病院の一室を借りて診療を行っていたことがある(1949/昭和24年から)。初代所長の高嶺 登医師が「軽井沢病院誌」に次のように書き記している。

 「河合外科医局より軽井沢へ行く話があったのは昭和24年初夏の頃でした。・・・当時、軽井沢町では既に国民健康保険を施行しており、従って直営の診療所も欲しかったと思います。私の仕事は、その診療所を主として、その外、週一日小諸保健所での診察と、随時連合国関係の労務者の健康管理の三種でした。
 町の診療所は、旧道万平通りから矢ケ崎川にそってささやきの径に入って左手にあった通称軽井沢会診療所あるいはマンローサナトリウムと呼ばれていたベンガラ塗りの赤い木造洋館の一部屋を借りて、診療を始めました。
 この建物は、大正末期に軽井沢避暑団が設立して、日本の文化人類学のパイオニアといわれるマンロー博士がサナトリウムとして使っていたとのことでした。博士の没後、一時ペンションになったりしていたらしいですが、私の赴任した時にはイギリス帰りの加藤伝三郎先生が内科をしておられました。マンロー未亡人は婦長さんとして・給食係りとして活躍しておられました。病室はオープンで、町の先生方も自由に利用できましたので、アッペやヘルニアの手術後の面倒は専らマンロー夫人がやってくれました。・・・」

 ここでは、「軽井沢サナトリウム」がマンロー博士の没後一時期ペンションになり、その後再び病院機能を取り戻したことが書かれているが、このことに関しては他の資料には記載が見当たらず、詳しいことは判らない。
  
 高嶺医師が軽井沢に赴任したのは1949(昭和24)年のことであるが、「サナトリウムは」その後1967年まで継続し、ついに廃院とされ、さらに建物は「軽井沢ヴィラ」として1995年まで利用されたのち、築後71年目に解体される。

 マンロー病院の建物の写真は多く残されていて、文章にもあるようにベンガラ塗りの赤と、白い窓枠などの外観を見ることが出来る。古いものとしては、建設時に近い大正13年頃のもので、周囲にまだ何もない荒野に建つ姿が絵葉書として残されている。

 ただ、建物のあった場所について調べようとすると、今年で解体後26年目ということもあり、周囲の人に聞いても正確に覚えている人は少なくなっているし、先に示した資料を読んでも明確なことは判らない。

 そうした中、「心の糧(戦時下の軽井沢)」の著書のある大堀聰氏のホームページにマンロー病院の敷地図が紹介されていることを知った。これは国会図書館蔵の資料で、原所蔵機関は米国国立公文書館とされる。

 この敷地図と、現在の軽井沢の地図とを見比べていて、「サナトリウムレーン」に面した一角とぴったり一致することがわかった。次のようである。敷地の広さはアデール夫人名義で購入し、後に避暑団に売却したとされる三千坪とよく一致する。
 

マンロー病院の推定所在地

 この土地に、前記の敷地図にある建物を配置すると堀辰雄の書き残した野薔薇の生垣の植えられていた場所や日光室の籐椅子に休む患者の姿も次第に浮かんでくるように思える。

 現地の現在の様子は次の写真のようであり、軽井沢会のテニスコート専用駐車場として利用されていることが判る。撮影場所は配置図の①、②の2地点からである。

撮影ポイント①からの現在の様子(2021.12.22 撮影)

撮影ポイント②からの現在の様子(2021.12.22 撮影)

 このように、マンロー病院の歴史と、かつて建物の存在した場所、建物の配置が私なりに明らかになった。これまで紹介したマンロー病院の歴史と今回のこの物語に登場した人物について一覧表にすると次のようである。


マンロー病院とマンロー博士、チヨ夫人、堀辰雄、桑原千代子の年表
 
 来年2022年はマンロー氏没後80年にあたる。我が家からもほど近い軽井沢外国人墓地を訪ねると、少し傾きかけたマンロー博士の墓を見ることが出来る。外国人墓地の入り口に設けられた石碑には次のように刻まれている。

 軽井沢外国人墓地
 
 軽井沢ゆかりの外国のひとびとがここに眠る
この共同墓地は外国人避暑客による公益委員会と
村人たちによって大正2年に設立された。同年
  公益委員会は軽井沢避暑団となり、のち昭和17年 
に財団法人軽井沢会と名称を改め、現在に至る
 
           財団法人 軽井沢会

軽井沢外国人墓地の入り口に設けられた説明文の刻まれた石碑(2021.12.18 撮影)

 マンロー博士の墓は、外国人墓地入り口から入って少し先を左に折れたところにある。


南西側から見た外国人墓地の全体(丸印がマンロー博士の墓 2021.12.11 撮影)

墓石表面は相当読みにくくなっているが、次のように刻まれている。

 表には、
   NEIL GORDON 
                  MUNRO
            M.D. & C.M.

 BORN  JUNE 16    1863 
              EDINBURGH

    DEAD  APRIL   11    1942
                NIBUTANI

 右横には、
   
          醫学 并
        考古学者 満郎 先生墓
  
 裏には、
   妻 千代子 建
 
と刻まれている(チヨ夫人の名はここには千代子とある)。

 次の写真は、雪の降った日の午後に改めて出かけて撮影したものであるが、マンロー博士の墓にはどなたかが先に来ていたようで周囲には足跡が見られた。

マンロー博士の墓正面(2021.12.18 撮影)

マンロー博士の墓右側面(2021.12.18 撮影)


マンロー博士の墓背面(2021.12.18 撮影)

 この墓所からは北西方向に浅間山を望むことができる。


外国人墓地から浅間山を望む(2021.12.18 撮影)

 








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雲場池の水鳥(15)ホシハジロ

2021-12-17 00:00:00 | 野鳥
 今回はホシハジロ。雲場池の朝の散歩を始めて2年程が過ぎたが、この間雲場池にやってくる水鳥を観察していると、およそ次のようである。この図は、今年の春作成したものだが、今年の夏は、1羽だけマガモが北に帰ることなくとどまっていたので、その部分が異なっているので追記している。


雲場池で見られる水鳥(2020.1-2021.12)

 個体数の多い種や、目立った種についてはすでに当ブログで紹介したが、稀に見ることのできる種についても、写真が撮れたものについて紹介しておこうと思う。

 ホシハジロは2月から4月にかけて見ることができるが、その頻度は多くない。マガモ、キンクロハジロ、オオバンなどはその季節になると毎日のように見かけるが、ホシハジロは年に数回というところである。 

 遠くからも背中の白さが目立つ種で、キンクロハジロと混じっていても♂はよく目立つ。一方♀はキンクロハジロの♀と似ていて、はじめのうちはその存在に気付かなかったが、♂と一緒にいる写真を見ていてそれと判った。今回♀のホシハジロの写真は1枚だけである。

 写真でみると、♂の目の虹彩が赤いところが特徴であるが、♀の虹彩は黒褐色で目立たない。 

 いつもの「原色日本鳥類図鑑」(小林桂助著 1973年保育者発行)の記述を見ると、次のようである。
 「♂の頭頸部濃栗色。嘴峰43~49mm、翼長201~220mm、尾長50~55mm、跗蹠35~38mm。背には白地に微小な黒色虫くい状はんが密に散在。胸は黒色、腹は汚白色。♀は頭頸部、上背、上胸は赤かっ色で頭上わずかに黒色、喉淡色。以下の上面は♂に似るが暗色。腹は汚白色で下腹部淡墨色。嘴は黒色にて先端近くに灰青色帯がある。
 欧州およびアジアの中部にて繁殖し、我国には冬期渡来する。海上よりも好んで淡水の湖沼に生息し夜間は水田などにも飛来する。
 北海道・本州・四国・九州などに渡来する」

 雲場池で最初に見かけたのは昨年の2月28日であったが、その後3月11日と4月3日に撮影記録がある。今年に入ってからも似たようなもので、2月8日に姿を現し、3月21日まで計6日間の撮影記録がある。今のところ♀の姿を見たのは今年2月16日、1羽だけということになる。

雲場池に姿を見せたホシハジロ♂(左の3羽、右端はキンクロハジロ 2020.2.28 撮影)

雲場池に姿を見せたホシハジロ♂(2020.2.28 撮影)


雲場池に姿を見せたホシハジロ♂(2020.2.28 撮影)


雲場池に姿を見せたホシハジロ♂(2020.2.28 撮影)

雲場池のホシハジロ♂(2021.2.13 撮影)


雲場池のホシハジロ♂(2021.2.8 撮影)

雲場池のホシハジロ♂(2021.2.8 撮影)

雲場池のホシハジロ♂(2021.3.21 撮影)

雲場池のホシハジロ♂(2021.2.8 撮影)


雲場池のホシハジロ♂(2021.2.8 撮影)

雲場池のホシハジロ♂(2021.2.11 撮影)

 他の水鳥と比べると大きさが判るが、キンクロハジロよりは同等か僅かに大きく、マガモ、カルガモと比べると小さい。

キンクロハジロ(左♀と手前♂)とホシハジロ♂(2020.4.3 撮影)

キンクロハジロ(右♂)とホシハジロ♂(2021.3.21 撮影)

カルガモ(奥)とホシハジロ♂(2020.3.11 撮影)

コガモ(奥)、キンクロハジロ(手前2羽)とホシハジロ♂(2020.4.3 撮影)

マガモ♂とホシハジロ♂(2021.2.12 撮影)

 ♀と一緒に泳いでいる姿が撮影できたのは2021年2月16日だけであった。

ホシハジロの♀(左)♂(右の2羽)(2021.2.16 撮影)

 次回、ホシハジロが雲場池に姿を見せるのももうすぐと思われるが、何羽くらい来るのか、♀の姿は見られるのか、楽しみである。




















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瀬戸内寂聴さん

2021-12-10 00:00:00 | 日記
 「大正から令和まで4つの時代を生きた瀬戸内寂聴さん(1922年5月15日生まれ、本名三谷晴美)が11月9日、心不全のため99歳で京都市内の病院で亡くなった」というニュースが11月11日、TVで報じられ、在りし日の映像が流された。その映像の中には数年前に体調をこわした際に、リハビリに取り組む姿も見られた。また、片方の視力を失い、92歳で胆のうがんの手術を受けても、正座して机に向かったとも報じられた。
 
 11月12日の読売新聞の6面には、作家井上荒野さんの追悼文が掲載され、川端康成氏と共に、晴美さん時代の瀬戸内さん、円地文子さん等3人の女性が座卓を囲んで座っている写真も添えられていた。

 井上荒野さんの父上は、やはり作家の井上光晴氏(1926.5.15-1992.5.30)である。この文章の冒頭で、荒野さんは瀬戸内さんが光晴氏の恋人であったと明かしている。

 このことは、荒野さんの小説「あちらにいる鬼」のモチーフにもなっているというが、その小説の中で、「荒野さんの母親をモデルにした白木笙子が、寂聴さんをモデルにした長内寂光について『大らかで率直で、無邪気で軽妙なひとだ』『太陽みたいな人だ』『この世の女というものの豊かさが全部備わっている』と思う場面がある。」と紹介している。

 いかにも瀬戸内さんのことらしいと思わせる形容の仕方であるが、さらに荒野さんが小説「あちらにいる鬼」を書くために光晴氏のことをインタビューしているとき、「『歴代の恋人の中で、父は何番目くらいですか』と聞いたら、『みーんな、つまらない男だったわ!』とこれも破顔された。」とも明かしている。

 私自身は瀬戸内作品の愛読者ではなかったが、我が家には瀬戸内さんに関係した品が2つある。

 ひとつは、嵯峨野の寂庵で行われた法話を録音したCDセット「寂庵法話集」と、もう一つは瀬戸内さんから母に送られてきた手紙・ハガキと著書、そして人形である。

 瀬戸内作品の愛読者でもなく、仏教に関心があるわけでもない私が、法話のCDを購入したいきさつについては、今はもうはっきりしないが、たまに母をドライブに連れて行く際に、車内で聞かせるために入手したのではなかったかと思う。3年前にやはり99歳で亡くなった母は、瀬戸内さんよりも3歳年上の大正8年12月の生まれであった。ちなみに、母は11月9日に私を生んだ。

 車に取り付けた、10枚のCDを装着できるオートチェンジャーにそのCDを何枚か入れたままにしていたので、母が乗っていない時にもドライブ中にはしばしばこの寂庵法話を聴いていて、CDの内容は繰り返し何度も聞いてすっかり頭に入ってしまった。

寂庵法話集の収納木箱表の絵

「寂庵法話集」と題されたこの12枚のCDの内容は次のようである。

【第1巻】出家について(収録日:1989年11月18日)
 来庵者へのあいさつ・お寺とは?・私が出家したわけ・大乗仏教と小乗仏教の違い・自分に何ができるか考えて生きるのが人生・南無阿弥陀仏の意味・どう生きればいいか・般若心経読経
【第2巻】修行について(収録日:1992年6月18日)
 来庵者へのあいさつ・加持の不思議・六郷満山の行・私たちは死ぬために生きている 
【第3巻】釈迦について(収録日:1989年5月18日)
 来庵者へのあいさつ・お釈迦様の誕生・殺すなかれ・再びお釈迦様のこと・お釈迦さまの最期・釈迦の無記
【第4巻】巡礼について(収録日:1989年6月18日)
 来庵者へのあいさつ・六郷満山巡礼へ・何のために巡礼するのか・巡礼の時に唱える観音経の意味は・信仰とは
【第5巻】無常について(収録日:1994年4月18日)
 来庵者へのあいさつ・無常とは・歳の取り方、死に方は難しい・忘己利他・煩悩をなだめることが仏教の勉強・プラスイメージで生きましょう・愛した人の魂は残された者の幸せを祈ってくれる
【第6巻】彼岸・六波羅蜜について(収録日:1992年3月18日)
 来庵者へのあいさつ・仏教の始まり・二河白道の話・信は任すなり・六波羅蜜の行・我々は死ぬまで凡夫なり
【第7巻】愛について(収録日:1995年7月18日)
 来庵者へのあいさつ・先のことを思い煩うなかれ・震災は無常の最低の時と思いましょう・相手の言うことを聞く耳を持とう・仏さまの耳が大きいわけは?・押しつけは愛ではない・愛には渇愛と慈愛がある・和顔施とは
【第8巻】老いについて(収録日:1991年10月18日)
 来庵者へのあいさつ・ボケは防ぎようがない・人間は誰でも孤独である・遠い将来に目的を置くことが大事・性格は変えられないが、視点は変えられる・人には優しくしましょう
【第9巻】死と墓について(収録日:1991年12月18日)
 来庵者へのあいさつ・ソ連の崩壊で困ったのはアメリカ・自分にしてほしくないことを他人にするな・イラクへ命懸けで薬を持っていく・高僧たちの葬送観・向こう岸に渡る六つの切符
【第10巻】祈りについて(収録日:1993年1月18日)
 来庵者へのあいさつ・人知れずにすることが奉仕すること・祈りで湾岸戦争が終結した!・阿闍梨さんの祈りで癌が消えた・寝ずに観音経を何千回もあげた祈りは通じた・三世の思想とは?・目の前の今だけを考える
【第11巻】定命について(収録日:1997年3月16日)
 来庵者へのあいさつ・清凉寺御縁・「源氏物語」の舞台・一度結んだ縁は大切に・人間なんてほんとにわからない・今日一日を悔いがないように
【特別盤】講演「生きる喜び」(収録日:1986年5月21日)
 来庵者へのあいさつ・曼陀羅山寂庵の誕生・お金を一銭も取らずにお寺の門を開いた・私は命ある限りこの寺を守っていきたい

 各巻の初めには、毎回来庵者へのあいさつとやりとりが含まれていて、どこから来たかを訪ね、一番遠方から来た人から数名には記念品が配られる様子が紹介されている。これに続く法話を聴いていると、寂聴さんが出家するに至る経緯や出家後の修行の様子、周囲の僧侶たちとの交流、仏教についての考えなどがよくわかってくる。中には政治的な話題も含まれている。

 瀬戸内さんは1973年11月14日、51歳の時に岩手県・中尊寺で得度した。その出家の理由について第1巻の法話「私が出家したわけ」で次のように話している。この法話収録日は1989年11月18日であるが、当時寂聴さんは67歳である。

 「・・・当時、流行作家であり、小説は今と同じくらい売れていた。なに不自由のない生活もできて、着物や宝石もたくさん持てるようになり、すべてを手に入れたと思うようになっていた。しかし、欲を言えばきりがない、次第に空しさを覚えるようになり、違う生き方をしなければならない、このままでは同じような小説しか書けないと思うようになった。・・・
 
 そうした時に、出家ということを思いついた。今から思えば縁だと思える。それはカソリックでも何でもよくて、遠藤周作さん(1923.3.27-1996.9.29)に神父さんを紹介していただいて聖書も読んでもらっていた。その若い神父さんが、4度目くらいに私に身の上相談を始めた。その神父さんは立派な方だが、当時は頼りなく思いカソリックはやめにしたので縁がなかった。・・・

 そうして、最終的にはたまたま天台宗になったが、これも他のあらゆる宗派に行ったが誰も相手にしてくれなかったからで、結局天台宗の大僧正で中尊寺の管主である今東光先生(1898.3.26-1977.9.19)が弟子にしてくださって、11月14日に中尊寺で頭を丸めることになった。

 この日、今東光先生はがんの手術を受けた後で来ることができず、代わりに先生の親友で東京・上野の寛永寺の管主であった杉谷義周大僧正が来てくださった。この方が私の頭を丸めるわけではなく、かみそりを当てるだけで、別室で剃ることになった。私はかみそりで剃るのではなく電気バリカンで丸めてもらったのでした。・・・」

 出家後、京都に庵を結びこれまでと同じように小説を書いていたが、10年を過ぎたころから考えが変わってきたという。
 それまでは門を閉ざして人を受け入れることがなかった庵を寺にして開放することを思い立つのである。この時の様子は、「特別盤」の講演「曼陀羅山寂庵の誕生」で紹介していて次のようである。収録日は1986年5月21日で、この時瀬戸内さんは64歳、故郷徳島に出かけての講演である。

 「・・・私は去年の5月15日に自分の住んでおります京都の嵯峨野の寂庵という住まいの横に嵯峨野サンガという道場を建てました。そしてそれを5月15日に落慶法要を致しまして、16日から門を開きました。これはたいへんな決断を要します。・・・1973年の出家後も自分のところをお寺にはしないで、普通の家にして、そこに小さな持仏堂を作り、そこで仏さんを祭って朝晩拝んで、そして相変わらず小説を書かしてもらってたわけでございます。ところが、そうして10年も過ぎてまいりますと、これは非常に有難いことで、これは自分の力で無事に10年が出家者として過ぎたのではないと言うことをつくづく考えさせられました。・・・
 これは自分の力ではなくて、まったく仏に護られやってきたんだということが身にしみて分りました。・・・
 これまでは自分のために自分のためにといってやってまいりましたけれども、・・・これからはお返しをする時だということに気がつきました。・・・
 私は出家をしたけれども、門を閉ざして人を入れていない。・・・けれども仮にも頭を丸めて出家者となった以上、作家瀬戸内晴美ならばそれでいいけれども、瀬戸内寂聴の私の部分が、それは余りに傲慢ではないかということに気が付きました。・・・それでは思い切って門を開こう・・・出家した以上は坊主なんだから(プライバシーがなくなるなどの不自由は)仕方がないと思いまして、思い切って門を開ける決心をいたしました。
 この時、初めてお寺の申請をいたしました。・・・門を開けた以上はお寺にしないことには受け入れ態勢ができないと思いました。そのために申請をいたしますと即下りました。非常に珍しいことだそうでございます。・・・
 私は、単立寺院として申請をいたしました。・・・(出家後)比叡山の横川(よかわ)で2か月の修業をいたしますと、お寺の住職になる資格がいただけます。1974年には住職になる資格を持っているわけです。それを使わなかったんですが、これでやろうと思いました。・・・自分でお寺を作ろう・・・その時に、単立寺院と申請いたしました。
 何故単立寺院にしたか、これは私がもしお寺の住職になった場合、おそらく私は勝手気ままなことをするから、比叡山に迷惑をかけるに違いないと思ったんですね。・・・比叡山の天台宗の教えと違ったことを言うかもしれない、あるいは少し過激なことを言うかもしれない。・・・単立寺院にしておけばそれは私一人の責任になりますからそうしようということで、単立寺院の申請をしました。
 (それまで)庵は寂庵という名前を勝手につけておりました。・・・この嵯峨野の寂庵という名前が定着しておりました。・・・ところが、本当のお寺にする時は山号がいるわけですね。・・・ちょうど私の寂庵のすぐそばに曼陀羅山という山がございます。・・・それで曼陀羅山という名前を付けようと思い、曼陀羅山寂庵とつけました。それでお寺が許可になりました。お祭りするのは小観音様で、経典は法華経ということで下りました。その後私は思い切って門を開けました。・・・」

 こうして出家後10年余を経て、庵はお寺として解放され、多くの人が訪れることになった。京都のお寺では多くはお金を取るが、瀬戸内さんはお金を取ることはしなかった。替わりにお賽銭箱を置いて、どうしてもという人はここに入れることができるようにした。

 寺を開いてみると、予想外に多くの人が訪れることになり、そのための場所として、100人は入れるようにと40畳の黄色の絨毯敷きの部屋を作り、ここで写経・座禅・法話が行えるようにした。これらは全て無料で行うこととし、そのための資金はすべて作家活動で得たお金を使うことを決意したという。

 このようにして、前記の法話集で紹介されている活動が始まったことになる。

 ところで、私の母はこの嵯峨野の曼陀羅山寂庵に出かけたことはなかったと思う。その代わり、その理由は判らないが手紙を書き送ったり、何かの品物かお賽銭を送ったようである。
 
 その返礼として送られてきた次のハガキが母の遺品の中にあった。日付は平成21(2009)年なので、母が90歳、瀬戸内さんが87歳の時ということになる。

瀬戸内寂聴さんからのハガキ

 また、母の生前、瀬戸内寂聴さんから頂いたという返信の手紙と、同封されていた著書を見せてもらったことがあった。今回そのことを思い出して、捜してみたが見つからない。まだ、母の遺品の数々の整理がきちんとできていないのである。

 二人の妹に問い合わせてみると、上の妹の所には寂聴さんのサイン入りの本があり、その写真が送られてきた。次のようである。


寂聴さんから母に送られてきたサインの入った著書

 この本の一部の内容についての写真も送られてきたが、そこには人形のことが書かれていた。


手作りの人形のことが書かれているページ

 このページには次のように書かれている。
 
 「戦時中の北京で、初めて産んだ娘の初節句には、
  お雛さまも飾ってやれなかった。
  私は色紙(いろがみ)を買ってきて
  小さな紙のお雛さまをつくってやった。
  大豆を頭にして、顔を書いて、
  それでもどうやら紙の衣装のお雛さまが揃った。
  引揚げ後は雛など飾るどころではなかった。
  娘は大豆のお雛さまなど覚えていない。」

 そして、下の妹の所には寂聴さんから手紙・本と共に送られてきたというこの人形があり、次の写真が送られてきた。
 

寂聴さんから母に送られてきた手作り人形

 母は、少女時代本を読むことが好きで、祖父母から何か買ってあげようといわれると、決まって本がほしいと言ったという。
 私の子供時代の母の記憶には本を読んでいる姿は全くない。いつも私たち兄妹を護ることに必死であった。

 私が就職して実家を離れてからの様子も判らないので、いつごろから再び母が本を読むようになったのかは知らないが、父の死後一人暮らしになった母を、定年になり時間がとれるようになった私が見守りに行くようになった頃にはいつも図書館で借りてきたという数冊の本がそばにあった。

 その中に瀬戸内寂聴さんの本があったかどうか定かではないが、手紙を送ったりしていたところをみると、同年代の瀬戸内さんに何か共感するところがあったのではと推察する。今はどこかでそんな話でもしているのだろうか。

 私は瀬戸内さんのことはほとんど何も知らない。知っているのは寂庵法話集で聞いた内容がすべてといってもよい。12巻のCDに収められた法話の中では実に様々なことが話されているが、今はっきりと思い出されるのは、寂聴さんの次の言葉である。前出の、第12巻【特別盤】の「生きる喜び」の講演の中で語られている。

 「・・・出家するまでの私は自分が自分がと思っておりました。自分が才能があるから、あるいは努力するから作家になれるという風な自惚れできておりまして、自分の力を極限に押し開くことが生きる喜びであるという風に考えていたわけですね。
 けれども、出家してから私は自分一人が幸せになってもしようがない、結局私たちが今生きている地球の上に起こっているすべての不幸は私たちの責任を負わなければならないことだという風に考えが変わってまいりました。
 私が1人幸せであってもしようがない、アフリカに飢えた子があればしようがない、どこかで原子炉が爆発したらそれはしようがない、みんなその雨はやはり我われが一緒にかぶるものなんですね。
 そういう風にこの地球の上に起こるすべての不幸に自分が責任をもたなければいけない。そして、自分が幸せになるように、すべての人が幸せになってもらわなければしようがないという風な考えを持つに至りました。そのために私は本当にこのごろ生きていることが楽しく喜ばしく思われます。力がある限り、体力の続く限りこういう生活をしていこうと思います。・・・

 私は、人間が生きるのは自分一人の幸せを考えているだけでは本当の幸せでなく、他のすべての人々、今一緒に地球の上に生きているすべての人類が一人残らず幸せにならなければ真の生きる喜びというのは得られないのだということをこの頃考えます。そのことをお話しして今日のお話に代えさせていただきます。どうも有難うございました。」

 瀬戸内寂聴さんのご冥福を心よりお祈りします。


 
 


 

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チョウの楽園と写真展

2021-12-03 00:00:00 | 
 信濃追分の「蝶の楽園」で出会ったTさんに誘われて、上田市のサントミューゼで開催された写真展に出かけてきた。

 Tさんにいただいた案内ハガキによると、作品の出展者は5人で、「東信の希少昆虫を守る会 五人写真展」と題して行われているもので、「東信地方の希少な蝶・トンボ」の代表としてミヤマシロチョウとマダラヤンマの写真が裏面に印刷され、上田市教育委員会と東御市教育委員会が後援している。


写真展「東信地方の希少な蝶・トンボ」の案内ハガキ(表と裏を左右に示している)

 当日会場でいただいた説明資料には、展示されている全写真の解説と共に、この写真展開催の趣旨が次のように書かれていて、横には五人の撮影者のプロフィールも紹介されている。皆さんの年齢をみると、64歳から75歳とどなたも私に近い方々である。

 「『自然豊かな信州』
 信州には、日本の屋根とも呼ばれる南北中央アルプスや八ヶ岳、浅間山、広い草原にニッコウキスゲが咲き誇る霧ケ峰、美ヶ原、湯ノ丸高原、そして千曲川、天竜川、木曽川が潤す盆地には豊かな田園風景が広がり、全国でも稀な自然環境に多くの生きものたちが生息していました。
 しかし近年、その豊かな自然環境は急速に変化しつつあります。地球温暖化に伴う森林の荒廃、半自然草原の減少、農地や里山の荒廃、異常気象による集中豪雨、増えすぎた鹿による高山植物の食害などです。このような自然環境の変化により、本来いなかった哺乳動物が侵入したり、草原環境に生息していた昆虫たちが減少したりしています。
 私たちの住む東信地方にもかつては多種多様な蝶やトンボが生息していましたが、既に見られなくなってしまった種類や辛うじて細々と命脈を保っている種が何種かあります。
 本写真展では、このような現状を知っていただくため、東信地方で主に野生生物や昆虫を対象としている私達五人が撮った、今や希少種(絶滅危惧種)となってしまった代表的な蝶やトンボの写真を展示しました。
 2021年10月                    代表 堀  修(090-7275-7265)
 (協賛:アイ写真工房、浅間山系ミヤマシロチョウの会 後援:上田市教育委員会、東御市教育委員会)」

 
写真展「東信地方の希少な蝶・トンボ」の説明資料(表)

写真展「東信地方の希少な蝶・トンボ」の説明資料(裏)

 展示されていた写真には、蝶では長野県天然記念物のミヤマモンキチョウ、ミヤマシロチョウと東御市天然記念物のオオルリシジミをはじめとして、ヒメギフチョウ、ヤマキチョウ、ギンボシヒョウモン、キマダラモドキ、ヒメヒカゲ、コヒョウモンモドキ、アサマシジミ、ゴマシジミ、スジグロチャバネセセリ、アカセセリ、ミヤマチャバネセセリ、ホシチャバネセセリ、ミヤマシジミ
があり、この他「南方種や外来種の増加」として、アオスジアゲハ、ウラギンシジミ、ムラサキシジミ、アカボシゴマダラ、ツマグロヒョウモンが紹介されていた。

 また、トンボでは小諸市/上田市の天然記念物のマダラヤンマはじめオナガサナエ、アオヤンマ、ウチワヤンマ、クロスジギンヤンマ、オオトラフトンボ、ギンヤンマ、カオジロトンボが展示されていた。

 中でも、ミヤマシロチョウとオオルリシジミについては、別の資料も配布されていて、保護活動の様子を知ることができる。

 ミヤマシロチョウについては、「浅間山系ミヤマシロチョウの会」の活動を示すパンフレットがあり、そこには保護回復事業として「近年、各地で保護活動が始まっています。2010年、浅間山系ミヤマシロチョウの会が設立され、湯ノ丸高原でも保護パトロールや生態調査、環境調査が行われています。」とした内容が紹介されていて、絶滅への危機感が感じられる。現在、東御地区の浅間山系でも安定生息地は烏帽子岳のみになっているという。

 この、ミヤマシロチョウの食樹はヒロハヘビノボラズという不思議な名前の植物と、メギとされている。この葉の裏にかためて50~100個の卵が2~3段に産み付けられ、10日から2週間で孵化した幼虫は、糸を吐いて巣を造り集団行動をするという。

 この段階で、食樹ごと蒐集家に採集されることがあり、絶滅を加速しているという側面が指摘されている。

 成虫が見られるのはオスで7月上旬、メスは1週間遅れて発生するという。

ミヤマシロチョウの生態と保護を訴えるパンフレット

 オオルリシジミの保護活動に関しては、東御市教育委員会が発行した「東御市天然記念物・オオルリシジミ保護活動の記録<2013 改訂版>」が配布されていて、オオルリシジミの生態・形態と、衰亡の経過およびその後の保護活動の経緯が示されている。


東御市天然記念物・オオルリシジミ保護活動の記録<2013 改訂版>(東御市教育委員会発行)の表紙

 ミヤマシロチョウも同じであるが、オオルリシジミの絶滅も、マニアによる密猟という問題が指摘されていて、悲しむべき実態が綴られている。

 この資料の最後に、北御牧のオオルリシジミを守る会・会長 小山 剛氏の次の文章があるので紹介する。これを読むと、一時は絶滅したこの地域のオオルリシジミを地元民が協力して専門家と一緒になって回復させてきたことが判る。

 「2006年3月に保護活動記録誌をまとめてから数年が経ち、守る会の保護活動も10年を越えたことから。その後の活動内容も追記して記録誌改訂版を作成しました。
 東御市北御牧地域におけるオオルリシジミの保護活動は、市発足前の旧北御牧村時代に始まり、当地由来の累代飼育個体の提供、地元農家ばかりでなく、蝶の研究者や行政、企業、学校の参加を得て、野外絶滅と同時に開始できたことなどの好条件が揃って、全国でも稀に見る自然回復を極めて順調に果たせた活動であると認められています。
 天の時、地の利を得て、人の輪が織り成した保護活動として、会員をはじめ関係する皆様方の情熱の成果でもあり、ここに改めて深く感謝を申し上げます。
 北御牧方式とも呼ばれる保護活動の手法をひとつの試金石として、各地で希少な動植物にも目を向けた地域活動が更に盛り上がり、豊かな信州の自然環境が子々孫々へと守り伝えられることを切望するものであります。                      
                                      2013年3月」  
 
 トンボについては、私はほとんど知識がなく、何枚もの写真が展示されていたマダラヤンマも初耳であった。今回このマダラヤンマの撮影をしたHさんが会場におられたので、しばらく話を聞くことができ、日本のヤンマで最も美しいといわれているマダラヤンマの姿が多数収められている素晴らしい写真集も販売されていたので、購入した。ここにはそのマダラヤンマの生態が46ページにわたって紹介されている。

 マダラヤンマは全長63mm~74mmでヤンマの中では小さい方だという。


写真集 「塩田平のトンボたち」の表紙

 蝶に比べると話題になることが少ないトンボであるが、こちらも例外ではなく、マニアによる乱獲で著しく生息数が減少している。絶滅も心配されたことから故安藤 裕先生らのご尽力により平成18(2006)年2月、上田市天然記念物に指定され、平成19(2007)年5月、有志によりマダラヤンマ保護研究会を結成して生態や生息状況の調査と監視活動を実施して現在に至っているという。

 蝶に関していえば、今回の写真展で紹介された種の他にも、東信関係で天然記念物指定種とレッドデータ記載種は多くいる。それらを紹介すると次のようである(「信州 浅間山麓と東信の蝶」⦅鳩山邦夫・小川原辰雄著 2014年 クリエイティブセンター発行⦆から)。

 1.長野県天然記念物(種指定)/1975(昭和50年)2月24日
   ミヤマモンキチョウ、ミヤマシロチョウ、クモマツマキチョウオオイチモンジコヒオド
   シ、タカネヒカゲ、ベニヒカゲ、クモマベニヒカゲ

 2.長野県版・レッドデータブック・動物編(2004)、記載種 
 (県絶滅危惧ⅠA類)
   ツマグロキチョウ、オオウラギンヒョウモン、ヒョウモンモドキ
 (県絶滅危惧ⅠB類)
   ミヤマシロチョウ、クロシジミ、オオルリシジミ、タカネヒカゲ、ヒメヒカゲ、ホシチャ
   バネセセリ、チャマダラセセリ
 (県絶滅危惧Ⅱ類)
   ヤマキチョウクモマツマキチョウ、ゴマシジミ、クロヒカゲモドキ、オオヒカゲ
   スジグロチャバネセセリミヤマチャバネセセリ
 (準絶滅危惧)
   ヒメシロチョウ、ミヤマモンキチョウ、ムモンアカシジミ、ウラナミアカシジミ
   ウラジロミドリシジミ、クロミドリシジミ、オオゴマシジミ、ミヤマシジミ
   アサマシジミ、コヒョウモンモドキ、オオイチモンジコヒオドシキマダラモドキ
   ギンイチモンジセセリアカセセリキマダラセセリ

 前回紹介した「蝶の楽園」、「バタフライガーデン」では食草・食樹・吸蜜花などを植えて、蝶の繁殖を支えていた。今回の写真展では、広く市民に絶滅に瀕している昆虫を紹介することで、その危機的現状を訴えている。

 しかし、まだまだ特定の種に関心が片寄りがちであり、十分とは言えないと感じる。教育・行政に携わるより多くの方々がこうした現状を認識し、実効ある対策を講じてもらいたいと思う。

 また、市民レベルでもより多くの人々が関心を持ち、自宅庭や空き地に蝶の食草・食樹、吸蜜花を植えるなど、蝶が産卵や吸蜜に訪れることのできる環境を少しでも多く用意するようになってほしいものと考えるのである。

 私の手元にある義父のチョウ標本のコレクションにも、上掲の稀少種が含まれているので、それらを次に紹介させていただき本稿を終わる(上記中太字で示した。採集日の年号は昭和)。

ヒメシロチョウ(左/表面、右/裏面)

ヤマキチョウ(左/♂、右/♀)

クモマツマキチョウ♂

ウラジロミドリシジミ(上左/♂表面、上右/♂裏面、下/♀表面)


ウラナミアカシジミ(左/表面、右/裏面)

ミヤマシジミ(左/♂表面、右/♂裏面)

アサマシジミ(同定にはやや疑問がある。上左/♂表面、上右/同裏面、下左/♀表面、下右/同裏面)

オオイチモンジ

コヒオドシ(左/表面、右/裏面)

ベニヒカゲ(左/表面、右/裏面)

キマダラモドキ

オオヒカゲ


アカセセリ(左/表面、右/裏面)

ギンイチモンジセセリ(左/表面、右/裏面)

スジグロチャバネセセリ(左/表面、右/裏面)

キマダラセセリ(左/表面、右/裏面)


ミヤマチャバネセセリ




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