先日TVの人気長寿番組「世界ふしぎ発見」で、ポンペイ遺跡のことを扱っていたので、妻と見ていたら、ポンペイの街の背後にヴェスヴィオ山が映し出され、その姿が浅間山にとてもよく似ていることに気が付いた。私はまだイタリアには行ったことがなく、当然ポンペイも同じである。
南軽井沢からの浅間山(2015.7.14 撮影)
ナポリ側からのヴェスヴィオ山(ウィキペディア 「ヴェスヴィオ山」2019年7月17日から引用 )
ヴェスヴィオの姿は、南東のポンペイ側からと西のナポリ側からでは、左右が反転し、異なって見えるが、ナポリ側からの姿がより軽井沢から見える浅間山に近いので、上の写真ではこちらを紹介した。
また、この番組の回答者の一人が、映画「テルマエ・ロマエ」の原作者ヤマザキマリさんで、彼女が今「プリニウス」を取り上げ、新たな漫画を描いていることが紹介された。
プリニウスのことがこの番組で話題になったのは、ポンペイの悲劇を後世に伝えたのが、(大)プリニウスの甥である(小)プリニウスであったということだが、大プリニウスが友人からの手紙でポンペイの町がヴェスヴィオ火山により被災していると知り、自らが司令官であった艦隊を率いてポンペイ救援に赴いている中で命を落としていたこともまた、小プリニウスが残した書簡によって伝えられていたのであった。
大プリニウスといえば、「博物誌」の著者として、これまでにも度々当ブログでも紹介する機会があったが、ヴェスヴィオ火山噴火時に亡くなっていたことは寡聞にして知らなかった。そんなこともあって、大プリニウスについてもっと知ろうと思い、私としては珍しく、ヤマザキマリさんととり・みきさんの漫画「プリニウス」を買って読み始めたところである。
ヤマザキマリ、とり・みき作の漫画「プリニウス(Ⅰ)」の表紙
今回の、TV番組「世界ふしぎ発見」の主要テーマは、1748年以来続けられている、ポンペイ遺跡発掘の最新成果の紹介で、ポンペイの街がヴェスヴィオ火山の噴火により壊滅した日が、小プリニウスが書き記したとされる西暦79年8月24日ではなく、同年の10月17日以降である可能性が出ているということであった。
2018年にポンペイの第五地区という場所の発掘を行った際、家屋の室内の壁に「11月の最初の日からさかのぼって16番目の日」と書いたメモがが発見されたからである。また、この記録以外にも、遺跡からは秋に実る果物が枝に付いたままの状態で発見されていることもあり、季節が夏ではなく、秋であったことの証拠とされ、この新発見を裏付けるものとされている。
これに伴って、従来、小説や映画の「ポンペイ最後の日」で示されていたような、贅を極めた当時のローマの上流階級が、天罰を受けるようにしてヴェスヴィオの噴火による火砕流にに襲われて亡くなって行ったというイメージが変わることになるという。
ヴェスヴィオ火山の火砕流がポンペイを埋め尽くした日がこれまで信じられていたように、夏のことであれば、ローマから避暑のために別荘を訪れていた多くの上流階級の人々がいたと想像されるが、季節が秋だとすると、避暑客はすでにローマに戻っていて、ポンペイに居たのは、この地のもともとの住民であり、上流階級の人達を支える立場の人達であったと考えられている。
その中には奴隷もいたとしていたが、当時のローマの奴隷は、今日われわれが想起するものとは違っていて、努力次第では奴隷の立場からも開放され、財を成すことも可能であったとされていた。
今回のこの番組を機に、ポンペイを埋め尽くしてしまった火山「ヴェスヴィオ」について調べてみたくなった。そして、ヴェスヴィオと形がよく似ている「浅間山」や、火山と周辺市街地との関係が似通っている「桜島」とを比較してみようと思う。この「桜島」を加えたのは、その麓に位置する鹿児島市が、ナポリと姉妹都市提携をしているということもある。
さて、番組の紹介はこれくらいにして、まずヴェスヴィオ山について見ていこうと思う。
手元にある、火山学者の静岡大学・小山真人教授の著書「ヨーロッパ火山紀行」(1997年筑摩書房発行)には、ギリシャ・イタリア・アイスランド・フランス・ドイツにある多くの火山が紹介されているが、その中の一つにヴェスヴィオが取り上げられていて、ヴェスヴィオの噴火の様子とポンペイの町が噴火に伴って放出された軽石や、火砕流により埋もれていく様子が、科学的な立場で、次の様に記されている(噴火の日付けは本の出版当時のままとした)。
小山真人教授著「ヨーロッパ火山紀行」の表紙
「79年噴火の推移は、山麓に分布する火山灰などの噴火堆積物の地質学的な研究と,噴火を記述した古記録の研究から、かなり明らかになっている。・・・8月24日の昼ごろに最初の水蒸気マグマ噴火が生じた後、午後1時ころに火口から巨大な噴煙が立ちのぼり、高度30km付近の成層圏に達した。この噴煙は北西の風にのって南東方向に広がり、その方角にあったポンペイの町におびただしい白色の軽石を降らせ始めた。
・・・町の人々の多くはその場所にとどまったらしい。巨大な噴煙は絶えることなく続き、ヴェスヴィオ火山周辺は日没前から闇に包まれた。・・・ポンペイの町に降りそそぐ軽石は衰えを見せず、徐々にその厚さを増していった。
翌日8月25日未明、噴火活動に重大な変化が生じた。火口の大きさが拡大したことと、マグマ中のガス成分の減少によって、それまでの安定した噴煙の形が崩れて火砕流が発生し始めたのである。火砕流はおもにヴェスヴィオ火山の西斜面と南斜面を流れ下り、そのうちのひとつがヘルクラネウムの町を全滅させて海岸に達した。
つづいて8月25日の朝,南斜面をやや規模の大きな火砕流が流れ下り、すでに2m以上の厚さの降下軽石に覆われていたポンペイの町を襲った。ポンペイの町に残っていた2000人(筆者注:3,500人という説もある)はこの時に焼き殺された。死の町となったポンペイとヘルクラネウムの上を、さらに数度の火砕流が通りすぎた。・・・79年噴火全体で噴出したマグマの量は、およそ4立方kmと推定されている。噴火による降灰はイタリア半島だけでなく。北アフリカから中東までの広い範囲におよんだ。」
ここで挙げられているマグマの量の、4立方kmという数字は、後に紹介する浅間山の山体崩壊時のマグマの量および岩屑なだれで流下した土石の量を合わせたものと同じレベルである。
また、この著書には”コラム”としてやや専門的な解説が書かれているが、その一つに次のようなものがあり、大プリニウスとその最期の様子が書かれている。
「79年8月24日午後1時ころ、小プリニウスはヴェスヴィオ山の方角にたちのぼる異常な形の雲を見た。ミセヌムからヴェスヴィオ山頂までは25kmほど離れており、間にはナポリ湾が横たわっている。
彼の叔父の大プリニウスも、その時ミセヌムにいた。ローマ帝国海軍提督の任にあった大プリニウスは、『博物誌』の著者として知られる学者でもあった。『博物誌』には当時知られていた活動的火山のリストまでが載せられていたから、大プリニウスが異常な形の雲に興味を示したのは不思議ではなかった。
ちょうどそこへ、ヴェスヴィオ山麓に住む友人から救助を求める手紙が届いた。大プリニウスは軍船を一隻用意させると、部下とともにみずからそれに乗り込んだ。
北西の風にのってナポリ湾を横断した大プリニウスとその部下たちは、やがてヴェスヴィオ山麓に展開されるすさまじい噴火の地獄絵を船上から眺めることになる。彼らはポンペイ港への上陸を果たせず、ナポリ湾の南東最奥にあるスタビアエStabiaeの町(ヴェスヴィオ火口から14km)に上陸する。
北西風は,噴煙を火口の南東に位置するポンペイとスタビアエの方向へなびかせたため、2つの町にはおびただしい量の軽石が降りそそいでいた。強い北西風のために船での脱出ができなくなった大プリニウスたちは、そのままスタビアエにとどまることを余儀なくされた。噴火にともなう地震と降り積もった軽石の重みによって、次々に家屋が倒壊した。火口や噴出物を起源とする有毒ガスも町に充満した。
そして、ミセヌムを出航した2日後の夕方、疲れ果てた大プリニウスはついに息絶えることになった。死因は有毒ガスとも心臓マヒとも言われている。」
この手紙を残した小プリニウスにちなんで、噴火の名前が付けられたのであるが、次のように説明されている。
「一方、地震と降灰はミセヌムにいた小プリニウスをも襲っていた。地震による建物の倒壊をおそれた小プリニウスは、8月25日の朝に彼の母とともに屋外へと避難し、降りそそぐ灰を振り払いつつ郊外の丘から噴火の一部始終を観察することになった。
・・・彼の観察記録から、ヴェスヴィオ山体を駆け下って海上をつき進んだ火砕流や、ナポリ湾で生じた津波などの事件を読みとることができる。やがて噴火はピークを越え、ミセヌムに戻った小プリニウスは、生き残って帰還した大プリニウスの部下から叔父の死の知らせを聞いた。
小プリニウスが書き残した79年噴火は、有史以来現在までの間にヴェスヴィオ火山で起きた最大かつもっとも激しい噴火であったことが地質学的調査によってわかっている。・・・世界で初めてこのような破局的噴火の克明な様相を書き残した小プリニウスの名にちなんだプリニー式噴火(plinian eruption)の名前が、大規模な降下軽石をおこす噴火をあらわす火山学用語として使われている。」
ここで、プリニー式という用語を含む火山噴火の規模についてみておくと、下の表のようにVEI指数というものが定められていて、ここでVEIとの関係が示されている。VEIは英語名称 Volcanic Explosivity Index の略で、火山爆発指数(かざんばくはつしすう)というものであり、1982年にアメリカ地質調査所のクリス・ニューホールChristopher G. Newhallとハワイ大学マノア校のステフェン・セルフ(Stephen Self)が提案した区分である。火山そのものの大きさではなく、その時々の爆発の大きさを表す指標である。
区分は、噴出物(テフラ)の量でなされる。0から8に区分され、8が最大規模である。VEI=0はテフラの量が10^4(10,000)立方メートル未満の状況を指す。VEI=8はテフラの量が10^12立方(1,000立方キロ)メートル以上の爆発を指す。それぞれの区分には噴火の状況を示す名称(「小規模」など)が付けられている。
注意すべきことは、VEIの決定にはテフラの種類は影響しないということである。噴出物には火山灰、火山弾、イグニンブライト(溶結固化した火砕流堆積物)などさまざまなものがあり、同じ量であってもその噴出に必要とするエネルギーは異なる。従って、VEIは噴火のエネルギーの大小は意味しない。また、静かに流れるマグマの量は、どれだけ多くても考慮されない。
VEI指数と噴火の様子(ウィキペディア「VEI」を参考にして作成)
その後のヴェスヴィオの噴火活動についても小山教授は次のように記している。
「1631年12月16日の早朝、ヴェスヴィオ火山は突然眠りから覚めて噴火を開始し、降灰・火砕流・泥流などによって広範囲に大きな被害を生じさせた。犠牲者の数3000~6000人と推定される大変な災厄だった。
この噴火の前数ヶ月間にわたり、群発地震・鳴動・噴気・火映・井戸水の異常などのさまざまな前兆があらわれたことが、多数の史料から知られている。噴火の24時間前から群発地震はいっそう激しさを増したらしい。
噴火は、79年噴火とよく似た推移をたどった。初期に水蒸気マグマ噴火が起き、20時間ほどプリニー式噴火が続いた後、17日未明から火砕流を発生するようになった。火砕流は西および南斜面を流れ下り、一部は海に達した。ナポリ湾では津波も観測された。17日の夕方に噴火はピークを越え、数日かけて収束していった。
噴出したマグマの総量は、79年噴火の8分の1にあたる0.5立方kmであった。噴火にともなう山体の崩落によってヴェスヴィオ山頂は標高が450mも低下し、ソンマ山より低くなってしまった。・・・」
「1631年の噴火以後も300年あまりにわたってヴェスヴィオ火山は頻繁に噴火を繰り返したが、79年噴火や1631年噴火のような大規模な軽石噴火は起こしていない。それらの噴火の多くは溶岩流出で始まり、やや爆発的な噴火をした後、数年休むということを繰り返した。
そして、ムッソリーニ体制下の1944年の噴火を最後に、ヴェスヴィオ火山はふたたび眠りについてしまった。この休止期がいつまで続くのか、そして眠りの後には79年や1631年噴火のような破局的な噴火を起こすのかという疑問に、火山学者はまだ明確な回答を用意できないでいる。かりに今1631年と似た噴火が起きるとした場合、ヴェスヴィオ火山周辺から60万人もの住民を避難させねばならないという。」
79年噴火前のヴェスヴィオ山の高さについては、はっきりとした数字は示されていないが、1800m前後であるとして、TV番組で示されていた当時のヴェスヴィオを想像して描かれた画像から推察して、前掲の写真に追記すると、ヴェスヴィオは次のようなものであったと思われる。噴火に伴って、ヴェスヴィオの形は大きく変化している。これは、旧浅間山の2.4万年前の山体崩壊と同様のことが起きていることを思わせる。
79年の噴火前のヴェスヴィオの想像図(追加部筆者)
小山教授が著書に記しているのはここまでであるが、近年ヴェスヴィオ火山周辺の都市では次のような取り組みが行われているという。
歴史上最大の火山被害を起こしたヴェスヴィオであるが、この火山の周辺にはその後、都市が発達して現在60万人が生活するようになっている。この事に関して、ロンドン大学危機管理講座(第5回 世界で最も危険な火山 –ヴェスヴィオ火山の噴火対策)の中で、奥はる奈氏は次のようにヴェスヴィオ火山災害への現地政府の対策について紹介している。
「現在のヴェスヴィオ山の状態について、地質学者協会会長のフランセスコ・ルッソ氏は『今後100年間に大噴火が起きる可能性は27%』とし、危険を呼びかけています。
そのため、ヴェスヴィオ山は数十個のセンサーで監視され、地震、地熱、山の傾きや膨張、地下水、ガスなどが24時間体制で計測されています。観測データは9km離れたナポリ市内のヴェスヴィオ火山観測所まで送られます。伝達手段は、故障に備え、有線、電話、無線等複数用意されています。 ・・・
ヴェスヴィオ火山のリスクは、火山のすぐ近くまで市街地が存在していることにあります。国が最も危険であると指定した、“レッドゾーン”内にある18自治体には65万人、さらに火山からほど近いナポリ市には100万人が生活しているのです。
大規模な噴火が起きた場合、ヴェスヴィオ火山周辺から65万人もの住民を避難させねばならないということから、避難においても国をあげての対策が取られています。具体的には、イタリア政府は国家計画の下、・・・レッドゾーンにある18の自治体それぞれに、あらかじめ避難先となるイタリア国内の16の州が指定されています。
まず、噴火が予知されてから2週間以内に、バス、車、鉄道、船舶などの輸送機関、軍隊といった、国のリソースを総動員して、強制的に住民を避難させることになっています。さらに、避難先には、仮設住宅や社会活動や学校再開するための準備が整えられています。
実際の避難では、ヴェスヴィオ山の北側の住民は、ナポリからローマの方に、南側住民は海に避難します。南西側と北西側の住民の“GoldenMile”と呼ばれる避難経路は混雑が想定されるため、その対策も進められています。
大規模な住民避難を想定した訓練も実施しています。1999年には5000人を船で避難させる実働訓練“Vesuvio 99”が行われました。 2006年、2007年には“MESIMEX(Major Emergency SIMulation Exercise)”という、スペイン、フランス、ポルトガル等、他のヨーロッパ諸国の救急サービス機関も参加する訓練が実施されています。
このように、ヴェスヴィオ山の計画では、イタリア全土を巻き込んだ計画が策定されています。壮大な計画にならざるを得ないのは、避難させる人口が多いからです。今後20年間に危険地域内の居住人口を10%以上減少させ、製造業など企業も移転させ、代わりに観光産業の発展を進めるという長期的な計画も並行して進められています。そのひとつに、“Vesuvia Relocation Programme”という住民を移住させる取り組みがなされています。・・・
大規模な噴火が起きた場合、ヴェヴェスヴィオ火山へは、国のリソースを全て集中させるような国をあげての避難計画に加え、移住による避難者の減少や産業政策まで含めた長期的な減災計画を実施していることは注目すべきことです。いつ噴火するかわからない火山ですが、ボンベイを滅亡させた歴史を顧み、ワーストケースシナリオに備えて対策をしているといえます。・・・」
このように国を挙げての避難対策が進められているイタリアの状況である。日本ではどうかというと、全国の火山について多くのハザードマップが作成されている。浅間山については、活動火山対策特別措置法に基づいて、浅間山周辺市町村や、群馬県、長野県、防災関係機関、火山専門家等で構成された協議会「浅間山火山防災協議会」が設けられ、昨年、2018年3月にハザードマップが作成・改訂された。関係市町ではそれぞれホームページでこれを公表し、周知を図っている。軽井沢町では、この内容の一部を、従来からある、浅間山火山防災マップに記載して、2019年7月に各戸に配布している。
また、鹿児島市では、一足早く2000年3月にやはりハザードマップを作成し、現在、市の公式ホームページで英語版、韓国語版、簡体字版、繁体字版の各言語での情報を公開するとともに、毎年1月には「1人の犠牲者も出さないために」とのテーマのもと、「桜島火山爆発総合防災訓練」を行っているという。
(以下次回)