ガラス製造関連の企業に勤務していたが、それは学生時代からガラスという素材に興味を持っていたからであった。しかし、実際に就職してみると、ガラスを直接扱うことは無く、当時揺籃期にあった液晶表示素子の開発に従事することになり、その後定年を迎えるまでガラスとは直接縁のないサラリーマン生活を送った。
リタイア後、その反動もあってか妻の影響もあってか、自宅内部のドアなどにステンドグラスを使ってみたり、100年ほど前のガラス食器を少しずつ買い集めて、色やそこに施されている精緻な加工の美しさを楽しんだり、ガラスの歴史を調べたりしている。
現在、量産されている板ガラスに関して言えば、日本は世界でも主要プレイヤーの地位にあるが、少し遡れば日本はガラスでは後進国であった。
正倉院には素晴らしいガラス器が見られるが、これらの多くは現在の中東地域で4世紀から10世紀ころに作られ、わが国に伝えられたもので、国内で作られたものではない。
わが国における古代ガラス技術は、正倉院に6万5千個のガラス玉が現存し、また、その製法を書いた古文書が、同院にあるところから、今からおよそ1200年前、すでにガラス玉が作られていたと推察されている。
しかし、古代メソポタミアにまでさかのぼることができるガラス器具などの製造技術となると、日本にもたらされたのは、江戸時代といわれている。
その日本のガラス製造に関する記念碑が大阪市内にあった。大阪天満(てんま)の大阪天満宮正門の西にある「えびす門」脇に「大阪 ガラス発祥の地」の石碑があることを知ったのは、ごく最近のことである。この天満周辺には20年ほど前まで、多くのガラス工場が存在していたという。
大阪天満宮正門(2017.9.13 撮影)
大阪天満宮正門の西側にある「えびす門」の脇に建てられている「大阪 ガラス発祥の地」の石碑(2017.9.13 撮影)
石碑の正面(2017.9.13 撮影)
石碑の側面と背面(2017.9.13 撮影)
この碑は昭和54(1979)年11月1日に、大阪硝子製品協同組合設立30周年記念として建てられたとある。
背面上部に記された由来(2017.9.13 撮影)
石碑に刻まれた内容は「宝暦年間(1751)長崎商人播磨屋清兵衛 天満天神鳥居前ニ工場ヲ設ケ 当時ノ玉屋ヲ開業大阪ガラス商工業ノ始祖トナル」とある。
それ以前の状況はといえば、日本にガラスを使用した製品が伝わったのは, 1549(天文18)年にフランシスコ・ザビエルが大内義隆にガラスの鏡や遠めがねなどを贈った時とされる。その後ヨーロッパから種々のガラス製品が輸入されるようになり、 長崎にガラス製法が伝わって日本でもガラスが作られるようになっていた。このころ、世界で最も古い色被せガラスである「乾隆(kenryu)ガラス」が中国から長崎に伝わっている。
大阪天満に吹きガラスの職人が誕生したのは、石碑に刻まれている播磨屋(本名:久米清兵衛)が長崎へ行き ガラス製法を学んで 天満へ来て玉屋を開き、珍しい色のガラス玉細工を始めたのが最初で、日本のガラス商工業界は実質的に大阪に始まったとされる。
このガラスの評判が江戸に伝わって、江戸切子が誕生する。他方、薩摩切子の方は、1846年(弘化3年)に薩摩藩の27代藩主、島津斉興が、江戸・加賀屋のガラス職人である四本亀次郎を招いて、薬ビンなどのガラス器の製造に成功したのがはじまりであると言われている。
薩摩切子は、薩英戦争の影響などにより、一旦途絶えることになり、当時製造された薩摩切子で現存するものは僅か200個程度といわれる。途絶えていた薩摩切子を、昭和になって復刻させたのが、大阪・天満に本社のあった、日本最大のガラス商社のカメイガラス。学者肌だった社長が薩摩切子のよさを忠実に復刻して、商品化を実現させた。
そのカメイガラスもその後倒産したが、薩摩切子復刻に貢献し、その技術を受け継ぐ工人の手による「天満切子」が現在製造されており、ガラス産業の伝統は今もこの天満に生き続けている。
お土産に買った「天満切子」のロックグラス
一方、この地は旭硝子や東洋ガラスの発祥の地。産業として本格的に発展したのは明治以降になる。
旭硝子の社史によると、そのルーツは1906(明治39)年、初代社長岩崎俊弥が天満付近に設立した合資会社・大阪島田硝子製造合資会社である。この合資会社の設立経緯を見ると、
「・・・当時、大阪のガラス製造業者の中に島田孫市という人がいて、ガラス工から身を起こし、すでに大阪、天満に工場を設け、各種のガラス器物の製作をやっていた。そのうち器物にあきたらず、板ガラスの製造を志した。このためヨーロッパに渡り、ベルギーにおいて、エミイル・ゴップ式窓ガラス製造窯の設計譲受の契約をして帰国し、機をみて他と提携し、大規模にこの事業をやりたいと希望していた。
これが、たまたま岩崎俊弥の耳に入り、工学博士平賀義美、八幡製鉄所前長官和田維四郎らのあっせんによって、提携を結ぶに至った。
岩崎俊弥が45万円を出資、また島田は、天満の工場を30万円と評価して出資にあて、ここに資本金75万円をもって、大阪島田硝子製造合資会社が設立され、岩崎が社長に、島田が副社長に、それぞれ就任した。・・・」とある(産業フロンティア物語 <旭硝子> 1967年3月10日 ダイアモンド社編)。
旭硝子合資会社時代の製品(1) (前出書より)
旭硝子合資会社時代の製品(2) (前出書より)
大阪市の資料では、第1次世界大戦で欧州向けにガラス製品の輸出が急増。終戦後の1919年、大阪府には全国のガラス関連工場の約7割に当たる882工場が集積していた。
ガラス産業が発展した理由については、原料のケイ砂や燃料の石炭を運ぶ交通網が重要であり、水利が発達していた大阪は、ガラス産業が育つ要素がそろっていた。
さらに、その背景には、明治維新直後に様々な官営工場が大阪城周辺に建設され、中でもガラス産業にとっては、造幣局の存在が大きかったといわれる。
造幣局は1871年、大阪・天満の大川(旧淀川)沿いに設立されている。造幣局は当時、国内最新鋭の総合工場であり、金属精錬に必要な硫酸や燃料に使う石炭ガスなどを自前で製造していたが、その一つがガラスの原材料となるソーダ灰(炭酸ナトリウム)で明治政府の殖産興業政策で、余剰生産分は民間に安く供給されたのであった。
さて、大阪滞在を利用して、こうしてあちらこちらと散歩を楽しんでいるが、今回の「大阪 ガラス発祥の地」石碑探訪では思いがけずもうひとつの石碑に出会った。
それは、「川端康成生誕之地」の石碑であった。「大阪 ガラス発祥の地」の石碑から僅か100mほど離れた、同じ道路に面した場所にひっそり建っていた。
「川端康成生誕之地」の石碑(2017.9.13 撮影)
石碑上部の文面(2017.9.13 撮影)
石碑上部には次のように記されている。
「『伊豆の踊子』『雪国』などの名作で、日本的抒情文学の代表作家とされる川端康成は短編小説の名手として国際的に知られ、昭和43年(1968)に日本人では初めてノ-ベル賞を授与されました。彼は明治32年(1899)6月14日の生まれで、生家は料亭相生楼敷地の南端あたりにありました。」
川端康成が大阪出身であることは、予ねて知っていたはずなのだが、こうして出会うまですっかり記憶から消えてしまっていた。突然の出会いもまた散歩の楽しみである。
リタイア後、その反動もあってか妻の影響もあってか、自宅内部のドアなどにステンドグラスを使ってみたり、100年ほど前のガラス食器を少しずつ買い集めて、色やそこに施されている精緻な加工の美しさを楽しんだり、ガラスの歴史を調べたりしている。
現在、量産されている板ガラスに関して言えば、日本は世界でも主要プレイヤーの地位にあるが、少し遡れば日本はガラスでは後進国であった。
正倉院には素晴らしいガラス器が見られるが、これらの多くは現在の中東地域で4世紀から10世紀ころに作られ、わが国に伝えられたもので、国内で作られたものではない。
わが国における古代ガラス技術は、正倉院に6万5千個のガラス玉が現存し、また、その製法を書いた古文書が、同院にあるところから、今からおよそ1200年前、すでにガラス玉が作られていたと推察されている。
しかし、古代メソポタミアにまでさかのぼることができるガラス器具などの製造技術となると、日本にもたらされたのは、江戸時代といわれている。
その日本のガラス製造に関する記念碑が大阪市内にあった。大阪天満(てんま)の大阪天満宮正門の西にある「えびす門」脇に「大阪 ガラス発祥の地」の石碑があることを知ったのは、ごく最近のことである。この天満周辺には20年ほど前まで、多くのガラス工場が存在していたという。
大阪天満宮正門(2017.9.13 撮影)
大阪天満宮正門の西側にある「えびす門」の脇に建てられている「大阪 ガラス発祥の地」の石碑(2017.9.13 撮影)
石碑の正面(2017.9.13 撮影)
石碑の側面と背面(2017.9.13 撮影)
この碑は昭和54(1979)年11月1日に、大阪硝子製品協同組合設立30周年記念として建てられたとある。
背面上部に記された由来(2017.9.13 撮影)
石碑に刻まれた内容は「宝暦年間(1751)長崎商人播磨屋清兵衛 天満天神鳥居前ニ工場ヲ設ケ 当時ノ玉屋ヲ開業大阪ガラス商工業ノ始祖トナル」とある。
それ以前の状況はといえば、日本にガラスを使用した製品が伝わったのは, 1549(天文18)年にフランシスコ・ザビエルが大内義隆にガラスの鏡や遠めがねなどを贈った時とされる。その後ヨーロッパから種々のガラス製品が輸入されるようになり、 長崎にガラス製法が伝わって日本でもガラスが作られるようになっていた。このころ、世界で最も古い色被せガラスである「乾隆(kenryu)ガラス」が中国から長崎に伝わっている。
大阪天満に吹きガラスの職人が誕生したのは、石碑に刻まれている播磨屋(本名:久米清兵衛)が長崎へ行き ガラス製法を学んで 天満へ来て玉屋を開き、珍しい色のガラス玉細工を始めたのが最初で、日本のガラス商工業界は実質的に大阪に始まったとされる。
このガラスの評判が江戸に伝わって、江戸切子が誕生する。他方、薩摩切子の方は、1846年(弘化3年)に薩摩藩の27代藩主、島津斉興が、江戸・加賀屋のガラス職人である四本亀次郎を招いて、薬ビンなどのガラス器の製造に成功したのがはじまりであると言われている。
薩摩切子は、薩英戦争の影響などにより、一旦途絶えることになり、当時製造された薩摩切子で現存するものは僅か200個程度といわれる。途絶えていた薩摩切子を、昭和になって復刻させたのが、大阪・天満に本社のあった、日本最大のガラス商社のカメイガラス。学者肌だった社長が薩摩切子のよさを忠実に復刻して、商品化を実現させた。
そのカメイガラスもその後倒産したが、薩摩切子復刻に貢献し、その技術を受け継ぐ工人の手による「天満切子」が現在製造されており、ガラス産業の伝統は今もこの天満に生き続けている。
お土産に買った「天満切子」のロックグラス
一方、この地は旭硝子や東洋ガラスの発祥の地。産業として本格的に発展したのは明治以降になる。
旭硝子の社史によると、そのルーツは1906(明治39)年、初代社長岩崎俊弥が天満付近に設立した合資会社・大阪島田硝子製造合資会社である。この合資会社の設立経緯を見ると、
「・・・当時、大阪のガラス製造業者の中に島田孫市という人がいて、ガラス工から身を起こし、すでに大阪、天満に工場を設け、各種のガラス器物の製作をやっていた。そのうち器物にあきたらず、板ガラスの製造を志した。このためヨーロッパに渡り、ベルギーにおいて、エミイル・ゴップ式窓ガラス製造窯の設計譲受の契約をして帰国し、機をみて他と提携し、大規模にこの事業をやりたいと希望していた。
これが、たまたま岩崎俊弥の耳に入り、工学博士平賀義美、八幡製鉄所前長官和田維四郎らのあっせんによって、提携を結ぶに至った。
岩崎俊弥が45万円を出資、また島田は、天満の工場を30万円と評価して出資にあて、ここに資本金75万円をもって、大阪島田硝子製造合資会社が設立され、岩崎が社長に、島田が副社長に、それぞれ就任した。・・・」とある(産業フロンティア物語 <旭硝子> 1967年3月10日 ダイアモンド社編)。
旭硝子合資会社時代の製品(1) (前出書より)
旭硝子合資会社時代の製品(2) (前出書より)
大阪市の資料では、第1次世界大戦で欧州向けにガラス製品の輸出が急増。終戦後の1919年、大阪府には全国のガラス関連工場の約7割に当たる882工場が集積していた。
ガラス産業が発展した理由については、原料のケイ砂や燃料の石炭を運ぶ交通網が重要であり、水利が発達していた大阪は、ガラス産業が育つ要素がそろっていた。
さらに、その背景には、明治維新直後に様々な官営工場が大阪城周辺に建設され、中でもガラス産業にとっては、造幣局の存在が大きかったといわれる。
造幣局は1871年、大阪・天満の大川(旧淀川)沿いに設立されている。造幣局は当時、国内最新鋭の総合工場であり、金属精錬に必要な硫酸や燃料に使う石炭ガスなどを自前で製造していたが、その一つがガラスの原材料となるソーダ灰(炭酸ナトリウム)で明治政府の殖産興業政策で、余剰生産分は民間に安く供給されたのであった。
さて、大阪滞在を利用して、こうしてあちらこちらと散歩を楽しんでいるが、今回の「大阪 ガラス発祥の地」石碑探訪では思いがけずもうひとつの石碑に出会った。
それは、「川端康成生誕之地」の石碑であった。「大阪 ガラス発祥の地」の石碑から僅か100mほど離れた、同じ道路に面した場所にひっそり建っていた。
「川端康成生誕之地」の石碑(2017.9.13 撮影)
石碑上部の文面(2017.9.13 撮影)
石碑上部には次のように記されている。
「『伊豆の踊子』『雪国』などの名作で、日本的抒情文学の代表作家とされる川端康成は短編小説の名手として国際的に知られ、昭和43年(1968)に日本人では初めてノ-ベル賞を授与されました。彼は明治32年(1899)6月14日の生まれで、生家は料亭相生楼敷地の南端あたりにありました。」
川端康成が大阪出身であることは、予ねて知っていたはずなのだが、こうして出会うまですっかり記憶から消えてしまっていた。突然の出会いもまた散歩の楽しみである。