ガ島通信@藤代氏が毎日新聞(4/13付)に寄稿したメディア論を読み、正直いってガッカリした。と同時に「やっぱり新聞では限界があるのか」と強く感じた。おそらく「新聞に載ること」を意識して書いたために、文章が死んでいるのだ。
そこには藤代氏がブログで見せるいつもの面影はなく、ただ無機的で人の心に刺さらない文字の羅列だけがあった。「R30」さんが激賞していたので期待して読んだのだが、残念ながらアテがはずれてしまった。
とはいえ私は別に藤代氏を批判するために、この駄文を書いてるわけじゃない。同じひとりの書き手が媒体のちがいによって、これだけ手足をもがれた状態になることに非常な興味を覚えたのだ。
そこで今回は氏が見せた落差をキーワードにし、ブログがもつ媒体としての可能性と、新聞の限界について考えてみたい。
まず初めにお断りしておかなければならないことがある。なぜ、あの「おもしろい藤代氏」が、毎日新聞に書いたとたんに「おもしろくない藤代氏」になったのか? これからその理由とおぼしきものを書くが、ただしこれはあくまで私の想像にすぎないということだ。
冒頭で氏の文章の落差を指摘したのは、ブログと新聞のちがいを考察するためのいい素材になると考えたからだ。まったく他意はない。だからもし私の読みがはずれていたら、謹んで謝罪し訂正させていただく。
また、あるいはひょっとしたらあの文章には、毎日新聞サイドの手で意味のない赤字がかなり入っているのかもしれない。
せっかくの生きた文章が、編集部サイドによる下手クソな直しのせいで殺されてしまう。説明すると長くなるので省くが、メディアの世界ではよくあることだ。
現に私もフリーランスになって以後、某だれでも知ってる大新聞のWeb媒体に一定期間、書いていたことがある。いやはや、あのときは原稿を渡すたび、オリジナルの文章をつまらなくするだけの意味のない赤字が大量に入って参った。署名入りの人の原稿を、まるでお役所が書いた無味乾燥なプレスリリースみたいに変えようとするのだ。いわゆる「新聞特有の文体」にである。
で、私はそれらのジャマな直しを見つけるたび、校正でことごとく元にもどした。こっちはフリーランスなんだから、あんなヘタクソな文章を私が書いたと読者に思われるんじゃかなわない。
もっとも自分が入れた直しをまた元にもどされるわけだから、向こうも愉快なはずがない。必然的に関係がギクシャクし、最後のほうはあまりいい仕事ができなかった。
さりとてこれにしろ、そのテの出来事が氏にも起こったのかどうかは外からでは知りようがない。だからここではあくまであの文章が、まるごとオリジナルだという前提で書く。
さて、ではなぜ毎日新聞に掲載された文章を読み、私はおもしろくないと感じたのか? それは物書き業界の言葉でいえば、いわゆる「べタな文章」だったからだ。
氏がいつもブログで見せているユーモアは感じられないし、機知に富んだレトリックがあるわけでもない。なにより文体が微妙に固い。いつもの「ですます調」じゃないせいもあるが、理由はそれだけではないだろう。
また内容的にも、氏がいつもブログに書いていること、あるいはメディアをお題にした批評系ブログの間で、すでにいい尽くされていることばかりである。
もちろん巷で散発的に指摘されている問題点をずらりとならべ、交通整理することは無意味じゃない。だが「あのガ島通信」の書き手であるだけに、読む側の期待値はいやがうえにも高くなる。無意識のうちにハッとさせられるような視点の新しさを求めてしまうのだ。
ブログを読む限り、氏は「専門的で難解なこと」を、おもしろく笑わせながら読ませる技術と才能をもっている。これは物書きとしては、いちばん高等でむすかしい芸である。なのにその人が毎日新聞に書くと、なぜああなるのか?
ここからは想像だが、氏は新聞に載せる原稿であることを意識しすぎたんじゃないだろうか?
新聞という媒体の特性を考え、「新聞にふさわしい文体」「新聞に掲載されても違和感のない文体」を使おう。で、意図的に書き分けた。
そのことが無意識のうちに、自分の持ち味を殺す自己規制になり、皮肉なことに新聞を批判する内容でありながら新聞に飲み込まれた文章になってしまったのではないか?
プロの方ならおわかりだろうが、掲載するメディアによって文体を書き分けるのはよくあることだ。
たとえば女性雑誌に書くときと、『世界』に寄稿するとき、あるいは『ポパイ』に連載するとき。それぞれの読者層と媒体の属性を考え、ちがう文体にするのはめずらしいことじゃない。
媒体のテイストにあわせることで一冊全体を通した統一感を出し、それによって部数を売り上げるための一種の手法だ。
もちろん本を出すたびにベストセラーになるような「大先生」クラスなら、ひとつの文体で押し通すことが逆にウリになる。だがそうじゃない大部分の書き手たちは、媒体に応じてこんなふうに書き分けることがよくある。
では私が前述した「新聞にふさわしい文体」とは、どんなふうか? まず基本は文体が固いことだ。そのことによってそこはかとなく重々しさを演出し、「新聞がもっていなければならない権威の衣」をまとうことができるからだ。なんのことはない、専門的にはタダの悪文なのだが。
そして視点はあくまで大所高所から俯瞰する形を取り、あちらこちらに調味料としての「批判精神」をまぶしておく。
もちろん読む側が「おもしろい」と感じるような凝ったレトリックなんぞは、ご法度だ。新聞の文章はある意味、「つまらなければならない」のである。
もちろん氏が毎日新聞に書くに当たり、こんなことを考えたかどうかはわからない。だが私も同じように新聞社にいた人間であり、同時にフリーランスになってからは硬軟取り混ぜ、あちこちの雑誌に雑文を書き散らしてきた。だから同業者が初めて書く媒体を前にしたときの心理は、ある程度わかるつもりだ。
もし私だったら、こう考えるかもしれない。
「マジメなテーマだし、おちゃらけて読者を笑わせるような手法は極力抑えよう。心もち格調高くしたほうが無難だ。新聞の紙面にならんたとき、浮かない文体にしておこう」
自分の文体をコントロールできるプロならではの、悪しき誘惑にかられるわけだ。
結論をいえば、ブログであれだけおもしろい文章を書く藤代氏を人並みにさせてしまう新聞という名の装置が悪いということになる。
あの文章を読んで、私はなんだか新聞というメディアの限界をヘンな形でしみじみ感じてしまった。もっとも新聞の問題点を身をもってあぶり出したという意味では、氏の原稿は「意図せざる意義」があったことになるわけだが。
さて一方、ブログの場合は書き手をおかしなふうにコントロールしようとする「編集部」なるものは存在しない。「こんなレトリックを使うと、ユーモアのわからない人に『不真面目だ』と思われるんじゃないか? やっぱりやめておこうかなぁ」などと自己規制する義務もまったくない。
売るための戦略を考える必要がないから、法律やモラル、人権にふれない範囲で自由に書ける。
「何を当たり前のことを」と思われるかもしれない。そう、本来ならこんなことは既存のメディアでも保証されていて当然のことだ。だが実態はそうじゃない。だから問題なのである。
そこへいくとブログはいろんなテクニックを使って、いくらでもおもしろくできる。だからそのぶん人の心に刺さる。
既存のメディアはなにかといえば、報道、言論の自由なる印籠をチラチラさせる。だがその実、内部は自己規制だらけで身動きが取れない状態だ。前述したような新聞ならではの「格調高き表現の縛り」なんかはその象徴である。
使う言葉や文体のテイストに決まった枠組みがあるんじゃ、おもしろくするにも限界がある。天井の高さが決まっていては、それ以上は高く飛べない。
私は新聞、雑誌、広告、チラシの裏、といろんな媒体で書く経験をし、ほんの1ヵ月前、なんの気なしにブログを始めた。で、やってみてつくづく実感したのは「天井がないことの愉悦」だった。もっともこれは同時に「天井がないことの不安」とウラハラではあるのだが。
さて、最後に藤代氏と毎日新聞の名誉のために、ひとことつけくわえておきたい。ブログを読む限り、氏はマジメで気むずかしいことを書いていながら、それをエンタテインメント作品として成立させる技量がある。
だからもし私の邪推が当たっているならば、自分で自分の枠組みを小さくする自己規制などせずに、できるだけまっすぐ書いてほしいと思う。
もちろん食って行かなきゃならない以上、処世術は必要だ。私みたいに編集長と打ち合わせしている最中に、「あなたは読み違えている」と叫んで机をひっくり返したりするのは禁物だ。
そこはうまく立ち回って、自分を通してほしい。いや、私ごときがこんなことをいうのはまったくおこかましい話だが。
また逆に私の想像がハズレていて、あの原稿は「たまたま調子が悪かっただけ」なんだとしたら、前もって深くおわびしておきたい。
余談だが、ウワサでは氏は私の故郷の新聞社におられたと聞く。もし本当ならば、私は高校時代、まさにその新聞社の前を毎日チャリンコこいで学校に通っていた。
私のほうが10年くらい長生きしてるので、同じ時期にあの町に住んでいたってことはないだろう。だがひょっとしたら帰省したとき、商店街あたりですれちがっていたりするかもしれない。なんせお盆はとんでないことになる町だから。
また退社し、独立されたらしいことも私と重なるところがある。なんだか妙に他人とは思えないのだ。陰ながらご活躍をお祈りしている。
次は毎日新聞についてだ。
現在、新聞を定期購読してない私が、「どうしても新聞を取れ。でないと殺すぞ」といわれたら、おヒネリを投げるつもりで毎日新聞にする可能性は高い。
取ってつけたように聞こえるかもしれないが、ちゃんと理由はある。売れてないのは商業媒体としては、もちろんマズい。だが無骨に「何か」を追求しようとする社風(のように見えるところ)が共感できるからだ。
また藤代氏の原稿が掲載された特集「ネット時代のジャーナリズムとは何か」も、なかなか着眼点がいい。今後も折にふれこのテの企画を組んでいけば、いつかは閉塞した状況に風穴をあけられるかもしれない。
私は「買ってないもの」にケチはつけない。で、必然的に何かに言及するとしたら、自分が認めているものに対してさらに注文をつける形になってしまう。
この性格が災いし、さんざん誤解されるわけだが、すべては愛あるがゆえである。「お前に愛されたかないよ」といわれてしまえば、それまでではあるが。
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そこには藤代氏がブログで見せるいつもの面影はなく、ただ無機的で人の心に刺さらない文字の羅列だけがあった。「R30」さんが激賞していたので期待して読んだのだが、残念ながらアテがはずれてしまった。
とはいえ私は別に藤代氏を批判するために、この駄文を書いてるわけじゃない。同じひとりの書き手が媒体のちがいによって、これだけ手足をもがれた状態になることに非常な興味を覚えたのだ。
そこで今回は氏が見せた落差をキーワードにし、ブログがもつ媒体としての可能性と、新聞の限界について考えてみたい。
まず初めにお断りしておかなければならないことがある。なぜ、あの「おもしろい藤代氏」が、毎日新聞に書いたとたんに「おもしろくない藤代氏」になったのか? これからその理由とおぼしきものを書くが、ただしこれはあくまで私の想像にすぎないということだ。
冒頭で氏の文章の落差を指摘したのは、ブログと新聞のちがいを考察するためのいい素材になると考えたからだ。まったく他意はない。だからもし私の読みがはずれていたら、謹んで謝罪し訂正させていただく。
また、あるいはひょっとしたらあの文章には、毎日新聞サイドの手で意味のない赤字がかなり入っているのかもしれない。
せっかくの生きた文章が、編集部サイドによる下手クソな直しのせいで殺されてしまう。説明すると長くなるので省くが、メディアの世界ではよくあることだ。
現に私もフリーランスになって以後、某だれでも知ってる大新聞のWeb媒体に一定期間、書いていたことがある。いやはや、あのときは原稿を渡すたび、オリジナルの文章をつまらなくするだけの意味のない赤字が大量に入って参った。署名入りの人の原稿を、まるでお役所が書いた無味乾燥なプレスリリースみたいに変えようとするのだ。いわゆる「新聞特有の文体」にである。
で、私はそれらのジャマな直しを見つけるたび、校正でことごとく元にもどした。こっちはフリーランスなんだから、あんなヘタクソな文章を私が書いたと読者に思われるんじゃかなわない。
もっとも自分が入れた直しをまた元にもどされるわけだから、向こうも愉快なはずがない。必然的に関係がギクシャクし、最後のほうはあまりいい仕事ができなかった。
さりとてこれにしろ、そのテの出来事が氏にも起こったのかどうかは外からでは知りようがない。だからここではあくまであの文章が、まるごとオリジナルだという前提で書く。
さて、ではなぜ毎日新聞に掲載された文章を読み、私はおもしろくないと感じたのか? それは物書き業界の言葉でいえば、いわゆる「べタな文章」だったからだ。
氏がいつもブログで見せているユーモアは感じられないし、機知に富んだレトリックがあるわけでもない。なにより文体が微妙に固い。いつもの「ですます調」じゃないせいもあるが、理由はそれだけではないだろう。
また内容的にも、氏がいつもブログに書いていること、あるいはメディアをお題にした批評系ブログの間で、すでにいい尽くされていることばかりである。
もちろん巷で散発的に指摘されている問題点をずらりとならべ、交通整理することは無意味じゃない。だが「あのガ島通信」の書き手であるだけに、読む側の期待値はいやがうえにも高くなる。無意識のうちにハッとさせられるような視点の新しさを求めてしまうのだ。
ブログを読む限り、氏は「専門的で難解なこと」を、おもしろく笑わせながら読ませる技術と才能をもっている。これは物書きとしては、いちばん高等でむすかしい芸である。なのにその人が毎日新聞に書くと、なぜああなるのか?
ここからは想像だが、氏は新聞に載せる原稿であることを意識しすぎたんじゃないだろうか?
新聞という媒体の特性を考え、「新聞にふさわしい文体」「新聞に掲載されても違和感のない文体」を使おう。で、意図的に書き分けた。
そのことが無意識のうちに、自分の持ち味を殺す自己規制になり、皮肉なことに新聞を批判する内容でありながら新聞に飲み込まれた文章になってしまったのではないか?
プロの方ならおわかりだろうが、掲載するメディアによって文体を書き分けるのはよくあることだ。
たとえば女性雑誌に書くときと、『世界』に寄稿するとき、あるいは『ポパイ』に連載するとき。それぞれの読者層と媒体の属性を考え、ちがう文体にするのはめずらしいことじゃない。
媒体のテイストにあわせることで一冊全体を通した統一感を出し、それによって部数を売り上げるための一種の手法だ。
もちろん本を出すたびにベストセラーになるような「大先生」クラスなら、ひとつの文体で押し通すことが逆にウリになる。だがそうじゃない大部分の書き手たちは、媒体に応じてこんなふうに書き分けることがよくある。
では私が前述した「新聞にふさわしい文体」とは、どんなふうか? まず基本は文体が固いことだ。そのことによってそこはかとなく重々しさを演出し、「新聞がもっていなければならない権威の衣」をまとうことができるからだ。なんのことはない、専門的にはタダの悪文なのだが。
そして視点はあくまで大所高所から俯瞰する形を取り、あちらこちらに調味料としての「批判精神」をまぶしておく。
もちろん読む側が「おもしろい」と感じるような凝ったレトリックなんぞは、ご法度だ。新聞の文章はある意味、「つまらなければならない」のである。
もちろん氏が毎日新聞に書くに当たり、こんなことを考えたかどうかはわからない。だが私も同じように新聞社にいた人間であり、同時にフリーランスになってからは硬軟取り混ぜ、あちこちの雑誌に雑文を書き散らしてきた。だから同業者が初めて書く媒体を前にしたときの心理は、ある程度わかるつもりだ。
もし私だったら、こう考えるかもしれない。
「マジメなテーマだし、おちゃらけて読者を笑わせるような手法は極力抑えよう。心もち格調高くしたほうが無難だ。新聞の紙面にならんたとき、浮かない文体にしておこう」
自分の文体をコントロールできるプロならではの、悪しき誘惑にかられるわけだ。
結論をいえば、ブログであれだけおもしろい文章を書く藤代氏を人並みにさせてしまう新聞という名の装置が悪いということになる。
あの文章を読んで、私はなんだか新聞というメディアの限界をヘンな形でしみじみ感じてしまった。もっとも新聞の問題点を身をもってあぶり出したという意味では、氏の原稿は「意図せざる意義」があったことになるわけだが。
さて一方、ブログの場合は書き手をおかしなふうにコントロールしようとする「編集部」なるものは存在しない。「こんなレトリックを使うと、ユーモアのわからない人に『不真面目だ』と思われるんじゃないか? やっぱりやめておこうかなぁ」などと自己規制する義務もまったくない。
売るための戦略を考える必要がないから、法律やモラル、人権にふれない範囲で自由に書ける。
「何を当たり前のことを」と思われるかもしれない。そう、本来ならこんなことは既存のメディアでも保証されていて当然のことだ。だが実態はそうじゃない。だから問題なのである。
そこへいくとブログはいろんなテクニックを使って、いくらでもおもしろくできる。だからそのぶん人の心に刺さる。
既存のメディアはなにかといえば、報道、言論の自由なる印籠をチラチラさせる。だがその実、内部は自己規制だらけで身動きが取れない状態だ。前述したような新聞ならではの「格調高き表現の縛り」なんかはその象徴である。
使う言葉や文体のテイストに決まった枠組みがあるんじゃ、おもしろくするにも限界がある。天井の高さが決まっていては、それ以上は高く飛べない。
私は新聞、雑誌、広告、チラシの裏、といろんな媒体で書く経験をし、ほんの1ヵ月前、なんの気なしにブログを始めた。で、やってみてつくづく実感したのは「天井がないことの愉悦」だった。もっともこれは同時に「天井がないことの不安」とウラハラではあるのだが。
さて、最後に藤代氏と毎日新聞の名誉のために、ひとことつけくわえておきたい。ブログを読む限り、氏はマジメで気むずかしいことを書いていながら、それをエンタテインメント作品として成立させる技量がある。
だからもし私の邪推が当たっているならば、自分で自分の枠組みを小さくする自己規制などせずに、できるだけまっすぐ書いてほしいと思う。
もちろん食って行かなきゃならない以上、処世術は必要だ。私みたいに編集長と打ち合わせしている最中に、「あなたは読み違えている」と叫んで机をひっくり返したりするのは禁物だ。
そこはうまく立ち回って、自分を通してほしい。いや、私ごときがこんなことをいうのはまったくおこかましい話だが。
また逆に私の想像がハズレていて、あの原稿は「たまたま調子が悪かっただけ」なんだとしたら、前もって深くおわびしておきたい。
余談だが、ウワサでは氏は私の故郷の新聞社におられたと聞く。もし本当ならば、私は高校時代、まさにその新聞社の前を毎日チャリンコこいで学校に通っていた。
私のほうが10年くらい長生きしてるので、同じ時期にあの町に住んでいたってことはないだろう。だがひょっとしたら帰省したとき、商店街あたりですれちがっていたりするかもしれない。なんせお盆はとんでないことになる町だから。
また退社し、独立されたらしいことも私と重なるところがある。なんだか妙に他人とは思えないのだ。陰ながらご活躍をお祈りしている。
次は毎日新聞についてだ。
現在、新聞を定期購読してない私が、「どうしても新聞を取れ。でないと殺すぞ」といわれたら、おヒネリを投げるつもりで毎日新聞にする可能性は高い。
取ってつけたように聞こえるかもしれないが、ちゃんと理由はある。売れてないのは商業媒体としては、もちろんマズい。だが無骨に「何か」を追求しようとする社風(のように見えるところ)が共感できるからだ。
また藤代氏の原稿が掲載された特集「ネット時代のジャーナリズムとは何か」も、なかなか着眼点がいい。今後も折にふれこのテの企画を組んでいけば、いつかは閉塞した状況に風穴をあけられるかもしれない。
私は「買ってないもの」にケチはつけない。で、必然的に何かに言及するとしたら、自分が認めているものに対してさらに注文をつける形になってしまう。
この性格が災いし、さんざん誤解されるわけだが、すべては愛あるがゆえである。「お前に愛されたかないよ」といわれてしまえば、それまでではあるが。
●この記事がおもしろかった人はクリックしてちょ♪
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素人の方が既存メディアで影響力を持つには限界があります。
面白い文章であったとしても、間違いなくバイアスがかけられるのですから。
その場合はお笑いタレントのように皮肉を行うことが肝要だと思います。
皮肉でも証明できなければつかまることはないですし。
そもそも、今、「たかじんのどこまで言って委員会」という番組で「若手は下手な発言したら首切られるのが怖い」という話がありましたので、そういう話は昔も今も続いていると考えるのが筋かと思われます。
そして、お笑いタレントの人も、自分がそのまま伝えたい!!と思う部分を要らない直しでむちゃくちゃにさせられた、とか良くあるらしいです。たけしさんと松本さんの対談の時にそう話されてました。
変な話、一部の学者の方や社説の欄のほうが毒を吐いていることが多いのですよねぇ。
http://olo.seesaa.net/image/newdora.jpg
・・・なぜ、社説でドラえもん「こうあるべし!!」の話が・・・。
そういう文章をかかれる方は、自分が「正しい」と思う気持ちが先に出るようです。
それでは、また~。
-----------------------------
http://left13.jp
>http://olo.seesaa.net/image/newdora.jpg
>なぜ、社説でドラえもん「こうあるべし!!」の話が・・・。
わはは。これはバカ受けしました。
どらえもんも出世しましたね。
しかし…
社説でほかに書くことないのか?(笑)
まあ、「社説でどらえもんを取り上げるほど、ウチはポップな新聞なんだ」とアピールしたい、
みたいな意味があるのかもしれませんね。
賛否両論でしょうけれど(汗
>踊る新聞屋-。さん
あっ、貴ブログ、いつも拝読しております。
ご挨拶もせず、トラバ打ちっぱなしで恐縮です。
おっしゃる通り、内部にいると見えないことってありますね。
「内部=一定の枠組みで規定された価値観」にもとづいて
日々の業務をこなすことになりますから。
その価値観が「絶対的な真理」であれば問題ないのですが、
世の中にそんな真理なんてないですし。
私が今回書いたことって、日米の書き手の比較でもいえるんです。
(これ、ブログのネタにしようと思ってるんですが)
たとえば『Wired Japan』なんかを読むと、
日本人の連載陣はサッパリおもしろくないのに
アメリカ版の翻訳で向こうのジャーナリストが書いた記事をチェックすると
バツグンにおもしろかったりします。
ユーモアのセンスやシニカルなエッセンスがまぶしてあって、
「読み物としておもしろい」んですね。
一方、日本の連載陣が書いたものは、
「つまらないけど、タメになるからガマンして読むもの」
だったりします。
いわば読むことが「修行」なんです。
タメになるものをエンターテインメントとしておもしろく提供できるのが、
本当のプロだと思うんですけれど。
まあ、むずかしいことではありますが。
それでは今後ともよろしくお願いします。
いつもガ島通信を読んでいるわけではない、一般の新聞読者が読むわけです。
ブログという言葉を聞いてもいまいちわからない、と言う人々にとって、
この連載は各人の所信表明を読む、という位置づけにあたるんじゃないでしょうか。
コンテクストの共有が少ない人たちにとってはこのくらいで仕方がないように思います。
「金持ち父さんのキャッシュフロー・クワドラント」から拝借しますが、
アメリカのジャーナリストさんは「S」(自営業)のようなところがあり、楽しんで(お金を落として)もらいたい、という意識があるような感じです。
一方、日本のジャーナリストさんには「E」(従業員)という方が多く、「これを見てもらっている時点で自分たちにお金を落としてもらっているから、当り障りなくためになるものだけ提供しよう」、という意識が強いような気がします。
これもまた、「自意識が強い」アメリカと「従業員主義」日本の違いのような気がします。
最近よくブログにいいものが生まれる、というのは、「S」そういうものがあります。
「金持ち父さんのキャッシュフロー・クワドラント」を参照させていただきますが、
アメリカのジャーナリストさんは「S:自営業」の意識があり、「みなに楽しく読んでもらい(お金を落としてもらい)たい」というのがアメリカにあり、日本は「E:従業員」の意識で「これを読んでいる人に当り障りなくためになることを伝えたい」ということかもしれませんねぇ。
それでは、また~。
初めまして。
>今回の松岡さんの投稿は、正直「?」と思いました。
はい。賛否両論あると思います。
文中にも書きましたが、
もし「新聞に書く」という意識のせいで
ガ島さんの原稿がああなったのであれば、
これをテキストにして新聞の限界をあぶり出せるかな、
と考えたのが、今回の原稿を書いたきっかけです。
ただしこの前提自体、私の想像にもとづいていますから、
無責任な原稿だと感じる方もおられるかもしれません。
もうひとつは、これはガ島さんに対する
私の個人的な思い入れにすぎないのかもしれない、ということです。
この原稿を書いている最中に、私の中にあるガ島さんへの期待値が
とてつもなく大きいことに自分で気づきました。
読み手というのは勝手なもので、自分の期待が大きいと、
「これではまだ満足できない。もっともっと」
とハードルが高くなるようで。
つまりこれはあくまで
「ガ島さんはこんなもんじゃないはずだ」という私の個人的な思い入れにすぎず、
ほかの人から見たら大した問題ではないのかもしれません。
要は、「私は」こう思う、ということですね。
>KMさん
なるほど。アメリカのジャーナリストは社員であっても
自営業者的な意識がある、ですか。
その視点はおもしろいですね。いかにも個人主義の国っぽいな。
情報、どうもです♪
ただ、アメリカの中にも「S:自営業者」ではなく「E:従業員」の人もいるにはいるようです。
新聞で(「金持ち父さん 貧乏父さん」の著者の)ロバート・キヨサキさんがある新聞の取材で言った「私は税金を払いません。投資で儲けた金を税法の条例を元にすぐに別の場所に再投資しますから」という言葉の一部分だけとられて「億万長者、税金払わず」のような見出しにされた、とか・・・。
・・・なんかどっかで聞いたような話・・・。
他にも「S:自営業者」的な考え方をする背景として「楽しく仕事をしたい」はもとより「独立したい」というのもあると思えました。
とくに日本とは違い、独立するのに「罪の意識」とかがあまりない様に思えましたし。
それでは、また。
白か黒か。そうですね。私が毎日新聞のあの記事を読んだとき、感じた「いくつかの違和感」のうちのひとつを、高田さんはうまく言葉にされていると感じました。
その違和感のうちのひとつは、例の原稿の新聞批判のくだりで特に感じました。
新聞の側に問題があるのはもちろんですが、何か内容が紋切り型というか、巷に漂う型通りの新聞批判だなあ、と。これをひとことで表現すると、白か黒かの発想、となるのかもしれませんね。
ただ同時に私は、ガ島さんの気持ちもわかるような気がします(また勝手な想像ですが)。
ガ島さんはもともと内部におられて、事情があって外に出られたのでしょうから、新聞に対して特に強い個人的な「思い」があるんだろうなあ、と。
で、その主観的な強い「思い」が、ややもすると時として極端な形(白か黒か)で文章に出るのかな、と感じました。ご自分の体験を通して受けたトラウマのようなものが、ガ島さんのモノサシをブレさせることがあるのではないか、みたいなことです。
ただしこれはあくまで推測ですから、無責任にはいえないな、とも感じます。なんだかうまく言葉にできませんけれども。