前回のエントリー「なぜ日本では議論が生まれにくいのか? ──議論とケンカのメンタリティ」で紹介した「BLOG STATION」さんから、トラバをいただいた。せっかくなので、それに対する私の意見を述べようと思う。結論を先に言えば、残念ながらやっぱり私には彼の感性はまるで理解できませんというお話にすぎないのだが。
「BLOG STATION」さんからいただいたエントリー『「批判について考える」へのトラックバック雑感』の論点は、わかりやすく言えば以下の3点だ。
1 松岡美樹は『原典であるはずの「はてなグループ:モヒカン族 - キーワード「ムラ社会」』に、いっさい触れていない。本題に言及せず、「僕が書いたわずか数行の文章」にだけ反応している。「原典から脱線しすぎ」である。これでは議論にならないのではないか?
2 「BLOG STATION」のブログ主さんは、「僕の意見が理解できないとか、反対意見だと書かれること自体は、そんなに嫌ではないのですが」といいながらも、あきらかに気分を害し感情的に反応している ⇒私からみれば、逆にこれこそ議論にならないスタンスである。
3 松岡美樹は、自分のエントリーで取り上げた「hankakueisuuさん」、「えっけんさん」に関しては人名で呼び、「僕だけブログ名で」呼んでいる。このことに僕は「著しい当惑を覚えた」 ⇒私の考えを言えば、これまた典型的な感情的反応にすぎない。
以上、「BLOG STATION」さんの論旨は、この3点だけだ。ここまで読んでもうおわかりだろうが、「BLOG STATION」さんとは生産的で論理的な議論などできないことは明白だ。
なぜなら前回、私が書いたエントリーに沿って言えば、「BLOG STATION」のブログ主さんは自分とちがう意見をぶつけられたとき、【パターン1】に陥ってしまう典型的なタイプの人だと推測できるからだ。
私は前回のエントリーで人間のコミュニケーションを大きく2つに分類し、意見のちがいがケンカにしかならないケースと、生産的な議論に発展するケースについてふれた。それは以下の通りだ。
とはいえせっかくトラバをいだいたのだから、彼があげた3つの論点に対して論理的に反駁しておく。
【論点1について】
論点1は、「松岡は、原典にふれてない。これはおかしいんじゃないか?」という内容だ。
ここで彼が言っている原典とは、「モヒカン族」とは何か? とか、「ムラ社会」の定義とはいかなるものか? みたいな文章のことを指している。
ところが私はモヒカン族がどうだとか、ムラ社会とはなんなのか? なんていうことにはまったく興味がない。そういうことに興味がある人は勝手にそれを「本題」にして議論していればいいと思うが、私はそんなことにはてんで関心がないんだから、エントリーの中でそのことに言及しないのは当たり前の話だ。
そもそも基本的に「BLOG STATION」さんは、私が書いた前回のエントリーの本題を誤読しているのである。
私はモヒカン族だのムラ社会だのには興味がない。だからそれについて書く気もまったくない。私が前回のエントリーを書く動機になったのは、「BLOG STATION」さんが以下のようなことを書いているのを読んだからだ。
私は彼が書いたその内容に対し、それはちがうだろうと考えた。だから前回のエントリーを書く気になった。私が書くきっかけになった「BLOG STATION」さんの文章を、以下に引用しておく。
このモデルケースで言えば、ムラ子さんが私・松岡に対して「○○って映画を見たけど面白かったよぉ」と言ったとしよう。ところが私は「いや、自分はその映画はちっともおもしろくなかった」と感じた。なら、率直に自分の異論を述べ、さらにその論拠を明確に提示するのが自然なことだと私は考える。もちろん私とムラ子さんの立場が逆でも同じことである。このへんについては、前回のエントリーのコメント欄をお読みいただきたい。
ところが「BLOG STATION」のブログ主さんは上に引用したように、人間というものは個々の価値観のちがいを決して表明してはいけないという意味のことを書いている。彼によれば、それは「人格を否定する行為」らしい。私にはこの論理展開がまるで理解できない。理由は、上のほうに書いた通りだ。
私は議論の相手から、自分が思ってもみなかった新しい視点や斬新な発想を受け取るのがエキサイティングだと感じるからである。
ところが「BLOG STATION」さんは「それはいけないこと」であり、「人間として、してはいけないことだ」と書いている。
だがそもそも他人が見ておもしろいと思った映画を私・松岡が「おもしろくない」と感じたとき、いったいなぜ私はその意見を述べることを制限されなければならないのだろうか?
私から見れば、そんな自分の意見を率直に言えない社会なんて窮屈この上ない。そもそもそれが認められないならば、すべての「評論活動」は成り立たない。だから私はこの「BLOG STATION」さんの不自然な意見に反駁したいと考えた。で、前回のエントリーを書いたのだ。
くどいようだが、私はモヒカンがどうだの、ムラ社会がなんたらいう話(原典)にはまるで興味がない。そんなことは私にとって本題じゃないのだ。
私にとっての本題は、「自分の意見を言うことはいけないことだ」と語る「BLOG STATION」さんの理解不能な論理である。だから「BLOG STATION」さんが勝手に本題だと考えている原典にはふれず、私にとっての本題である「BLOG STATION」さんの意見に対してだけ異論を述べた。
以上が彼の「論点1」に対する私の回答だ。結論として私の考えを言おう。「BLOG STATION」さんはご自分の考えに異論を述べられたくないのであれば、ぜひご自分のブログのトップページに「NO! 議論」と明記しておいてほしい。
そうしてくれてさえいれば、私としても仕事が忙しい中、論理的な議論が成立しない相手に対してこんなムダなエントリーを書かずにすんだからだ。
【論点2について】
これはあらためて言及する必要もないだろう。「BLOG STATION」さんは私に異論をぶつけられ、「著しい当惑」を感じたと書いている。つまり「BLOG STATION」さんが私の異論に対して気分を害し、感情的に反応しているのはあきらかである。
【論点3について】
論点3は、私が書いたエントリー中で紹介した3つのブログのうち、「BLOG STATION」さんだけ「人間の名前で呼んでいない」「そのことでオレはむかついた」という、本当にどうでもいい「きわめて感情的」な問題だ。
じゃあなぜ私は「BLOG STATION」さんだけ「人間の名前で呼ばなかった」のか? その理由を書こう。
まず私はえっけんさんとは、今までに何度か私のブログ上、およびえっけんさんのブログ上で直接、レスを交わしたことがある。すでに何度も意見交換したことのある相手だ。
またhankakueisuuさんは、以前、私が「ガ島通信」さんについて書いたエントリーを取り上げられている。で、その私のエントリーに対するhankakueisuuさんの分析について、私はhankakueisuuさんのブログのコメント欄に書き込みをしたことがある。
つまり私から見ればえっけんさんとhankakueisuuさんは、「けっこう知り合いだと言える相手」か、もしくは「そこそこ知り合いだといっていい相手」である。
ところが一方、私はいままで「BLOG STATION」さんとは、なんらかかわりをもったことがないし、コミュニケーションを取った経験がない。いわば、見ず知らずのアカの他人だ。
人間にとって、「その人を名前で呼ぶかどうか?」は、親しさのバロメーターでもある。また世の中には、まったく知らない相手から名前で呼ばれたら、「オレは知りもしない相手からなれなれしく名前で呼ばれた」と怒る人だっている。
そこで私はわざわざ気を遣い、「BLOG STATION」さんだけは「ブログ名」で呼んだ。ところが彼はそんな私の気遣いにはまるで気づかず、「著しい当惑を覚えた」と書いている。
わかりやすくまとめを書こう。
まず彼は私のエントリーを読み、自分が貶められたと感じた。早い話が、不愉快になったわけだ。だから私がわざわざ気を遣って先方を「ブログ名」で呼んでいるにもかかわらず、そのことに対してまるで見当ちがいのネガティブな解釈をしてしまっている。
ではなぜ彼はこんな反応のしかたをしてしまうのか?
それは彼が異論に対して論理的・客観的に反駁するタイプの人ではなく、感情的な反応をする感性の持ち主だからだ。
本当にくどいが、「BLOG STATION」さんはご自分のブログのトップページに「NO! 議論」と表記しておいてほしい、と個人的に思う。そうすればこんなまったくの時間のムダで不毛なやり取りを防げるからである。
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(追記)経緯をわかりやすくするために、一部補足した(2005,8/31)
「BLOG STATION」さんからいただいたエントリー『「批判について考える」へのトラックバック雑感』の論点は、わかりやすく言えば以下の3点だ。
1 松岡美樹は『原典であるはずの「はてなグループ:モヒカン族 - キーワード「ムラ社会」』に、いっさい触れていない。本題に言及せず、「僕が書いたわずか数行の文章」にだけ反応している。「原典から脱線しすぎ」である。これでは議論にならないのではないか?
2 「BLOG STATION」のブログ主さんは、「僕の意見が理解できないとか、反対意見だと書かれること自体は、そんなに嫌ではないのですが」といいながらも、あきらかに気分を害し感情的に反応している ⇒私からみれば、逆にこれこそ議論にならないスタンスである。
3 松岡美樹は、自分のエントリーで取り上げた「hankakueisuuさん」、「えっけんさん」に関しては人名で呼び、「僕だけブログ名で」呼んでいる。このことに僕は「著しい当惑を覚えた」 ⇒私の考えを言えば、これまた典型的な感情的反応にすぎない。
以上、「BLOG STATION」さんの論旨は、この3点だけだ。ここまで読んでもうおわかりだろうが、「BLOG STATION」さんとは生産的で論理的な議論などできないことは明白だ。
なぜなら前回、私が書いたエントリーに沿って言えば、「BLOG STATION」のブログ主さんは自分とちがう意見をぶつけられたとき、【パターン1】に陥ってしまう典型的なタイプの人だと推測できるからだ。
私は前回のエントリーで人間のコミュニケーションを大きく2つに分類し、意見のちがいがケンカにしかならないケースと、生産的な議論に発展するケースについてふれた。それは以下の通りだ。
【パターン1】また、前回のエントリーで私がいちばん言いたかったことは、以下の部分だ。
ムラ子「○○という映画はおもしろかった」
モヒ男「オレはおもしろくないと思う。なぜならば~」⇒論拠Aを提示する
ムラ子 ⇒この時点で自我を傷つけられたと感じ、「感情的」な反応をする。
結論●ケンカにしかならない
【パターン2】
ムラ子「○○という映画はおもしろかった」
モヒ男「オレはおもしろくないと思う。なぜならば~」⇒論拠Aを提示する
ムラ子「じゃあ、なぜ自分はおもしろいと思ったのか?」について、冷静に論拠Bを提示する
結論●論拠Aと論拠Bをもとに、生産的な議論が発生する
たとえば議論していて、自分が想像もしなかった斬新な視点や物の見方を提示され、おどろくことはしょっちゅうある。それってすごくエキサイティングな体験だ。人と議論したことで人生が変わっちゃう人だってたくさんいるだろう。もし私の前回のエントリーに対して異論を述べ、論理的に議論するならば、この私の主題に対して反論するのがふつうだ。ところが「BLOG STATION」さんは、上記の主題にはいっさいふれずに、「著しく当惑を覚えた」などと感情的な反応に終始している。これではまともな議論が成立するはずがない。
これって本を読んで「なるほどそんな考え方もあるのか」とか、「世の中にはこんなことがあったんだ」と自分が広がっていくのと同じだ。私にとって議論で相手の意見を聞くのは、「自分の知らないことが書いてある本を読む」のとイコールなのだ。
とはいえせっかくトラバをいだいたのだから、彼があげた3つの論点に対して論理的に反駁しておく。
【論点1について】
論点1は、「松岡は、原典にふれてない。これはおかしいんじゃないか?」という内容だ。
ここで彼が言っている原典とは、「モヒカン族」とは何か? とか、「ムラ社会」の定義とはいかなるものか? みたいな文章のことを指している。
ところが私はモヒカン族がどうだとか、ムラ社会とはなんなのか? なんていうことにはまったく興味がない。そういうことに興味がある人は勝手にそれを「本題」にして議論していればいいと思うが、私はそんなことにはてんで関心がないんだから、エントリーの中でそのことに言及しないのは当たり前の話だ。
そもそも基本的に「BLOG STATION」さんは、私が書いた前回のエントリーの本題を誤読しているのである。
私はモヒカン族だのムラ社会だのには興味がない。だからそれについて書く気もまったくない。私が前回のエントリーを書く動機になったのは、「BLOG STATION」さんが以下のようなことを書いているのを読んだからだ。
私は彼が書いたその内容に対し、それはちがうだろうと考えた。だから前回のエントリーを書く気になった。私が書くきっかけになった「BLOG STATION」さんの文章を、以下に引用しておく。
■価値観って、人格の一部でしょ?人間の価値観なんていうものは、人によってちがうのが当たり前だ。で、私は「あなたの価値観は私とはここがこうちがう」と、自分の意見を率直に述べるのはごく自然なことだと考えている。
「○○って映画を見たけど面白かったよぉ」「それって宣伝先行のクソ映画でしょ。しかもパクりだし」「ねぇ、どうして私にケチをつけるの?」「えっ? 映画にケチはつけたけど、君にケチはつけていないよ」「ひどい。バカにしているのね」
(はてなグループ:モヒカン族 - キーワード「ムラ社会」)
私たちは全員、ムラ社会の中に住んでいます。(もちろん、モヒカン族も例外ではありません。)
モヒ男君は、「映画にケチはつけたけど、君にケチはつけていないよ」と言い訳していますが、「○○という映画が面白い」と言っている、ムラ子さんという人間の価値観を否定していることに、気づいていないようですね。
このモデルケースで言えば、ムラ子さんが私・松岡に対して「○○って映画を見たけど面白かったよぉ」と言ったとしよう。ところが私は「いや、自分はその映画はちっともおもしろくなかった」と感じた。なら、率直に自分の異論を述べ、さらにその論拠を明確に提示するのが自然なことだと私は考える。もちろん私とムラ子さんの立場が逆でも同じことである。このへんについては、前回のエントリーのコメント欄をお読みいただきたい。
ところが「BLOG STATION」のブログ主さんは上に引用したように、人間というものは個々の価値観のちがいを決して表明してはいけないという意味のことを書いている。彼によれば、それは「人格を否定する行為」らしい。私にはこの論理展開がまるで理解できない。理由は、上のほうに書いた通りだ。
私は議論の相手から、自分が思ってもみなかった新しい視点や斬新な発想を受け取るのがエキサイティングだと感じるからである。
ところが「BLOG STATION」さんは「それはいけないこと」であり、「人間として、してはいけないことだ」と書いている。
だがそもそも他人が見ておもしろいと思った映画を私・松岡が「おもしろくない」と感じたとき、いったいなぜ私はその意見を述べることを制限されなければならないのだろうか?
私から見れば、そんな自分の意見を率直に言えない社会なんて窮屈この上ない。そもそもそれが認められないならば、すべての「評論活動」は成り立たない。だから私はこの「BLOG STATION」さんの不自然な意見に反駁したいと考えた。で、前回のエントリーを書いたのだ。
くどいようだが、私はモヒカンがどうだの、ムラ社会がなんたらいう話(原典)にはまるで興味がない。そんなことは私にとって本題じゃないのだ。
私にとっての本題は、「自分の意見を言うことはいけないことだ」と語る「BLOG STATION」さんの理解不能な論理である。だから「BLOG STATION」さんが勝手に本題だと考えている原典にはふれず、私にとっての本題である「BLOG STATION」さんの意見に対してだけ異論を述べた。
以上が彼の「論点1」に対する私の回答だ。結論として私の考えを言おう。「BLOG STATION」さんはご自分の考えに異論を述べられたくないのであれば、ぜひご自分のブログのトップページに「NO! 議論」と明記しておいてほしい。
そうしてくれてさえいれば、私としても仕事が忙しい中、論理的な議論が成立しない相手に対してこんなムダなエントリーを書かずにすんだからだ。
【論点2について】
これはあらためて言及する必要もないだろう。「BLOG STATION」さんは私に異論をぶつけられ、「著しい当惑」を感じたと書いている。つまり「BLOG STATION」さんが私の異論に対して気分を害し、感情的に反応しているのはあきらかである。
【論点3について】
論点3は、私が書いたエントリー中で紹介した3つのブログのうち、「BLOG STATION」さんだけ「人間の名前で呼んでいない」「そのことでオレはむかついた」という、本当にどうでもいい「きわめて感情的」な問題だ。
じゃあなぜ私は「BLOG STATION」さんだけ「人間の名前で呼ばなかった」のか? その理由を書こう。
まず私はえっけんさんとは、今までに何度か私のブログ上、およびえっけんさんのブログ上で直接、レスを交わしたことがある。すでに何度も意見交換したことのある相手だ。
またhankakueisuuさんは、以前、私が「ガ島通信」さんについて書いたエントリーを取り上げられている。で、その私のエントリーに対するhankakueisuuさんの分析について、私はhankakueisuuさんのブログのコメント欄に書き込みをしたことがある。
つまり私から見ればえっけんさんとhankakueisuuさんは、「けっこう知り合いだと言える相手」か、もしくは「そこそこ知り合いだといっていい相手」である。
ところが一方、私はいままで「BLOG STATION」さんとは、なんらかかわりをもったことがないし、コミュニケーションを取った経験がない。いわば、見ず知らずのアカの他人だ。
人間にとって、「その人を名前で呼ぶかどうか?」は、親しさのバロメーターでもある。また世の中には、まったく知らない相手から名前で呼ばれたら、「オレは知りもしない相手からなれなれしく名前で呼ばれた」と怒る人だっている。
そこで私はわざわざ気を遣い、「BLOG STATION」さんだけは「ブログ名」で呼んだ。ところが彼はそんな私の気遣いにはまるで気づかず、「著しい当惑を覚えた」と書いている。
わかりやすくまとめを書こう。
まず彼は私のエントリーを読み、自分が貶められたと感じた。早い話が、不愉快になったわけだ。だから私がわざわざ気を遣って先方を「ブログ名」で呼んでいるにもかかわらず、そのことに対してまるで見当ちがいのネガティブな解釈をしてしまっている。
ではなぜ彼はこんな反応のしかたをしてしまうのか?
それは彼が異論に対して論理的・客観的に反駁するタイプの人ではなく、感情的な反応をする感性の持ち主だからだ。
本当にくどいが、「BLOG STATION」さんはご自分のブログのトップページに「NO! 議論」と表記しておいてほしい、と個人的に思う。そうすればこんなまったくの時間のムダで不毛なやり取りを防げるからである。
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(追記)経緯をわかりやすくするために、一部補足した(2005,8/31)
しかし、松岡さんが言うような、彼は「異論を認めない」種のブロガーではありません。
それはともかく、松岡さんが「興味がない」と言い、Kenさんが「そこだけ反応された」というモヒカン族の箇所ですが、面白いのは松岡さんはあの会話の本質を理解しているのに、Kenさんはそれを他人に利用されると「映画が好きか嫌いか」という会話として用いられた、とすることです。
持ち出された例え話に則って進めた我々に「あの話は関係ない話」という反論は、ちょっと違うんじゃないの?
……と思いました。
たとえば彼は新しいエントリーで、自分にトラバを打ってきたいくつかのブログを取り上げていますね。あれを読めばあきらかですが、私のブログに対する論調だけが、ほかのブログに対するのとはまるでちがいます(笑) つまり私が書いたことに対し、ネガティブな「感情」をもちながらエントリーを書くからあんなふうになっちゃうわけです。
>持ち出された例え話に則って進めた我々に「あの話は関係ない話」という反論は、ちょっと違うんじゃないの?
……と思いました。
いわゆる「ハシゴをはずされる」というやつですね(笑)。自分に都合の悪い論理展開になると、とたんに前言撤回してシラを切るのは、まともな議論ができない人の必殺ワザですよ(笑)。
もちろん議論してみて考えが変わり、もともとの自分の意見を修正するのなら話はわかります。けど彼は、あたかも相手がピントはずれな箇所に反応しているかのような恣意的な誘導を行っていますね。そのことで自分が出した例え話は「なかったこと」にし、議論の相手がいかにも「的外れな分析」をしているかのような印象を与えようとしています。これって単に、自分が議論に「勝ちたい」からじゃないですか? まるでお話になりません。
私もすごく反省すべきところです・・・。
確かに私も意固地になった際、こういう考えに立ってしまいますから、なんとか自分もその性格を直さないと・・・。
そのせいで、先ごろも松岡様を怒らせてしまいましたし・・・。
申し訳ございませんでした。
それにしても・・・すごい分析力ですねぇ。
>人によってちがうのが当たり前だ。
確かに、自分の感性を人に伝えるのはかかれているとおり「意見」ですからねぇ。
とはいえ、一部には「意見を封じよう」という法律を作ろう!!といううわさもあったりしてぞっとしていますが・・・。
建設的な議論の成立しない場所って、一体・・・。
>名前で呼ぶか、ブログ名で呼ぶか
・・・これも、感情が絡み合う複雑怪奇な問題ですよねぇ。たった一つの接し方が違えば、ここまでこんがらがるものかと思いました。
ネガティブな状態で人に接触するものではない、と改めて思い知らされました。
これがジャーナリストと呼ばれる人の力なのですねぇ。
感服いたしました。
ここにリンクをはらせていただきます。
http://ugaya.com/column/taisha2.html
>編集部内は死んだみたいに静かだった。
>記者同士の意見交換が極端に少なくなった。
非生産的な感情論の発露ではこのようになってしまうものなのですねぇ・・・。
これもぞっとする話です・・・。
ムリメな議論でも諦めないで。
タカチマインドで。
そんな感じです。
名前で呼ぶかブログで呼ぶかですが
僕の場合は、ブログ名で呼んで、「このブロガーは」となるようにルールを作ってます。
親しい人は名前で書いちゃいますが。
とりあえず、いくら理論武装しても、
個人攻撃に走った時点で、少なくともどっちもどっちだとおもうんですよね…。
やっぱ、よく知ってる人は自然に名前で呼びますよね? たとえば親友なら「呼び捨て」にするけど、よく知らない人は「さん付け」にする、みたいなのと同じでしょ、これって。まあ別にこんなことで議論する気はないけどねえ、疲れるし(笑)
>Leftyさん
はじめまして(でしたっけ?)。ちがってたらすんません(^^; んー、まあLeftyさんが何を言いたいかはわかるんですが……(笑) どうぞ気を悪くしないで聞いてくださいね。
たとえばLeftyさんは今、「理論武装」って言葉をお使いになってます。で、その言葉を選択した瞬間に、Leftyさんの頭にあったイメージって「松岡は議論に勝とうとしてる」という構図ですよね? でなければ「武装」って言葉は連想しないでしょうから。でもね、私はホントに勝ち負けなんてどうでもいいんです。私は議論が好きなんですよ。それともうひとつ、私は「分析フェチ」なんで、人の心理を分析するのが好きだってのもありますが(笑)。まあぜがひでもLeftyさんを説得しようとは思いませんから、自由に解釈してくださいって話になりますが。
それから「個人攻撃」って言葉をお使いになってるのも、同じ意味ですね。Leftyさんはこのエントリーを読み、「松岡には攻撃の意図がある」と解釈されてる。でもですね、ちょっと考えてみてくださいね。たとえばこのエントリーに書いてあるテーマや内容を、「個人を特定」せず、なおかつ、具体的なエントリーの「例文」をあげずに、文章にして説明するって無理なんです。私はプロのライターですが、それはかなりむずかしいです。具体例をあげなければ相当に抽象的な内容になりますから、たぶん読んだ人は意味がわからないと思います。
で、個人を特定し、例文をあげると、今度はそれを「個人攻撃」だと解釈する人が出てきてしまうわけです。まあコミュニケーションてのはそれだけむずかしいってことです。で、今回のエントリーを書きながらふと思ったんですけど……「ひょっとしたらオレって、日本人じゃないんじゃないか?」と(笑) つまりそれだけ「自分」と「他者」との間に、コミュニケーションに対する感覚のちがいを実感しました。
それでふと思いついたんですが、たとえばこのエントリーを50ヶ国語くらいに翻訳し、世界各国の人に読ませたらどんなふうに解釈するのかなあ、と(笑) たぶん世界の中でも日本においては、このエントリーを「攻撃」と解釈する人の比率が飛びぬけて高いんじゃないかと思います。たぶんフランス人が読んだら「攻撃」とは思わないだろうなあ、とかね。フランス人って議論が好きですから。
ところが一方、日本では、「議論」なる言葉そのものに、「衝突」とか「ケンカ」みたいなネガティブなイメージをもつ人が多いですよね。「それはやってはいけないことだ」みたいな感覚です。まあよく言われることですが、日本人はそれだけ互いの「価値観のちがい」を容認しにくいメンタリティをもっている、ってことだと思います。
それではまた。
私は、タイトルその他から、「Kenさんに対する」攻撃の意図を感じたということです。
記事にかかれている内容ではなくて、彼の記事を書く姿勢に対して「議論を投げかけて(?)」で、結論が「だめだこいつ」なわけで…。
ごくごく個人的なポリシーとして「記事を憎んで人を憎まず」というのがあって…そのあたりの感覚の違いかなと思いますが…。
この記事の趣旨は、「こういう解釈の仕方はおかしいでしょう?」ではなく「彼とは議論する価値が無い」だと取れたのですが、それはどうでしょうか?
>記事にかかれている内容ではなくて、彼の記事を書く姿勢に対して「議論を投げかけて(?)」で、結論が「だめだこいつ」なわけで…。
まず上に書いたようにこんな小さなことに感情的に反応するんだから、そりゃ議論なんて無理だろうなあ、と私は感じました。彼からトラバをいただいた今回の「記事にかかれている内容」って、大部分がこのテのナーバスな反応ばかりですね。で、私はその「記事にかかれている内容」=「ナーバスな反応」に関してこのエントリーを書いたわけです。
>この記事の趣旨は、「こういう解釈の仕方はおかしいでしょう?」ではなく「彼とは議論する価値が無い」だと取れたのですが、それはどうでしょうか?
【論点1】と【論点3】に私が書いているのはすべて、「こういう解釈の仕方はおかしいでしょう?」という内容ですね。で、結論としてこういう反応をしてしまう人とは、そりゃ議論はできないよなあ、みたいなことです。初めから論理的な議論ができない人だとわかっていれば、たぶん私は最初のエントリーは書かなかったと思います。だからいただいたトラバを見て、「ああ、ムダだったのかあ」という徒労感を感じました。もうひとつ、これは個人的な事情ですが、私は今、締め切りラッシュで徹夜の連続なんです。その貴重な時間の合間をぬって書いたエントリーが見事に空振りに終わり、議論が成立しなかった。ですから「議論する価値がない」ということではなく、貴重な時間が本当にムダになってしまったなあ、ということです。「それなら最初から教えてほしい」みたいなことですね。
それではまた。
了解しました。
お忙しい中、お手間取らせてしまい、もうしわけありませんでした。
では。