文章とは、読んだ人が自由に解釈できるところがすばらしい。筆者がどんな意図で書いていようが、読み手が思うままにイメージの翼を広げられる。それが読むことの醍醐味である。
まあ別に作文に限らず、芸術とはそういうものだ。だから自分の文章を自分で解説するなんてヤボだし、非常にみっともない行為である。
だけどたまたまブログ「北の大地から送る物欲日記」さんから、私が書いたコラム『初心者ブロガーが「ブログ青春時代」を卒業するとき』(ASCII.jp)に以下のような問いかけをいただいた。
なるほど。あの原稿は比喩を多用したから、読んだ人に意味が通じてない箇所も多いのかも? そう気づいた。とても貴重なご意見をいただいたと感じた。こういうのは実際に読んだ人から言われてみないと、自分じゃ案外気づかないものである。
そこで今回は自分で自分を検証する意味を込め、ヤボを承知で自分の文章を解説してみることにした。これも自己研鑽になるはずだ。まあ一種の独り言みたいなものである。
テキストは連載「松岡美樹の“深読みインターネット”」で書いた前述の拙文だ。短いコラムなので、よろしければまずは上記の文章をお読みいただければと思う。
■隠された本当のテーマは何か?
さて今回、拙文『初心者ブロガーが「ブログ青春時代」を卒業するとき』で題材にしたのは、ブロガーの心理である。
ブログは一般に、始めた頃は何も考えず好きなことを書くものだ。ところが「記事を書き、アクセス数を見て」てな作業を続けるうち、幸か不幸か余計なことを考えるようになる。その代表格が「どうすればページビューが増えるのか?」である。
せっかくブログを始めたっていうのに、「たくさんの人に読まれるにはどうすればいいのか?」、「ウケる原稿ってどう書くんだろう?」と思案するうち、多くの人が負の連鎖に陥ってしまう。
最初はピュアな動機でスタートしたはずなのに、悪い意味でプロと同じこと、すなわち「売るためにはどうすればいいのか?」という商業主義の袋小路に迷い込む。今回のコラムでは、そんなブロガーの心理の変化をシニカルに描いている。
ゆえにタイトルで使った「卒業」とは、純粋な心を失うことを指す。つまりネガティブな意味である。青春時代とは、恐ろしいまでにピュアなものだ。一方、誤解を恐れずにいえば、社会に出るというのはある意味「汚れる」ことである。
ではコラム中で使ったポイントになる表現を、カンタンに説明していこう。以下、太字はすべて文中からの引用である。
『就活』
文中では、初心者ブロガーが好きなことだけ書いてる状態を、「青春時代」「学生時代」と想定している。
だけど学生さんはいつかは就職する。職に就けば、いままでとちがって好きなことだけやってればいいわけじゃない。生活するためには、やりたくない仕事もガマンしてやらなきゃいけない。人生の第二局面である。
で、文中ではこの「食うために働く状態」を、アクセス・アップ目ざして「書きたくはないがウケる原稿を書くこと」に置き換えている。すなわちここでいう「就活」とは、手段が目的化した日々に突入する前段階のことを指している。
『嫌な仕事でもガマンして収入を稼がなきゃ』
前述の通り、書きたくない原稿を書いて収入=アクセスを稼ぐって意味だ。仕事とは原稿を書くことである。
『テーマは絞ったほうがいい。でもそれは「正しい」のか?』
(2ページ目の中見出し)
前段は読んで字の如し。テーマを絞ったほうが、アクセス・アップの効果がある。でも書くことに対する純粋なモチベーションを忘れ去り、小手先の技巧(テーマを絞ること)に邁進するのは果たして「正しいこと」なのか? それが後段の問いかけである。
『これがいいことなのか? 悪いことなのか? 判断はその人本人がすることである。なにしろ更新頻度からいえば、その筆者がいちばん興味があるのはゲームなのだから』
本人にとっては、ゲームの原稿を書くのが「いいこと」であるはずだ。だけどアクセス・アップを狙い、テーマを絞るという選択もある。どっちを選ぶかは本人が決めることである。それがいいことなのか、悪いことなのかは別にして。
『その意味では今やプロの出版人だけでなく、素人さんも売れる媒体を日夜考えているのである』
これまたシニカルな意味を込めた表現だ。本来なら考えなくていいことを、素人さんが考えてるよね、って話だ。
いわゆるプロの人々は経営を考え、「売れる媒体」を目指さなきゃならない。だけどその必要もない素人さんが、わざわざ自分で自分の創作活動を鋳型にはめ込んでどうするの? それってつまらないと思わない? てな意味で書いている。
『果たして彼はこの難局を乗り切り、ブロガーとして立派な社会人になれるのか?』
「就活」の項で説明した通り、この場合の社会人とは「食うためにやりたくない仕事をガマンしてやってる人々」の意味だ。つまり「ブロガーとして立派な社会人になる」とは、アクセス稼ぎのために日夜書きたくない原稿を書く「リッパなブロガーになること」を指す。これもシニカルな表現である。
『いやそれ以前に社会人になること自体がいいことなのか? 悪いことなのか?』
この場合の「社会人」も、前項で説明したのと同じ意味だ。アクセス・アップのために書きたくもない文章を書く「社会人」になることは、果たしていいことなのか? 疑問の提示である。
【本日のまとめ】
文章を仕事で書いている「プロ」の立場から見ると、「素人さんは何をどう書いてもいいはずなのに、なぜわざわざ自分で自分に窮屈な枠組みをハメるんだろう?」って疑問がわく。アクセス・アップという「大義」のために。
そんな皮肉な疑問を文章にし、「あなたは本当にそれで後悔しないですか?」と問いかけたのが今回のコラムである。以上、無粋な解説はこれにて終了。次回からはいつものモードにもどろう。
ではみなさん、またよろしくお願いします。
まあ別に作文に限らず、芸術とはそういうものだ。だから自分の文章を自分で解説するなんてヤボだし、非常にみっともない行為である。
だけどたまたまブログ「北の大地から送る物欲日記」さんから、私が書いたコラム『初心者ブロガーが「ブログ青春時代」を卒業するとき』(ASCII.jp)に以下のような問いかけをいただいた。
ブロガーとして立派な社会人ってのが何を指すのかは分からないけれど、
●北の大地から送る物欲日記『ブロガーとしての成長に卒業はない』
なるほど。あの原稿は比喩を多用したから、読んだ人に意味が通じてない箇所も多いのかも? そう気づいた。とても貴重なご意見をいただいたと感じた。こういうのは実際に読んだ人から言われてみないと、自分じゃ案外気づかないものである。
そこで今回は自分で自分を検証する意味を込め、ヤボを承知で自分の文章を解説してみることにした。これも自己研鑽になるはずだ。まあ一種の独り言みたいなものである。
テキストは連載「松岡美樹の“深読みインターネット”」で書いた前述の拙文だ。短いコラムなので、よろしければまずは上記の文章をお読みいただければと思う。
■隠された本当のテーマは何か?
さて今回、拙文『初心者ブロガーが「ブログ青春時代」を卒業するとき』で題材にしたのは、ブロガーの心理である。
ブログは一般に、始めた頃は何も考えず好きなことを書くものだ。ところが「記事を書き、アクセス数を見て」てな作業を続けるうち、幸か不幸か余計なことを考えるようになる。その代表格が「どうすればページビューが増えるのか?」である。
せっかくブログを始めたっていうのに、「たくさんの人に読まれるにはどうすればいいのか?」、「ウケる原稿ってどう書くんだろう?」と思案するうち、多くの人が負の連鎖に陥ってしまう。
最初はピュアな動機でスタートしたはずなのに、悪い意味でプロと同じこと、すなわち「売るためにはどうすればいいのか?」という商業主義の袋小路に迷い込む。今回のコラムでは、そんなブロガーの心理の変化をシニカルに描いている。
ゆえにタイトルで使った「卒業」とは、純粋な心を失うことを指す。つまりネガティブな意味である。青春時代とは、恐ろしいまでにピュアなものだ。一方、誤解を恐れずにいえば、社会に出るというのはある意味「汚れる」ことである。
ではコラム中で使ったポイントになる表現を、カンタンに説明していこう。以下、太字はすべて文中からの引用である。
『就活』
文中では、初心者ブロガーが好きなことだけ書いてる状態を、「青春時代」「学生時代」と想定している。
だけど学生さんはいつかは就職する。職に就けば、いままでとちがって好きなことだけやってればいいわけじゃない。生活するためには、やりたくない仕事もガマンしてやらなきゃいけない。人生の第二局面である。
で、文中ではこの「食うために働く状態」を、アクセス・アップ目ざして「書きたくはないがウケる原稿を書くこと」に置き換えている。すなわちここでいう「就活」とは、手段が目的化した日々に突入する前段階のことを指している。
『嫌な仕事でもガマンして収入を稼がなきゃ』
前述の通り、書きたくない原稿を書いて収入=アクセスを稼ぐって意味だ。仕事とは原稿を書くことである。
『テーマは絞ったほうがいい。でもそれは「正しい」のか?』
(2ページ目の中見出し)
前段は読んで字の如し。テーマを絞ったほうが、アクセス・アップの効果がある。でも書くことに対する純粋なモチベーションを忘れ去り、小手先の技巧(テーマを絞ること)に邁進するのは果たして「正しいこと」なのか? それが後段の問いかけである。
『これがいいことなのか? 悪いことなのか? 判断はその人本人がすることである。なにしろ更新頻度からいえば、その筆者がいちばん興味があるのはゲームなのだから』
本人にとっては、ゲームの原稿を書くのが「いいこと」であるはずだ。だけどアクセス・アップを狙い、テーマを絞るという選択もある。どっちを選ぶかは本人が決めることである。それがいいことなのか、悪いことなのかは別にして。
『その意味では今やプロの出版人だけでなく、素人さんも売れる媒体を日夜考えているのである』
これまたシニカルな意味を込めた表現だ。本来なら考えなくていいことを、素人さんが考えてるよね、って話だ。
いわゆるプロの人々は経営を考え、「売れる媒体」を目指さなきゃならない。だけどその必要もない素人さんが、わざわざ自分で自分の創作活動を鋳型にはめ込んでどうするの? それってつまらないと思わない? てな意味で書いている。
『果たして彼はこの難局を乗り切り、ブロガーとして立派な社会人になれるのか?』
「就活」の項で説明した通り、この場合の社会人とは「食うためにやりたくない仕事をガマンしてやってる人々」の意味だ。つまり「ブロガーとして立派な社会人になる」とは、アクセス稼ぎのために日夜書きたくない原稿を書く「リッパなブロガーになること」を指す。これもシニカルな表現である。
『いやそれ以前に社会人になること自体がいいことなのか? 悪いことなのか?』
この場合の「社会人」も、前項で説明したのと同じ意味だ。アクセス・アップのために書きたくもない文章を書く「社会人」になることは、果たしていいことなのか? 疑問の提示である。
【本日のまとめ】
文章を仕事で書いている「プロ」の立場から見ると、「素人さんは何をどう書いてもいいはずなのに、なぜわざわざ自分で自分に窮屈な枠組みをハメるんだろう?」って疑問がわく。アクセス・アップという「大義」のために。
そんな皮肉な疑問を文章にし、「あなたは本当にそれで後悔しないですか?」と問いかけたのが今回のコラムである。以上、無粋な解説はこれにて終了。次回からはいつものモードにもどろう。
ではみなさん、またよろしくお願いします。