桜前線がどんどん迫って来て暖かいですが、檜花粉のアレルギー反応が特に酷い私は、ただ今死にそうです(*_*;。
3月17日
西宮のスタインウェイ・サロン「松尾楽器」さんで、大阪学友協会ピアノ・グループの春の研究発表会でした。
昨年の秋から続いて、シューマン「女の愛と生涯」の後半5~8番です。
ソプラノは私、笹山晶子とピアノは飯塚幸穂さん。夫が亡くなる終曲の後奏(第1曲目のリフレイン)が、なんとも悲しく温かいピアノ独奏になっていてたまりません。
このサロンは非常に狭く防音をしてあるために、ともすればピアノの音が物凄い大きな音になります。
シューマン歌曲はソプラノには低くめのものが多く、なんとかピアノの音量を弱音ペダルなどで抑えていただき、バランスをとった次第です。
しかしシューマン歌曲の疑問として、愛らしい乙女の曲に何故低い音をつけるのか…?
シューマン時代のピアノ(フォルテピアノ)がそもそも音が小さく繊細である。シューマンはピアノが主で、声には詩を語らせるような作曲をしているので、声をごつく張るよりも、言葉を語るように低めの音を使う。高い声を張り上げると言葉は語れません。色々悩みまますが、シューマン時代のピアノを想定して、ピアノはやはり繊細に弾くべきだということが、結論としていつも出るのです…。
ピアノの方の色んな演奏もありましたが、やはり小さなホールでは、音量の小さめの繊細な音色を出す方の演奏が、耳に心地いいと感じました。
先日14日に、波多野睦美さんのコンサートが、狭くて響きのあまりない「ノワ・アコルデ・アートサロン」で、前半はリュート伴奏、後半はピアノ伴奏でありました。
今年はダウランドの生誕450年らしいですね、ダウランドとパーセルの歌曲(パーセルがあったので、音域の広いアーチ・リュートで)と、イギリスの19世紀ロマン派の作曲家の歌と日本のわりと小さな歌曲でした。
リュート伴奏の時は、囁くような語るような歌い方で、声量はそんなに出しておられませんでした。プレ・トークもあり、いったいどこからが歌というのか?さぁ歌いますよと、構えて大声で歌うことが歌なのか?という疑問を先生も常に悩んでおられるという話でした。
歌の種類によるとは思いますが、優れた作曲家、歌をとりわけ愛し、多く作った作曲家の歌は、やはり”言葉”抜きには考えられないのです。言葉がどうでもよいのなら、器楽にやらせておけばいいのです。そんな言葉の語りに重きを置いた、波多野さんの歌でしたが、狭いホールにはやはり心地よく、繊細な表現を聴いてもらうのに、かえって狭い空間を有利にする方法でした。
「歌う」という言葉は、「うったう(訴える)・Appeal」からきているという説をいう方がいらっしゃいました。そう思えば歌い方の幅が広がる、言葉の意味によっては、囁いたほうが説得力のある場合も多いのです。
いい歌を聴いて、臨んだ今回の発表会はとても音量について考えさせられる場でもありました。
シューマンの「女の愛と生涯」は本当によく出来た連作歌曲ですので、音量の問題をピアニストさんと共感して、解決していけそうなので、また全曲演奏をする機会を持つことを目標にしました。
3月17日
西宮のスタインウェイ・サロン「松尾楽器」さんで、大阪学友協会ピアノ・グループの春の研究発表会でした。
昨年の秋から続いて、シューマン「女の愛と生涯」の後半5~8番です。
ソプラノは私、笹山晶子とピアノは飯塚幸穂さん。夫が亡くなる終曲の後奏(第1曲目のリフレイン)が、なんとも悲しく温かいピアノ独奏になっていてたまりません。
このサロンは非常に狭く防音をしてあるために、ともすればピアノの音が物凄い大きな音になります。
シューマン歌曲はソプラノには低くめのものが多く、なんとかピアノの音量を弱音ペダルなどで抑えていただき、バランスをとった次第です。
しかしシューマン歌曲の疑問として、愛らしい乙女の曲に何故低い音をつけるのか…?
シューマン時代のピアノ(フォルテピアノ)がそもそも音が小さく繊細である。シューマンはピアノが主で、声には詩を語らせるような作曲をしているので、声をごつく張るよりも、言葉を語るように低めの音を使う。高い声を張り上げると言葉は語れません。色々悩みまますが、シューマン時代のピアノを想定して、ピアノはやはり繊細に弾くべきだということが、結論としていつも出るのです…。
ピアノの方の色んな演奏もありましたが、やはり小さなホールでは、音量の小さめの繊細な音色を出す方の演奏が、耳に心地いいと感じました。
先日14日に、波多野睦美さんのコンサートが、狭くて響きのあまりない「ノワ・アコルデ・アートサロン」で、前半はリュート伴奏、後半はピアノ伴奏でありました。
今年はダウランドの生誕450年らしいですね、ダウランドとパーセルの歌曲(パーセルがあったので、音域の広いアーチ・リュートで)と、イギリスの19世紀ロマン派の作曲家の歌と日本のわりと小さな歌曲でした。
リュート伴奏の時は、囁くような語るような歌い方で、声量はそんなに出しておられませんでした。プレ・トークもあり、いったいどこからが歌というのか?さぁ歌いますよと、構えて大声で歌うことが歌なのか?という疑問を先生も常に悩んでおられるという話でした。
歌の種類によるとは思いますが、優れた作曲家、歌をとりわけ愛し、多く作った作曲家の歌は、やはり”言葉”抜きには考えられないのです。言葉がどうでもよいのなら、器楽にやらせておけばいいのです。そんな言葉の語りに重きを置いた、波多野さんの歌でしたが、狭いホールにはやはり心地よく、繊細な表現を聴いてもらうのに、かえって狭い空間を有利にする方法でした。
「歌う」という言葉は、「うったう(訴える)・Appeal」からきているという説をいう方がいらっしゃいました。そう思えば歌い方の幅が広がる、言葉の意味によっては、囁いたほうが説得力のある場合も多いのです。
いい歌を聴いて、臨んだ今回の発表会はとても音量について考えさせられる場でもありました。
シューマンの「女の愛と生涯」は本当によく出来た連作歌曲ですので、音量の問題をピアニストさんと共感して、解決していけそうなので、また全曲演奏をする機会を持つことを目標にしました。
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