『居酒屋の誕生 江戸の呑みだおれ文化』
飯野亮一著、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2014年
三代目三遊亭金馬師の十八番であった落語「居酒屋」。戦前にレコード化されて大ヒットし、ラジオなどでも盛んに演じられていたお馴染みの噺です。
三代目三遊亭金馬「居酒屋」(YouTubeより)
居酒屋に入ってきた職人風の男が、酔っぱらって店の小僧さんをからかいながら呑んでいるさまを描いた噺。わかりやすい筋立てと快活な語り口、そして絶妙な声色で演じられる人物の描写(とりわけ小僧さんの「ヘェ~~~~~イ」という声色は絶品!)で何回聴いても楽しめます。わたくしめもよく、家での晩酌のときなどに聴いたりいたします。
江戸時代から明治時代にかけての居酒屋の様子が伝わってくるかのようなこの噺ですが、酔っぱらいの男のセリフに「酒は燗 肴は木取り 酌は髱(たぼ)」というのがございます。程良くつけられた燗で、刺身を肴にしながら、美人のお酌で飲む酒が申し分ない、という•••まあ実にいい気な物言いなのでありますが(笑)。時代劇にも居酒屋はときどき登場してきますが、おおむね縄暖簾が下がっていて、気の利いた女性の給仕で徳利の燗酒を飲む、といった描かれかただったりいたします。
では、実際の江戸時代の居酒屋とはいかなるものだったのか。当時の日記や川柳、滑稽本、御触書などの数多くの文献史料を掘り起こしながら、江戸時代に誕生し発展していった居酒屋の歴史と実態を詳しく伝えてくれるのが、本書『居酒屋の誕生』であります。
居酒屋のトレードマークともいえるような縄暖簾ですが、本書によれば居酒屋は誕生からしばらくのあいだ、縄暖簾を下げることはしていなかったそうです。そのかわり店先に吊るされていたのが、売りものでもある魚や鳥で、それで人目を引いては客寄せにしていたそうな。しかし傷みやすい生の魚鳥類は臭気を放ち、かえって客寄せの妨げとなってしまうため、オールシーズン吊るせてホコリ除けにもなる縄暖簾が選ばれるようになったのだとか。また、燗酒に徳利が用いられるようになったのも明治時代以降の話で、それ以前は「チロリ」という銅製の容器を湯煎で暖めていました。江戸人は燗の温度に敏感で、居酒屋には燗の番専門の「お燗番」もいたとか。
そして、居酒屋で働いていた店員たち。その多くは男性であり、女性はあまりいなかったようです。酔って暴れるような手合いもしばしばいた上、料金の踏み倒しや飲み逃げ、さらにはゴロツキ連中からのゆすりや押し売りも少なくなく、それなりに大変な商売でもあったからです。
このように本書は、これまで知っているようであまりよくわかっていなかった江戸時代の居酒屋の姿を、豊富な文献史料をもとに生き生きと浮かび上がらせてくれます。
本書を読むと、誕生から間もない江戸時代にはすでに、さまざまに多様な形の居酒屋が出現したりもしていて、現代にも通じる居酒屋の祖型は、江戸時代の時点でほぼ完成していたんだなあ、ということがわかります。夜間はもちろんのこと早朝から営業していたようですし、「夜明かし」といわれる終夜営業の店もあったりと、利用客それぞれのライフスタイルに応じた営業形態の店が存在していたとか。また、大衆的な店から料理屋に近いような高級感のある店まで、ランク分けもいくつかあったそうです。
さらには、さまざまな料理を一品30文のワンプライスで提供した店や、店員が揃いの制服を着てサービスにあたった店もあったそうで、現在のチェーン居酒屋でも見られるようなことが、すでに江戸時代の居酒屋においてなされていたというのも、本書を読んで初めて知りました。
「江戸の呑みだおれ京の着だおれ、大阪はくいだおれ」といわれるくらいの「酔っ払い天国」だった当時の江戸。なぜそのような「呑みだおれ文化」が江戸において発展したのか、本書はその背景についても解説しています。
当時の江戸は、男性が女性の2倍近くいたという「男性都市」だったそうで、そうなると当然一人住まいの男も数多くおりました(参勤交代や出稼ぎで流入する人たちもかなりいたことでしょう)。それら単身の男たちにとって手軽に酒を飲め、なおかつ食事もできる居酒屋は重宝な存在であり、それが江戸において居酒屋文化の発展を促した、とか。
当時、江戸で最も飲まれていたのは、伊丹や池田、灘といった上方の名醸地から来ていた「下り酒」でした。それが江戸へと海上輸送される間に味に変化が生じ、まろやかな美味しさになるという付加価値がついたことが、江戸の呑みだおれ文化を形成する上で関係していた•••という話も面白いものでした。そのため上方では、一度江戸に運んだ酒を再び運び戻して「富士見酒」として楽しんでいたそうで、蜀山人こと大田南畝も、大坂にいた頃にそれを味わったのだとか。
本書は居酒屋文化の実相のみならず、それを発展させた背景もしっかり解き明かしていて、それにも大いに興味を惹かれました。
本書で何よりも嬉しかったのは、豊富な文献史料から引用された挿絵が、図版として数多く収められていたことでした。その数なんと116点。
江戸の名所とその歴史的背景を詳述した『江戸名所図会』や、江戸時代の百科事典ともいえる『守貞謾稿』などの著名な書物はもとより、黄表紙・滑稽本の挿絵もかなり引用されていて、それらには初めて目にするものもたくさんありました。江戸に生きる人びとの息吹を生き生きと伝えてくれる黄表紙・滑稽本は、挿絵にも当時の空気感がたっぷり詰まったりしていて、その一つ一つを見ていくだけでもけっこう楽しいものがありました。見ていくうちに、無性に居酒屋で呑みたくなってきて仕方なくなるくらいで(笑)。
本書を「読む肴」にしながら、江戸の息吹を感じながらの一献を楽しんでみるのもいいかもしれませんね。BGMはもちろん金馬師の「居酒屋」で。