読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

【読了本】『本当にあった医学論文』『同・2』 調べずにはいられない、愛すべき医学者たちの熱意に乾杯!

2015-08-16 18:11:14 | 本のお噂

『本当にあった医学論文』『本当にあった医学論文 2』
倉原優著、中外医学社、2014年および2015年


特定の業界に向けて発信され、その業界に属する人だけに閲覧される文書や著作物というものがありますよね。それらはその性質上、業界の外にいる門外漢の一般人の目に触れる機会はなかなかありませんが、読んでみると意外に面白かったり、興味をそそられるような新鮮な発見がいろいろあったりいたします。
主にお医者さんや看護師さんといった医療従事者が読むような医学論文にも、そういった面白くも興味をそそられる物件がたくさんあるのだ、ということを教えてくれるのが、この『本当にあった医学論文』とその続編『本当にあった医学論文 2』です。
著者の倉原優さんは、その名も「呼吸器内科医」というブログで、さまざまな医学論文などを紹介しておられるお医者さん。毎日のように検索しては目にしてきた内外の医学論文の中から、面白かったり驚かされたりするようなぶっ飛んだ内容の論文を独断と偏見で選んでまとめた、というのが、2014年に刊行した『本当にあった医学論文』です(以降は1巻と記します)。
医学専門の出版社から出された、基本的には医療従事者向けの本だったのですが、「朝日新聞」や「本の雑誌」といった一般向けのメディアでも取り上げられて話題となり、医療従事者ではない人たちにも読まれることとなりました。そんな1巻の評判を受け、今年刊行された続編が『本当にあった医学論文 2』というわけなのです(以降は2巻と記します)。1巻には79本、2巻には75本の珍論文が紹介されています。

1巻を読み始めてのっけから驚かされるのが、「第二次世界大戦の弾丸が70年も心臓の中に残っていた」という項目です。心筋梗塞で搬送されてきた男性を検査すると、戦時中にロシア兵からの銃撃で受けた弾丸が、心筋を貫通することなく強固に把持されていたそうです。男性は幸いにも、手術後元気に退院したそうな。
「異物もの」の物件でもう一つ驚かされたのが、なんとウシのツノを肛門に入れたという男性の事例で、ご丁寧にも論文から引用した下腹部のCT断面画像が添えられています(これも1巻)。論文によれば、このような報告は世界で4例目であるとのこと。この事例自体もオドロキなのですが、それまでにも同じ例が3件もあるということがまたオドロキで・・・。
ほかにも、スキーの最中に渓谷に落ちて冷たい渓流にさらされ、体温が13.7℃にまで下がるも生還した女性の事例(1巻)や、ビリヤードのキューが頭に刺さったことで幻覚や妄想を訴えるようになった少年の事例(2巻)といった驚かされる論文が紹介されていますが、とりわけ驚愕させられたのは「35歳の石の赤ちゃん」という項目でした(2巻)。70歳になる女性を診察した結果、全身が石灰化したまま35年間も胎内にあった赤ちゃんが発見され、摘出されたというインドでの事例です。これは、ギリシャ語でズバリ「石の赤ちゃん」を意味する「リソペディオン」という疾患で、胎児が母体にいるうちに石灰化してしまうという極めてまれな疾患だそうですが、にわかには信じがたいそのような疾患が存在するとは・・・。

そうかと思えば、なんでわざわざそんなコトを大マジメに調べて発表するのか、と脱力したくなるようなヘンな論文もいろいろと紹介されています。
「サハラ砂漠でマラソンすると体温は上昇する」という項目(2巻)では、サハラ砂漠を111日間、7500㎞にわたってマラソンで横断した、3人のランナーの身体的データを集めた論文を取り上げます。夜間と日中それぞれに走ったときの深部体温を測った結果、いずれの場合も37.8℃まで上昇したそうで、結論として「過酷な環境のもとでは日中はペースを落として走らざるを得ない」ことがわかった、とか。んなコト、わざわざ大変な思いをして測らなくってもわかりそうな気がしてしょうがないのですが・・・。
ほかには、落とした食べ物を5秒以内に拾えば安全という「5秒ルール」の妥当性を検証した論文(1巻)や、ぶっ通しで歌うよりも適度に水と声休めをとったほうが長くカラオケを楽しめる、という論文(1巻)、アフリカのタンザニアで動物による外傷の事例を集め、その原因となった動物をランキング形式で発表した論文にみる、ちょっと拍子抜けするような意外な結果(2巻)も笑えました。中には、ハリー・ポッターの頭痛についてマジメに議論した論文(1巻)なんていう遊びごころのある物件も。
遊びごころといえば、16カ国100人の「剣呑み師」へのアンケートをもとにして、剣呑みの際に注意すべき事柄をもっともらしく述べている論文(2巻)は、イギリスの著名な医学雑誌が、毎年クリスマスの時期に掲載しているジョーク交じりの論文から選ばれたものです。一見キマジメそうな医学の世界にも、けっこう遊びごころのある風土があったりするところは、なんか好ましいものがありますねえ。

はたまた、これは意外と役に立つのではないか、と思えてくるような論文もけっこうありました。
サンダルを履いていてエスカレーターに巻き込まれ、足に外傷をきたした小児のデータから、子どもがサンダルを履くことの危険性を記した論文(2巻)を紹介したあと、倉原さんは小さな子どもを1人でエスカレーターに乗せないこと、などの注意点を列記しています。サンダルを履くことが多い夏の時期、これは大いに参考になりそうです。
また、パソコンやスマホの画面などに多用されている青色LEDが目に与える影響を考察した論文(2巻)は、最近スマホやタブレット端末にかぶりつくことの多いわたくしにとっても「ギョッ」とするような内容でありました。うーむ、気をつけねば。
さらに、認知症の患者に対する家族からの虐待の実態を明らかにしたイギリス発の論文(1巻)は、高齢化が進行するわが日本においても他人事ではない、考えさせる内容でありました。

1巻、2巻ともに、それぞれの章の最後には医学論文にまつわるコラムも添えられています。とりわけ、1巻に収録されている、医学論文の著者の順番についてのお話や、病院内における抄読会(最新の英語論文を共有する研修会のようなものでしょうか)を継続させるにはどうしたらよいのか?という話題は、医学論文発表や病院の舞台裏が垣間見えて興味深いものがありました。

面白論文、ビックリ論文を紹介していく倉原さんの語り口はユーモアに富んでいて、それがこの2冊を楽しく読めるものにしています。とはいえ、論文だけでは内容の妥当性がわからない事柄については、慎重に距離を置くという姿勢にも好ましいものがありました。そう、医学もれっきとした科学の一分野ですからね。
「難しい医学書ではなく気楽に読んでいただく読み物」という位置づけながらも、同時に「あくまで医療従事者向けに専門的に記載するという医師執筆家としてのスタンス」で書いたというこの2冊。それゆえ専門用語や図表には、わたくしを含む門外漢には意味がわからないものも少なからずあるのは確かであります。それを差し引いても、紹介されている事例の数々には、オドロキや可笑しさを覚えることは間違いないでしょう。

2冊通して読むことで見えてきたのは、どんなに変わっていてけったいな事柄であっても、とことん調べた上で発表せずにはいられない、愛すべき医学者たちの熱意であります。そのような熱意があるからこそ、医学、そして科学は少しずつ進歩していくんだな、とつくづく思いました。
愛すべき医学者たちの熱意に、乾杯!

【読了本】『21世紀の自由論』 ウンザリしていた政治への思いを変えた「優しいリアリズム」の哲学

2015-08-16 18:11:00 | 本のお噂

『21世紀の自由論 「優しいリアリズム」の時代へ』
佐々木俊尚著、NHK出版(NHK出版新書)、2015年


これまで、どちらかといえばリベラルの立場で政治や社会を見続けてきたわたくしでしたが、ここしばらくは、その「リベラル」のあり方に疑問を持つようになっていました。
きっかけは、4年前の東日本大震災と、それに続けて起こった福島第一原子力発電所の事故以降の「リベラル」とされる人びとの姿勢に接したことでした。「人権」「平和」を旗印にしているはずの「リベラリスト」が、「反原発」という大義のもとに、福島とそこに生きる人たちを貶めるような、攻撃的で殺伐とした言動や振る舞いを行っていたのです。無論、すべての「リベラリスト」がそうだったわけではないのですが、「正義」を振り回すばかりで人間性に欠ける姿勢は、わたくしに深い不信感と失望を抱かせました。
その一方で、福島の人たちが置かれた状況に思いを馳せ、福島の人たちへの連帯を示した方々の中には、政治的には「保守」といえそうな向きも多くおられました。まっとうで暖かな人間性を感じるそれらの方々の言動や姿勢に、わたくしは立場の違いを越えて深い共感と敬意を覚えました。
このような状況を目の当たりにして、わたくしは従来のような「リベラル」「保守」という図式に立って裁断するような政治や物事の見方とは、いったい何だったのだろうか・・・ということを、困惑とともに感じざるを得なくなりました。そしていつしか、政治について語ることも、考えることも億劫に感じるようになり、政治的なことには距離を置くようになっていました。
これまでの「リベラル」や「保守」のありようを徹底的に見直し、これからの時代に向けた「政治哲学」や「自由」の在り方を考えた、この佐々木俊尚さんの新著『21世紀の自由論』は、政治的なことにウンザリし、距離を置いていたわたくしにとっても、大いに刺激と示唆を与えてくれる一冊でした。

佐々木さんはまず第1章で、日本における「リベラル」のありようを痛烈にえぐります。欧米におけるリベラリズムと異なり、日本の「リベラル」は独自の政治哲学を生み出せず、ただ「反権力」という立ち位置にのみ依拠している、と指摘。かつてはその問題点が浮上することもなかったものの、日本社会がグローバル化と格差化の波に翻弄されるようになってことで、「反権力」でしかない立ち位置は有効性を失ってしまった、と喝破します。
さらに、経済成長に対して否定的な日本の「リベラル」は、緊縮財政を求める欧米の「保守」と主張が非常に似ている、ともいいます。そして、江戸時代や昭和30年代といった過去を美化して「昔は良かった」とノスタルジーを語るところも、また保守と似通っている、と続けます。なんとも皮肉なことです。
佐々木さんは、日本における「リベラル」の問題点を「マイノリティ憑依」と「ゼロリスク幻想」ということばで腑分けします。「社会の外から清浄な弱者になりきり、穢らわしい社会の中心を非難する」という「マイノリティ憑依」により、ものごとに「絶対安全」「100パーセント大丈夫」を求める「ゼロリスク幻想」が生み出され、それがデマと陰謀論で日本の「リベラル」を自滅に追い込んでいる元凶のひとつ、と。まさしくそれは、原発事故後に福島の人たちに対して「リベラリスト」がとった姿勢そのものでもありました。
佐々木さんは言います。

「日本の『リベラル』を名乗る政治勢力によってまちがいなく、多くの人々が差別され、排外されたのである。
これは私たち日本社会の、今後の百年の禍根となるだろう。」


この指摘に真摯に向き合えるのか、否か。そこに「リベラル」の存在価値が厳しく問われているのではないか、とわたくしには思えました。

では、「リベラル」に対抗する「保守」の側はどうか。佐々木さんは、「保守」が唱えている家族観や伝統というものが、歴史的に見てそれほどの根拠はないということを述べ、「家族の成立も、国家と国民意識の成立も、満足に歴史の知識もないまま、歴史と伝統を守れと叫んでいるのが日本の保守」と痛言します。そして、自分の経験や皮膚感覚でしかものを語らず、一貫した哲学もないところは「リベラル」と同じ、とも指摘するのです。
また、近年台頭している、いわゆる「ネット右翼」についても言及。それらは日本の「リベラル」とマスメディアの「マイノリティ憑依」へのアンチテーゼもある、との見方を示します。そして、ネットの普及によって、これまで隠されていたそれらが可視化され、大きな政治勢力となっているのが現在の状況、と述べます。
左右の両極端、それぞれの「正義」が鋭く対立する中で、必要となるのはいかなる考え方なのか。佐々木さんは言います。

「正義と正義を戦わせるのではなく、リアルな感覚によって私たちは正義をマネジメントしなければならない。マネジメントによって、ゼロか100かではなく、正義と別の正義のあいだにある中間のグレーの領域を引き受けるという考え方が必要なのだ。」

そして、両極端で声も大きな存在に隠れて見えにくくなってしまっている、白黒をつけたがらずグレーを許容してものを考えることができる、穏健で良識的な「中間領域」の人たちの意見をすくい上げる仕組みが形成されていないことの問題を指摘します。
偏った「主張」の応酬にウンザリし、嫌悪感すら覚えていたわたくしにとって、佐々木さんの問題意識は大いに頷けるものがありました。まっとうで普通の考え方を持つ人たちの意向が反映されていないことが、今の政治における最大の問題だと、わたくしも(漠然とはいえ)考えておりましたから。

続く第2章で佐々木さんは、視点を世界へと拡げていきます。
ヨーロッパにおけるリベラリズムの前提となっている「普遍的なもの」という理念。欲望のままに生きるのではなく、理性的に人生を選びとるという理念そのものが、哲学的な思考の中で生まれた空想であり「後づけ」の理念であると、佐々木さんは言います。そして、グローバリゼーションによってヨーロッパという「中心」が成り立たなくなるとともに「幻想」となった「普遍的なもの」に依拠するリベラリズムは、自己責任による選択でものごとを決めなければならない「自由」の困難さを押しつけるものとなっていることが、歴史的な経緯を踏まえながら語られます。
それに変わるものとして台頭してきたのが、コミュニタリアニズム=共同体主義でした。小さな共同体の中での善を見いだそうという考え方でしたが、こちらも同調圧力とそれによる排除の論理を招いてしまうことになりました。

リベラリズムでもなく、コミュニタリアニズムでもない、「第三の方向」はあるのか。第3章で佐々木さんは「優しいリアリズム」という考え方に沿って、新たな秩序にいたるまでの長い移行期に必要となる政治のあり方、そして生存戦略を述べていきます。
「理」や「論」だけで動いていくのが「冷たいリアリズム」。それに対して「優しいリアリズム」は、「理」だけでなく「情」も大切にしながら、論理からこぼれ落ちてしまう人たちに手を差し伸べようということです。あわせて、外交でも安全保障でも、社会の中のできごとに対しても、両極端から白黒つけたがるのではなく、中間領域のグレーの部分を引き受けてマネジメントしていくこと。そんな、情とリアルのバランスを求めていくのが「優しいリアリズム」であると述べます。この考え方には非常に強く共鳴できるものがありました。

続けて佐々木さんは、これからのネットワーク共同体の可能性について自論を展開していきます。そこでの生き方は、人と人との関係がつねに流動し、公正さによって担保される「入れ替え可能性」によって変わっていく、選択の余地がない離合集散の「漂泊的な人生」であり、そんな自由でもなければ不自由でもない「非自由」な方が、私たちは幸せとなれるのでないか、と。
ある程度固定化された環境での、可もなければ不可もない安逸な生き方に慣れきった身には、漂泊的で非自由な人生というのは正直まだまだイメージしにくいところがありますし、ちょっとだけ不安に思えなくもありません。ですが、これまでの生き方を陰に陽に縛ってきた考え方から、それこそ「自由」になってみれば、これはこれでけっこう面白い生き方になるのかもしれないな、と感じました。

政治的な言説や主張にウンザリし、嫌悪感すら抱いて遠ざけていたわたくし。本書はそんなわたくしにも、これからの政治や社会のあり方を、希望とともに考えさせてくれた「道しるべ」のような一冊となりました。
何より深く共感を覚えたのは、政治的な違いを越えて共有することができる「最後に守りたいものは何なのか」を問いかけ、みなで生き残ることを目指そうとする、本書のスタンスそのものでした。一人でも多くの方々に、このスタンスが共有されることを願いたいと思います。

本書のオビには、「佐々木俊尚の新境地!」とあります。佐々木さんによれば、「今、何が読まれるか」という受け手目線ではなく「今、自分は何を書きたいのか」という書き手目線で、どんな本を書くか決めるようになった、とのことで(モンブランのサイトに掲載された佐々木さんのインタビュー記事より)、本書はその最初の試みというわけです。
これからの佐々木さんが、どのような著作を世に問うていかれるのか、大いに楽しみであります。



【関連オススメ本】

『自分でつくるセーフティネット 生存戦略としてのIT入門』
佐々木俊尚著、大和書房、2014年

FacebookなどのSNSを活用した、ゆるいつながりがもたらす信頼感が、これからの時代を生きるための生存戦略となっていくことを述べたのがこの本です。新しい「情の世界」を、グローバリゼーションという「理の世界」とうまくかみ合わせていこうという提言を、きわめて親しみやすい語り口で提案した内容は、『21世紀の自由論』の序論にして実践編といってもいい感じがいたします。拙ブログでの紹介記事はこちらです。→ 【読了本】『自分でつくるセーフティネット』 前を向いて生きる勇気が湧くIT時代の生き方指南