
『怪獣生物学入門』
倉谷滋著、集英社インターナショナル発行、集英社発売(インターナショナル新書)、2019年
ゴジラ、モスラ、キングギドラ、ガメラなどの銀幕のスター怪獣や、カネゴンやバルタン星人といったウルトラシリーズに登場する怪獣や宇宙人、さらには忍者怪獣ジッポウ(←あ。これはちとマイナー過ぎるか)・・・。日本のSF文化を牽引する役目を担い、海外にも熱心なファンを獲得している異形なる存在「怪獣」。それを、理化学研究所で形態進化生物学の研究に勤しむ著者が、科学的な視点からとことん考察していくのが、本書『怪獣生物学入門』です。
子どものときに見たウルトラシリーズで怪獣の魅力に取り憑かれて以来、こよなく怪獣を愛し続けている人間の端くれであるわたしにとって、本書は読んでいてまことに愉しく、かつ胸のすく一冊でありました。
などと言っても、「は?身長が何十メートルもあるような怪獣なんて存在できるわけでもないし、そもそも怪獣なんて〝子どもだまし〟なものを科学的に考察なんてバカバカしいだけだろ。へっ」という感じの、高尚な話題を好む良識ある向きからの嘲笑が聞こえてきそうであります。
しかし、本書の「はじめに」において、著者の倉谷滋さんは、人間の想像によって生み出される怪獣は「完璧に無根拠な空想」の産物とはならずに、なんらかの形で生物学的常識を反映させた形態となること(左右相称の身体を持つなど、現実の動物にありがちな構造の基本パターンをなぞる)を指摘した上で、次のように述べます。
「怪獣はつまるところ、我々の知る生物科学の基礎の上に立った動物のヴァリエーション、あり得たかもしれない架空の「新種」なのだ。ならば、それは想像の上で解剖することもできようし、その怪獣が進化してきた道筋を考えることもできようし、それを通じてゴジラのような動物がなぜ現実には存在しないのか、できないのかをも理解できるであろう。こういったことは科学的にちゃんとした思考実験なのである」
まさしく。本書は、怪獣という一見〝子どもだまし〟な題材を取り上げながら、科学的な思考実験の愉しさと知的刺激をたっぷりと味わせてくれる一冊なのです。
たとえば、本書のオビにもある「シン・ゴジラの乱杭歯」をめぐる考察。社会現象ともいえる大ヒットを記録した『シン・ゴジラ』(2016年)の中で、登場人物がゴジラの乱杭歯を見て「噛み合わせが悪そうな歯並びだ」「(何も)食べてないんだ」と話す場面に、倉谷さんは噛みつきます。動物の形を決めた「目的」や、「目的」をもって生物を作った者が存在しない以上、「何も食べない」から「乱杭歯」を持つという目的論的説明は「辻褄が合っている」という以上の意味を持たない。生物の適応的機能を理解するには、論理(ロジック)に基づいた目的論ではなく、それを獲得するに至った進化のプロセスによって説明される必要がある・・・と。
本書はこの考え方に基づいて、歯並びのよい個体が不揃いな歯を持つ個体へ至るまでには、何世代にもわたる世代交代が必要となることを、遺伝子の進化メカニズムで考察します。また、ゲノム操作という「エンジニアリング」による「一代限り」の個体を作るにしても、何も食べる必要がないから歯並びを悪くするということには意味がないことを論じた上で「あの台詞に居場所はない」とズバリ言い切ります。この鮮やかさ、実に見事だなあと思いましたね。ゴジラの歯並びを通して、生物進化を考える上でのプロセスの重要性がよくわかりました。
また、南の島に棲息する「マタンゴ」なるキノコを食した人間が、キノコ型の怪物に変貌していく恐怖を描いた異色作『マタンゴ』(1963年)を取り上げたくだり。ここでは、動物である人間が植物(菌類)であるマタンゴへと変貌していく過程において、そのアイデンティティは変わるのか、それとも維持されるのかといった問題を考えます。
そこで検討の対象となるのが、物質としての肉体と、霊的な精神を別の実体として捉えるという「心身二元論」。それについて倉谷さんは、「霊魂は不滅」という考え方と、一連の生物学的な常識(視覚が衰えたり、脳が損傷すると正常な思考ができなくなったり)とは矛盾していることを指摘。それを踏まえ、人間の精神活動に霊魂の存在を仮定する必要はないと結論し、このように述べるのです。
「「肉体と切り離された精神の絶対性」などという、想像にしか過ぎないお題目を謳ってみたところで何も解決したことにはならないのである」
・・・くう〜〜っ。すっごくカッコいいぞ、倉谷先生。クールだけど極めて真っ当な、科学的視点に基づく分析の数々には、もうシビれまくりでありました。
とはいえ本書は、理路整然としたクールさだけが売りではありません。これまたオビに記されている、映画監督の樋口真嗣さん(『シン・ゴジラ』の監督であり、目下製作中の『シン・ウルトラマン』も手がけておられます)が言うところの「汲めども尽きぬ」怪獣愛が溢れる熱い記述も、本書の読みどころであります。
それが最も顕著に現れているのが、『宇宙大怪獣ドゴラ』(1964年)を取り上げたパートでありましょう。宇宙から飛来し、地上の炭素を養分にして巨大化していくクラゲ型の怪獣なのですが、ゴジラやガメラ、キングギドラあたりならなんとかついてこれる一般人も、ドゴラと言われても何がなにやら、という感じでありましょう。そんな、東宝怪獣映画の中でもかなりマイナーな存在であろう「ドゴラ」について、27ページも費やして語り倒しているところに、尋常ではない高い熱量の怪獣愛がじんじんと伝わってまいります。
クラゲ型であるドゴラのデザインのルーツを探っていくくだりや、ドゴラが空に浮かぶメカニズムについての考察も興味深いものがあるのですが、わたしがとりわけ膝を打ったのは、ドゴラが空に浮かぶビジュアルによって、まるで街が深い海の底に沈んだかのような幻想的なイメージを覚えることを語ったくだりでした。
怪獣という異形の存在によって、われわれの住む世界と地続きであるはずの「現実世界がまるでいつもと違って見え」、「人間社会それ自体が異界に連れ去られてしまったような」感覚・・・それこそがまさしく怪獣映画を愉しむ醍醐味であり、さらにはSF的なセンス・オブ・ワンダーではないかと(漠然とではありますが)考えていたわたしにとって、倉谷さんの指摘には、強く肯くばかりでありました。
また別のところでは、シリーズを重ねていくごとに生物性やモンスター性が失われていき、「ゴジラの着ぐるみを着けた正義の味方」と化していった、60年代末期から70年代にかけてのゴジラについて、「物語の中での正義の在処を指し示す一種のカリカチュアとしてしか機能していない」と指摘した上で、こう述べます。
「「正義の味方」になったゴジラが揶揄されることはこれまで度々あったが、その多くはむしろこの怪獣のカリカチュアライズ、もしくは「童話化」に対する批判だったと思われる。それは、モンスター映画からSF性が剥ぎ取られることとほぼ等しい。これが、恐竜から派生したモンスターたちの末路だったのである」
怪獣たちは「童話」や「ファンタジー」の世界ではなく、あくまでも「SF」の世界の住人であってほしい・・・そんな熱い怪獣愛が根底にある、倉谷さんの厳しい指摘にも、ただただ肯くしかありませんでした。
(・・・などと言いつつ、SF性もリアリティもへったくれもなく、野っ原だか造成地だかで怪獣やヒーローがどつき合うだけの、たとえば『ウルトラファイト』のようなチープな怪獣ものも決して嫌いではなかったりするところが、我ながら困ったものではありますが・・・)
本書はほかにも、キングギドラの形態学的考察や、「平成ガメラ三部作」(1995年〜1999年)に登場したガメラの出自についての仮説、漫画『寄生獣』に登場するパラサイトの生物学などのトピックが盛り込まれております。なかでも平成ガメラについての仮説は、映画の世界観を豊かに拡げるような面白いもので、読んでいるとまた、三部作を通して観直したくなってきました。
クールで知的な科学的視点と、ホットで真っすぐな怪獣愛で綴られた『怪獣生物学入門』。怪獣好き、SF好きはもちろんのこと、何かを熱く愛する気持ちを大切にしているすべての人にお読みいただきたい快著であります。
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