読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

別府・オトナの遠足2014 (第2回)亀川・温泉町浪漫歩き

2014-03-23 18:57:37 | 旅のお噂
別府小旅行2日目となった16日(日)。前の夜、いつもよりけっこう多めに飲んだわりには酒が残ることもなく、快適に朝を迎えることができました。
宿泊先のホテルで朝食後、早々にチェックアウトして向かったのは、市の北部にある亀川温泉でありました。
亀川へと向かう路線バスの中では、英語で会話を交わしている外国からの訪問者が普通におられましたね。懐かしい温泉情緒を残す地方都市でありながら、立命館アジア太平洋大学(APU)を擁した、国際交流都市としての別府の一側面をあらためて実感いたしました。

亀川駅前でバスを降り、交通量の多い表通りから裏手に回ると、何軒かの旅館が立ち並ぶ静かな通りに出ました。どうやら、かつてはそこがメインストリートであったようで、往時を偲ばせるかのような古い建物がそこここに残っていて、実に風情がありましたね。

そんな通り沿いにある市営の共同浴場が「浜田温泉」であります。風格のある堂々としたつくりの建物が、なかなか見事な感じです。

とはいえ、その風格ある建物の入り口に「ヤッターマン」や「みつばちハッチ」といった、タツノコプロのアニメのキャラクターをあしらった暖簾がかかっているというのが、妙に可笑しかったりしたのでありまして•••。昨年訪ねたときにも大々的に展開されていた、別府市とタツノコとのタイアップ作戦は、いまだ継続中のようでありました。
入り口で入浴料100円を払って中に入りますと、おそらくはご近所さんであろうおじいちゃんたちが集まっていて、のんびりと朝風呂に浸かっておられました。
その中に混ぜていただくように湯船に浸かりますと•••これがちょっとばかり熱いお湯なのでして、長く浸かるのがいささか辛いところがありましたね。別府の共同浴場のお湯は熱めのところが多いというのは、昨年何ヶ所か回ってみて実感したのですが、ここいらもやはり例外ではないようでした。ですが、おかげさまでアタマがシャキッとして、朝風呂にはうってつけという感じがいたしましたね。
そんな軟弱者のわたくしを尻目に、地元のおじいちゃんたちは悠々自適といった感じで、お湯に浸かっておられたのでありました。いやー、さすがだなあ。

浜田温泉を出ると、道を挟んで真向かいにある、やはり風格のある建物に入ることにしました。入り口には「浜田温泉資料館」とありました。

入り口のところに、いささか手持ち無沙汰そうな感じで座っておられたお姐さんに、いろいろと説明していただきました。真向かいにある浜田温泉の建物は平成14年に建てられたという、意外にも新しいもので、もともとはこちらの建物が、浜田温泉として利用されていたとか。
建てられたのは昭和10年。別府市の木造温泉建築としては最古のものでしたが、真向かいに新しい建物ができたことに加え、痛みも激しかったこともあり、新しい建物ができた翌年に解体されてしまったそうです。
「湯気で傷んでたというのもあったんですけど、ほらここって海にも近いですから、一層傷みもひどかったみたいで」
と資料館のお姐さん。ちなみに、別府駅からほど近いところにある「竹瓦温泉」(下の写真)は初代浜田温泉の3年後、昭和13年に建てられたものであります。こちらは今もバリバリの現役。入り口の唐破風づくりが、浜田温泉とも共通したものを感じさせますね。この頃の温泉建築のスタンダードだった、ということだったのでありましょう。

一度は解体された旧浜田温泉でしたが、その復元に尽力したのは一般の篤志家夫妻であったといいます。証券会社や不動産会社を経営するかたわら、社会事業にも熱心に取り組んでいた夫の遺志を継いだ妻により建設費6500万円の寄付がなされ、当時の姿を今に伝える復元を行うことができたとか。いやー、実に見上げた夫妻があったものだなあ、と感銘いたしましたよ。
入り口から階段を降りると、地面から低いところに設置された「半地下式」の浴槽が、当時の状態のまま残されておりました。現在でも別府の共同浴場は「半地下式」のものが多くありますが、昭和初期にはすでに一般的なものだったんですねえ。

内部には、温泉掘削に使われた道具などの実物や、往時の亀川温泉、そして別府の賑わいを伝える古写真、昔の観光パンフレットなどが展示されておりました。



浴槽の奥、低い天井をくぐっていった先には、小さな部屋がありました。

資料館のお姐さんに、あの小部屋はなんだったんですか?と尋ねると、「あれは蒸し湯だったとこなんですよ」と教えてくださいました。
「でも、できた当時はまだ蒸し湯に慣れてない人が多かったみたいで、倒れて救急車で運ばれていく人もいて、たった2年で閉鎖されちゃったそうです。もったいないですよねえ」
ほう、そうだったのか。これはなかなか興味深いお話でありました。
また、町内のあちこちに共同浴場があるのですが、それには浜田温泉のように外来客も入れるところもあれば、維持管理している「組合員」以外には入ることのできないところもけっこうあると教わりました。
「そういう『組合員』が管理するところでは、同じ町内の人であっても入ったらダメなんです」
このお姐さん、けっこうお話好きな方でありまして、建物や温泉の案内以外にもいろいろとお話をなさいました。こちらが宮崎から来たことを知ると、若い時に初日の出を見るため友達と宮崎の海岸に行った思い出を話してくださいました。そして、前の日の未明に起こった地震のことも。
「あの時はもう寝てたんですけど、大きな揺れにビックリして飛び起きましたよ。3年前のこと(東日本大震災)を思い出して、もう不安で不安で•••。ここはすぐ近くが海だから、もし何かあってもすぐには逃げられないですし•••」
そう、この亀川温泉の目と鼻の先は海。のみならず、別府市街地のかなりの部分は、海から近いところにあるんですよね。
南海トラフ地震の可能性も叫ばれるなか、けっして起こり得ないとは言い切れないところがありますし、万一の備えが必要なことも当然ではありますが•••いや、やはり起こってほしくはないですね、ええ。
願わくは、亀川温泉、そして別府が末長く平穏であり続けてほしいと、思うばかりでありました。
何はともあれ、資料館のお姐さんは実に気さくで親切なお方でありました。本当にありがとうございました!また、機会があったらお話いたしましょう!

お姐さんから「ここらへんの温泉では一番有名なところですよ」と教えていただいた「亀陽泉」(きようせん)に行ってみることにいたしました。
浜田温泉のあるところからしばらく歩くと、やはり懐かしい風情がある商店街が。その一角に「亀陽泉」はありました(下の写真の奥の建物です)。

建物こそコンクリート造りなのですが、かなり古い歴史のある共同浴場とのことです。その内部はまさしく、昭和の銭湯そのままの雰囲気といった感じでした。
この日2回目の入浴、いざ湯に浸かってみると、これが浜田温泉以上に熱々でありまして•••カラダから出汁でも出てきそうな感じなのでありましたよ。結局は1分も浸かることがかなわず、カラスの行水状態となってしまいました。いやー、参りました。降参。
しかし、やはりご近所さんと思われるおじいちゃん方は、泰然自若として湯に浸かっておられるのでありました。もう、鍛え方が違いますね。軟弱者のわたくしは、おじいちゃん方にも降参の白旗を上げつつ、「亀陽泉」を後にしたのでありました。
商店街をしばらく歩いてみると、小さな共同浴場がありました。きっとこれが、「組合員」限定の場所ということなのでしょう。気にはなりましたが、領分を侵すわけにはいきません。静かに通り過ぎることにいたしました。
ふと、その入り口を見ると「男子学生の入浴を禁ずる」との貼り紙が。いやはや、なんともキッパリと締め出されたものでありまして•••なにか気に障ることでもやらかしたのかなあ、ご老人方に。

最終回は、2日目に満喫した絶品昼食と、街中スイーツのお噂を綴りたいと思います。

別府・オトナの遠足2014 (第1回)老舗大衆酒場で惚れ酔い気分

2014-03-18 23:08:33 | 旅のお噂
先週末の15日(土)から16日(日)にかけて、大分県の別府市に行ってまいりました。昨年に続き、2年連続の訪問であります。
と申しましても、今回は土曜日の午前中に仕事を終えたあと、セカセカと列車に飛び乗って出かけていくという、いささか余裕のない小旅行となってしまいました。
しかも、出発直前の土曜未明(金曜深夜)には愛媛県沖を震源とする地震が起き、別府でも震度4から5の揺れを観測。1週間はその余震に注意が必要•••という、ちょっと不安な状況の中での出発となってしまいました。ですが、それなりに楽しい思い出をつくって終えることができたのでありますよ。
これから3回にわけて、そんな小旅行•••というか「オトナの遠足」のお噂を、つらつらと綴っていくことにいたします。第1回は、別府の路地裏で巡り会い、すっかり惚れこんでしまった大衆酒場のお噂であります。

特急列車で別府入りし、ちょっと街を散策して宿泊先のホテルにチェックインし、ホテル併設の天然温泉の浴場で一風呂浴びるうち、時刻は早くも夕方に突入しておりました。この日最大にして、今回の別府旅における大きな目標でもあった、飲み歩きの時間なのでありますよ。
飲み屋街への出陣の前に、懐かしい雰囲気のアーケードのある商店街の入り口近くにある薬屋さんに入り、肝臓保護のためにドリンク剤を買って飲んでおきました。
そこの店主さんいわく、前夜遅くに店を閉めた直後に大きな揺れが襲ってきて、棚から商品がボトボト落ちてきたんだとか。やはり、かなりの揺れがあったんですね。しかし、幸いなことに別府にもその薬屋さんにも、これといった被害はなかったとのことで、ホッといたしました。
店を出るとき、店主さんは「どうぞ、たっぷりと飲んできてくださいね!」と言って、わたくしを送り出してくださったのでありましたよ。いやー、なんだか気分のいい店主さんでありました。

行ってみたい酒場の目星は、すでにつけておりました。別府駅から歩いてすぐの距離にある「うれしや」というお店であります。
実は、昨年5月に来たときにも入りたかったお店なのですが、そのときは残念ながら店休日。今回の訪問の目的は、その「リベンジ」なのでありました。

外観といい、店先にある丼物やカレー、焼きめしなどの食品サンプルが収まったショーケースといい、なんだか古き良き大衆食堂といった雰囲気であります。創業から50年を越える老舗とのこと。
開店時間の5時半きっかりにノレンをくぐると、なんとすでにカウンターやテーブル席には先客の姿がちらほらあって、いきなり「うむむ」と唸ったのでありますよ。
外からも見えるショーケースの中には、煮付けや唐揚げ、刺身、サラダなどなどのおかずがギッチリと並んでいて、その中から好きな品を選んで取っていけるようになっています。また、それ以外のメニューもたくさん紙に書いて貼り出されていて(それらがまた値段が安いのです)、それにもけっこうご飯ものがラインナップされたりしております。そういったあたりも、なんだか大衆食堂的な感じですね(実際このあと、軽く飲んだあとにしっかりとご飯で食事を済ませて店を出るお客さんも何人か見かけました)。



ショーケースの中の料理の豊富さにしばし迷いましたが、好物であるサバの煮付けとポテトサラダを取ってカウンターの隅に腰掛け、生ビールを注文しました。
すると、注文を受けてくださったお店の方が、こう訊いてきたのであります。
「サバの煮付け、温め直しましょうか?」
別にこちらから、そのように注文したわけではございませんでしたが、お客さんが増えてきて忙しさを増していく中でのそのようなお心遣い、まことに嬉しかったのでありますよ。
やってきた生ビールとともに、まずはポテトサラダを口に運んだら•••これが実に旨い!具のバランスの良さといい、しっかりした味つけといい、たまらなかったですねえ。

ポテトサラダの旨いお店はそれ以外の料理も間違いない!という信念(って、それほど大層なもんでもないのですが•••)を持つわたくしは、その他の料理にも期待が湧き上がってきましたね。
果たせるかな、温め直されてきたサバの煮付けも、ちょっと辛めの味つけに酒が進んでこれまた旨く、思わず生ビールをおかわりしたのであります。

やはり別府に来たらこれを食べておきたい、ということで、紙に書いて貼り出されていた品の中から「とり天」を注文しました。
大分人のソウルフードともいえそうなこの「とり天」の発祥の地が、ここ別府であります。市内の多くの飲食店で提供されていて、お店ごとに肉の部位やコロモ具合、味つけ、タレなどに違いがあるようなので、食べ比べてみるのも面白そうです。

こちらのとり天はもも肉に、サクサクしたコロモがうまく絡んでいてこれまた美味。そのままでもいけるのですが、ネギをたっぷり加えた酢醤油のタレをつけていただいても、またいけましたねえ。
あっという間に2杯目の生ビールもなくなり、ひとつ大分の麦焼酎でも•••と焼酎を注文いたしました。しばらくして運ばれてきたのは•••

焼酎ではなくて日本酒でありました。•••まあ、「熱燗ですかぬる燗ですか?」と訊かれて、思わず「あ、じゃぬる燗で」と答えてしまったわたくしもうっかりなのでありましたが。とはいえ、ちゃんとぬる燗に温められた日本酒、これはこれでおいしく頂きました。

そうこうするうちに、店内はすっかりお客さんでいっぱいになっておりました。奥にあった座敷は空いているかと思えば、これも全部予約で埋まっていたのであります。いやもう、大変な活気です。
わたくしは、美味しい料理とお酒に満足しながら、このお店の雰囲気にすっかり惚れ込んでいたのでありました。地元の人たちに愛される憩いの場でありながら、わたくしのようなよそ者をも、温かく包み込んでくれる、極上の空間。
ひょんなことから、わたくしの横に座って飲み食いしておられたご夫妻と会話を交わしました。福岡から来られたというそのご夫妻も、これまで別府に来るたびにこのお店に足を運んでいるそうで、やはりすっかりこのお店と、別府という場所に惚れ込んでおられるご様子でした。
「もう何回も往復するのも面倒ですし、こちらに住んじゃおうかなあ、って」
ああ、そのお気持ち、痛いほどわかりましたねえ。こんなにいい酒場があって、街のあちこちに温泉がある別府、住むのにもいい場所なんでしょうねえ。•••オレもいっそ移住しようかなあ、いつか。

そろそろ次のお店に移ろうとお会計してもらうと、そこそこ飲み食いしたはずなのに、しめて2400円で済みました。味良し、雰囲気良し、値段もリーズナブル。これなら人気があるのも当然すぎるくらい当然だと思いましたよ。
店を出る頃には予約が入っていた座敷もすべて埋まっておりました。満員のお客さんと、それをテキパキと捌くお店の人たちとで、店の活気は最高潮を迎えているかのようでした。
「うれしや」というお店の名前、ダテではありませんでした。気持ちの底から「うれしや」と思えた酒場でありました•••。


「うれしや」を後にしたわたくしは、昨年来た時に大満足して、やはりお気に入りとなったバー「ミルクホール」に足を運び、ゆっくりとお酒を楽しみました。

「ミルクホール」のことは、前回の別府行きのお噂にも記しましたので、詳しいことはそちらに譲りますが、大人の隠れ家的な落ち着いた本格派バーの雰囲気は、しっかりと健在でありました。お酒のことを知り尽くしたマスターさんオススメのカクテルやウイスキーは、どれも体と心に染みるような美味しさで、深まる別府の夜を満喫することができました。ここもほんと、いい酒場であります。
これからは、「うれしや」と「ミルクホール」の2軒が、別府におけるわたくしの「帰るべき場所」となりそうであります。

2軒のお店であまりにいい時間を過ごせていい気分となった挙句、かなり久々に飲んだ後のラーメンまで食べてホテルに戻ることとなり(これがまたあっさりしていて量も手頃だったのでペロリと完食しちゃったんだまた)、今回の旅ではちょいと太ってしまいそうだなあ、という思いがアタマの中をかすめたのでありました•••。

次回は、2日目に訪ねた亀川温泉でのお噂について綴りたいと思います。

NHKスペシャル『あの日 生まれた命』

2014-03-11 23:25:30 | ドキュメンタリーのお噂
NHKスペシャル『あの日 生まれた命』
初回放送=2014年3月11日(火)午後8時00分~8時45分、NHK総合
語り=武内陶子、音楽=中村幸代

東日本大震災で多くのかけがえのない命が失われた、3年前のきょう。まさにその日に生を受けた子どもたちは、わかっているだけで100を超えるといいます。
その子たちの親御さんは、混乱と言い知れない不安の中で赤ちゃんを産み、守り抜いてきました。その一方で、多くの命が失われた「あの日」に我が子が生を受けたことで、苦悩を抱き続けている親御さんもいます。きょう誕生日を迎えることになったその子たちと、親御さんの歩んだ3年間を見つめたのが、この番組です。

宮城県名取市の女性は、仙台市で女の子を出産します。その1時間後に、大きな揺れに襲われました。
その後もうち続く余震のため、女性は食事をとることができなくなりました。そこに物資の不足も加わって、母乳も出なくなってしまいました。
それからしばらく経ち、順調に育っていたと思われた矢先、女の子の呼吸が突然止まりました。女性は、すぐには救急車を呼べなくなるほど気が動転し、「先に(自分を)置いて死なないで」と願い続けた、と涙ながらに振り返ります。
搬送された病院での診断は「無呼吸発作」でした。しばらく入院加療した結果症状はおさまり、3週間後には退院することができました。
女性は言います。
「ただ生まれてくれただけでも大切な命だけど、その中でもあの日に生まれたのだから、やっぱりより一層大切にしないと、と思う」

こちらも宮城県で生まれた男の子は、本来の誕生日であるきょうではなく、おととい3歳の誕生祝いを受けました。津波にさらわれ、いまだ見つかっていない、ひいおばあちゃんの命日でもあり、そちらの方を優先したいとの親御さんの意向から、生まれて以降ずっと誕生祝いを前倒ししていたのでした。「素直に喜びを表せないというのはある」と母親は言います。
しかし、何よりもその子の誕生を心待ちにしていたという、ひいおばあちゃんの気持ちを汲み、やはり誕生日の当日に祝いたい、という気持ちに変わってきた、と。再び母親の言葉。
「悪いことをしているわけではないので、やはり当日に祝ってあげたいと思っています」

事故を起こした福島第一原発から4kmの、福島県双葉町の病院で生まれた女の子。震災の翌日には病院を退去させられ、その後は家族ともども2年半にわたる避難生活を送ることとなりました。
放射性物質への不安もあり、なかなか子どもを外で遊ばせることができない、と手記に綴った女の子の母親は、こう続けます。
「心の中に『思い出』という財産を、たくさん残してあげられたらと思います」

宮城県南三陸町に住む介護士の男性。震災当日は妻の出産に立ち会うために、勤務していた介護施設を休んでいました。その施設も津波の直撃を受け、入所者のうち48人が亡くなりました。
10年間、家族同様に接していた入所者たちを失ったことに、男性は自責の念を持ち続けていました。「自分が勤務でいれば、少しでも多く助けられたのでは、という思いがある」と。
そんな男性の気持ちを支えてくれたのが、生まれてきた息子の存在と、その成長していく姿でした。
「悲しかったり辛かったりする中で、息子がいてくれることは、気持ちを優しく包んでくれている」
男性は、現在勤務している介護施設に息子を連れて行きました。やはり家族や家を失ったりもしている入所者たちは、息子の姿に目を細めます。
男性は言います。
「息子がいるところには笑顔がある。悲しい思いや辛い思いを、少しでも和らげる一助になれば、と思います」

震災当日は住んでいた東京から、里帰り出産のために故郷の宮城県石巻市に戻っていた女性は、海から2km離れた病院にいました。津波はその病院にも押し寄せ、1階は完全に水没。屋上の洗濯室に上がり、やはり入院していた2組の親子と、雪の降る寒さの中で凍えながら過ごすことに。そんな状況で支えとなったのが、自身も自宅に子どもを置いてきていた看護師さんでした。
「マイナスな言葉を発すると不安になるばかりなので、できるだけ冗談も交えて明るい言葉をかけていました」
と看護師さん。
翌日もライフラインは途絶えたままで、さらには病院に備蓄されていた3日分の水と食料も流されていました。そんな状況を案じたのが、避難所にいた病院の調理師さんでした。調理師さんは避難所の台所で40個のおにぎりをこしらえ、それを担いで腰にまで達する水の中を1時間かけて歩き、病院へと届けたのでした。
「ごはんを食べなければお乳も出ないし、なんとか食べさせたくて」
と調理師さん。
里帰り出産をした女性は、そのときのことを振り返ります。
「おにぎりってすごく温まりますから、もう嬉しくって嬉しくって」
さらに病院には、水や食料、おむつなどの物資も次々に届けられました。近隣の人たちが、限られた物資から少しずつ分け与えてくれたのです。
里帰り出産をした女性は、去年東京から故郷の石巻に居を移しました。懸命に支えてくれた病院と、石巻の人たちへの恩返しがしたいから、と。
「石巻に帰ってきたいというのがあった。目の前でここまで復興してきているというのが見えるので、前に進める」
とその女性。そして、さらにこう言います。
「自分が3月11日に生まれたと言えば、あの震災の日だと言われるだろうけれど、助けてもらった人がいるということの方を、大事に考えてもらえたら、と思います」

本来なら大いに祝福されるべき、子どもの誕生。それが震災と重なったことで、心から喜び、祝うことができない複雑な思い。それでも、我が子を必死に守り、時には支えられながら、その幸せを願う切なる気持ち。親御さんたちの、人知れぬ気持ちの葛藤の一つ一つが胸に刺さり、観ていて涙を抑えることができませんでした。どんなにか、辛いことだったことでしょう。
3月11日という日の持つ重みに押しつぶされそうになりながらも、懸命に我が子を守り抜いてきた親御さんたち、そしてそれを支えていた病院の関係者や地域の人たちには、ただただ敬意を抱きます。
そういった人たちの葛藤と思いにしっかりと向き合い、受け入れていくことが、被災した地域の外に住むわたしたちにできるせめてものことなのではないか、そう思うのです。

失われた多くの命を悼みつつ、3年前のきょう生まれてきた子どもたちに、心からこの言葉を伝えたいと思います。
お誕生日、本当におめでとう。そして、これからも健やかに育っていってくれることを願っています。



宮崎キネマ館、東日本大震災ドキュメンタリー映画特集『祭の馬』

2014-03-09 23:48:42 | ドキュメンタリーのお噂

『祭の馬 相馬看花 第二部』(2013年)
監督・撮影・編集=松林要樹

千年の昔から受け継がれてきた伝統行事「相馬野馬追」で知られる福島県南相馬市のとある厩舎。東日本大震災で発生した大津波はそこにも押し寄せたが、38頭の馬たちは奇跡的にすべて生き残ることができた。
しかし、その後に起こった原発事故により、半径20km圏内に位置していたこの地の住民には避難指示が出され、馬たちはすべて置き去りにされる。馬主はありったけの食糧を残していったものの、9頭が餓死してしまった。
その後、馬を含むすべての家畜を殺処分するよう要請されるが、野馬追という伝統行事にも参加する馬ということで、特例により南相馬市の管理下のもとに避難することができた。だが、放射能汚染というレッテルを貼られた馬たちは移動を厳しく制限され、食肉用として売ることもできないまま避難先の厩舎に閉じ込められることを余儀なくされた。
そんな馬たちの中に、ケガをしたおちんちんが腫れ上がって大きくなってしまったオス馬がいた。ミラーズクエスト、4歳。4戦0勝、獲得賞金0円と、はなばなしさとは程遠い戦績の末に登録を抹消され、南相馬の厩舎にやってきて間もなく津波にのまれ、その時に負ったケガの後遺症が、おちんちんを腫らしていたのだ。
秋になり放牧が始まるが、放射性物質を含む草を食べてしまうということでほどなく放牧は中止され、馬たちは再び厩舎に閉じ込められる。劣悪な環境で病気になり、死んでしまう馬も出る中、北海道の日高市が馬たちの一時受け入れ支援を申し出る。ミラーズクエストをはじめとする馬たちは、北海道の自然の中でのびのびとした日々を過ごすことができた。
4ヶ月後、馬たちを迎えにきた馬主がミラーズクエストの股間を確認すると、腫れ上がっていたおちんちんはだいぶ小さくなっていた。これなら野馬追のときも邪魔にはならないだろう、と安心する馬主であった。
そして2012年の夏。古式ゆかしい鞍と衣装に身を固めたミラーズクエストら被災馬たちは、野馬追の会場へと堂々出陣していくのであった•••。

『311』(2011年、共同監督)に『相馬看花 第一部 奪われた土地の記憶』(2012年)と、被災した地域に目を向けた作品を手がけてきた松林要樹監督が、とんでもない運命に直面してしまったミラーズクエストをはじめとした馬たちと人との関わりを、ユーモアとペーソスを交えた視点で記録してまとめたドキュメンタリー映画です。
言葉を発することができない馬たちは、そのぶん体を使ってさまざまなことを語りかけているかのようでした。
狭い馬房に閉じ込められてやせ衰え、生気のない瞳でじっとしているしかなかった姿と、北海道の大地で嬉しそうに駆け回る姿との対比は、馬たちにとって生きる意味とはどういうことなのかを雄弁に物語っていました。
馬たちを殺処分させまいとする馬主さんたちの姿勢にも心を打たれました。やがては食肉用としてされる(競走馬や行事用の馬であっても、その役目を終えれば食肉用に回されることになるのです)馬であっても、手塩にかけて一生懸命世話をした、大切な命であることに変わりはありません。合理性だけでは測ることができない、命の意義を考えさせられました。
相馬の歴史や文化に対して、作り手が最大限の敬意をもって分け入っていることも、映画の端々から感じとることができました。その意味では、はなはだ困難かつ異常な状況下においても、馬と人とにより脈々と織りなされていた、一つの民俗誌としても観ることができるように思いました。

どんなに困難な状況でも受け継がれていく、命と歴史の価値と重さを感じた作品でありました。







東日本大震災ドキュメンタリー映画特集『先祖になる』(あわせてNHKスペシャル『~“じじい部隊”』)

2014-03-09 00:08:26 | ドキュメンタリーのお噂
宮崎キネマ館の東日本大震災ドキュメンタリー映画特集、2本目に観たのは『先祖になる』でした。


『先祖になる』(2012年)
監督=池谷薫 出演=佐藤直志、菅野剛

東日本大震災の津波により大きな被害を受けた、岩手県陸前高田市の気仙町荒町地区。ここで長年、農林業を営んできた佐藤直志さん(77歳)は、多くの住民が仮設住宅で暮らす中、妻と長男の妻とともに2階まで水に浸かった自宅に住み続けていた。消防団員だった長男は、住民の一人をおぶって逃げる途中に波にのまれて亡くなってしまっていた。
自給自足の必要性を感じた直志さんは、震災から3日後には早々に米作りをすることに決め、やがて空いていた田んぼを借りて田植えを始める。さらに自宅近くにはそばの種をまいた。
多くの住民を失い、町内会の解散が相次ぐ中で、直志さんは元の場所に新たに家を建てて住み続けていくことを宣言する。町を守ることで亡くなった息子の霊に応え、さらに将来に向けて町の営みを取り戻していくために。
かくて、直志さんは新たな家を建てるべく山に入ってチェーンソーを振るい、木を伐り倒していくのであった•••。

ドキュメンタリー映画としては異例のヒットを記録した秀作『蟻の兵隊』(2006年)を手がけた池谷薫監督による本作は、かねてより観てみたかった作品でありました。池谷監督は、直志さんと彼を取り巻く町の人たちを、音楽やナレーションなどといった過剰な演出を一切排して、あくまでも淡々ととらえていきます。
映画が始まってすぐ、わたくしは直志さんの魅力に鷲掴みになりました。とてつもない苦難を経験しながらも、あくまでもユーモアを失わず、前を向いて道を切り拓いていこうとする直志さんの姿には、笑いを誘われつつ勇気も湧いてくるような気がしました。
また、チェーンソーを振るって木を伐っていく姿には、山で生きてきた男の矜恃が溢れていて、なんだかゾクっとするようなカッコ良さがありました。
言い出したらぜったいに後には引かない、ちょっと頑固なまでの態度で、元の場所に家を建てようとする直志さん。しかしその行動の根っこにある、生まれ育った故郷への限りない思い、そしてどんなに困難であろうとも、いくら時間がかかろうとも、絶対に故郷に人の営みを取り戻していきたいとの信念には、心を打つものがありました。
ただの頑固親父にとどまらない、直志さんの人間的な優しさにも打たれました。杓子定規に立ち退きを求める、市の若い職員にさんざん食ってかかったあと、その職員の手をしっかりと握り続けながら「息子の分まで頑張ってくれ」という場面には、不覚にも目頭が熱くなってしまいました。

そんな直志さんを慕い、サポートし続ける菅野剛さんという方もまた魅力的な方でした。
直志さんより一回り以上若い菅野さん。なぜそうまでして直志さんをサポートするのか、との池谷監督の問いに、菅野さんはキッパリと答えます。
「あたりまえのことをやっているからですよ」
続けて菅野さんは、あたりまえのことを人のためにやっている直志さんを孤立させないために、とも。この菅野さんという存在にも、なんだか胸が熱くなるものがありました。
もうひとつ胸が熱くなったのが、震災のあった夏になんとか開催できた、当地で昔から続く祭り「けんか七夕」の場面でした。そのフィナーレで、山車の上に乗っかっていた青年部の若者が、感極まってこう叫びます。
「町内会を解散するなんて冗談じゃねえよ!俺たちはあきらめたくないんだよ!ここで生きていきたいんだよ!」
故郷への思い、そしてその故郷の賑わいを取り戻していきたいという信念は、直志さん一人だけのものではなく、若い世代にも共有されているものだった、ということを知り、ここでも目頭が熱くなるのを覚えました。

困難な状況でも屈することなく、故郷の将来を見据えて動き続ける直志さんの姿に、人間として大切なことをたくさん教えられる映画でした。ぜひとも、多くの方々に観ていただけたらと願います。

本作を観ていて、ちょうど昨夜(7日夜)放送されたNHKスペシャル『無人の町の“じじい部隊”』と重なるものがありました。昨夜はブログを書けませんでしたので、ここであわせて触れておきたいと思います。

NHKスペシャル、3.11 あの日から3年『無人の町の“じじい部隊”』
初回放送=2014年3月7日(金)午後10時00分~10時49分
語り=平泉成

原発事故により、広大な面積が「帰還困難地域」に指定されている福島県大熊町。その大熊町を駆け回るのが、かつて町の要職にあった方々をはじめとした6人の自称“じじい部隊”。地域の防犯パトロール、一時帰宅する住民のサポート、放射性物質の計測、汚染水の出どころの調査などに駆け回る彼らは、将来の住民の帰還に支障がないようにと、無人と化した町を守っているのです。同時に彼らは、30年先を見据えた町の復興計画の青写真をも描いているのでした•••。

原発事故により町に住民がいなくなるという異常な事態。今も残る高濃度に汚染された場所(その一方で、確実に放射性物質の濃度が下がってきている場所も出てきていました)。長引く避難生活で故郷への気持ちが離れ、もう帰還したくないという住民が増えている現実•••。さまざまな厳しい状況に直面しつつも、“じじい部隊”の面々はけっして町の未来をあきらめず、いつかは賑わいを取り戻そうと地道に町を守っているのでした。一時帰宅する住民たちの希望を切らさないように、と。
“じじい部隊”の一人が語ったことばがとても印象に残りました。
「やはり、町に人が戻るための努力は続けたい。それは、いま生きている人の責任でもあると思う」

いかなる困難な状況であっても故郷の未来をあきらめずに、その将来を見据えて行動している点において、“じじい部隊”の面々と、『先祖になる』の佐藤直志さんは、まさしく同じ志と前向きさを共有していると感じます。
とはいえ、被災した方の中には今も、前向きな気持ちにはなれないという方も少なくないとお察しします。あれだけの苦難を経験していることを考えれば、それも当然過ぎるくらい当然でしょうし、前向きに生きることを一方的に押し付けるようなことがあってはならないとも考えます。
むしろ、直志さんや“じじい部隊”から学ばなければならないのは、被災地の外に住むわたしたちではないのか、と思うのです。
そう。わたしたちが「絶望」する必要も暇もないのではないか、と思います。。これからも被災した地域と人々の復興と再起を見届け、おせっかいにならない程度に手助けしていくためにも。