しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

テレビを見せてもらう

2020年06月02日 | 城見小・他校
たかさんの家で、
夏の甲子園・浪商vs法政二高を見せてもらう

尾崎がいる浪商と、柴田がいる法政二高の試合がどうしても見たかった。
前年は柴田の法政二高が勝っていた。
この夏は浪商は雪辱戦であり、事実上の決勝戦だった。
問題は、
どこでテレビを見せてもらうか?
運よくたかさんの家で見ることできた。
浪商の尾崎が打って逆転し、勝った。
浪商の尾崎は甲子園終了後即、東映フライヤーズに入団した。
今でも、プロ野球でもっとも速い球を投げた投手に名前が出る。
負けた柴田は、巨人に入って投手をクビになったが、
野手になって、スイッチヒッターになり、打ち・走り、ON時代に重なりぞんぶんに活躍した。

・・・・・

となりで、
「半七捕物帳」を見る

となりにテレビを買った。
夜、母がテレビを見せてもらいに行くとき、私を添え物的に同行さした。
ひとつのテレビを何人で囲んでいたのだろう?思い出せない。
となりのおばさんは、炒ったそら豆をテーブルに置いてくれた。
となりでテレビを見るときは、そのそら豆をぼりぼり食べながら見ていた。
偶然なのか?行った時はいつも半七捕物帳だった。
半七は歌舞伎の尾上松緑が演じていた。(←その後、NHK大河ドラマ一作目・花の生涯主演)


・・・・・


あっちゃんちで、
「栃錦vs若乃花」を見る

近所の同級生、あっちゃんちにテレビが入り、毎日のように見せてもらった。
原っぱで遊んだ後、家に帰らずテレビを見せてもらった。
ドラマでは「鉄腕アトム」(←実写版)と「ナショナルキッド」をよく覚えている。
いちばん人気は大相撲。
栃錦と若乃花の対戦は、いつも手に汗握り、見ている子供たちも右や左に身体が揺れていた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

城見小学校にテレビが入った

2020年06月02日 | 城見小・他校
城見小学校にテレビが入った

校長先生が皇太子と美智子さんが結婚する話しとテレビが重なるから、昭和34年のことだろう。
たぶん、城見で最初のテレビと思うが、学校にテレビが入った。
学校のテレビは教育の備品で、週に一回教育テレビを見せてくれた。
テレビ室にテレビは置かれ、学校でいちばん貴重品のようだった。
その頃、
テレビ放送はNHK総合・NHK教育と山陽放送と西日本放送が受信できていた。
その頃人気番組は「月光仮面」だったが、一度も見たことがない。

半年ほど過ぎて、学校の下の床屋さんにテレビが置かれた。
大相撲があるときは、ガラス戸越に相撲観戦していた。
勝負の後、民放は分解写真、NHKはスロービデオで差があった。

6年生の時、
日本シリーズが見たくて集団でテレビ観戦した。
先生にぼっけいおこられたが、今思い起こせば、なぜか試合が終わった後での注意だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晩に食べない晩飯(ばんめし)

2020年06月01日 | 城見小・他校
町の晩飯時間
夏休みに、福山のおじさん(というか従兄弟)の家に遊びに行くと
まだ明るいのに「晩御飯です」。
これがどうも合点がいかないというか、腑に落ちない食事時間だった。
私の家は明るいうちに晩御飯を食べる習慣はなかった。
年中、暗くなった晩に食べるのが晩御飯だった。
近所の子と遊ぶのも、暗くなるまでだった。
農家は明るいうちは仕事、暗くなってきて晩飯。
夏と冬は昼飯と晩飯の食間時間がずいぶん違うが、
今の感覚で計れない。
当時の日本の農村はそれくらい貧しかった。

・・・・

町のスキヤキは牛肉
福山のおじさんの家では、何度かスキヤキを食べた。
スキヤキの肉は牛肉だった。
別の皿に生卵が付いていた。
私の家でもスキヤキをすることはあった。
肉はいつも鶏肉だった。
つまり、飼っているニワトリが卵を産まなくなったら、スキヤキの肉になっていた。
卵を食べることもあった。
それは、熱を出したり病気になった時に限定された。
家で食べる鶏肉のスキヤキは年に二回くらいあった。
鶏肉のスキヤキは子供にとっておおごちそうで美味しかった。
その以前は、
行商人から馬肉を買ってスキヤキにしていたそうだ。両親とも美味しかったと話していた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドンガメを食べる

2020年05月29日 | 城見小・他校
ドンガメを食べる
ドンガメは大きな生き物なので、子供2~3人で食べても腹を満たしてくれた。
食べるのは
海で遊んでいて、かつ、昼をまたいで遊ぶ時。ドンガメで腹をおこす。
食べる準備も面白かった。
かまどを作る。これは、それなりの形の石を数個集める。
焚き木。これは流木を集める。
ドンガメを漁船から失敬する。
くどを焚く。
ドンガメが焼ける、臭い匂いが充満する。
焼く時間がかかって、焼き上げ完了。
身を食べる。不味い。
まずいが我慢してハラにとおす。
ドンガメは笠岡湾干拓で消滅したが、
もとをただせば、戦前から「金浦湾のカブトガニ」として保護されていた。

・・・・・・・・

ゆすらんめ(ユスラウメ)を食べる
初夏の食べ物はゆすらんめとびーびーが代表で、食べるのが楽しみな季節だった。
どちらも農家の庭の隅などに一本か二本植えてあった。
昔から、子供のおやつように植えていたのだろう。
どこの家にもあることと、実の数が多く、食べても食べても減らないのが特徴だった。
味と見た目はゆすらんめの方が良かった。
実は赤く光り、口に入れると甘みがあった。
欠点は、木の枯葉に毛虫がいるのがいけなんだ。

・・・・・・・・

びーびー(ぐみ)を食べる
びーびーは、ゆすらんめ以上に木が多かった。
遠慮容赦なく食べたり、失敬して食べるのが可能な実だった。
家によっては特別大きな実のびーびーがあった。
山に行けば自生したびーびーがあった、これは許可なく自由に食べられるが、実が小さかった。
渋みがあって、食べたらサネを口から遠くへ飛ばして遊んでいた。


・・・・・・・・

棗(なつめ)を食べる
裏のいいさん方にナツメの大木があった。
秋になって実がなる頃、
その実の状況を毎日観察していた。そろそろ食えるなあ・・・・とか。
そうゆうときは、家からいいさんが出るのを待っていた。
そしてナツメの木のまわりで遊んでいた。
その目的は、いいさんがナツメを食べる時を待っていた。
いいさんが食べだすと、いっしょに木に登って実を採って食べた。
いいさんは7歳も年上だった。
きっと、私の目的がわかっていたのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校の雨傘(唐笠)

2020年05月28日 | 城見小・他校
学校の雨傘(唐笠)

教室にはクラス全員の唐笠が備えてあった。
雨が降ると、その笠を差して学校から帰ることになっていた。
雨の時、その唐笠を開くと
ぱりぱりぱり・・・と大きな音がした。
油紙の上に落ちるので、雨音がはんぱでなかった。
雨が止むとたたむが、こんどは笠の重さがはんぱでなかった。
それに次の日に学校へ持ってゆくが、笠をもっていると邪魔になり途中遊べない。
それで生徒に人気がなかった。
しまいには、雨が降っていても濡れながら走って家に帰っていた。びしゃぬれだった。

・・・・・

ガリ版(謄写版)

職員室の一角にガリ版印刷の部屋というか場所があった。
先生がヤスリを使ってテスト用紙などを作っていた。
ときどき先生に補助を頼まれることがあった。
そこへ行くと、先生がロウ加工した原紙を謄写版にはさげ、次にローラーにインクをつけて原紙の上を滑らかに均等に滑らせた。
補助の生徒は、印刷が終わった紙(わら半紙)を抜く。その繰り返し。
ガリ版には独特のインクの匂いがしていた。

・・・・・

M先生のつけペン

M先生の机に、つけペンとインク瓶などがセットになった置物があった。
それは子供も似たようなものを持っていた。なぜなら、安から。
M先生は時折、そのつけペンを使った。
ペンを手にして、
まずインク瓶に浸ける。
その後、ゆっくりと瓶から抜いて紙に書いた。
ところが、つけペンは安物だけにペンからインクがどぼっと紙に落ちることがあった。
役場にも農協にも、机にはつけペンの立てが置いてあったが、
なぜ、あんな子供だましのようなものが重宝していたのだろう?



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨蛙を食べる

2020年05月28日 | 城見小・他校
雨蛙を食べる
アマガエルは捕るのが簡単。
片手の手のひらを膨らませるようにして、カエルの上から捕獲する。
逃げられることもあるが、たいていつかまえる。
そのカエルは、そのまま口に入れ、即喉をとおす。
熱い湯を呑むのと似て、いっきに飲み込むのがこつだった。


蜂の巣を落とす
蜂の巣を落とすのは共同作業だった。
男3人位で、長い竹の棒で軒下の蜂の巣ふきんに、ゆっくりと、静かに近ずく。
棒を構えると、早くも蜂が襲ってくる。
逃げる~~。
ここが面白い。
誰か一人刺される・・・ことが結構ある。その前提があるのでスリル満点。
刺された時は小便やヨモギで手当てをする。効果があるかは疑問だが。
目的の蜂の巣を落としたら、蜂があきらめるまで離れて待つ。
そして蜂の巣の幼虫は平等に配分し、
その場で食べた。
かむことはせず、飲み込んでいた。
栄養があると聞いていたが、ほんとうかどうかはわからない。


サルキンを食べる
野には自然はいっぱいあるが、そのまま取って食べることができるものは少ない。
いちばん簡単なのは、畑の柿やスイカだが、これは泥棒で、できることでも、することでもない。
秋にサルキンがあった。
これは美味しかった。
しかも少し腹の足しになっていた。
難点は、どこもかしこも有る訳でなかった。
熟れたサルキンは見た目も美しく、食べかたも簡単で、取って口にほおばるだけ。
秋の子供の人気だった。
サルキンは標準語では、「あけび」というのを中学生になって知った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校帰りの森陰で② オート三輪に乗って帰る

2020年05月27日 | 城見小・他校
学校帰りはオート三輪で

福山の青果市場から茂平の園芸所に農家の果物を集めに来ていた。
空荷のオート三輪できて、果物を積んで帰っていた。
学校帰りに、そのオート三輪に遭遇することがよくあった。
その時は三輪の後ろから4~5人で押してあげる。
そして用之江と茂平の境の峠のうえで、
運転手氏がお礼に乗せてくれる。
三輪は下りの道を荷台に小学生を乗せて茂平園芸所に着いた。そこで小学生はおりた。
その一連の行為のことは、良いこと・悪いこと、違反・違法、安全・保険とかまったく思ったこともなく、
ただ子供には面白かったし。三輪の荷台は気持ちがよかった。
しかし、
空荷で坂道がしんどかった三輪車は、荷物を積んでよく登るものだと不思議な気がしていたが、
今思いだしても不思議だ。

・・・・・

蒸気機関車の車輪

踏切は無人で、当時は事故をおこすと、怪我は自分持ちで相手(国鉄)には補償が必要だった。
そうゆう事情があるので、踏切は慎重に慎重にわたっていた。
遠くから汽車が見えたり音がすると、通り過ぎるのを待っていた。
国鉄さまさまだった。
いいことは汽車が間近で見えることだった。
特に蒸気機関車の、車輪と音と汽笛と蒸気と煙は迫力があった。
大きな車輪だった。
人間よりも大きかった。
働く人も汗が噴き出ていた。
スコップに石炭をすくって真っ赤に燃え上がる釜に投げ込んでいた。それを一心に繰り返していた。
車輪はいつも動いていたが、
静止した車輪を見れるのが大門駅だった。止まった車輪も大きかった。
その頃の学校の図画で描くのは、たいてい蒸気機関車だった。

・・・・・・

アメリカ屋前の踏切

踏切を渡らないと学校には行けなかった。帰りも同じ道を帰っていた。
茂平から用之江への踏切は三つあり、
橋本屋の前の踏切が学校が決めた踏切だった。
しかし、
学校の”親呼び”で親が通るのはアメリカ屋の前の踏切だった。
それは理由が二つあり、
近道であること、アメリカ屋で買い物をしてかえることだった。
アメリカ屋の踏切は低い場所にあり、左右の確認をすることが不十分になりやすかった。
子供には危ない踏切だった。
この踏切は今もあり、昔と違うのは遮断機があることだけ。
今でも、やはり、他の踏切以上に注意がいるように思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

背負われて料金所をとおる

2020年05月25日 | 城見小・他校
茂平集会所の映画

茂平集会所の映画は、興行は金浦座で、茂平の世話は「浜の良やん」がしていた。
良やんは入口に主同然に座って料金を集めていた。
ひとり一人お金を集め箱に入れていた。
映画は父か祖父と行っていたが、良やんは私の顔を見るとおんぶされるように口を出した。
そして、
「まだ歩けんのは子供じゃあない」と無料にしてくれた。
この好意に感謝していたが・・・・だんだんと身体が大きくなり、おんぶの状態でその場所を通るのが明らかに不自然になった。恥ずかしかった。
良やんはそれでも無料にしてくれた。
4年生か5年生になり、近所の子供同士で行くことがあり、その時からお金を払うようになった。
茂平の映画は、「良やん」の好意と、いつまでも「おんぶ」されたことを思い出す。



一円札・拾円札・百円札

一円札
家の近くに恵比寿っさんの社があった。
恵比寿っさんにお賽銭があり一円札が何枚かあった。
そのうちアルミ貨の一円玉も置かれるようになった。
1円玉を見るようになって一年ほど経ち、一円札は見ないようになった。
それからは、まったく見ないようになった。今は完全に思い出の中だけになった。
十円札
子供に身近なお金は1円・5円・10円だった。
五円札は無かった。五円玉だった。
一番よく使ったのが十円札と十円玉だった。
比較的長く10円札と10円玉が併用された。
百円札
お年玉にもらっていた。その日の内に、親に徴収された。
親はその百円札を、もらった親の子にお年玉で渡していた。
そうやって親類同士でまわしていた。
五百円札
岩倉具視の顔はよく覚えているが、それ以上の記憶がない。
千円札
高校の修学旅行の旅費を学校に納めるとき、初めて手にした。
一万円札
高校の理科の時間、級友から「いいものを見してやる」と言われた。
それが初めて見た一万円札だった。
その友は真鍋島の出身で笠岡に下宿していた。
たぶん、下宿費を親からもらった(預かる)ばかりだったのだろう。
当時は、高校生が手にするお金ではなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校帰りの森陰で

2020年05月24日 | 城見小・他校
学校帰りの森陰で



学校から茂平までは遠かった。
峠の手前に泉が湧いていた。
その泉に降りて行って手酌で水を飲んでいた。
泉の水は・・・当然ながら・・・塩分がまったくなく、
塩辛い水に慣れていた茂平の子にとっては名水だった。
女の子も、男の子もその泉の水を飲んでいた。
しかし学校へ行くとき、泉で飲む子は誰もいなかった。

野苺
帰り道は腹が減っていた。
道べりには、春から夏に野苺があった。
その野苺をつまんでは食べた。
しかし、野苺は実が小さく
食べても食べても腹の足しになることはなかった。

三太郎
用之江から茂平になり、道べりにTくんちの畑があった。
その畑は李が植えてあり、初夏に三太郎が食べごろになった。
その頃は、意識してTくんといっしょに帰っていた。
その訳は、Tくんが畑に入って三太郎を取って食べることがあり、その時は一個渡してくれた。
三太郎は、噛むときにプシッと皮を破る音がするのが好きだった。
すっぱい味もよかった。
その頃父に、
「ウチにも三太郎を植えてほしい」と言った。
父はすぐに植えてくれたが、木が成長して実がなる頃(高校生になっていた),
もう三太郎に興味はなくなっていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丸坊主

2020年05月22日 | 城見小・他校
丸坊主

城見保育園ができ、その入園ごろに丸坊主になった。
(それから高校3年生になる春まで、ずっと丸坊主だった)

城見小学生の2年か3年の時、学校の下に散髪屋ができた。
そこには大人と、子供の一部が客で入っていた。

ほとんどの子供はバリカンで刈り上げていた。
庭で箱に座り、近所の年上の子や兄弟に頼む子も多かった。
子供が刈ると、どうしても虎狩りになっていた。
そして刃が(よく切れなくて)髪にはさったまま止まり、バリカンを髪から抜いてやり直していた。
その時の子供の顔はそうとう歪んでいた。
それは日常の風景だった。

私は父親がバリカンで刈ってくれていた。
刈った後はカミソリで剃ってくれた。

高校生になって、床屋に行くようになった。
「にまいがり」といってクリクリ坊主でなく、ほんの少しイガグリ頭で、当然ながら父よりは刈った頭がきれいだった。
大門の駅東にいまもある床屋に行っていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

蛍取り

田植えが終わってしばらくした頃、いちばんの楽しみはホタル取りだった。
夕方が終える頃、箒と瓶を手にして水田のほとりに向かった。
蛍はどこにでもいたが、蛍の多い場所に行く。
場所は毎年決まっていた。
かまんどうから砂川の法に蛍は多くいた。

暗くなると、あちこちから子供の声が聞こえていた。
光のはホタルの他に、水ボタルと蛇がいた。
水ボタルは近寄ると水の中で光っているので止める。
むずかしいのは蛇だった。
うっかり蛇をにぎるとにゅるっとして背筋が寒くなっていた。

取った蛍は瓶にスギナを入れて明かりを楽しむか、蚊帳の中に入れて飛ばす。
蚊帳の中で光る蛍は、なんともいえない風情があった。
しかし、どちらにしても翌日には蛍は光らなかった。一夜の明りだった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする