しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

死んだ子

2020年05月19日 | 城見小・他校
死んだ子

オオバコの娘
宮ノ崎の畑にはイチジクや薩摩芋を植えていた。
ときどき畑に遊びに行った。
隣の畑にも、同じ年の女の子が遊びに来ていた。
堂面川が流れ、その川に笹の葉で船を作って浮かばせて、どちらの船が遠くまで流れるか競争していた。
道にオオバコが生えていた。
オオバコの茎を交わらせて切れるまで勝負した。
その子とそうやって遊んでいたが、
遊んでいた3日後位に、突然伝染病で亡くなった。
その親は「畑でナスビを食べたのが悪かった」と話したそうだが、
ナスビをかじっているのを何度も見たことがある、
おいしいのでなくて、しかたなく空腹に物を通しているように思っていた。
その女の子の名は、どうしても思い出せない。

戦争未亡人の子
近所で親類でもある家に二人姉妹がいて、その姉妹は私の姉の年齢と上下ひとつ違いの良い遊び相手だった。
ときおり、姉の後ろをついて遊びに行っていた。
その家のえんだ(濡れ縁)には少女雑誌が一冊あって、グラビアに美空ひばりの映画「娘船頭さん」の写真が載っていた。
その二人姉妹のお姉さんの方が、赤痢にかかってあっけなく死んだ。
そして10余年後に妹さんに縁談があった。
お相手の男性が「お母さんを大切に」と言った瞬間に、その男性と結婚することを即決したそうだ。
そしてまた30年たち、40年たち、そのお母さんは老いていったが娘夫婦の愛情と、遺族年金のおかげで、長く大切にされ、幸せに暮らしたそうだ。
亡くなった少女は「くにちゃん」と呼んでいた。
”娘船頭さん”を何かで見る度に、その戦争遺族の子とお母さんを思い出す。

お腹がいたくなって死んだ子
小学校の一年生か二年生の時、茂平の同級生の子(女性)が死んだ。
同級の生徒全員と先生とで歩いて葬式に行った。
その日か、後の日か
先生がクラス全員に鉛筆を一本ずつ配った。
亡くなった家からだそうで、
亡くなったのは
「お腹がいたいゆうので、寝とけぇ」と子に言ったら、
その子は布団の中に寝ていた。
そして、そのまま亡くなったそうだ。
子供心に気の毒と思ったが、
あの頃は、不思議でも何でもない出来事だった。
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映画・用心棒の羅生門

2020年05月04日 | 城見小・他校
映画の全盛期、茂平の集会所で映画の上映があった。
上映日の2~3日前に映画ポスターを貼りだしていた。場所は青木の大池詰所、農協の園芸所、吉本商店の三か所。
初めは福山から来ているという噂だったが、金浦座が来ていた。

月に1~2回程度、映画は二本立てで「時代劇」と「現代劇」。
婦人は家事が終わってから来るので、一本目が時代劇で二本目が現代劇だった。
男の子は時代劇だけが目的で、現代劇は不要だった。不要なら帰ればよいのだが、夜道を一人は怖いので二本目終了までいた。
映画上映日の翌日は、学校帰りに集会場に寄っていた。
必ず切れたフィルムが何個が落ちていた。それを手にして、目の前に見るのが楽しみだった。


ある時「用心棒」が上映された。
見に行った。
監督は黒澤明、用心棒は三船敏郎、悪い方は仲代達也。
この映画は大ヒットして有名だった。(当時田舎に来るのは約1年か、それ以上経ってから、それが”常識”だった)
やや不満だったのは、白黒映画であること、東映のように白塗りの剣士でないことだった。
しかし、個性的な名優が多く出演し、子供にも飽きることがない面白さがあった。

悪い方(当時のチャンバラは良い方と悪い方があった)に、
仲代達也や加藤大介と並び、またそれ以上にインパクトがある大男がいた。
あの大男は「大内山じゃろうか?」、
「額や顎はそっくり」「大男で痩身」、でも少し違いうような・・・・?

その翌日から、茂平の子どもは映画の名シーンであるピストルを包丁でやっつけたことよりも、あれは誰だろう、大内山とは違うのかの話が何度も出た。
(映画ポスターと映画の出演者名に大内山は無かった)

それから数十年後、インターネットが普及してようやく謎が解けた。大内山でなく、羅生門綱五郎という元相撲取りの役者だった。

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あこがれの職業、キャッチャーボートの船乗り

2019年06月23日 | 城見小・他校
小学校で完全給食が始まった。
おかずは毎日、クジラ肉だった。

金浦から魚売りが自転車で来ていた。
母が買うのは、安い鯨肉だった。

で、季節にもよるが、朝も鯨、昼も鯨、夜も鯨という日々が続くのも珍しくなかった。

少年雑誌(漫画王とか少年など)の巻頭に捕鯨の写真記事が掲載されいた。
南洋で獲る鯨は日水や大洋漁業の大手の船団であるが、写真では大きな母船でなく小さなキャッチャーボートが大きく載っていた。
鯨を槍で射撃する人が、少年たちのあこがれの職業になっていた。

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蒸気機関車は大きく、力強く、絵画では一番人気だったが
何故か、少年たちのあこがれの職業ではなかった。

たぶん、顔から汗が噴き出る釜焚きの人の姿が目に焼きついてたからであろう。

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今日(2019.6.23)の新聞に和歌山県大地町が出ていて、捕鯨の全盛期には「2年捕鯨船に乗ると家が建っていた」とある。わかるような気がした。


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小三の春⑯講堂で見る「オテナの塔」

2019年02月06日 | 城見小・他校
年に2回ほど、笠岡の映画館が来て学校の講堂で映画を見せてくれていた。
講堂に暗幕を張って暗くした。
暗幕の隙間から光が入り、講堂が真っ暗になることはななかった。
そのため、スクリーンは薄くなるのが不満だったが、授業を受けるよりは映画の方が楽なので文句を言う人はいなかった。

授業の代わりの映画なので、面白い映画はなかった。
「野口英世」「路傍の石」「次郎物語」、暗い物語だった。
「にあんちゃん」や「キクとイサム」などもあった。がまんして見た。

一度だけチャンバラ映画を上映した。
しかも「新諸国物語」、笛吹童子や紅孔雀や七つの誓と一連の人気映画で、「オテナの塔」。
主演は若手スターの中村扇雀(現在の坂田藤十郎)。

上映前から生徒たちは期待が大きく、「オテナの塔」の題名でもめた。
映画は「お寺の塔」という意見で、
「塔があるのはお寺に決まっている」という訳で、「オテナという日本語はない」と。

管理人はどちらでもよかった。チャンバラであればなんでもいい。刀を振り回してくれれば楽しい。それだけだった。

映画はお寺の屋根の上で対決するシーンがあった。
やっぱり”お寺の塔”だったのかな?とも思った。



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小三の春⑮日の丸をもって天皇陛下を迎える

2019年02月06日 | 城見小・他校
ある日の授業で、小さな箸のような棒を一本と、白紙が先生から支給された。
生徒は机の蓋を上げてクレヨンを出した。
先生の指示は・・・♪白地に赤く 日の丸染めて・・・国旗の小旗を作る事だった。
国旗は天皇陛下をお迎えするのが目的と言う。
その旗をもって全学年の生徒が校庭に集まり、校長先生の挨拶後、学校から列を組んで山陽本線を渡った。
線路の土手に一年生から六年生の生徒が横に長く並んだ。

そして10分か15分くらいして天皇陛下が乗った汽車が来た。

真っ黒い蒸気機関車は、普段の列車と違い黒光りがしていた。
正面には特急列車の燕か、何かのプレートが付けられていた。
そのプレートには日の丸が二本取り付けられ、神聖さがあった。
ごおお~っ、という轟音とともに吐き出される黒煙は、いつもの汽車のように真っ黒でなく白さも感じた。

前から見えて、後ろが見えなくなるまで30秒くらいだっただろうか?
汽車は、最高スピードで城見小生徒を無視するかのように通り過ぎて行った。
あっけなく行事は終わった。

これが果たして天皇陛下への“歓迎”とか“送迎”とか呼べるものだろうか?
当時子供心に思った事を、今でもそう思い出している。
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小三の春⑭校長先生の昼礼「踏切に気をつけて」

2019年01月31日 | 城見小・他校
土曜日の授業は昼までで、校庭で校長先生の訓話を聞いてから、各班別に1年生~6年生が列となって帰校するのが決まりになっていた。

小学校の学区内の真ん中を山陽本線が通っている。
茂平の児童は全員、用之江と大冝も半分近い児童が踏切を渡らないと学校への行き交いができなかった。
子供の暮らしには生徒全員が踏切と関わっていた。

校長先生の訓話にも、当然踏切の注意があった。
ある時の踏切注意の訓話は、子供心にも胸に響きすぎる内容だったので、今でもよく覚えている。

「踏切ではいったん立ちどまり、汽車が来ていないことを確認して渡ること。
汽車が来ていたら、決まった場所以上に近寄らない。
もし、踏切の近くにいると汽車が止まるかもしれない。

汽車を止めると大金が要ります。
そうなると、あなた方の親では支払うことができません」

つまり、子供の命なんかよりも、国鉄という権力の方がずっと大きかった。
校長先生の話に、腑に落ちないとも思ったのだろう、それで今でも覚えている。

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小三の春⑭校長先生の朝礼「朝は顔を洗いましょう」

2019年01月30日 | 城見小・他校
学校に行く前、顔を洗うのは春と夏と秋だった。
冬は冷たくて、起きたままの顔で学校に行っていた。

月曜日の朝は、全校朝礼があり、全生徒が校庭に集合した。
ラジヲ体操して、「きおつけー、前倣えっ!」
その後で、校長先生の訓話があった。
全員が聞くふりをし、聞いていないのが校長先生の話だが、
それでも、同じことを何度も聞かされると覚える。
それが「朝起きたら、顔をあらましょう」
そして「冬の水は冷たくありません、夏の水より温かいのです」と。

顔を洗うには、
冷たい空気に顔を切れながら「井戸端」に行く。
釣瓶を井戸に落とす、水を汲んで、引き上げる。
釣瓶から洗面器に水を移す、この時、水を散らさない。
かがんだ姿勢で片手で顔を洗う、両手を使うと両手が冷える。
顔を拭く。
以上だが、猫と同じ程度の洗顔だった。

1月や2月の真冬、何度顔を洗って学校に行ったろう?
月に2~3回だろうか、それも猫洗いで。

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小三の春⑬茂平に火の見櫓が建った

2019年01月28日 | 城見小・他校
小学校からの帰り道、いつものように4~5人で遊びながらの道だった。
丸山を過ぎて視界が広がるところ、そこで「火の見櫓」が見えた。
「わぁぁぁっ!」と声をあげながら、火の見櫓まで走っていった。
銀色に輝く火の見櫓はまぶしすぎる程、輝き、そして誇しかった。

以前、その場所の近くには半鐘が付いた、丸太の警鐘台があった。
その頃、東京には「東京タワー」が建設工事中だった。
東京タワーに似た構造物が茂平に出来て、(大人は知らないが)子供たちは毎日のように火の見やぐらを見上げて満足感を感じた。
火の見櫓には、遊びで何度も登った。
いちばん上の展望台に立つと、風が無くても揺れていた。
こわいので、登ったら早急に降りていた。
それを何度もして遊んだ。


岡山県のもっとも西南の僻地、茂平にも火の見櫓が建った。
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小三の春⑫井笠のバスガール”発車っ!オ~ラ~ィ”

2019年01月27日 | 城見小・他校
用之江を走るバスは当時流行っていた、歌の通りのバスだった。
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♪田舎のバスはおんぼろ車 タイヤはつぎだらけ 窓はしまらない
それでも お客さん ガマンをしてるよ それは私が美人だから
田舎のバスはおんぼろ車 デコボコ道を ガタゴト走る
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それでも用之江はよかった。バスがあるから。
用之江と大冝は笠岡~福山のバスが通っていた。

茂平の人は、バスを利用することはほとんどなかった。
町に行くには、大門駅まで出て、汽車で福山か笠岡に行っていた。


茂平にもバス路線が出来た。
笠岡~茂平で、日に3~4便往復していた気がする。
茂平園芸(農協)が終始バス停。
バスの時間前になると、番屋のおばさんが切符と小銭(釣銭用)の入った木箱を持ってバス停に出て来た。
冬は運転手さんように一斗缶の焚火を用意していた。客もそれで手を温めてからバスに乗っていた。

茂平でバスに乗る客は①用之江の茂平入口で降りて、福山行のバスに乗り換える人。②大冝または吉浜の医院に通院する人。③笠岡へ買い物に行く人。のどれかだった。

茂平にバス路線が出来た頃、時代は「田舎のバス」から「東京のバスガール」に変化しつつあった。
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  ♪若い希望も恋もある ビルの街から山の手へ
  紺の制服身につけて 私は東京のバスガール
  発車オーライ 明るく明るく走るのよ
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あるバスに乗った時、茂平を出て、用之江の踏切になった。
踏切前で、バスは一時停車し、若い女性の車掌さんが笛を口にして
”ぴっぴぴー”
手を挙げながら小走りしてバスを誘導した。
乗客のほぼ全員から、
「汽車がきょうるがーーーっ!!!!」
結局、車掌さんだけが踏切を渡り、
汽車が通り過ぎていからバスは踏切を渡った。
うつむいて、再びバスに乗る、車掌さんの姿が忘れられない。



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小三の春⑪火の玉

2019年01月26日 | 城見小・他校
ヒトダマ
近所のゆりちゃんは二歳年上の女の子だった。
ゆりちゃんの家は、横の道から墓場がよく見える場所だった。
「昨日の夕方、墓の上をヒトダマが飛んどった」と見た事を話す。
その話を聞くたびに、自分もヒトダマが飛んでいるのを見てみたい、と思った。

ヒトダマを見たのは、ゆりちゃんだけでなかった。
普通に生活をしていれば、1~2度くらいは出くわすのがヒトダマだと思っていた。
夏の幽霊映画にも、必ずヒトダマは飛んでいた。


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「旭町誌」 平成9年 旭町発行より転記する。

火の玉
火の玉は、鬼火とかヒトダマ(人魂)とも呼ばれている。
燐化水素だ、夜光虫だ等々諸説があるが、実際に見た人は少ないようで、話が一人歩きしている感が強い。
古来死んだ人のからだから離れた魂のこととされ、火の玉が飛んだので誰かが死んだとか、死ぬる前に火の玉が飛んだのを見たとか、新墓ができて火の玉が飛んだとかいろいろな話が伝わる。


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管理人記・
人が死んで土葬が無くなる頃、幽霊もヒトダマの話もなくなった。その類のことはオバケに変わった。
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