しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

小三の春⑩新国道(2号線)の工事が始まった

2019年01月26日 | 城見小・他校
よその町へ行くことはほとんどないので知らないが、「大門~笠岡」間の道はいちばん悪い、という話はよく聞いていた。
たしかに道は狭く、路面はでこぼこだった。
しかし、いちおうバスが通れる幅はあった。
・・・・・・・
国道二号線の工事が始まった。
城見地区では、大冝と用之江のうち、茂平入口から県境までが既存のバス道とかぶったが、それ以外は田んぼや山を掘ったり,盛ったり、崩したりした新しい道づくりだった。

小学校には、その新国道工事を横断しないと行けなかった。
工事には「ショベルカー」と呼ばれる見た事もない大きな移動式の機械が一台か二台使われていた。
学校への行き返り、立ちどまり、ショベルカーの動きを見るのが日課だった。

土木作業員の宿舎が林の中で、半分崩れかけていた、旧隔離病棟が使われた。
そこには家族持ちも入居し、幼い子供たちが遊んでいた。
幼児たちは買ってもらったオモチャの刀を腰に下げていた。
その頃の茂平の子供は、棒切れを刀にして遊んでいた。

宿舎の子供の刀を見ながら、うらやましいような、またうらやましくないような気になりながら家に帰っていた。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

山陽新幹線や山陽道の工事では、用地買収で成金と呼ばれるほどの地主が何人もでたが
古い事とは言え、新国道の工事では、その類の話を聞いたことが無い。
まだ日本は貧しかったから、安い売買だったのだろうな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小三の春⑨瘡守神社のインチキ露店

2019年01月25日 | 城見小・他校
大津野村の野々浜に瘡守(かさもり)さんと呼ばれる神社があった。
今もある、場所は山陽本線の大門駅から東へ500m程の線路の北側の丘にある。

その瘡守さんのお祭りは、夜に露店が参道を埋める程に左右に並んでいる。
30円ほどのこずかいを親から貰って、そのお金をしっかりと持って、暗い夜道の峠越えをした。
峠を越すと広島県側になるが、野々浜漁港に近い。そこから北へ田んぼの道や、民家が点在する田舎道を北へ向かう。
山陽線が近くなるとほっとする。
線路の踏切を越えると、お祭りと露天の灯りが煌々と目に飛び込む。

参道には、どの店も子供の興味をそそる商品を並べて待っている。
その中に豪華景品をならべたクジの店があった。
その商品がどうしても欲しくなり、10円出してクジを買った。
クジは5枚あり、その内の1枚が当たりクジ。
最初、5枚のを買ったので確率は20%だったが、ハズレだった。
次に3枚に時に買った、確率は33%だったが、ハズレだった。
最後の10円は、2枚の時に買った。確率は50%だったが、ハズレた。
3回かったクジの当選率は100%を超すが、それでもハズレ。

その後も、他人がするのを(買うのを)見ていたが、5.4.3.2枚、すべてハズレだった。
子供を馬鹿にした露天商だと思った。

帰りの夜道は遠いけど、気持ちの重さも加わり、遠い遠い帰り道だった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小三の春⑧父は密造で捕まった

2019年01月25日 | 城見小・他校
葡萄畑ではキャンベルとマスカットを作っていた。
収穫したブドウは、房に付いた白い表面の粉に指が少しでも触れないように、成長の悪い粒を落として、それを等級に分けてから出荷していた。

葡萄の粒は、牛の餌にもせず、大きなバケツに貯めた後、井戸水で汚れを落とし、父は両手の手のひらでもみ返していた。
それが葡萄酒の密造の最初の工程だった。

父の葡萄酒造りは、物心がついた頃にはしていたので、たぶん戦前から、そして父の代の前からも造っていたのだろう。
田舎の自給自足の食べ物・飲み物の一つであると思っていた。

ところが、茂平で葡萄を作っている農家全ての家に税務署がやってきた。
その結果、父も密造の罪で捕まった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「台所に敗戦はなかった」魚柄仁之助著 青弓社 2015年発行 より転記

つくりませう!葡萄酒
家の光(昭和7年9月号)にこのような記事が掲載されておりました。

「自家製法」、
収穫期は成熟したものを晴天続きの午後収穫すれば,糖分は多い。・・・
今日の日本の常識でとらえると「密造を勧めているのではないか」でありましょうが、1932年では、合法であったと考えられれる。
葡萄酒が酒税法の仲間入りを果たすのは1940年(昭和15年)のことです。

敗戦からちょうど1年たった「主婦と生活」の8月号には、甘味料として葡萄酒の作り方が掲載されていました。その通り作ればアルコール度数は1パーセントを超える、酒造法でいう「密造」であります。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小三の春⑦芝居を見に行く

2019年01月25日 | 城見小・他校
「伊豆の踊子」一行のような旅芸人が茂平にも来ていた。

映画はポスターで住民に知らせていたが、芝居はチンドン屋のように鉦や太鼓を鳴らしながら茂平を一周していた。
年に一回か二回、どこから来るのは不明で団長以下男女で4~5名程度だったような気がする。
寝泊りは集会場を利用していた。

興行は茂平集会場に付設の茂平ごらく場で、チャンバラ芝居をしていた。
カツラや刀やお化粧の人を見るのは、この時しかなかった。
芝居よりも顔や衣装の方が子供には面白かった。

興行は2~3日続いた。その後は、どこの村にゆくのか、噂にも聞いたことが無い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小三の春⑥映画史上空前の新東宝映画「明治天皇と日露大戦争」を見に行く

2019年01月24日 | 城見小・他校
映画を見るのは、福山、小学校、茂平集会所の三通りあった。

福山では、「とんど祭り」に行った際に、映画館で見て帰る。
小学校は、文部省推薦の映画、例えば「次郎物語」や「にあんちゃん」のような教育映画。さっぱり面白くない映画。講堂に暗幕を貼って暗くしていた。
茂平集会所には、月に一度くらい金浦座が出張してくる。夜上映、一度限り。

上映日の二日ほど前に、青木と農協と吉本にポスターを貼っていた。
二本立てで、たいてい前にチャンバラ、後に現代劇を上映するパターンだった。

映画は東京や大阪で上映して約1年後に茂平に廻っていた。

新東宝映画は弱小な会社だったが、アラカン(嵐寛寿郎)主演で、総天然色シネマスコープの「明治天皇と日露大戦争」を公開し、映画史上空前のヒット作品となった。
その映画は公開後2年ほどして茂平集会所にやってきた。

その夜、茂平集会場はびっしり満員で、脚も伸ばせず、あぐらもできず、べべちゃんこで映画を見る状況だった。

映画は軍艦マーチが勇ましく轟き、アラカンの天皇姿も様になっていた。
大人たちは戦勝するスクリーンを興奮気味に見ていた。

映画フィルムは日本全国で、擦り切れる程回してきているので、何度も切れた。
あの映画は、日本映画史に残るヒット作品だが、茂平でも最大の観客数だった。そしてフィルムが切れる回数も最多だった。

尚、観客動員数は2001年「千と千尋の神隠」に抜かれたそうだが、これはアニメなので、実写映画では記録を破られていない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小三の春⑤風邪をひいて卵を喰いたい

2019年01月22日 | 城見小・他校
近所のよりさんは6才年上だったが、よく遊んでくれていた。
よりさんの家で遊んでいる時、
「今鶏が卵を産んでいるから・・・・シー」と声を出すのを禁じられた。
見ると、縁側の下の鶏が身を丸くして生む姿勢を取っていた。
子供なので、日にちが変わるとすぐに忘れ、よりさんからは同じ注意を何度も受けた。

その卵は、一ダース以上たまると農協に出荷入して換金していた。

子供が卵を食べる事はなかった。
卵は売るもので食べるものでなかった。

その卵を食べる事が出来るのは、お祭りや、運動会や、遠足の弁当に入っていた。
しかし、それはフライパンで丸く焼いた卵焼きが何等分かに切られたうちの、一切れだった。

なんとか一人で一個の卵を喰いたいものだと思っていたが、それは風邪をひいて寝込んだ時だけ可能だった。
風邪をひくと、母がおかゆを作り、梅干しと、生卵を一個盆に置いていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小三の春④遠足

2019年01月20日 | 城見小・他校
三年の遠足は福山だった。
遠足の日は暗いうちに家を出る。
学校に着くと、点呼の後、出発する。
学校から大門駅まで歩いてゆく。
県境を越え、講口池のふきんは、薄暗くて不安な気持ちになる。自然と早足になった。

大門駅から次の駅(福山駅)で降り、福山城に行く。お城で解散して、走ったり、遊んだり、弁当食べたり、持ってきたお菓子を食べた。
福山城公園には、金網で造った大きなゴミ籠が、随所に置いてあった。
同級生が食べ終えて、ゴミ箱にいれた空を、頭と手を箱に突っ込んで物色する人がいた。
それが、うまれて初めて見る乞食だった。

次に、お城からバスに乗って草戸の明王院に行った。
バスから降りて、はじめて五重塔をみた。
バスの集合まで時間があるので芦田川の河原に下りた。
こんな大きな川が、日本にあることに腰が抜けそうだった。
水面に石を投げるのは海の遊びと思っていたが、大きな川なら可能なことも知った。
芦田川の大きさに、同級生たち全員が興奮した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小3の春③チャンバラ遊びと山形勲

2018年09月28日 | 城見小・他校
男の子はチャンバラ。
漫画も映画も、見るのはチャンバラ。
ラジオは、浪曲もドラマも時代劇。
パッチンの図柄も時代物。

遊びはチャンバラごっこ。
棒きれを片手に斬りまくる。
宮本武蔵や鞍馬天狗や赤胴鈴之助・・・・。

しかし相手がいる。悪者で斬られ役が必要になる。
それが山形勲。

東映時代劇の半分は、最後に悪役の山形勲が斬られて終わる。
斬られる際、鼻をぴくぴくさせながら倒れる。
映画は、正面から写さず少し横顔で鼻の動きを強調している。

これが子供に人気で、チャンバラ遊びの時は斬られ役
に不自由することはなかった。特技の人もいた。

後年、東映時代劇の悪役・斬られ役専門だった山形勲は現代劇で異彩を放った。
企業トップや重鎮役で重厚な存在感が際立つ役者になった。
あの変わりようはうれしかった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小3の春②初めてのソックス 

2018年09月28日 | 城見小・他校
冬の朝。
火の見櫓から近いところ(豆腐屋の前)に集まり集団で学校に行っていた。
大人も子供も「豆腐屋」と呼んでいたが、豆腐を作っていたのは戦前のことらしい。
そのトーフ屋のおばあさんが、冬の朝は焚火をしていた。
子供も焚火に当りながら全員集合するまで待っていた。

ある日、頼んだわけではないが母がナイロンで作った足にはくものを買ってきた。
さっそく翌朝にナイロンのはきものをして登校することにした。
集合場所では、みんな手を焚火に出して当たっている。
ナイロンのはきものがうれしくて、片足立ちして、片方はズックを脱いで足を当てた。
内心自慢げに、みんなにみせびらすつもりだったが、それは実現できなかった。
焚火に出した片足はじゅるじゅると音を出しながら縮こまり、破れて素足が出た。
初めてのソックスは、たったの一日も用をなさなかった。

自分がみせびらかす気持ちさえもたなければよかったのだが、製品自体は早晩に駄目になったような気がする。
新製品はまだ粗悪品だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小3の春①芦田川 

2018年09月27日 | 城見小・他校
笠岡に川と呼べるほどの川は無いが、更に茂平には飛べば渡れる川しかなかった。
福山城から明王院へ行けば、すぐ前に大河が流れていた。
生徒全員が芦田川の大河に驚いた、こんな大きなものが川だろうか?
先生が「川」と言っているから、川に違いない。
明王院の五重塔を見学して、生徒たちは芦田川に下りた。

河原には、砂やきれいな栗石があり、
平べったりした栗石を川面に投げた。
石は5回、6回、7回、ほど川面を打ちつけてから沈んだ。
普段その遊びは海でしていたが、海は波があるので4~5回打ってから沈んでいた。
の川面は波もかったので、小石が水面を蹴る様子が面白かった。
男の子は数の多さを声高に発した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする