しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡市内の忠魂碑

2018年02月23日 | 城見小・他校
忠魂碑はほぼ全町村に一基は、戦前または戦後に建立されている。
小学校・神社・山頂が多い。
学校にあった忠魂碑は戦後すぐ、隠したり(地下に埋める)、移動している。
独立後に小学校に戻し、戦死者名の墓誌を追加設置の地区が多い。


(笠岡市城見の忠魂碑)



岡山県遺族連盟発刊の
「遺族三十年の軌跡」より転記する。

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笠岡全地区忠魂碑・・昭和47年6月に郷友連盟笠岡支部が中心となり市内古城山に建立す。笠岡市出身戦没者2.914柱を合祀している。

城見地区忠魂碑・・昭和34年12月に城見村議会。遺族会並に郷友会にの努力により城見小学校校庭に建立。碑石は北木島の馬越儀三郎氏の寄贈で労力は郷友会の奉仕による。

陶山地区忠魂碑・・昭和5年11月に御大典を記念して在郷軍人会陶山分会が建立し終戦により一時撤去していたが昭和28年3月に再建した。合祀者99柱。

金浦地区忠魂碑・・大正11年5月に在郷軍人会により金浦小学校校庭に建立。終戦により一時吉浜天神社境内に移していたが、昭和34年に再び小学校旧講堂跡に移転す。碑石は庵治石で229柱を合祀す。

大井地区忠魂碑・・昭和4年に在郷軍人会の手により大井小学校校庭に建立。終戦により一時小平井光明坊地に移していたが、再び小学校に復元している。

吉田地区忠魂碑・・ 昭和23年3月に吉田地区復員軍人会の手によって吉田小学校校庭に建立。合祀者142柱。

新山地区忠魂碑・・昭和8年4月に新山村並に在郷軍人新山分会の手により新山小学校校庭に建立。終戦により一時安養寺に安置していたが、昭和26年4月に現在地に復元した。

北川地区忠魂碑・・大正6年4月に北川小学校校庭に建立。更に昭和44年に遺族会に手に寄り戦没者芳名碑を忠魂碑に並べ建立している。

神島内地区忠魂碑・・昭和44年11月に神島瀬戸山南側に建立。同時に旧神島内村出身の全戦没者150柱の芳名、戦死場所、同年月日を刻んだ碑石四基を建立している。

神島外地区慰霊碑・・昭和43年8月に神島外浦地内の神島神社境内に建立。碑は庵治石でモンテンルパの戦犯収容所に於ける教戒師として有名な加賀尾秀忍師の揮毫である。

白石島地区忠魂碑・・昭和7年1月に在郷軍人会白石分会が中心となり開龍寺境内に建立。合祀者101柱。

北木島地区忠霊塔・・諏訪神社境内に昭和15年6月に建立。合祀者225柱。


(記載がない地区)

以下は管理人の推測を記。
笠岡・・忠魂碑はないが招魂社あり。日清・日露・北清事変の碑があり。
今井・・忠魂碑は、今井小学校プールの近くに存在する。
富岡・・気運がなかった?笠岡地区に同じ
大島・・気運がなかった?それとも記載漏れ?
飛島・・神島外地区に含む。
真鍋島・・昭和10年建立という資料がある。
六島・・真鍋島に含む。
高島・・神島外地区に含む。
神島内・・忠魂碑は大正13年建立とう資料がある。

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「砂漠の魔王」

2017年02月12日 | 城見小・他校




管理人は子供の頃、漫画を読み過ぎた。
そのため、子供の前半で漫画に飽きた。
小学校を卒業するころ漫画も卒業した。

いちばん好きだったのは「赤胴鈴之助」。
漫画は、少年画報と単行本。
ラジオは、毎日夕方聴いた。
テレビは、家に無かったので見てない。
映画は、貧しかったので見ることはできなかった。

チャンバラ漫画の植木金矢も好きだった。
漫画の主役の顔が、いつも市川歌右衛門に似ていた。

その頃、ある漫画雑誌に「砂漠の魔王」という人気作品があった。
雑誌とパッチンで見ていた。
漫画の舞台は異国。
題名に砂漠はつくが全く関係なし。日本以外の国が完全にミックスされた場所での物語。
漫画でなく絵物語。
なぜか雑誌の表紙の次のページから始まる、看板の作品だった。
それにカラー漫画だった。
これが珍しかった。
その頃、映画も新聞もカラーは無かった。

あの絵を見ると子供の頃にタイムスリップする。たぶん、そうゆう人(オトコンコ)は割合いるように思う。


「毎日新聞 第三次世界大戦」という本の表紙に載っている。

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寄島の通学船

2017年01月17日 | 城見小・他校
潮があれば山の道、潮が引けば海岸道。
これは瀬戸内地方ではどこにでもあった話。

茂平では水落や長瀬の段々畑に行くのがそうだった。
神島では畑の他に、お遍路さんの巡礼の道もそうだ。

ところが、寄島の三郎では
潮があっても海、潮が引いても海を渡っていた。

「寄島風土記」より転記する。なお、三郎は昭和50年頃陸地化した。

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寄島干拓により島が陸地と連結したことは、通学船に乗り海を渡って学校に通っていた児童生徒の喜びは格別で、家族の不安も一掃され、学校側も指導管理の問題が解消された。

冷たい冬の朝、襟巻で顔を包み、潮風に吹かれて1キロに及ぶ干潟をトボトボ歩いて海を渡り、堤防に辿り着いて上級生が下級生をいたわりながら、しばし焚火を囲んで暖をとり、隊列を正し学校に急ぐ子供たちを見て、大人は「三郎の子供じゃのー、可哀そうに」と同情の言葉で見送っていた。
潮の都合では朝5時ごろから渡らねばならぬ日もあった。帰りも干潮時には歩いて渡った。短い冬の日は昏れが早い。もう島の家には明りがついている。潮騒に追い立てられ、満ち潮に追いかけられての家路を急いだ子供たちであった。

潮が満ちている時には通学船に乗る。
島の子供全員が10人位乗れる櫓で漕ぐ小舟である。
暴風雨の時は欠航する。櫓は上級生が漕ぐ。波風がある時は不安におののき、命がけの通学であった。
その代わり波の穏やかな凪の日は安らぎと楽しさがあった。揺れる船に身を任せて談笑しながら山々の四季の景色を眺め、空行く雲に夢を乗せる日もあったであろう。


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城見小学校の遠足先

2017年01月12日 | 城見小・他校
管理人の記憶をたどると、下記。
お菓子をもっていけるのが嬉しかった。

1年・・遠足で吉浜天神。
2年・・遠足で大津野飛行場。
2年・・鉄道で福山(福山城から明王院へバス)
3年・・往路・徒歩で古城山、復路はバス。
4年・・鉄道で金光教。
5年・・鉄道で尾道千光寺。
6年・・春・鉄道で岡山 
6年・・修学旅行・鉄道で広島~宮島(泊)~岩国

※鉄道とは全て大門駅発。(城見小学校から大門駅まで徒歩)

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笠岡小の遠足・旅行先

2017年01月11日 | 城見小・他校
昭和戦前の遠足先を「笠岡小・百年史」から転記する。
資料は女子校しか残っていないようだ。

―――――

大正10・卒業記念旅行、南部小学校11校連合して伊勢神宮へ参拝(以後昭和17年までつづく)
大正10・女子校・・尋1.2年今井村、3.4年新山村桃山、5年以上高島神武天皇遺跡。
昭和2年・春季修学旅行。1.2年今井、3.4年横島、5年以上福山。
昭和3・春季遠足1.2年大砂止、3.4年横島、5年以上御嶽山(女子校)
昭和4・尋6岡山市、高等科天神へ卒業旅行(女子校)
昭和5・尋常科岡山、高等科今井方面へ卒業旅行(女子校)
昭和6・尋常科岡山、高等科神島方面へ卒業旅行(女子校)
昭和6・春季修学旅行 1.2年1丁目、3.4年横島、5.6年福山、高等科尾道(女子校)
昭和7・卒業旅行尋6.高2岡山市(女子校)
昭和8・琴平方面へ記念旅行(女子校)
昭和8・修学旅行 1.2年1丁目 3.4年道通神社 5.6年福山尾道(女子校)
昭和9・高等科、伊勢神宮参拝旅行(女子校)
昭和9・卒業旅行 尋6岡山市 高2神島天神(女子校)
昭和9・修学旅行 1.2年今井 3.4年北川 5.6年城見皿山 高1.2倉敷(女子校)
昭和10・卒業旅行 備中高松方面へ記念旅行(女子校)
昭和10・修学旅行 1.2年吉浜 3.4年井原 5.6年福山 高1.2尾道(女子校)
昭和12・修学旅行 1.2年吉浜 3.4年井原 5.6年福山 高1.2年高松方面(女子校)
昭和13・高等科参宮旅行出発(3日間、男女両校)
昭和13・修学旅行1.2年生1丁目 3年以上北川(女子校)
昭和14・高等科、青年学校尾道へ修学旅行(女子校)
昭和15・伊勢神宮参拝旅行
昭和15・修学旅行 1.2年1丁目 3.4年北川 5.6年倉敷 高等岡山(女子校)
昭和17・修学旅行 1.2年1丁目 3.4年金浦 5.6年高等科皿山(女子校)
昭和20・1・23 3.4年金浦方面 5.6年今井方面 高等科大井方面 鍛錬遠足をかねた、どんぐり蒐集を行う。(女子校)


(奉安殿前に整列する笠岡女子国民学校児童)

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昭和の学校史⑥大島東小学校

2017年01月10日 | 城見小・他校
「百年誌 大島東小学校」昭和50年発行より転記する。

――

M43・奥浜の新校舎へ全児童を収容。児童数320人、6学級編成。
S3・大島中尋常小学校の校旗を制定した。
S3・明治節制定され第一回祝賀式挙行。
S4・神宮式年遷宮奉拝式挙行。
S6・大津野窯元・神島人造肥料会社・白石島等へ3年以上船舶で旅行。
S7・修学旅行、5年以上岡山勧業博覧会、3年4年玉島、1年2年笠岡町。
S11・二宮尊徳像を建てた、F氏寄贈。
S15・教育勅語50周年記念式挙行。文部省の通達により昭和18年以後修学旅行中止。
S15・紀元2600年記念式典挙行。
S16・大島中国民学校と改称した。初等科6年、高等科2年とした義務教育8年延長したが、実施は延長された。
S17・二宮尊徳像を金属回収として供出した。
S18・二宮尊徳の石像を再建した。
S19・B25爆撃機が度々空襲し、授業を中断することが毎日のように続いた。
S21・斜面流下式コンクリートの製塩施設を造った。
S22・大島中小学校と改称。
S23・教育勅語、詔書等を返還した。
S23・戦災や食糧不足や引き揚げ等の子弟で児童数が増加した。
S25・大島東小学校と改称(新制大島中学校と謝りやすいので)
S26・学級編成を9学級とした。
S26・グランドピアノが寄贈された。
S29・校歌を制定した。
S32・学校給食をD型からC型に改めた。
S33・大島小学校付設大島東幼稚園が新設。
S38・修学旅行、1.2年福山市、3.4.5.6年岡山市。
S38・給食調理の燃料をプロパンガスにした。
S38・秋季遠足、1.2年早崎海岸、3.4年福井山、5年御嶽山。卒業旅行広島・宮島・岩国。
S39・学校給食をC型からB型にした。
S39・春季修学旅行、1.2年笠岡古城山、3.4年倉敷市、5.6年玉野市。
S39・教育用ナショナルテレビを取り付けた。
S40・秋季修学旅行、1.2年遥照山、3.4.5.6年岡山市。
S40・秋季遠足、1.2年大浦神社、3.4年津雲貝塚、5年御嶽山、6年広島・宮島・岩国。
S42・校旗を制定した。
S42・春季修学旅行、1.2年遥照山・金光教、3.4年吉備津神社・備中高松、5.6年水島工業地帯・岡山市。
S42・卒業旅行京都、奈良地方。
S44・笠岡市学校給食センター給食開始、B型(週4日)からA型(週5回)に変えた。
S44・日直・宿直を廃止した。


昭和11年度卒業写真

想い出

明治43年入学・男子
A先生は赴任後間もなく6週間現役として入営され、私たちのクラスへ軍隊からお便りくださった。
津雲貝塚が発見された大正4年の6年生の時、校長に引率されて見学に行きました。そのとき松枝惣十郎さんが羽織がけで説明してくださったのですが、当時羽織を着ているのは珍しく綴方に書いたところ、校長先生もおもしろいと思ったのか読めといわれ皆の前で読んだ記憶があります。

大正5年入学・男子
木綿の着物に草履だった。旅行の時は草履の新しいのを作ってもらった。

大正7年入学・男子
廊下に板木(ばんき)があって、始業の合図をし、終わりはチリン、チリンと鐘をふっていた。
服装はみんな着物だったが、1年上のKさんが6年で始めて小倉の洋服を着てこられた。靴は総ゴムだった。

大正15年入学・男子
2年の時にご大典があって、1週間旗行列に参加した。学校の前の海はきれいで、足に小魚がさわって泳いでいた。K先生は投網が好きでよく投っておられた。




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昭和の学校史④吉田小学校

2017年01月09日 | 城見小・他校
高等科の設置が早い。農業教育に力を入れていたようだ。

「百年史 吉田小学校 平成12年3月」より転記する。


(昭和36年3月卒業)

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明治32年・高等科4年制を併置し、吉田尋常高等学校と改称
明治40年・義務教育6年に延長される
昭和2年・学田8畝3歩を購入する
昭和3年・校旗制定
昭和4年・学田2反3畝を購入する
昭和10年・吉田実業公民学校を吉田村青年学校と改称する
昭和16年・吉田国民学校と改称する 吉田国民学校尾坂分教場と改称する
昭和22年・新吉中学校創立に伴って高等科を廃し、吉田小学校と改称する
昭和22年・ミルク給食を開始する
昭和25年・ミルク・おかず給食を開始する
昭和28年・校舎の一部を使用し吉田保育所を開所する
昭和29年・校歌の選定をする
昭和30年・吉田保育所新築 学校給食3回を開始
昭和33年・尾坂分校校舎移転 幼稚園舎新築落成
昭和38年・週5回の給食に移行する
昭和39年・スクールバス尾坂~本校間開通、4年生以上乗車。
昭和40年・尾坂分校を統合する

その他(思いで話)
昭和20年卒・・小学校の6年間で、写真は2年の時の紀元2600年式典1枚のみ。
昭和6年卒・・3年生まで尾坂分校に、4年生から本校に。班長指揮のもと1時間掛けて通学。帰りは遊びながら、家に着くのは夕方で、履物の藁草履は平均1日1足が破損します。
当時の教育は修身科が主体で、忠魂愛国・親孝行・忠孝は一つであると教えられた。
昭和20年卒・・・農作業の手伝い、山林の下刈り、神社へ必勝祈願、防空訓練、これらの間に学習していたように思う。

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昭和の学校史③高島小学校

2017年01月08日 | 城見小・他校
「高島小学校・学校誌」昭和55年3月発行より転記する。
大正以降、分校の歴史はない。
神武天皇の「吉備の高島宮」の論争時代が、いちばん島も学校も賑やかだった事がうかがえる。



--------

明治45年度・外神島尋常小学校高島分教場を廃し、高島尋常小学校として独立した。
大正4年度・ご大典記念奉祝式、記念植樹。
大正5年度・麦稈真田をくみ始めた。利益は高島校に寄付した。
大正9年・ラッパ二丁到着。
大正10年度・神武天皇遺跡記念碑建設記念式が行われた。
大正15年度・高島行宮遺跡へ参拝のため犬養木堂先生来島。
昭和9年度・故東郷元帥国葬のため休日。
昭和11年度・電燈が点ぜられた。
昭和11年度・ラジオの設置。
昭和11年度・帝国大学名誉教授黒坂博士、神武天皇聖蹟調査のため来校。
昭和13年度・神武聖蹟調査のため文部省より保安課長外4名来校。
昭和14年度・毎月一日、興亜奉公日と定められた。
昭和14年度・悠久二千六百年の奉祝式を挙行した。
昭和15年度・ご真影を奉戴した。
昭和15年度・二宮金次郎の石像建設、除幕式を挙行した。
昭和16年度・高島尋常小学校を「高島国民学校」と改定した。
昭和19年度・高等科設置。
昭和22年度・学制改革のため国民学校を小学校と改め、高等科1学年を中学校1学年に編入した。
昭和26年度・新校舎上棟式、新校舎落成式。
昭和28年度・学級数をふやすため教室の仕切りをした。(学級編成1年、2・3年、4・5年、6年の4クラス)
昭和31年度・高島公衆電話設置、通話開通。
昭和32年度・テレビ披露式。
昭和37年度・グランドピアノ入荷。
昭和38年度・運動場拡張工事が始まった。
昭和52年度・笠岡市本土より上水道が入る。
昭和53年度・明治乳業牛乳となった(粉ミルク廃止)
昭和54年度・統合問題懇談会(1回~7回)。神島外小学校へ統合が決定。
昭和55年3月31日・笠岡市立高島小学校を閉じる。

(生徒数1年~6年を抜粋すると)
大正時代65名くらい。
昭和一桁、70名くらい。
昭和10年代、72~73名。
昭和20年(最大数となった)104名
昭和20年代80名くらい。
昭和30年代90名前後。
昭和40年代(86名→33名)
昭和50年代(29名→14名)

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昭和の学校史②北木島

2017年01月08日 | 城見小・他校
北木島町には、大浦・楠・豊浦・金風呂に学校があり統廃合をつづけた。
「北木小学校豊浦分校百年史」より転記する。

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大浦
明治6年・北木小創立
明治27年・北木尋常小学校本校と呼ぶ
明治38年・高等科を併置 北木尋常高等学校と改称
昭和16年・北木国民学校と改称
昭和22年・北木小学校と改称

豊浦(金風呂含む)
明治15年・豊金小学校創立
明治23年・(町村制実施で)北木小へ合併、支校となる
明治28年・北木尋常小学校第一分教場と呼ぶ
明治36年・豊浦尋常小学校として独立
明治37年・金風呂に分教場を設置
大正2年・北木尋常高等小学校豊浦分教場と金風呂分教場と改称
昭和22年・北木小学校豊浦分校と金風呂分校と改称
昭和31年・(金風呂分校は)独立し、北木西小学校となる


明治18年・北木小楠分校創立
明治25年・楠分校場と改称
明治36年・楠尋常小学校として独立
大正2年・北木尋常高等小学校楠文教場と改称
昭和7年・楠分教場廃止
昭和12年・楠校舎として1.・2年複式を設ける
昭和16年・北木国民学校楠分教場と改称
昭和22年・北木小学校楠分校と改称
昭和57年・楠分校廃止 本校へ統合
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昭和の学校史①「笠岡小・百年史」

2017年01月08日 | 城見小・他校
学校史を資料から転記する。時代は昭和に限定する。
最初は笠岡小学校。

巻頭挨拶と出来事を抜粋する。


(楠公母子像・女子校)

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私自身は大正7年4月、あの瓦ぶき校門をくぐり、笠岡男子尋常高等学校に入学。
大正13年3月同期生百余名とともに尋常化を終えた。
想い出すのは、校舎、先生方、運動場、金魚池であり、授業開終合図の太鼓の響き。遍照寺の大銀杏とともに思い出の数々はつきません。


(大楠公像・男子校)

昭和3年・男女両校御真影奉戴
昭和5年・男女両校奉安殿竣工
昭和6年・男子校・女子校国旗掲揚台設置
昭和7年・男子校二宮尊徳銅像建立
昭和10年・笠岡青年訓練所は笠岡青年学校と改称
昭和10年・幼稚園遍照寺を仮園舎で幼児収容
昭和11年・笠岡町女子青年学校併置
昭和12年・男子校大楠公銅像建立
昭和15年・女子校楠公母子銅像除幕式
昭和15年・男子校神社建立
昭和16年・笠岡町男子国民学校・笠岡町女子国民学校と改称
昭和16年・女子校校旗新調
昭和17年・男子校二宮尊徳像供出 胸像建立
昭和17年・貫閲講堂落成
昭和18年・男子校大楠公銅像供出
昭和18年・女子校楠公母子像除魂式胸像入魂式
昭和20年・修身、国史、地理の授業停止。教科書回収。
昭和21年・奉安殿。学校神社撤去
昭和22年・笠岡東小学校・笠岡西小学校と改称、男女共学制実施(高等科廃止)
昭和22年・西小、東小PTA設立
昭和22年・ミルク給食開始
昭和23年・東小給食調理室完成
昭和29年・西小校歌制定
昭和30年・幼稚園現在地に移転・独立。笠岡市立幼稚園と改称
昭和31年・東小校歌制定
昭和43年・笠岡東小閉校式、笠岡市立笠岡小学校と改称
昭和46年・校歌制定

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